感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

僕がテレビ番組が苦手な理由

僕はテレビ番組が苦手です。特にバラエティは嫌いで、ニュースやドキュメンタリーも苦手なのが多い。

一人でいれば見ないので気にしないけど、日本に帰ると家族が居間で見てるので気になって仕方がない。あんまり文句言っても分かってもらえないし、結局さっさと退散して自室に向かうことになる。団らんどころではない。

 

テレビ番組の苦手なところを挙げてみようと思う。

テロップ : ただの字幕ならいいのだけど、色を付けて大きさを変えて強調してるのとかフォント変えてくるのが無理。多分自分で感じたいものを、そういう安易な印象操作で誤魔化されるのがダメなんだと思う。感じ方や考え方の違いを認めない、現代日本的な姿勢の表れだと思う。

 

BGM・効果音 : これも印象の問題。自分で内容を見て感じているのにBGMで感情を煽られるのが我慢ならない。折角良い内容のドキュメンタリーでもこれで気分を台無しにされることが多い。語っている人の気持ちや想いをBGMが歪めているように感じることが多い。複雑な気持ちを音楽で表すことが出来るのは、極端に言えば語っている本人だけだと思う。

効果音はただただ鬱陶しい。笑い声とか拍手とか、何故タイミングを強制されなきゃいけないのかが分からないし、その姿勢が見下しているように感じられて無理。

動物の足音とか、可愛く見せることばかり重視してる。その動物の本来の姿を映してはくれない。

 

ナレーション : 説明過剰。鬱陶しくて内容が頭に入ってこないことが多い。適度ならものによってはあってもいいと思うけど、僕にとっては適度なものがないと思う。

 

小窓に映る人 : なぜこの人たちのリアクションを見せられなきゃいけないのかが分からない。いちいちわざとらしくて内容に集中できない。他人の反応を見て一喜一憂する人はそんなに多いのだろうか。

 

芸能人の意見 : 意見を言うなというわけじゃないけど、生気が感じられないものが多い。本当に本人が感じて言っているわけじゃないのなら必要あるのだろうか。言わされてるだけならお人形やV tuberでも出しとけば十分ではないかと思ってしまう。そもそもお金をもらって話しているのだから、日本人の代表のような顔をしていられてもこちらは真に受けることが出来ない。

 

翻訳字幕・吹き替え : 内容ありきで本人の言ってることをちゃんと伝えようとしているように見えない。いいように解釈して訳してることが多い。それなら中途半端に元言語残さなければいいのに、それでも残すのは印象が大事だからなんだと思う。吹き替えの声優やその語調で印象を変えるのも酷いと思う。

 

切り貼り : 言葉を切り貼りされてる人の想いは切ることが出来ない。中途半端に伝えられると凄くイライラする。

 

内容 : そもそも内容が偏り過ぎてるし、結論ありきで作ってるものが多いと感じる。なら「我々はこう思う」と局としての共通見解として述べればいいのに、世間の代弁者のような顔をして垂れ流すのが無理。印象を伝えたいのなら作品としてそういうものを作ればいいのに、変にリアルさを出そうとするからおかしくなるのだと思う。

 

 

例のごとく怒りを整理してみると、2つに分けられると思う。

『表面的に感情を煽られることが嫌い』 これは揺さぶられるような感動とは違って、凄く浅い感情だからだと思う。そもそも感動は自分が心から感じるものだ。それとは違って押しつけがましいと感じるのは、自分が感じているのではなく、感じさせようとしてくるのを感じるから防御が働いてるのだと思う。

浅い感情を露わにする人が苦手。そこに心や想いはなく、ただの反射だと感じてしまうから。そしてテレビはそういう反射的な浅い感情を餌にしようとしていると感じてしまう。テレビだけではなく、多くのものがそうだと思う。それが悪いというわけではなく、僕は苦手。

印象ばかりを押し付けられても、製作者に馬鹿にされているように感じてしまう。自分で感じることも考えることもできるのにって。飾りじゃなくて、中身を『自分なりに感じて考えること』が出来る番組が少ない。

 

『本物を伝えないことが嫌い』 切り貼りも印象操作も、そこから本来の姿を見ることが出来ないのが怒りの元だと思う。それは本物を『自分なりに感じて考えること』に自分の重点があるからなのかもしれない。本物はありのままの姿。その人が伝えようとする想い、物、人、色々。その姿が『勝手な解釈や偏りで歪められるのが許せない』のだと思う。ある意味で、伝えられる対象への冒涜だと感じてしまう。物事は全て多面的で、外側は変幻自在で、色々な繋がりがあると思う。それを一面しか、しかも繋がりも無視して伝えるのはやはり冒涜だと思う。本物の解釈は捉える人の数だけあるが、テレビが伝えるものの本物の解釈は既にテレビがしてしまっている。それが嫌い。

 

 

僕は我侭なのだと思う。テレビ番組や多くのものは、多数派の人に合わせて作られているのだから。でも我侭でも、そう感じるのだからそれでいい。少なくともテレビはまだ、「嫌なら見るな」を実行できる自由があるのだから。