僕は空を眺めるのが好き。でも街からは星があまり見えない。ひとりで居るつもりでも、街に居る限り人々の灯した明かりの中に居る。人々の存在から逃れることは出来ない。星があまり見えないという事実は、関わってもいないはずの集団の中に居る現実を否応なしに叩きつけてくる。
ジャングルから見る星は現実に居ることを忘れさせてくれるほど壮大だ。周りに明かもなにもなく、自分と星空を遮るものが何もない。星を見ているというよりも、星の中に居るという感覚。
心と星空は表裏一体だと思う。ジャングルから見える、壮大だけれど人類の祖先からすれば当たり前の星空の下に居ると、自分の心とも星空と同じように向き合える。星空と心が直結し、自分の存在は無になる。そんな中に居るととても大事なことを思い出せそうな気がするのだけれど、頭の中の知識が邪魔をする。自分の存在が星たちの過ごす時の流れの中では一瞬の花火ですらないという事実に恐怖を感じてしまう。
それでも星空は本来の自分を自然の流れのままに思い出させてくれる。
街に居るとそうはいかない。人々の存在、気配、影響、そういったものが常に心に靄をかけてしまう。それはちょうど、街から眺める星空のように。色んなものに影響を受け、遮られ、誰にでも見える部分しか見えなくなってしまう。自分と心が離れ離れになってしまう。見つめることしかできない。
僕は星座をあまり知らない。はっきりわかるのはオリオン座、カシオペア座、北斗七星と、多くて10個くらいだ。以前覚えようと思ってアプリを買ったのだけど、結局頭に入らなかった。覚える意味が感じられなかった。でも今はそれでもいいような気もする。
星座の概念が共通化される前は、祖先たちはずっとこの星空に、自分自身の心の中にある風景を映し見ていたのだろう。目印として共有していた星座はあったにせよ、それぞれの人が違うものを見ていたはずだ。変わりゆく雲に何かを映し見るように、それぞれの心の数だけそれぞれの星座があった。
でも僕にはオリオン座はベテルギウスのあるオリオン座、カシオペア座はWの形のカシオペア座、北斗七星はひしゃくの形の北斗七星にしか見えなくなってしまった。星空に心の中の何かを映し見ようとしても、知っている星座が目に入ると頭で考える世界に入ってしまう。自分の心は映せず、誰かが見て皆に伝わった星座が邪魔をする。今更気付いても記憶は消せない。今の僕にとっては悲しいことだ。
『星の王子さま』で、ボアを飲み込んだゾウの絵を見て「帽子」と答える大人たち。僕はそうはなりたくなかった。でも実際、そういう大人になってしまった部分が沢山ある。当たり前になることが悲しいと感じる人もいる。僕がそう。その自分がそうなってしまったのだから救えない。
星座を覚えたのは学校や科学館だった。知識は必要な場面があるかもしれないし、僕もそれが大事だと思ってこの歳まで生きてきた。そして悲しい大人になってしまった。
世間は事実(という何か)ベースの常識(という押しつけ)によって回っていて、知識はその中で生きるには重要な役割を果たす。その知識は人によっては有用かもしれないけれど、すべての人にとってそうではないのだと思う。僕は後者なのに気づくのが遅すぎた。
知識は消すことが難しい。油性ペンのように。いや、タトゥーの方がいいかな。
知識は見るものを照らす『灯り』であり、物事の本当の姿である星々が自分自身の目では見ることが出来なくなる『呪い』なのだ。呪いの懐中電灯。なんかの小説に出てきそう。この呪縛は解けるのだろうか?諦め、自分の一部として付き合っていくしかないのかな。
なんてことを星が少ししかない空を眺め、想いながらお散歩して、猫ちゃんたちと戯れてきたのでした。
猫に星空はどのように見えてるのだろう。と、ふと思ったけど、そんなことを考え出すと眠れなくなるのでおしまい。