最近、ミニマリストという人を見る機会が増え、物と人の関係を考えることがある。
率直に言ってしまうと、僕はミニマリズムという考え方が分からない。言いたいことは頭ではわかるので、感覚が合わないといった方がいいかもしれない。世の中にはそういうことが多い。
僕の感覚では、物を所有していると物に影響を受けるというのがよくわからない。
必要ないなら使わなければいいと思う。
服を減らすことで服を選ぶエネルギーが減るという事だが、服を選ぶのにエネルギーが必要というのが僕にはわからない。好きなの着ればいいと思う。
でもそれはきっと感覚が違うのだろうと思うから、これ以上書く意味はないと思う。僕が主張することに意味はない。
『不必要だから処分する』 それはその人とその物の関係なので、何も言うことはない。
ただ、処分するのであればその物と自分の関係に一度しっかり想いを巡らせることは必要ではないかなと思う。
僕は、物をいくつ処分したか報告している人や、どれだけシンプルに生きてるかばかり主張している人を見ると、その報告が必要なのだろうかと疑問に感じる。(僕がそう感じるだけなので、やりたい方は気にしないでください)
そこに囚われるのは結局、物に影響を受けるという考え方と同じなのではないか。そこにプラスの感情を見出し過ぎるのは、処分された物にとっては少し理不尽ではないか。
物に意思が有るか無いか、そういう事を言いたいのではない。人ひとりひとりと物ひとつひとつの関係がより優しくならなければ、結局は人の横暴で成り立つ物質的な価値観の社会は変わらないと思う。他の物事と同じように、社会としても人としても、左右への揺れを繰り返すだけではないかと思う。
ミニマリズムが物質社会への反発である事は分かる。現代社会が物に溢れ、物質的価値観に支配されていることもとても良くわかる。
でも、物と人は相互に発展してきた。人は物を作り、物は人に作られ、人は物を使うことで不可能だったことを可能にし、物は人に新しい可能性を与え、人は物を使うことで心の余裕を得て、物は人に心の余裕を与えてきた。
そこを無視して物を最低限に減らすことが、物質社会を変えることに繋がるようには僕には見えない。それは臭い物に蓋をする感覚と同じで、ただ物と人の関係を放棄しているように感じてしまう。
人が物に影響されるというのは、物を使う事よりも、物を所有することに目的が移ってしまったことによる一方的な関係の変化に原因があると思う。僕は相手側の感覚を持ち合わせていないので、それ以上のことを考えることは出来ないけれど、そんな気がする。
僕は日本に帰るとホームセンターへ行くのが好きだ。何を買うわけでもないけれど、店の中を見て回るのが好き。ホームセンターには色々な物がある。そして物の種類だけ可能性がある。物を見て、『もしこれを持っていたら何が出来るだろう』と、僕と物の存在しない関係を想像するのが好きだ。
お金があれば買うのかと問われれば、「その物と僕、お金の関係は流動的なものだからわからない」と答えるだろう。数学が得意な人は数式で表せるかもしれない。そういう関係だ。だから人の数と物の数だけ関係が存在し、その関係は価格と所持金に影響を受けるのだと言える(勿論現実はより複雑だが)。その関係が崩れたのが物質社会なのだから、ただ放棄するよりも、もう一度関係を見直さなきゃいけないのではないかと思う。
それらは結局、優先される感覚やそれに伴う価値観による認識の違いなのかもしれない。だから『違う』という事から学ぶことが大切なのだろう。
「銃があるから人が殺される」という人がいる。「人を殺す人が銃を持つから人が殺される」という人もいる。もっと短く書けば、『銃が人を殺す』という人と、『人が人を殺す』という人。
僕の考え方は後者。ただそれだけのこと。
その『違い』から何を考えるのか、どう反映するのか。それが双方にとっても、僕にとっても重要なのだと思う。
余談
本題に直接関係ないので外しておきます。
ミニマリズムの流行や物質社会そのもの、双方に共通して僕に見えかかっているのは、ユング的に言えば『Sensing』優位の『Practical World』との関連だ。世の中はどうしても『見えない目的』よりも『見える行為』に入れ替わる傾向があるように思う。
『断捨離』は『ミニマリズム』とは別なものだという。しかし、物の量を客観視・主観視しているという違いはあるが、「物を捨てることで親への感情が改善した」という提唱者の観点から、物を捨てることに意味を見出し、『ミニマリスト』と同じ『ダンジャリアン』という枠を作る行為主体の感覚は結局僕には分からない。
『行為』に、より大きな『意味』が重要な僕はいつもここに躓いてきた。この世界で『自分』として生きることの辛さもここにあるのだろう。
どちらが良い、どちらが悪いの話ではない。ただ違うのだ。そして僕はただ、少数派なのだ。
自分が自分でありながら生きる為には、マイノリティな部分はマイノリティとして違いを認め、マイノリティなりの方法で社会と対峙するしかない。マジョリティは社会の通念という武器がある故に違いを認識する必要がない為に、理解ができないばかりか無意識に同質化を強要してくる。
しかし、分からなくても相手を認めなければならない。それは双方に言えることで、僕もマジョリティを認めなければならない。その為になぜ違うのかを理解しなけれならない。
理不尽であってもこちらが彼らの認識・価値観に沿った上で、彼らの『道理』で語らなければ彼らにとっては『無理』なのだ。こちらが彼らにとっての『無理』を通せば彼らに『道理』が通らない。
双方、そしてそれぞれが真に理解し合わなければ、現実はマイノリティにとっての地獄であり続けるだろう。
双方の道理が通るように結ぶにはどうしたらいいのだろうか。死ぬまでに分かるだろうか。