感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

世界の見え方 自分、心、世界

ただ生きているという事で、『同じ世界を見ている』ということを強要されることが多いです。でも本当にそうなのでしょうか。そこに違和感を覚える人は少なくないと思います。

 

『同じ世界を見ている』というのは通念となっている。だから強要される。

『同じ世界をそれぞれが別の目で(フィルターを通して)見ている』という友達がいる。僕もこの認識だった。

でもそもそも、心的現実がその人にとっての現実であることを認め、その経験上に世界を見ていると捉えるならば、『それぞれが別の世界に生きて別のものを見ている』と言い換えてもいいのではないか、ということを今朝ふと思った。

 

その認識なら、『同じものを見ているのに自分の考えが理解されない』という孤独感は薄れ、『別のものを見ているのに近い認識のものがある』という共感を増やすことが出来ると思う。まだやった訳ではないのでわからないけど、追い詰められている人でそれが原因の奥底にある人(見えていても、見えていなくても)にとっては有効なんじゃないかと思う。

 

ただ、うまく使い分けないと客観的現実から成り立つ世界からどんどん乖離してしまったり、利己的に見られるようになってしまうかもしれない。でも、僕の経験から言えばそれはあまり考えなくていいのだと思う。先ずは心を優先し、余裕が出たら2つの現実を使い分けられればいいと思う。

 

あまりに酷い状態(心の求めるものと乖離した状態)に身を置いていれば、それは自然としかし病的に、少し古い言い方をすれば狂気と世間に言われる形になって現れるという解釈を僕はしている。結局はその人の置かれた環境・状況とその人そのものの関係性次第だろう。

後付けで現れた『固定された捉え方』、『固定された価値観』が元凶となって苦しむのであれば、それを変えることで基盤である『心の本来の在り方』を優先することは悪いことではないはず。そもそも『後付けの前提』がその人にとって悪いから過度のストレス環境に身を置いてしまう。のだと思う。少なくとも多くの動物であれば、おかしくなる前にその環境を棄てるだろう。それが自然だと思う。

 

心はその心の求める自然な状態を受け入れれば元通りの輝きを取り戻すし、そうなれば自然と本来の自分の姿という形へ反映されていく。そもそも人間は自分があって、そこに社会性を築いたのだから。自分を取り戻すことを優先すれば、自ずと本来の態度で社会と向き合えると思う。ただ、それで今の社会の中で上手くやっていけるようになるかはまた別の話。でも基盤があればそれに合う社会との関係性を探る原動力になり得ると思う。

 

人間は複雑で、社会も複雑なのだと思う。でもそこで優先される考えは思った以上に単純だ。それが問題なのだと思う。その通念上優先される考え方が自分にとってあべこべならば、認識を変えることを躊躇う必要はないだろう。その認識は統括された今の自分にとって常識でも、心にとっては自然な在り方ではないのだから。結局は『今の自分と心』、『今の自分と世界』、そして『心と世界』との関係性なのだと思う。

 

以上、机上の空論ならぬ、僕の心の空論でした。でもこれは僕の中では僕の現実に基づいているのです。そして他の人にとってどうだかは知りません。僕にとっては、みんな別の世界に住み、別のものを見ているのだから。