感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

人と情報の在り方

世の中には情報が溢れています。ネットでニュース記事を見ていても、ブログやツイッター、Facebookに流れてくる情報を見ていても、凄く落ち込むことが多いです。

少し長くなりますが、発信することはともかくとして、文字にして文にすることが自分の中の気持ちを整理するために必要だと感じるので書いてみます。

 

立て続けに交通死亡事故が起き、その話題で溢れる。これらの情報に触れるといつもとても落ち込む。被害者や加害者が可哀想なのもある。でも僕が落ち込むのはそこではない。こういうことが起きるといつも感じるのは、あまりに救いがないこと。当事者たちだけではなく、社会全体に。

 

不謹慎と言われるかもしれないが、事故は起きるものだ。人が人である限り事故も事件も起きるだろう。それは一つ一つが悲しいことで、辛いこと。

テレビやラジオのない小さなコミュニティは、そうした情報が尾ひれの付いた噂という言伝で伝わり、良くも悪くも人はその噂を頼りに情報に触れ、感じることになる。悪い面も目立つが、そこにはまだ色々な救いを感じる。

 

しかし現代の情報と人のあり方には救いを感じない。事故は起こるものだ。報道されるかされないかに関わらず実際に毎日各地で起きている。ではその一部を社会全体で、映像やBGM、感情的なコメンテーターの意見を付け、センセーショナルな話題として共有する意味はあるのだろうか。報道に『事実』が関係なくなっていることは多くの人が気づいてるはずだ。

ネット上でも同じだ。人は自分の心に響く話題を得れば感情を原動力に自分の意見を放出する生き物だと思う。(ツイッターが僕に合わないのはこれが原因だろう。軽いようで重く、辛い。)

それ自体は社会性を持つ上で必要だからある習性なのだと思う。しかし、同質なものばかりが集まり、正しさや論理ばかりが優先される社会環境の中で、同じ情報を得て発信すれば、結局は同じ意見ばかりになる。事実だけならいいが、意見には必ず感情が含まれ、それは同じ感性を持った人々の中で無意識に蓄積され、増幅されるように見える。

生きた人から出る言葉は生きている。それはその人の中の事実が彩を持った感情を伴い、言葉はその表現だからだろうか。どんなに論理や正しさで飾ったとしても、文字にしたとしても、それは変わらない。しかしその人の中にある事実は、この情報社会では情報という幻想である場合が多い。皆が知らず知らずのうちに同じ幻想の積み重ねを経験して、その蓄積された感情から本人にとっては事実である言葉を発している。その実体のない事実を根幹とした言葉には強い感情は含まれていても色がない。それは生きているのだろうか?動いていても意識のないゾンビと同じではないだろうか。

明るい情報は同質の人の中でしか通じない表現となって飛び交い、事故や事件などのすべての人が悲痛さ共有できる暗い情報は、増幅される内に人々を包み込む黒いドロドロとしたものになるように見える。『怒り』『憎しみ』『悲しみ』どれもが人にとって大切な感情だが、生きていないこれらの感情に意味があるのだろうか?

 

これらの感情は人々が希望を見出した時、大きな変化の原動力となる大切な感情だと思う。しかし実体のないこれらの感情ばかりが偽りの希望を生み出し、激情ばかりの熱狂となった時に起きる急激な変革は痛みばかりが伴うものではないだろうか。革命のギロチン、マスタードガスの使用を厭わない戦い、民族浄化、総玉砕。挙げだせばキリがない。この事故・事件の広がりに僕が感じるのは、それらと同じ感情に支配された同質なものの中での正しさだ。

今まで流行らなかった『上級国民』という語が急に持て囃される現象にフランス革命が見えるのも、僕にとっては共通点が多いからだろう。

人は歴史に学ぶというが、人そのものは変わっていない。寧ろ無自覚の下、様々な傲慢な思い込みの根拠の下、より排他性を増していると感じる。

 

事件を報じるマスコミの姿勢に非難が集まる。それは僕がもっと若い頃からそうだったが、変わることはない。記者の質問の仕方に注目が集まり、非難の対象となる。しかし記者は個人のレベルでは自分の『人々に伝える』という使命感から動いている。以前記者の人たちとお話する機会があったが、とても熱心な人たちだった。彼らは自分の意志に従っているメッセンジャーだ。では何故非難の声の上がる伝え方になるのか。そうしないとこの社会ではメッセンジャーで在ることが出来ないからだろう。彼らもまた心に従うために心を削っている。

 

記者会見で泣きながら質問される園長や悲しみの底で質問を受ける遺族は可哀想だ。では何故そういった人々が質問に応じなければいけないのか。本当に記者が彼等を食い物にしているだろうか。その情報を食い、センセーショナルさにばかり反応して舌が肥えてしまったのは誰なのか。

木も花も虫も鳥も、別々には進化しない。

 

マスメディア、マスコミがモンスターであるのは僕の視点でも違いない。しかしそのモンスターは『人と社会の繋がりの在り方』に生まれ、『人と情報の繋がりの在り方』の中で巨大化した、構造上のモンスターだろう。在り方次第では人々が輝きを増すための道具として、健全な姿になるはずだ。

何事も物質優位の構造の中、効率ばかりが優先されるから『mass』となり得る。僕はこれが嫌いだ。単色で心のない巨大な構造物。純粋な報道のあり方は、少なくともマスメディアやマスコミではないと思う。

 

人と社会の関係、これは僕にとって大きなテーマなようだ。

僕にはどうしても世間の人々は、自分たちが自分たちで首を絞め合っているように見えてしまう。自分がいつちょっとしたミスで加害者になってしまうかわからないような場面で、なぜ寄ってたかって悪者探しをするのだろう。なぜ裁き、罰を与えようとできるのだろう。それはその対象を既に自分たちの中には見ていないからだろう。

悪者になった人はその価値観の中では完全な悪者となり排斥され、それを繰り返す。

その先には苦しみしか見えない。

 

これらは結局どれも、僕の視点からは『ひとりひとりの在り方』、『ひとりひとりとひとりひとりの在り方』、『ひとりひとりと社会の在り方』、『ひとりひとりと情報の在り方』、そこに帰結する。僕にとってはほぼ全ての社会問題がそうなのだ。その意見は人によって違うべきだが、強制されるべきものではない。僕にとってそうであれば僕の中ではそうなのだ。人は頭でばかり考え、心を殺した意見を押し付けるが、その結果が現在だろう。ではそれに意味はあるのか。数十億年は生きてきた生命、数百万年以上は生きてきた人類を見ず、ここ2000年ちょっとの文化から這い出た、ここ200年足らずのシステムに根差した、ここ50年の価値観で練った論理にどうして正しさを見出せるのか。

 

全てが同じ問題に見える僕には個別の問題の解決法は浮かばない。

僕が思うのはいつも同じ。

結局はひとりひとりが『自分の生まれ持った色を知り、自分の色を失うことなく輝きを求めて生きられること』『すべての人が染めることを放棄して、色の違いに敏感になると共に、他の色に寛容になること』『その色の違いによる関係を見出し、どれを社会に昇華すること』。その色の幅と輝きが増した時、人はこのループを抜けられるのだと思う。例えそれが実現不可能な夢物語だとしても、僕にはそれしか答えられない。それ以外の答えにはどうしても痛みが生まれる。 痛みが生まれれば繰り返す。

 

最後に、僕とこれら情報の関係をどう捉えるのか。

自分と社会のつながり方なので今はこのままでいいと思う。僕は枠の外に居て内側と繋がっているのだから。テレビは嫌いだから見ないし、ネットの情報もテレビと同質のものが多い。それでも自分のペースで触れていこうと思う。落ち込むことにも意味があるのだろう。

落ち込むのを避けていたらこんなことも書かなかっただろうから。

 

とても長くなってしまったが、文字にしてみて何となくすっきりした。やはり僕の価値観の根幹は同じところに根差しているようだ。これでまた、「そういう役割なのだろう。」と言うことが出来る。