社会から離れても死なない自信
8年間のジャングルでの自給自足生活で得たものの一つに『社会から離れても死なない自信』があります。
漠然と自分を縛っていたものを客観視できるようになり、自分がその関係性を望んでいなかったことに気付きました。これは僕が僕として生きる為にとても大きな変化でした。
ジャングルの中の小さなコミュニティは外界からは隔絶されています。属している国という概念による束縛も薄く、より、個が個としてコミュニティで支え合うことによって成り立っています。コミュニティ内での個と個の結びつき、そこに属すというアイデンティティはより強くなりますが、自給自足ができるという時点で属すも属さないもこちらの勝手なのです。
同質性ばかりが根幹にある日本社会は僕にとっては違和感の塊でした。何とか適応して生きていたものの、それは既に自分ではなかったのです。多数派タイプの価値観ばかりが社会通念となり優先され、合理性ばかりが求められているように僕には見えます。それに異議を唱えれば「嫌なら出ていけ」と言われる社会です。以前だったら自分の違和感を押しつぶして生きていたと思いますが、現在は嫌なら出ていけます。実際現在のところ海外に住んでいます。
海外で生きてもいいし、山奥で生きてもいい。一人で生きるのは困難であっても生きるだけなら可能だし、最低限の個と個の繋がりがあれば僕は健全に生きていけます。それでも日本社会と繋がりを持っておこうと思うのは、ただ僕がそうしたいと思うからです。少なくとも僕は、自分と日本社会の関係を客観視することができるし、主体的に関係を持っているつもりです。
国や社会、コミュニティに属することは強制されるものではありません。その関係も主体的に選ぶ権利があります。実際僕の知り合いにはパスポートを持たずに不法入国者として他国で仕事をしている人たち、出生の記録さえない人たちもいますが、不便はあれどしっかりと自分の人生を生きているように僕には見えます。
これは少し棘がある言い方になってしまうかもしれませんが、僕には漠然とした靄のような日本社会という存在と、多くの人の関係が共依存的になっているように感じます。その関係は社会と人の関係としては不健康で、フィットできない人の痛みばかりを助長しているように僕は感じています。そればかりかその閉塞感は、多数派タイプの人たちも違和感を感じるレベルになっているのではないでしょうか。
僕の思い描く健全な社会と人の関係は、よりニュートラルなものです。認め合う色々な色の個と個の繋がりの周囲に様々な色のグラデーションでできたモザイクガラスのような社会が成り立ち、その沢山のオーバーラップする社会同士に網目状の繋がりがあり、個が社会へ手を伸ばすように参加を主体的に選択でき、繋がりの強度もフレキシブルなものです。
社会から離れても死なないという自信が生まれ、僕と日本社会の繋がりがよりニュートラルになったからこそ得られた一つの価値観だと思います。自分の境界がはっきりしていて初めて、相手との適切な関係が測れる。そしてそれは個と個の関係においても同じでしょう。
例えその社会が実現不可能なユートピアだと言われても、痛みの少ない、個が自分本来の色を変えなくてもいい社会と人の関係はそれ以外にあり得ないと思います。人が自分を偽って生きる苦しみを知っている僕が『健全な社会』と言えるのはそのユートピアであり、そのユートピアを夢見るのが本来の僕な気がするから。だから社会とは曖昧に繋がっていようと思います。
今日から令和だそうですね。平成は良くも悪くも自分にとっていろんな学びがあった。令和は少しでもそれを活かしていければいいなぁ。