感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

自分らしさ、"Who I am"

僕が今一番求めているのは、『自分らしさに気づき、認めること』な気がしています。僕の言いたい自分らしさは身の丈の自分、偽らない自分、根幹の自分、『Who I am』です。

今年に入ってからは特にその想いが強く、考え始めると何も手に付かなくなり、とても疲れてしまう。しかしこれに気づき、認めることなくして心の平穏はなく、心の平穏なくして周りに何かを還元することもあまりできないと思う。それは恐らく、人生の意味を見つける旅の中での大きなチェックポイントだと感じています。

 

自分の個性は認めようと努力しているものの、脳内の複雑な処理の中、自分の認知の外で刷り込まれた何かが邪魔をしてエラーを起こしている感じ。そして延々と迷子になってしまう。

多数派のどうあるべきという価値観、それに少なからず影響を受けている自分の価値観。それに反発する価値観。それらの認識できない部分に答えがある気がする。

 

一度は家族が生き甲斐なんだと思おうとしたけれど、やっぱり何かが違って違和感ばかりになってしまった。大切なのに間違いはないけど、幹を太くしないで果実を得ようとするようなものだった。僕にとっての課題はもっと内側にあるようだった。

 

自分は自分だという確信はある。その自分として生きることも認めている。価値観もしっかりある。しかし自分とは何で、どこからどこまでを自分として認めればよいのか。自尊心が低い自分も自分として認めようとした。でもそうすると他者とのやり取りの中で問題が生じる。感謝された時や褒められた時にその言葉を受け止められず、話をすり替えてしまう癖も自分として認めなければならないだろう。しかしそれは相手の言葉を素直に受け止めないこと、ネガティブな対応であり、それを許すことができたら自分ではない気がする。

それ以外にも沢山の矛盾やエラーを内包してる。

 

今も昔も自分の中は矛盾だらけ。この噛み合ってない何かに気付ければこの先の見えない迷路の突破口になる気がするのです。本を読んでも、動画を見ても、コミュニティに入っても、自分に合うと感じる方策には中々出会えません。出会えたものの中で自分にフィットするものは全て同じく道半ばの人たち。人の心は複雑で難しい。

 

日本は今日で平成も終わりのようですね。令和では何かに気付けるといいな。

 

--------------- あとがき ---------------

書き出してみて思ったことは、日本語の表現は難しいという事。こういった分野は日本のものは情報量が少なく、自分に合わないことが多いので未熟な英語に頼るのですが、日本語にしようとするとちょうどいい単語や表現が見つからない。見つかっても偏った意味が付随している気がしてぴったりっていうのが見当たらない。自分らしさというのも何か合わない。「らしさ」、「らしく」というより、自分という人間がどんな人間なのか、「らしい」か「らしくない」かは関係なく、自分はその人間なのだから。課題は『Know who I am』だろう。

民族的、言語心理学的な何かも大きいのかもしれない。