感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

セクシャルマイノリティ 性自認 性的指向

セクシャルマイノリティの概念はLGBTQ+と色々増えていってるようだ。

これらは僕の認識では、本来自然な人の『性自認』『性的指向』の振り幅が『男』『女』という身体的特徴や、『男はこう』『女はこう』というかなり狭い価値観で『男は女と』『女は男と』と近代西洋的な男女観で個と個の関係性まで縛り上げられた為に複雑になっているのかなと思う。

人も動物も多様性を武器に子孫を残し、生き残ってきたわけで、こういう部分も本来は縛れない領域なのではないかと思う。人に割と近いボノボが性行動を群れの秩序維持(人間が勝手に解釈してるだけかもしれないけど)に利用しているように、人も様々な文化でそれを利用してきた。社会は個性の振り幅、多様性が反映されて形を変えていく面が大きいと思う。それを何であれ縛ればどこかに影響が出て当然だろうと思う。

 

そんな価値観の中で自らのアイデンティティを守るために作られるLGBTQ+というそれぞれの枠だが、そもそも定義できないものを定義しようとするから枠からあぶれる個が出てきて、それが自らのアイデンティティを守るために集まり、新たな枠が出てきて、そこに引っ越す人も出てくる。定義が固まってくるとまたあぶれる人が出てきて…みたいな流れなんだろうなと思う。

でも彼らが自らのアイデンティティを守るために枠が必要なのはマイノリティとして必然だし、枠が出来れば定義が固まってくるのは世の定めだし、それは仕方ないことだと思う。それをマジョリティ側の男女に生きる者が「権利を主張する為にどんどん増える」と捉えるのをみると、自覚のない暴力的なマジョリティ思考そのもので、結局いつもの構造に見えてしまう。

 

持論でしかないけれど、本当にその問題をなくしたいのなら、男女観全てを取っ払ってしまえばいいと思う。構造上できないのは分かるけど、本当の意味で解決するにはそれしかないと思う。少なくとも抑圧をすることは意味がないどころか痛みを増やすだけだと感じる。

でも、少しずつ前進させるというならLGBTQ+が増えていったとしても、それを自然なものと個人として、社会として認めていく他ないのではないか。少なくとも僕は個と個の関係でしか見れないので、性自認も性的指向もその人個人の一存だと思う。関係も2人だろうが3人だろうが4人だろうが、その間にかかるものなのだから僕の関係するところではない。

でもマイノリティが一方的に誤解されたり、傷つけられるようなら声をあげなきゃいけないのかなとも思う。

 

 

ちょっと迷って下書きに封印しようと思ったけど、ここは僕の掃き溜めの場所なので自分の整理の為にも書いて公開してしまおうと思う。そのための匿名だしね。

 

僕自身がこの問題に興味を持つのは、多分自分自身も違和感を感じる部分があるからだと思う。

僕はトップダウンで捉える傾向が強いせいか、性別の概念そのものが薄い。例えば自分自身を考えるにしても、「僕は僕であって、男の前にヒトであり動物だし僕自身」だと認識される。ファクトがあるにしても、より大きな概念のファクトから適応される感じ。そして自分自身そっちの方が自然だと思う概念が多いから、小さい概念になればなるほど意味が薄くなる(のだと思う)。

性別は事実でもあるので仕事や既婚や日本人なんかの見方次第で変わる他のタグ、枠よりは受け容れてはいるが、やはりそれ前提で見られるのは違和感がある。

 

『男性的』『女性的』という傾向で測る(決めつけなので嫌いだけど)テストをやると女性的傾向が強いのだけど、そんなのは関係ないと思ってる。男らしいとも思われたくないし、女らしいとも思われたくない。筋肉はちょっとつけたいと思っているけど、それは僕がそう思うからであって、男らしく見られたいからではない。

小学校の時、男子トイレ、女子トイレに分けることに何か反感があって敢えて女子トイレに入ったりしたこともあるし、男の子がみんな青を選ぶのに反感があって敢えてピンクを選んだりした。『男らしさ』『女らしさ』という強制への反感は価値観が定まる前に既にあった。分別がないと思われがちだけど、そう思う人よりも外側に分別があるんだと思っている。

僕は僕で主体的なもの。その時によって変わるかもしれないし。それを他人にどうこう言われたくないし、態度で示されたくない。

そういう性自認もあるらしく、『ノンバイナリー』と言われるそうだ。でも僕は生理的に男だとは認めているので、傾向的に言えばノンバイナリーに近い男性なのだろう。薄いだけなのでレスバイナリーの方が合うかな。

そう捉えると生まれ持った身体、心や頭の認識だけでなく、性格的な捉え方や価値判断、今までに育まれた様々な価値観がこんがらがってることが分かった。やはり単純な問題ではない。

 

 

『性的指向』となると自分を分析するにもデータ不足。テストを複数やってみた限りでは、『両性愛者』の傾向が強く、テストによっては『パンセクシャル』や『セクシャルフルイド』という結果にもなる。

正直言ってよくわからないし、分かる必要もないのかもなとも思う。

興味でやってみただけなのだけど、実はちょっと自分の中でつながった部分があってホッとしているかもしれない。

 

僕は自分の性別の概念が薄いとは書いたけど、それと同じで他人を見るのも同じパターンがある。相手も男性、女性、トランスに関係なく1つの個であり人であり動物。その人と自分の間に関係ができる。素晴らしい意味があるのかもしれないけど、現象としてはそれだけ。

友達として仲良くなる相手についても小学生の頃から男女関係なく、その人の心と仲良くなってきたつもり。友達自体は少ないのだけど、それは主体的に作ろうとしないのと、心で認めあえる相手じゃないと友達として続かないから。

多分性的指向についてもそういう傾向はあるんだと思う。そうじゃないと深い関係にはならないし、深い関係にならなければ奥手の僕にとってそういう相手にはならない。そこに性別の壁は多分そこまでの意味は成さないんじゃないかなと思う。そして性的な関係というのもあるべくしてあると思っていて、個と個の間で起きるなら起きるし、起きないなら起きない自然なものと思っている。

まだしっかり理解はしていないけど、その場合パンセクシャルになるのかな。一時何となくバイセクシャルなのかなぁと思うこともあった(現実で何かあった訳でもなく)けど、概念的にこっちの方がしっくりくる。そういう意味で自分の在り方に二重で一致したようで安心した。

僕としてはどれでもいいのだけど(と思っているけど、わからない)。

何にしても自分の価値観や捉え方を紐解くのは楽しい。何故そう感じ、そう見えるのかは、自分だけでなく一定割合の同じ傾向の人に当て嵌まる部分があるはずなのだから。そういう意味で自分の主観と外側の世界を繋げる作業だ。

 

色んな人が居るのが自然で、それが凝り固まった価値観、道徳観で縛られている現状がおかしいのだと思う。取り敢えずいつものように現状の枠、システムが悪いのだということにして終わろう。今日はなんかスッキリした。

 

僕は僕として、それぞれの人のそれぞれの在り方を尊重していけたらと思うのでした。

 

 

*追記

カミングアウトとかそういうものではなく、単なる思考の整理です。