感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

靄 軸 仕事の電話を無視したこと David Nevue

見失ってばかりだ。全てが靄に包まれるこの感覚。慣れ親しんだ世界。

日はまた昇るというけれど、日はまた沈むの方がしっくりくるんだなぁ。

 

僕の場合はそもそも見失わないような軸があるのか、という部分が問題だろう。

ただそこは仕方がない。わがままな僕は腑に落ちてもいない軸など拒絶してしまうだろうし。だってそれは欺瞞だと思うから。経験を介して腑に落ちればいいのだけど、そこまでにとても時間がかかってしまう。

 

自らの感情の海に沈み揉みくちゃになっている自分もいれば、全てをただ虚無と傍観してる自分もいる。その温度差に戸惑いながらまた一日が過ぎて行く。その繰り返し。

一時的に靄が晴れても、長いスパンで見ればまた靄に包まれる。それもまた繰り返し。いい加減それを受け入れるべきなのではないだろうか。でもその先にあるのは虚無でしかないから、結局人は足掻かなければならない。

ああシーシュポス…繰り返し。

やっぱり罪人なのかなぁ。

 

ほら、そうやって勝手に苦痛を認識して勝手に苦しんでる癖に被害者ぶる。被害者?罪人?

でも苦しいんだもん…

(原罪を思いついた人は凄いと思う。その概念にどれだけの人が救われたのだろう。これも軸の一つだと思う。)

 

大体何で虚無か苦痛の二択なの?何でそうなっちゃうんだろう。何でただ楽しく生きられないの?ただ今を過ごすことができないの?

 

今を生きることが難しいのは、僕が何かを置き忘れてきているからだろうか?それとも、僕はそもそもが過去と今の狭間の住民なのだろうか?そんなことすらまだわからない。

 

冷たい抱き枕。致命的なまでに温もりのかけらもない。でも何かを抱かずに眠るのは何かが胸を吹き抜けていくようで寒過ぎる。熱帯なのにね。

人肌の温度の抱き枕を作ったら売れるかな?人みたいな形にして。

それこそ人の欲求に対する冒涜だろうけどね。救うことの罪。頼ることの弊害。こうやって苦痛を美化して、また溺れていくんだろうなぁ。

 

外の世界も変わらない。Covid19、次はウクライナ。偏ったまま過熱しては移って、その繰り返し。ずっと変わらない。

沸騰するお湯を遠くから眺める水のように、ただ室温のままあることを意識させられる。その寂しさと安心感。

 


そういえば今日は仕事関係でトラブルがあったらしいのだけどわざと電話に出なかった。3時間後に電話して忙しいって言って終わり。

対価も十分に払わないのならいいように使われてたまるかって思って。現場に居た人は困っただろうし、申し訳なさも感じたけど、だからって僕が休日にホイホイ電話取って行っちゃうのも良くないと思った。快く行けるなら別だけど絶対嫌な気分になるし。

まぁ、それだけ今の僕の中に余裕がないのだろうなとも思うけど、珍しくNOが示せたのは良かったと思う。

 

最近知ったDavid Nevueという人。この人の作る曲が凄く好き。どの曲もメロディラインが凄く奥の方に触れてくる。

 

これ一番好き。


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雲のタイムラプスっていうのも凄く良い。僕も雲眺めるの大好きだから見惚れちゃう。
雲って本当に刻々と顔色が変わって、空や風との兼ね合いも含めて人の感情みたい。
タイムラプスもスローモーションも人を超えた感覚で自然を捉えてるみたいで、何だか不思議な気持ちになる。何か、憧れてるものに近い。

前半の軽やかでスムースな感じも好きだし、中盤以降の寂しげな、時折激情的な起伏にはそのまま持っていかれそうになる。何だか分からない感情ごと引きずり出される感じが凄い好き。

 

この二曲もお気に入り。


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上の曲は"Overcome"下の曲は"Winding Down"っていうアルバムに入ってて、どちらも好きな曲がいっぱい。ぼーっと聴きながら浸れる。

そういえばこの人は自分のチャンネルの動画で話てるのを聞いてると、結構しっかりした信仰心とスピリチュアル観を持っているようで、僕からすればとても軸のある人。そんな人がこういう曲を作るんだなぁって思うとやっぱり軸は内面においてはそこまで関係がないのかもと思えてくる。


無理に軽やかになろうとするなということなのかな。

 

さて、井戸の中に帰ります。なんて言うと貞子みたい。

復活の喘息 アレルギー 生きてる感不足 至らない感と他人軸

昨夜は蕁麻疹と喘息のツープラトンにあえなく轟沈。重ねたクッションに前向きに寄りかかる感じで寝たり覚めたりを繰り返した挙句、久々の寝違え…

蕁麻疹は全身の発疹が2日ごとに出てた1月よりはマシになってきた気はするけど、ここにきて喘息が復活してきた感じ。喘息さんは村に住むようになって徐々に出なくなって、もう多分8年以上出てなかった。それが今週2回出て今も気管支が変な感じ。

先々週辺りにコロナっぽいのに罹ったからその影響もあるのかなぁとも思ったけど、どちらかというと環境とか精神的なあれな気がする。

今は街に住んでいるしね。

 

眠れないのは辛いんだけど、でも今更喘息の薬を買うのも何かなぁって思うし、クリニックにかかるのも面倒だなぁって感じ。

幼少期からアトピー、鼻炎、喘息とはとても密接な関係にあったのだけど、思い返してみると喘息って息苦しいから辛いのは確かに辛いんだけど、個人的には結構恩恵も受けてきた気がする。恩恵と言っていいのか知らないけど。

慣れっこだとそれが当たり前という感じで辛いけど辛くないというか、それがニュートラルな状態。運動誘発型の発作が多かったから、運動したり笑いすぎたりすると喘息が起きるのだけど、楽しければ喘息になっても楽しいから笑うし、子供だから発作が起きるのは分かっててもお構いなしに走ってた。苦しくなれば気分も強制的に落ち着いてじっとするし、当時は吸入薬も持ってたしね。あんまり苦でもなかった。

 

むしろ喘息の場合は言い訳に使えることも多くて、周りも「じゃあしょうがないね」って感じだったのが結構よかったなぁって今は思ったり。小学校の長距離走の練習とか、中学の部活とか、喘息を理由に見学してたことが結構あった。発作自体はあったからずる休みではないけど、やろうと思えば全然できたっていうライン。

あんまりのめり込めない運動やチーム行事に無理せず付き合わずに済んだし、発作が起きれば落ち着かなきゃいけないっていうのは、言い換えれば一人の時間に引き戻してくれるということで、それはやっぱり今思えば恩恵だった気がする。一応周囲も認める病気だから自責なんかもなく、ある意味で気持ちよく休める時間だった。

 

僕はアレルギーは検査によれば色んなアレルギー物質にも過敏らしいけど、どちらかというとこの運動誘発型の喘息とか、寒暖差や寝不足で出る血管運動性の鼻炎とか、物質的には何やっても効果がなかったアトピーとか、季節関係なしの結膜炎とか、原因物質どうこうっていうのじゃない感じのアレルギーが多かった。最近は蕁麻疹。

この中で一番辛いのは鼻炎かな。くしゃみし過ぎると頭がぼーっとして何も考えられなくなる。

こちらに住むようになって何年か経ってからは、どのアレルギーもあんまり出なくなってた。虫刺されから慢性の皮膚炎になったりはあるんだけど。やっぱり街は合わないのかな。それとも仕事、というか生活が合わないのか。うーん。

 

何となくだけど、アレルギーというのもメッセージ性があるような気がする。ここにきての喘息は特にそう感じる。でも身体は何を訴えてるのだろう。

症状が出てる時って不意に昔同じ症状が出てた時の感覚に繋がる時がある。そこに何かあるのだろうか。

 

 

最近も相変わらず低調な日々。低空飛行と思ってたけど既に墜落してる感。

先週は意識して食べたいものをお金のことを考えずに食べてみたりしてみて、多少生きてる感があった。でもやっぱりそんなの続けていられないし、続けてると効果も減ってくる。そりゃお金持ちも心を病むのだから当たり前だろう。

生きてる感?生きてる感。生きてるのに生きてる感が少ない。生きる屍状態。それを紛らわすだけで過ぎていく日々。

幸せな生活は既にある筈なのに何が足りないのだろう。幸せな生活?そんなのはただの客観的な尺度での幸せな生活で、主観的に幸せだと言えるだろうか。足りてるから幸せというのはお粗末。そもそも幸せとは何なのか。わからないけど、生きてる感というのはそれに直結するのではないだろうか。

 

僕は幸せという感覚があまり分からない。頭ではわかるんだけど、何か色々伴っていないというか。前にも書いた気がする。孤独はこんなにも身近なのに。

でもこれは気質的なものなのかも。僕が幸せの感度が高かったら双極みたいになってるだろうし。逆か、双極みたいな自分だったらもう少し幸せの感度が高かったかも。

であるなら、自分なりを摸索するしかない。幸せというものの在り方、感じ方。もしかしたらもう既に自分の中にある感覚が、幸せという概念と結び付いてないだけかもしれない。無いなら無いでそれなりに生きるしかない。

 

そういえば今日ふと、生活は一応維持できてるのになぜやらなきゃいけないことをやってない感覚、至らない感覚が付きまとうのだろうと車から夕焼けを見てる時にふと思った。一応最低限はこなしてるから維持できてるのに。

何を求められてると思ってるの?何を自分に課しているの?

わからない。

一応最低限って何が基準になって一応の最低限なのだろう。

 

頼まれごとも期待も評価も受けるか受けないかは自分次第なはずなのに、そもそもやる気がないものなのに、自分の中のどこかでは勝手にやらなきゃいけないものに分類されているものがあるのかもしれない。親だから、大人だからっていうのもそう。どこかで勝手にラインが引かれてる。

だからやってない感に苛まれるし、ゆっくり休んでる時にもそんなことしていていいのかって思う自分が居るのではないだろうか。

そんなことを思ったら急に腹が立ってきた。勝手な他人軸で何でそんな思いをしなきゃいけないのか。

一体こいつはどこに隠れていたのだろう。今の今まで気づかなかった。

生きてるだけでも十分やっているのではないかって思ったら、なんか意外と頑張ってるんじゃないかと思えてきた。

十分ってなんだよ。よくやってるということにしておこう。いいよね?

 

とりあえず自分にとっての生きているとは何なのかをまとめてみようかな。色々なものを整理し直さないといけない気がする。喘息の記憶なんかもヒントになるかも知れない。

丁度、明日から2週間以上一人暮らしになることになった。図ったようなタイミング。

色々と整理する時間になりそう。執着の芽のようなものも意識してしまったから、それも向き合わないとなって。

 

子供が長期休みに入って家族が久々に妻の実家に里帰りすることになったのだけど、確定したのは三日前だった。僕はお仕事があるからついて行けず。森に帰れないのは残念だけど、でも今の自分により必要なのは一人の時間なような気もしてる。何より、帰省が確定したのを聞いた時に何だか気持ちが軽くなった。静かな時間、一人の時間。雲の絵が描きたいな。

 

明日は家族を送りに片道5時間の往復。明日中に帰ってこないといけないからちょっと大変だけど焦らず急がず運転しようと思う。道路も穴やひび割れだらけだろうし。

ということで今夜は珍しく早寝さんです。また蕁麻疹出てるけど、もう今夜は薬飲んじゃおうかな。

おやすみなさい。良い週末を。

誕生日 から 不調 人格 "Clay - Ghostly Kisses" "Everything Matters ft. Pomme - Aurora"

また誕生日が過ぎていった。くーるくる、くーるくると地球にへばり付いて太陽を回ること早35周。一体これは何なのだろう。

毎年fbにお誕生日メッセージをもらって、でもなんかもう面倒というか億劫だから誕生日消そうかなって思ってたんだけど忘れてしまった。

結果また今年もお誕生日メッセージをいくらか頂いた。気分が乗らずまだちゃんと見てないんだけど、でもまぁ色んな所からメッセージを頂けて、この人達と人生の中で交差したんだなって思うと感慨深く、嬉しいことではあるなぁと思いつつ、数時間後にはまた億劫さんに戻ってしまった。お返事しなきゃな…

 

何でだろう。わからない。最近ずっとこのモード。何もかもがこう…

自分の中が繋がってない。自分の中?それは結局のところ自分と外が繋がってないというのと同意義というか。外っていうのはね、外の自然のこと。人や人々の話じゃなくてね。

風邪ひいたりでお散歩してなかったのがいけなかったのかな。

ひたすら辛い。すぐには溶けない程度の酸の海に沈んでるみたい。でも膝下の水位しかないのに立ち上がらないのは自分っていう。何とも言えぬ滑稽さ。

 

歳を重ねることに関しては僕は別になんとも思わない。これから段々と体力やら何やらが落ちていくのだろうけど、それはまぁそういうものだし。

川が流れるように、山が色付くようにに、実が熟すように、そういう移ろいを肉体としても精神としても体験できるのは感慨深いし、それを通してまた世界の移ろいがより色鮮やかに、きめ細かく見えるようになるのだろうと思うと楽しみでもある。

 

今回の不調はいつもの憂鬱とは違う。冷たい中の温かさがない。

指の間から零れ落ちるものを見てその虚しさに沈むのがいつものそれなら、今回のは指があること、皮膚があること、神経が通っていること、血肉そのものに対する意味不明感。なんで?なんでっていう部分に答えなどないのは分かっているのに、融通の利かない駄々っ子のようにその答えだけを頑なに求める。そうすれば救われると思ってるから。

胸の中のざわめき。それがある一点でふと別の感情とくっついて抑えきれなくなりそうになる。ほら、やっぱり抑えてるんじゃないか。何で抑えるの?馬鹿の一つ覚え。

 

 

よくさ、繁殖の目的は子孫を残すことって言われるけれど、殆んどの動物において個体の主観レベルで子供を残すなんて考えてるわけがないんだよね。したいからする(考えるまでもなく行為に繋がり)、結果的に子供ができる、それが主観でしょ。種レベルで見たところで子孫の繁栄は結果論だ。結果的に生まれ結果的に継がれ結果的に増えるに過ぎない。その情動を生む欲求だって結果的に発生したものだろう。

それをあたかも、性欲という根源的な欲求自体が繁殖という大いなる目的のために存在するかのような物言いはどうなのだろう?目的だの本質だのっていうのはいつも在るがままの姿を観ようとしない部分があって、それは自己欺瞞にこそ成せる業なのではないだろうか。そうやって縛り付けられる。

 

上手くは言えないけど、それと同じことが今僕の中で起こっている気がする。認識の問題。頭でっかちの代償。脳を切除したいと何度思っただろう。煩わしさの中枢。

皆どうやって頭と仲良くしてるのだろう?うー…

 

ざわつき、この感情の主体は僕ではない。いや、僕なんだけど他の人格というか…でも誰?一体何人同居してるんだろう。皆そうなの?僕が気にし過ぎなだけなのだろうか。自分って一言で言うけど、そもそも自分ってどれ?ってなる。例えば「自分がやりたいように」っていうアドバイスをもらっても、どの自分を見ればいいのか分からない。「自分がどう思うか」これも難解。こう思ってる自分も居れば全く反対のこと思ってる自分も居たり。考えてないから決めれないとか、決断力が無いから優柔不断とか思われるんだけど、考えてないわけじゃないよ?寧ろ考え過ぎちゃうから思考を放棄した方が上手くいくような気がするわけだし。優柔不断なのは認めるけど決断してないわけでもないよ?自分の中の自分たちが全く別の判断を下しがちで、そういう時に総体としてどうしたらいいか分からないから優柔不断なの。

この歳になってようやく言葉になった。そうなんだよなぁ。自分自身の中身なのに他人の言葉でつけられた説明ばかり受け入れてるから余計に分からなくなる。そういったものを全て見つけ出して書き換えていかない事にはどうしようもない。

少し楽になった。

 

 

久々だし楽しいことも書かなきゃ。

1月はGhostly KissesのファーストアルバムとAuroraの新しいアルバムが出たの。

どちらも新しい一面が見えるような内容で、成長というか成熟というのは、そしてそれが生む変化というのはとても面白いなぁって思うのでした。そしてそれをさらけ出していく姿勢ってかっこいいなとも思う。

 

Ghostly Kissesの方は6曲目の"Clay"が一番好き。


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Auroraの方はこれが好き。"Everything Matters" ft. Pomme


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あれ、もう2時だ。おやすみなさい。

ソムリエ から 埋もれていた人生観 仕事のこと Michele McLaughlin

先週のとある日の早朝に車を運転してる時、急に「ソムリエだ」って思った。そしてその言葉を呑み込んだ瞬間、身体が少し軽くなったような、何かが解かれたような、認められたような感覚があった。

 

こういう時の理解は後から来る。どうして急にソムリエなのかは別に気にならなかった。

ソムリエという技能者の人達は、僕のうろ覚えの記憶から作られたイメージの中では、自らの嗅覚や味覚を守る為に私生活も気を払ってる人達だ。感覚を乱す強い刺激を生活から遠ざける。それは職業上、利くことでも表現することでも、その鋭く、澄み渡った感覚から生まれるものが何より大切だからだろう。

 

新年が明けてからというもの仕事についてかなり迷いが生まれている。そろそろオフィスにも復帰しないといけないのだけど、それが良い方向に進むような気がしない。

サガプリヤの本を読んでから、自らの男性性も女性性もどちらもあの職場を望んでいないのを意識してしまった。少なくとも今の体制では僕がやりたいと思うことにもなかなか手が出せないばかりか、だからといって別の何かを任されるわけでもなく自分でも何をしているのか分からない。人間関係、あの密室の中で行き交う微妙な感情に耐え続ける対価に月給をもらってるような感覚。

 

ここ約一年は休職状態だから無給だけど、その人間関係が無い分とても気持ちが落ち着いているし澄んでいる。またこの半年は別の仕事もしていて、別の形の労働環境、人間関係を経験していて、週5日、複数人で過ごす密室に通うことがどれだけ負担になっていたか意識してしまった。いやまぁ、オフィスの方もごく一般的な仕事と比べればかなり緩いんだけど、そういうことじゃない。フィールドが合ってない。

そんな場所の生活が当たり前になってしまうと、ただでさえ消耗が激しいのに、へとへとになるだけでなく色々と濁ってしまう。

 

先ずは価値観、人生観の問題。人生をどう使いたいか。

次に行動の問題。何をするのか、どんな役割を担うのか。

次に環境。どこでするのか、どんな頻度で、どんな場所で。

 

人生観、僕はやっぱり、人として生まれたのだから色々なものを感じたい、経験したいと思う。それは大概の場合美に繋がるようだ。

そうやって感じたことから何かを思う(苛まれる系ではなく、インスピレーション的なもの)こと。それが僕にとってはとても大切。というよりそうしている時に一番生きている。森にいる時も、散歩している時も、こうやって書いている時も、ただ物思いに耽っている時も、白昼夢の中にいる時も、とても心地が良い。これは僕にとって切り離せない時間だと今頃になって気づく。

感じること。思うこと、偶然なのかこのブログのタイトルにもなってる。思考にばかり気を取られず奔る思いに乗って感覚的に指が動いてる時の心地よさ。

 

オフィスでの時間は拘束され、消耗するばかりでなく、感覚そのものを濁らせてしまう。感じること、思うことを鈍らせる。単なる消耗の中で日々過ごし、土日にやっとこさ回復してまた繰り返す。そして自分がどこに居るのかもわからなくなる。それを耐えて生活費をもらって、そのサイクルを繰り返して一体何になるのだろう?という風に思ってしまった。ということはそこから得るものはこれ以上ないということなのではないだろうか?

 

消耗の中で、濁った中で過ごしていると、生きていないばかりか何も生まれてこない。ただ朦朧と、薄い混沌の中をさまよい続ける。緩慢な死。大げさかな。

例えばの話、混沌の美、狂気の美というのは、混沌や狂気の中からは生まれないと思う。それを過ぎ去り昇華されるか、外側の別の主体によって表現されたものか、内的な別の主体によって表現される必要があると思う。そうでなければやはりそれはただの混沌の一種であり、ただの狂気の一種の域を出ることができない。(憂鬱はより根源的で気の長い拍動のようなものだからその限りではないなぁと思った)

 

混沌であれ狂気であれ別のものであれ、そういった経験を見るものも、表現するものも、主体として鋭く澄んでいることに越したことはなくて、それは丁度水や空気の透明度、空間の静けさのように、見えてるもの、聞こえるものの奥行きだけでなく、立体的な解像度、色彩や音色の細かさまで変わってくるものなのだと思う。だからこう、濁りは避けたいし、それを生むものとは距離を取りたい。それがソムリエに(から?)思った事であって、意識した時に認められた感覚だった。

 

でも僕はここでは外国人だから職探しに難しさがあるということもあって、この仕事を手放そうと思うとちょっとどうしようって思うのだけど…。もう一つの仕事は代わりがいないこともあって遣り甲斐があるし、フレキシブルな部分が特に僕には合ってるとは思うのだけど、プロジェクトだから半年後はどうなるか分からないし。うーん…。

 

仕事と言えば去年はクラウドソーシングのお仕事もやってみて、割に合わない部分もあるとは思ったものの、緊急時にはこれでも食べていけるなぁということにも気づいた。日本と比べればこっち物価安いしね。出会い系サイトへの誘導記事書くライティングとか結構楽しかったな。多少良心は痛むけど、もしかしたら本当に出会うかもしれないしね。

そう考えると休職中の方は手放してもいいような気もする。ただ、今後野生生物や保全関連のプロジェクトをやりたいってなった時にコネとして繋がってるととても便利なのはある。でも果たしてそれが自分軸なのかと問われると怪しい。多少は僕自身の気持ちもあるのだけど、現状で維持してもその気持ちには繋がらないというか…

いや、そもそも手放す必要があるのかどうか。今も休職で困ってないのだし、向こうとの相談次第ではパートやら何やらで籍残すだけでもいいのかもしれない。

 

兎に角こう、今の中途半端な状態だと色んな意味でスペース・隙間がないというのは事実で、新しいことを始めるチャンスも拒んでしまいかねない。そこを先ずどうにかするべきなのかなぁ。

そういえば蕁麻疹が慢性化して2カ月は経ったと思うのだけど、これももしかしたら生活、または在り方、もしくはその双方を見直せという身体からのサインなのかもしれない。僕は気道には出たことないし、どうしても眠れない時用に薬は用意してあるから何とかなってはいるのだけど、やっぱりこう、全身にこの頻度で出るのはちょっと辛い。

なんかキノコ人間みたいで気持ち悪いし。あ、でも唇に出た時はたらこ唇みたいでちょっと面白かった。写真撮っておけばよかったと後悔してる。

 

はい。

ということで人生の価値観として、ソムリエ的に研ぎ澄ました感覚で世界を感じて、味わって生きたいなぁ、いや、感じることで、味わうことで生きるんだなぁと思いました。

行動、何をするのか、その辺はまだ頑なに分からないけど、今の感覚を大事にすればそのうち見えてくる気もしなくもない。大事にしないと見えてくるはずがないと言った方がいいのかもしれない。そうしていれば勝手に生まれるのかもしれない。

 

それ程までに大事なことなのに、今まで全然見てこなかった。多分、どこかで気づいてはいたけど認めきれないから無意識に見えないふりをしていたのだと思う。ごめんね。よろしく。

 

 

これすごく素敵


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これも大好き


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Michele McLaughlin、この人の曲大好きなのばっかり。どれもとても澄んでいて、時に怖いほど深みがある。直接内側に入ってくるような、どこかで通じるような、そんな曲が多い。

曲名を見ていて、やっぱりこの人も通ったんだなぁって思った。

この人のように、こんな風に内も外も味わいたいの。境界がないくらいに。

 

 

それにしてもかゆーい!今夜のはだめなやつ。薬飲んで寝る!おやしゅみ!

泣くことの難しさ トラウマと未消化の感情 インターステラー

先月末かな、今までも浮かんできていたのに全然気にも留めていなかったんだけど、僕の中にはいつも泣いてる何かのイメージがあって。それが他の様々なイメージみたいに時々浮かぶのとは違って、額辺りに意識を持っていくと胸の奥にいつもある感じ。

10年以上前だけどLeft 4 Deadっていうゲームをやったことがあって、それに出てくるWitchっていう敵が丁度そんな感じ。うぅぅ…ってずっと泣いてる。

 

何回か瞑想をしたり意識を落としながらそのイメージを追いかけるのだけど、なんだかうまく掴めない。体感は近いところまでいくのだけど、上手く重なれないというか、掴めないというか。何なんだろう。ただのイメージなのだろうか?それにしては…

 

感情解放の練習とかもやってみたけどやっぱり今一つ。悲しみや嘆きを感じないわけではなくて、寧ろもみくちゃになるぐらいそれはあるし、それは何度も何度も確かめてる。元々メランコリックな方だから、軽い憂鬱くらいの方が居心地がいいくらいで、じっくりとそういった感情に浸るのも好き。

ただ、泣くっていうような反応(反射?)的なそれとはちょっと違う。どう違うのか上手く言えない。他人事感?ちょっと違う。泣くっていう悲しみ方に(喜びでもいいけど)上手く近づけない。重なれない。うーん、悲しみの主体は自分なはずなのに、どこかその自分ごと眺めてるような感じ。解離?離人感っていうとちょっと懐かしさを感じるけれど、ちょっとあれに似てるかもしれない。離人感の酷かった時は人形を眺めてるみたいに自分を見てた。丁度そんな感じで感情に飲まれてる自分を遠巻きに観てはいても、自分が泣くような主体ではない感じ。後遺症的なあれなのかなぁ。

主体的な視点に重なることにコントロールによるストップがかかってるのか、切り離されているのか、回路の使い方を忘れてるのか、その辺りは分からない。

 

涙自体は出る。あくびしたら出るし、痛い時、例えば蜂に刺された時とかも出るし、感情的な部分では何かが深い部分で触れたような時はおしっこがちびるような涙は出たりもする。でもこう、それが特定の感情と結び付くわけではないし、感覚的にも泣くっていうのとは違う。

 

今日もガイド付き瞑想を試してみたんだけど感情の解放っていう部分ではやっぱり上手くいかなかった。ただその中で未消化の記憶を扱うのだけど、一つ分かったことがあった。

ガイドの通りイメージすると色々出てきて、僕の中で一番大きいのはやはり高校時代のものだった。指示通りその中の1人のイメージと向き合い、目を合わせ、ガイドの言う言葉をイメージするのだけど、それが最終的に"I appreciate your actions"とか、相手に触れながら"I love you"っていう方向に向かっていく。いや、頭ではI love you の必要性は理解できる。その過去の記憶の相手に縛られた自分に向けているものなのだから。でもね、たかがイメージ相手に目を向けるので精いっぱいないのにそれは無理だよ。

正直言ってそろそろ清算できると思ってたから、進歩の無さにちょっとショックだった。

今1月。一番辛かった冬が18年前。18年だよ?もうすぐ年齢を二つ折りしたらその時期が真ん中に来るっていうのに。いつまで縛られたら気が済むの?いつまで猫に噛まれたネズミなの?

この部分に限って言えば頭の方が冷静だ。頭ではその時期がなければ今がないことはよく分かるけど、それに感謝しろと言われてもまだまだできない。当時の感情は、やはりすっぽりと抜けてそのまま残ってる。丁度あの時期自分を外側から人形を見るように過ごすことで生き残ったように、そこだけすっぽりと切り離されてる。

 

正確に言えばその後の3年間も色々抜けている。それは多分色々壊れていたからなのだけど。でもその色々壊れていた時期が一番まともに泣いた時期で、最後に泣いた時期なのかな。溜めて溜めて決壊するように、何で泣いてるのか分からないのにベッドに潜って何十分も泣くことがあった時期。

その後は元通りではないけれど、徐々にまた生き始めた。フラッシュバックや発作が減ってからは以前の自分は死んだと思うことで気持ちを切り替えて生きてきた。

 

EMDRを受けたんだよね。目を左右に動かすやつ。頑張って表参道まで行って。

2年引きこもった後少しずつ外に出るようになったんだけど色々酷い有様で、C-PTSDの診断を受けた後投薬やカウンセリングを受けたんだけど、根本的な部分では変化がないので自分で調べてEMDRに行きつき、縋るように通った。外傷の記憶が元になって起きる症状に対してはかなり効果があった。

 

ただ今思えば、多分それは記憶を遠ざけて本能的な反射が起こりづらくなるように接続を弱くしただけなんだよね。勿論当時としては必要だったし、受けて良かったのだけど。その記憶は消化されたのではなく、むしろ遠ざけた分同じ形で残ってる。氷山・パンドラの箱と以前書いた気がするのはそういう感覚からだろう。

やっばーい。そのまま残ってることを意識したら急に淡い恐怖が胃を締め付け始めた。ということでこの話はおしまい。

まぁ、進歩の無さに絶望しつつ、これだけ踏み込んでフラッシュバックも発作も起きないのだから時間は外堀を埋めてくれてるのだとは思う。

 

 

ちょっとこのまま終わると絶対嫌な夢見るからさっき観たインターステラーのことでも書こうかな。

今更急に観てみたくなって観たんだけど凄く良かった。実際に宇宙に出た中盤ではこれもうインターステラーどころかインターギャラクシーだろとか思っちゃったけどそれは些細なこと。

中盤までの終末感といい、極限の人間的な感情のぶつかり合いといい、探検心を抱く者のワンダーをくすぐるような描写といい、散りばめられる王道科学・SF理論といい、SFとスピリチュアルのギリギリを攻める態度(これは序盤でマーフが言う「未知を受け容れるのが科学」という台詞と重なる気がする)といい、広大な宇宙的な時間に対する人の持つ時間の儚さの描写といい(僕の小学校低学年の時からの恐怖)、母なる地球を離れた人間のアウェイ感といい、探検者の孤独の描写といい、それらを引き立てる映像美や音楽といい、終わり方といい、ちょっと詰め込み過ぎ感もあるけど凄くよかった。

一番好きなのはトウモロコシ畑でドローンを追うシーン。ジョセフ・クーパーというキャラクターを美しいシーンの中でとても分かりやすく描いてる。

人間に対して広すぎて厳しすぎる部分をしっかり描いているのに、それでも宇宙、別次元、未来、理論、そういったものに対する希望や憧れを後味として残してくれる素晴らしい作品でした。

 

多分3年くらい前の僕が観てたら3割ぐらい否定的に見てたと思うけど、今なら丸ごと受け入れて楽しめる世界観だった。だから今観ようと思ったんだなぁって、そんな気持ちにさせてくれる。

 

映画自体は今まで気にも留めてないのに昨日急に観たいと思ったんだけど、この曲はピアノカバーが好きでyoutube musicでよく聴いてたんだよね。


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この曲のボイジャー感が好き。もう帰れないことを知りながら広大な宇宙空間の暗闇を独り進んでいく感じ。ボイジャー1号2号って今どこ飛んでるんだろう。

 

良い夢が見れそう。

あけおめ から やりたいこと、気になってること "Jonathan's Song" Doug Hammer

明けましておめでとうございます。

こっちは特にお正月ムードはなく、祝日も1日だけなんですけどね。

栗きんとんと煮黒豆と数の子食べたいなぁ…

 

2022年かぁ、早いなぁ。この調子だとあっという間におじいさんになってそう。そこまで生きればだけど。

抱負とか考えてもどうせそれに向かう性格じゃないからそれは無しでいくけど、今年やりたいこととか今気になってることを書いてみよう。

 

・お絵描き

年末の夜中に多分20年ぶりぐらいに絵の具を使って絵を描いた。年賀状代わりの寅の絵を大切な人、気を許せる人にだけ送ろうと思って。寅には思い入れも出来たしね。

絵具自体は買ってあったんだけど中々手が出なくて放置してあった。

 

僕は絵を描くことに凄く苦手意識がある。その絵を描いていてことあるごとに思い出したのが中学の美術の先生に言われた「いいんだけど、あなたの絵は細々し過ぎ」って言葉だった。何気ない一言が意外と刺さってる感じ。でも僕は今回また細々した絵を描いた。そういえばあの時描いたのも森だった。森に居るのがウサギかトラかの違い。

描いてみて分かったんだけど、絵が細々としてしまうのはそれが楽しいからだ。それは見え方の問題だと思う。トラだけを描くのが難しくて楽しくないのは、トラが周りの色々なものの一部だから。周りの一部としての動物を見てる。逆に、周りの環境抜きで特定の動物をイメージできる?

内的な風景も同じで、内側の僕は、僕の内側の環境の中の小さな小さな存在にしか過ぎない。つまる所、細々し過ぎと否定されたと感じているのは、絵云々より僕の見え方なんだと思う。と、妙に一人で納得してしまった。

好きな絵もトマス・コールのような風景画が多いし、あ、やっぱりそれでいいのかなって思えた。

 

苦手意識もあって中々手が付かないけど、今回それに抗えたのは良かった。描いていて楽しかったし、ここをもっとこうしたいというようなこだわりもあることが分かった。構図とか、色の出し方とか。あともっと細い筆が欲しいな。

あと、絵を描いた後はいつもより活力がある気もする。

 

ということでお絵描きをちょっとずつやってみたい。

 

 

・男性性 女性性

何か引っかかりがあって元日からアニマとか内的な男性性や女性性について調べたり瞑想したりしてた。まだここに何かあるような気がする。

以前も書いたけど、僕の中の女性的な存在は男性性を強く持った存在だった。僕の正反対としてはぴったりかも知れないけど、じゃあ内的な男性性や女性性ってどう捉えたらいいのだろう?そもそも僕はジェンダー観がズレてる部分があるからその影響なのだろうか。それとも置いてきた何かがあるのだろうか。

変容や個性化の流れとして統合があるが、そもそも何がどう統合されればいいのか。どうバランスを取ればよいのだろう。

っていう部分で釈然としなくて、『あなたの内の男と女・愛と自由を手に入れる魔法 (サガプリヤ著)』という少し怪しげな本の電子版を昨日の夜衝動買いして読んでる。まだ1/3くらいだけど、正直すごく面白いし得るものがある。衝動買いの当たりの多さ。

ただ内的な男性・女性という部分に関しては今の所もっと分からなくなってるかも。それは僕が内側の男性を意識したことがなかったからというのもあると思う。だからイメージが中々湧かない。あとこの電子版画像形式なのかマーカー引けないのが地味に不便。

そんなこんなで男性性 女性性についてちょっと深めたい。多分その流れでまたインナーチャイルド的な部分にも触れることになる気がする。そろそろ…

 

 

・カメラレンズの内部清掃

やっぱりカビの写り込みが気になると写真撮ろうかなって気も遠のいてしまう。清掃はちょっと自分でやってみようかなぁと思うんだけど、先ずは分解用の道具を買わないといけない。手が付きそうなときにやればいいかな。

 

 

・一時帰国

これはどうだろうね。もう少しかかるかな。チケット返金してくれればなぁ。

 

 

何か他にも色々浮かんだけど楽しくないことはポイした(先送り主義)。何か色々考えてて思うのは、やっぱりもっと自由になりたいということ。仕事もそうだし、人間関係も、色んなしがらみも、色々。それが駄目ならせめて深い深い所に落ちていきたい。もっと深い所。どこまでいけるのだろう。現実を生きることよりそんなことばっかり考えてる。いやそもそも現実とはって、それを始めると長引くから…

 

 

これも年末出会った曲なんだけどね、これもすごく好き。


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抱負とか目標は無いんだけど、この曲のように過ごしたいなぁって思ったから、これ今年のテーマにする。一年がこうなればいいっていうんじゃなくて、自分の一生をこんな風に見渡せる感覚で日々を過ごしたい。

僕はどうしても後ろを振り返ってばかりだけど、振り返るのもこんな感じならいいのかなって思えた。手放すのではなく、重いと思ってたものが軽くなればいい。質量に縛られない捉え方で。

そうなれば水面に映る過去も軽やかになるし、この先の瞬間に躍動感が生まれるし、重さに潰れてた自分をも愛おしく思えるかもしれない。まだ机上の空論だけど、何となくそんな気がする。

 

はい。

なにはともあれ、今年もよろぴくね!

手のひら から 双方向、受容、世界、子供 "Water Ripples" Enno Aare

手のひらが優しく柔らかいのは、手のひらが優しさや柔らかさを感じることができるだけ繊細だからだ。そんな手のひらだって自らが感じ、受ける姿勢でなければ横暴で硬い手のひらになる。愛撫とビンタの違いのような。どっちも兼ね備えたビンタもあるし、ビンタまでいかなくても、身勝手な振る舞いであれば同じ。

受け容れること。

探るような指先さえも、相手を知り学ぼうとする指先と自分勝手に自分の求める物を触ろうとする指先では全く違うものだよね。それは受容の姿勢の有無ではないだろうか。

 

それは触れられる方も同じで、触れられる方が閉ざしていればやはり冷たく固いものだ。拒絶。双方向で初めて柔らかい安心感が生まれる。双方向の受容。

 

ここまで見るとなんかエッチなこと考えてるみたいだけど、別にそういうわけじゃなくて子供の頃頭を撫でられた時のことを思い浮かべてた。自分が撫でる感覚の鏡に映しながら。

まぁでもエッチなことでも同じなんだろうけどね。センシュアル、性感、その辺りにある美なんかも。

 

双方向であること、受容。これは触覚に限ったことではない。例えば目だってそうだ。見たものを受け入れている目なのか、一方的な視線なのか。温かい目、包み込むような目。吸い込まれるような目。撫でまわすような目になると身勝手さがあるけど。

目と目の場合はより直接的。目が嘘を吐かないのはそういう部分なのだろう。目は隠しようがない部分だから。

 

「何で目を見ないの」って言うじゃん、「その目だから見れないの」って言いたくなる。言えないけど。大人はよく子供に「目を見なさい」って言うけど、礼儀以前にそんな目で見てたら子供が拒絶するのは当たり前だよね。だって大人側が先に条件付きで見ていて、目を見ない子供を拒絶してるのだから。ポツダム宣言的な不平等感。

その無理矢理見させた目でドラゴンボールのかめはめ波の押し合いみたいなのを始めるのは何なんだろうか。格闘技や不良の睨み合い的な。でもこれ動物もやるのか。猫とかよくやってるし、メスをかけたオス同士の闘い系の映像でもよく睨み合いで勝敗決しちゃったりね。目は奥が深い。

 

ヒトは欺くために表情を発達させてきたとどこかで読んだが、そればかりではないと思う。伝える手段としての表情。それもまた双方向のやり取りを深めたのではないだろうか。これは視覚、その鏡。

 

鼻。鼻になると人間は多くの動物に比べて弱いのかもと思ってしまうけど、それでもやはり本能的な部分で鼻は大きな役割を担ってると思う。加齢臭とかもそうだし、逆に好きな人の匂いなんていうのも。

双方向の匂いの受容というと赤ちゃんとお母さんが一番に思い浮かぶ。母の胸の匂いに安心する赤ちゃんと、赤ちゃんの頭の匂いに安心する母親。丁度いい位置に来るんだよね。本能ってどっちが先に来てるんだろう。好きだからいい匂いに感じるのか、いい匂いだから好きと感じるのか。その限りではないのだろうけど。

 

耳、音の受容。声は勿論、音なんかも相手への意識で出し方が変わるから、これも双方向性が大きいと思う。声、言葉でやり取りする動物なのだから当たり前と言えばそうだと思う。赤ちゃんの泣き声にお母さんがやられちゃうのも一方通行だからなのかも。

 

口は触覚も繊細だからともかく、味覚はどうなんだろう。味に双方向なものはないとも言い切れないのかな。わかんない。でも複合的なものは多分色々あるよね。

 

双方向の受容。相手から見て柔らかいとか優しいとか、それは結果でしかない。それを生むのは飽くまで主体的な受容の態度ではないだろうか。

受容の態度。鏡を通して辛く激しいものが返って来るよりは、初めは辛くても受け容れる努力をした方が長い目で見れば安らかな方に向かう気がする。それを求めるなら。

 

ただこの世界はあまりにも辛すぎる。それも反射して返ってきてるものなの?外にあるということは内に持っているから?

解釈はどうとでもできるのだろうけど…

 

問題はね、例えば無理やりの姦通で石打にされる女性をイメージしたとして、石を投げる人の気持ちの理解を試みたとして、石を投げられる人の気持ちの理解を試みたとして、その家族の複雑な心境の理解を試みたとして、レイプする人間の衝動やらの理解を試みたとして、それを見た世論の憤りの理解を試みたとして、その憤りに対する憤りの理解を試みたとして、それを重ねれば重ねるほどになんて世界なんだろう、どうしてこんなデザイン(結果的なものでも)なんだろう、人間ってどうしてっていう絶望の方向に進んでしまうことで。それをおいそれと「そういうものなんだね」って受け入れるには僕の中では色んなものが絡みつきすぎてしまっている。

 

例えば3歳児なら、理解という意味では理解ではないのかもしれないけど、そういう軸とは別に物事を見つめられるだろうし、世界と自分が切り離されていない分、受け入れるまでもなく一つとして在ることができるのではないだろうか。

そもそも僕が上で書いたような理解の努力なんてもの自体が、手の届かない虹を掴もうとするようにある意味無意味で馬鹿げていて根本から誤っているかもしれないものである以上、理解という意味での理解を求めることにどこまでの意味があるだろうか?

 

やっぱりその部分がこう、うーん。

経験とは何なのだろう。知識とは、知能とは。

全てを捨てて幼児退行すれば僕の中の問題は解決するのかもしれないけれど、振出しに戻ったらまた始めなくてはならなくなってしまうかもしれないし、だから子供の心に学びたいということなのだろうか。よくわかんないけど。

 

 

ところでもう年末ですね。早い。年の瀬にいったい何を書いてるんだろうか。まぁいいや。

僕は今年は体調を崩しやすい一年でした。最近は毎日蕁麻疹が出てる。なんでだろう。運動を習慣づけてから腰とか首は良くなったんだけどなぁ。皆さん良いお年をお迎えくださいね。

 

そうそう、今日とっても好きな曲に出会ったの。


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とってもこう、しゅき。共振。