感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ソムリエ から 埋もれていた人生観 仕事のこと Michele McLaughlin

先週のとある日の早朝に車を運転してる時、急に「ソムリエだ」って思った。そしてその言葉を呑み込んだ瞬間、身体が少し軽くなったような、何かが解かれたような、認められたような感覚があった。

 

こういう時の理解は後から来る。どうして急にソムリエなのかは別に気にならなかった。

ソムリエという技能者の人達は、僕のうろ覚えの記憶から作られたイメージの中では、自らの嗅覚や味覚を守る為に私生活も気を払ってる人達だ。感覚を乱す強い刺激を生活から遠ざける。それは職業上、利くことでも表現することでも、その鋭く、澄み渡った感覚から生まれるものが何より大切だからだろう。

 

新年が明けてからというもの仕事についてかなり迷いが生まれている。そろそろオフィスにも復帰しないといけないのだけど、それが良い方向に進むような気がしない。

サガプリヤの本を読んでから、自らの男性性も女性性もどちらもあの職場を望んでいないのを意識してしまった。少なくとも今の体制では僕がやりたいと思うことにもなかなか手が出せないばかりか、だからといって別の何かを任されるわけでもなく自分でも何をしているのか分からない。人間関係、あの密室の中で行き交う微妙な感情に耐え続ける対価に月給をもらってるような感覚。

 

ここ約一年は休職状態だから無給だけど、その人間関係が無い分とても気持ちが落ち着いているし澄んでいる。またこの半年は別の仕事もしていて、別の形の労働環境、人間関係を経験していて、週5日、複数人で過ごす密室に通うことがどれだけ負担になっていたか意識してしまった。いやまぁ、オフィスの方もごく一般的な仕事と比べればかなり緩いんだけど、そういうことじゃない。フィールドが合ってない。

そんな場所の生活が当たり前になってしまうと、ただでさえ消耗が激しいのに、へとへとになるだけでなく色々と濁ってしまう。

 

先ずは価値観、人生観の問題。人生をどう使いたいか。

次に行動の問題。何をするのか、どんな役割を担うのか。

次に環境。どこでするのか、どんな頻度で、どんな場所で。

 

人生観、僕はやっぱり、人として生まれたのだから色々なものを感じたい、経験したいと思う。それは大概の場合美に繋がるようだ。

そうやって感じたことから何かを思う(苛まれる系ではなく、インスピレーション的なもの)こと。それが僕にとってはとても大切。というよりそうしている時に一番生きている。森にいる時も、散歩している時も、こうやって書いている時も、ただ物思いに耽っている時も、白昼夢の中にいる時も、とても心地が良い。これは僕にとって切り離せない時間だと今頃になって気づく。

感じること。思うこと、偶然なのかこのブログのタイトルにもなってる。思考にばかり気を取られず奔る思いに乗って感覚的に指が動いてる時の心地よさ。

 

オフィスでの時間は拘束され、消耗するばかりでなく、感覚そのものを濁らせてしまう。感じること、思うことを鈍らせる。単なる消耗の中で日々過ごし、土日にやっとこさ回復してまた繰り返す。そして自分がどこに居るのかもわからなくなる。それを耐えて生活費をもらって、そのサイクルを繰り返して一体何になるのだろう?という風に思ってしまった。ということはそこから得るものはこれ以上ないということなのではないだろうか?

 

消耗の中で、濁った中で過ごしていると、生きていないばかりか何も生まれてこない。ただ朦朧と、薄い混沌の中をさまよい続ける。緩慢な死。大げさかな。

例えばの話、混沌の美、狂気の美というのは、混沌や狂気の中からは生まれないと思う。それを過ぎ去り昇華されるか、外側の別の主体によって表現されたものか、内的な別の主体によって表現される必要があると思う。そうでなければやはりそれはただの混沌の一種であり、ただの狂気の一種の域を出ることができない。(憂鬱はより根源的で気の長い拍動のようなものだからその限りではないなぁと思った)

 

混沌であれ狂気であれ別のものであれ、そういった経験を見るものも、表現するものも、主体として鋭く澄んでいることに越したことはなくて、それは丁度水や空気の透明度、空間の静けさのように、見えてるもの、聞こえるものの奥行きだけでなく、立体的な解像度、色彩や音色の細かさまで変わってくるものなのだと思う。だからこう、濁りは避けたいし、それを生むものとは距離を取りたい。それがソムリエに(から?)思った事であって、意識した時に認められた感覚だった。

 

でも僕はここでは外国人だから職探しに難しさがあるということもあって、この仕事を手放そうと思うとちょっとどうしようって思うのだけど…。もう一つの仕事は代わりがいないこともあって遣り甲斐があるし、フレキシブルな部分が特に僕には合ってるとは思うのだけど、プロジェクトだから半年後はどうなるか分からないし。うーん…。

 

仕事と言えば去年はクラウドソーシングのお仕事もやってみて、割に合わない部分もあるとは思ったものの、緊急時にはこれでも食べていけるなぁということにも気づいた。日本と比べればこっち物価安いしね。出会い系サイトへの誘導記事書くライティングとか結構楽しかったな。多少良心は痛むけど、もしかしたら本当に出会うかもしれないしね。

そう考えると休職中の方は手放してもいいような気もする。ただ、今後野生生物や保全関連のプロジェクトをやりたいってなった時にコネとして繋がってるととても便利なのはある。でも果たしてそれが自分軸なのかと問われると怪しい。多少は僕自身の気持ちもあるのだけど、現状で維持してもその気持ちには繋がらないというか…

いや、そもそも手放す必要があるのかどうか。今も休職で困ってないのだし、向こうとの相談次第ではパートやら何やらで籍残すだけでもいいのかもしれない。

 

兎に角こう、今の中途半端な状態だと色んな意味でスペース・隙間がないというのは事実で、新しいことを始めるチャンスも拒んでしまいかねない。そこを先ずどうにかするべきなのかなぁ。

そういえば蕁麻疹が慢性化して2カ月は経ったと思うのだけど、これももしかしたら生活、または在り方、もしくはその双方を見直せという身体からのサインなのかもしれない。僕は気道には出たことないし、どうしても眠れない時用に薬は用意してあるから何とかなってはいるのだけど、やっぱりこう、全身にこの頻度で出るのはちょっと辛い。

なんかキノコ人間みたいで気持ち悪いし。あ、でも唇に出た時はたらこ唇みたいでちょっと面白かった。写真撮っておけばよかったと後悔してる。

 

はい。

ということで人生の価値観として、ソムリエ的に研ぎ澄ました感覚で世界を感じて、味わって生きたいなぁ、いや、感じることで、味わうことで生きるんだなぁと思いました。

行動、何をするのか、その辺はまだ頑なに分からないけど、今の感覚を大事にすればそのうち見えてくる気もしなくもない。大事にしないと見えてくるはずがないと言った方がいいのかもしれない。そうしていれば勝手に生まれるのかもしれない。

 

それ程までに大事なことなのに、今まで全然見てこなかった。多分、どこかで気づいてはいたけど認めきれないから無意識に見えないふりをしていたのだと思う。ごめんね。よろしく。

 

 

これすごく素敵


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これも大好き


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Michele McLaughlin、この人の曲大好きなのばっかり。どれもとても澄んでいて、時に怖いほど深みがある。直接内側に入ってくるような、どこかで通じるような、そんな曲が多い。

曲名を見ていて、やっぱりこの人も通ったんだなぁって思った。

この人のように、こんな風に内も外も味わいたいの。境界がないくらいに。

 

 

それにしてもかゆーい!今夜のはだめなやつ。薬飲んで寝る!おやしゅみ!