感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

お散歩 から 月 悲しみと喪失 欺瞞と信念 Kai Engel

今日のお散歩、月明かりに照らされる積乱雲がとても綺麗だった。

満月前後の夜は明るすぎるくらいだけど、月明かりが映し出す景色は大好き。柔らかな明りに照らされてぼんやり浮き上がるように見える。それは何というかこう、内側にある景色に似ている。

 

月そのものは海の方に向かって吹く風に乗って流れる薄雲が月を覆う時とか、やっぱり雲とのコンビネーションが好き。雲の部分部分の厚さによって顔色を変え続ける月。その様子はいつまででも見ていたくなる。今日は少し厚めの雲が通りかかった時に、殆んど覆われてしまった月の姿が頭に残ってる。

その雲もまた月明かりや輝く星々がなければ僕らからは見えないのだ。それが見えている時点で、やはり空は月が支配していたのだろう。その事実がまた月の寛大さを表しているような気がした。

 

夜のお散歩をしている時は大抵、色んな思考や記憶や感情が目まぐるしく浮かんでは消えていて、時々気になったものを手にとっては精査し、また連想ゲームを始め、みたいなことを繰り返している。夜のお散歩ではいつもアパートメントの20棟くらいがまとまった同じフェーズの中を歩いているのだけど、普段は3週くらいはするのかな。歩く長さは決まっていなくて、そろそろいいかなって思ったら帰るし、もうちょっと続けたいって時には長めに歩いてる。歩くのが目的というよりはやはり頭や感情の整理なのだろう。

今日もそうだったけど、歩いていて、気づくとサンダルの底が何度も地面を擦れるようになって少しふらふらしだす時が結構ある。そういう時は大抵、定まっていないながらも浮いては消える思考のあぶくが深い部分に根差す時な気がする。今夜も何だか、悲しみや喪失について考えていることが多かった。そうやって記憶や感情を手掛かりに概念を繋ぎ合わせて消化しようとしたり、次の思考へ渡り歩いたりしている。一周半歩いた頃にはサンダルの底を擦るような歩き方になっていた。体力は余ってるはずなのに、不思議。

 

悲しみと喪失はイコールではないのだけど、大体僕の中の悲しみは喪失と繋がる気がした。大切な人や繋がりの喪失、大切なものの喪失、希望の喪失。期待を裏切ったなんていうのも結局その人の期待を受けていた自分に対する自信の喪失、もしくはその人の自分に対する好意や期待の喪失(の予感)だったりもするし、嘘や裏切りの悲しみは信頼やロイヤルティの喪失でもあるし、苦しんでいる人を見た時の悲しみは不条理の意識によるもので、かつて自分の味わった苦痛の末の希望の喪失と重ね合わせてのものだったりもする。その部分の解像度を低くして短縮すれば単に共感なのだけど。

 

寂しさ、迷子感、孤独感、寒さ、恋しさなんかは多少悲しみや喪失と似ているけど、どれも質の違うものだ。なんてことも一々想起して再現しては感触を確かめて比べて、ってやっていたので、やっぱりお散歩中は結構精神力か何かを消耗するのだと思う。そう、消耗だ。消耗、疲弊。お散歩終了間近は大体そんな感じの状態。

 

勿論そんなことばかりをやっているのではなくて、空を見たり、景色を切り取ったり、風を感じたり、不快な異臭が鼻を掠めては悲しさと嫌悪が入り混じったような気持になったり、アスファルトの感触に悲しくなったり、猫や犬と戯れたり、葉っぱに触れてみたり、ただ歩いていても色んな事をしてる。

本当はお散歩中も、風を感じながらじっと座って空を眺める時間も欲しいけど、なにぶん蚊が多いのです。デングも出るしね。

 

そうそう、あとね、お散歩中『今』って何だろうって考えてた時、頭の中で『架け橋』って声が聞こえて、そっかぁと頷いてしまった。何でそっかぁなのかは考えればいくらでも理由は付くんだけど、聞こえた瞬間のそっかぁって感じはもっと深かったな。なんでだろう。僕の頭より僕の理解を知ってる僕がいるのだろうか。さもありなんっていうよりまぁそうだろうなって感じ。

これはまぁ、今続けると良くない方向に行きそうだからやめる。この判断力は誉めてあげる。変な部分は成長したな。

 

 

大切な人や繋がりの喪失は、喪失だから悲しい。ということはそれが喪失じゃなくなれば悲しさも単なる長期の別れ程度になるのだろう。

実際そういう考え方は世の中に沢山ある。僕にもそういうものを信じたいっていう気持ちはあるけど、だからこそ、『だから信じたい』のようなある種の欺瞞に終始することもできないのではないだろうか。

自己欺瞞が信念に混じったとしてその欺瞞を打ち負かすのが信念の強さだと言えるのだろうか。問題は欺瞞が混じるのを見てしまっていることであって、ということはその程度の信念だと見え透いてしまっていることにあるのではないか。

そこで妥協ができないからいつまで経っても信念を疑ってしまうのだろう。ほら、妥協とか言っちゃって。

でもそもそも、信念を抱く時に大事なのはその軸なのだろうか。腑に落ちなければ、実感がなければどうやって?仮に無理矢理腑に落としたとして、それが欺瞞でないと言えるだろうか。だからこそ腑に落とすのではなく落ちなければならない。それには何かが足りない。

ということは足りないのは信念ではなかった。別の何かだ。もしくは…

 

 

月明かりっていうと最近この曲好き。今日のお散歩の時も流れた。


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今更調べたけどKai Engelはロシアの人みたい。なんか納得。

他にも好きな曲いっぱいある。数曲しか知らないけどこの2曲もすごく好き。

 


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友人のこと 縁 複雑な感情の場

月に2回友人に現地語をzoomで教えるようになって8カ月。

昔日本語教師のコースを修了していることもあり、授業の組み立てなんかはあんまり難がなかった。簡単な講座なのでしっかりカリキュラムを組むことはしてないけど、ぼんやりとイメージは作ってる。

話を持ってきてくれたのも向こうからだった。あんまりこう、僕は人にものを教えるのは得意ではないので普段なら避けて通るのだけど、その人からの頼みだったので引き受けることにした。

引き受けたという体だけど、実際は色々と億劫になりがちな僕に機会を作ってくれたんだなという気がしていて、僕はそれが嬉しかったし蔑に出来ないと感じたから応えたような感じ。

 

出会ったのは13年前。僕はまだまだどん底から抜け出し切れていない時だったけど、当時はその友人のイベントの手伝いなんかをさせてもらったり、会に参加させてもらったりしたことで明かりを見ることができた。

20歳くらい上なのに僕のことを友人と言ってくれる人であり、母性的な包容力を持った人(自分ではそんなことないと言うだろうけど)。そして数少ない、僕の目を見て話してくれる人。

 

僕がこちらに移り住み、その人も日本で引っ越したこともあり、ここ10年くらいは疎遠だった。それでもこちらに来た際は連絡を頂いてお茶したりもしたのだけど。癌で、しかもそれが末期なことを知ったのはZoom講座が始まった後だったのだけど、以前会った時に大病をしたと聞いていたし、「やりたいことはやれる内にやっておきたい」という言葉の影で時折覗くどこかニヒルな作り笑顔からも何となく察してはいた。

 

だから、講座の話を持ってきていただいた時はその友人のやりたいことに関われるのだというのが嬉しかったし、単純にまたその人との時間が持てるのも嬉しかった。

何より、上手く言えないのだけど、その話をもらった時には色々な人たちとの縁の切り替わりを感じていて、切り替わり先の一つがその人だと思えたのもまた嬉しかったのだった。自分を生きていて深い優しさを持った人なのだけど、友人であり尊敬もしていて波長も合うから、そっちに行っていいんだなぁっていうよく分からない安心感。

 

先週末の講座ではその人の疲れがとても顔に出ていて心配だった。忙しかったからその間打たなかった抗がん剤を打ったそうで、それでしんどいのもあるらしい。その人はそれを軽い話のように言うから、僕もそれに合わせて心配し過ぎないように「あんまり無理し過ぎないで下さいね」っていう程度に返す。作り笑顔がばれているのかは分からないが。

(表面上は)生をあまり重く捉えない人だからというのもあるだろうし、病を重く捉えたくないというのもあるのだろう。

 

その人は今年はとても忙しそうだ。大変だろうなぁとも思うけど、でも日々が充実してるのだろうとも思う。それこそ、「やりたいことをやれる内にやっている」のだから。

でも、その多忙に身を投じる姿が、先週末のやつれた姿からは、見たくないものを見ないためのものなのかも、という風に見えてしまって、それからというもの僕は余計なことを考えてしまっている。

いつもなら「もう少しゆっくりして下さいね」なんて口から出そうにもなるけど、「やりたいことがやれる内」を意識しているような人にそんなことを言うのもある意味軽薄なのではないかとか、ゆっくりするように言うことも、考えなくてもいいことを考える時間を強いるようなことなのかもしれないとか。

 

そういうことを考えるのが余計なことと書いたのは、失言を恐れるとかそういう類のことではなくて、そんなことを僕が考えてしまっていては、真摯にその人と、そしてその人との時間と向き合えないのではないだろうか。ということ。

 

その講座にはもう一人参加者さんがいて、その方はこの友人と同じ病気で奥さんをなくしている方。この2人も何かしらの縁、繋がりがあってのことだと思うけど、友人が体調悪そうにしている時、この方が友人に対して投げかける軽い労りの言葉とは不釣り合いな寂しそうな目がいつも印象に残る。改めて不思議な場だと思う。

 

僕はやはりいつも感情を見ている。煮え切らず思考も感情もごちゃごちゃしているのも、先のことを思ってしまったからというよりは、友人の複雑な感情に触れてのことだろう。複雑だから、どれを見ていいのか分からなくなっている。

 

そもそもそんな他人の持ち物ではなく、自分の持ち物に責任を持ってその心配をすればいいだけのはずなのに。

 

友人からは一種の夢のような、やりたいことを聞いていた。それがこの言葉を学ぶ理由だとも。僕はその人の病気など端から無かったかのように、講座の時間を大切にして、その夢を応援したいと改めて思った。それがこの場を作ってくれた友人に応える真摯な態度だと思う。

やりたいことを応援したいけど、やれる内という期間が見えることで場に対する気持ちを濁したくない。

 

普段メメント・モリを意識したいと思っておきながら、他人のそれに対しては引っ張られたくないというのは我ながら自分勝手が過ぎる気もするけれど、意識するとやはり濁ってしまうから。

別れは必ず訪れるから、だから今を大切にできるのは分かるのだけど、それ抜きで大切には出来ないだろうか。

 

 

主観的な死は誰かの言うように概念の域を出ることができないとしても、客観的な死はやはり現象であり再現性のある反応であるというジレンマ。

他人の、死生観を土台にした感情に対しては自分の死生観を適応することはやはりできないのだろうな、ということを今日大切な人とメッセージをやり取りしてて思った。

それを乗り越えるには、人の死が重くなり過ぎているのかもしれない。その善し悪しは別として。その重さを無視しようとしてもやっぱりさっきのジレンマにぶつかってしまう。

妹の結婚式 から 家庭内の役割 気持ち悪さ 生と皮膚

そういえばね、この前妹の結婚式にオンラインで参加したの。事実上結婚は半年くらい前にしてて式がようやくって感じだったんだけど。

僕は入籍前には彼氏君から挨拶はあるだろうなとか思ってたんだけど一向になく、式の前ぐらいにはあるだろうと思ってたけど一向になく。結局式の最中オンラインで「初めまして」の挨拶になった。

 

ただでさえオンラインで参加とかアレなのに、式の最中「初めまして」ってなんか向こうも参加者に悪い印象持たれちゃいそうだなぁとか思ったり(傍から見たら半年前から家族だったわけで)、でも知ったこっちゃないよねとか思ったり。

 

僕も上手く言えない寂しさ的な感情があって、ちょっと意地っ張りモードになってた。挨拶一つで馬鹿らしいとも思うけどね。

本当は妹の結婚式くらいには髪を切ろうかなぁとも思ってたけど(フック船長くらいになってる)、いつしかこの結婚式のために髪を切るのはやっぱりおかしいと思うようになって結局切らなかったし。(また切るタイミングを逃してしまった。折角だから寄付してもいいなと思ってるからもう少し伸ばしてもいいけど。)

当日は髪は後ろで縛って口髭はワックスで整えて(ビーワックスとココナッツオイルで作り置いてある)、白と青のバティックシャツで参加した。さぞ変な奴に映っただろう(得意げ)

 

一応晴れの場ではあるし、妹に対してはおめでとうという気持ちは湧いてたんだけど、彼氏君に対してはどう接していいか想像が上手くできなかった。直接話したことなく名前も顔もうろ覚えな相手に「おめでとう」なんて心にもないことを言うのはそれはそれで不誠実かなぁとか思ったり。じゃあ妹に「おめでとう」と言って彼氏君には「初めまして」だけ言おうかっていうとそれもなんかあれじゃん?

 

でまぁ当日になってオンラインで参加すると向こうから「初めまして」って言われてね、そしたら言えちゃうんだよね。「どうも初めまして、この度はおめでとうございます」って。ついでに彼氏君の親族と何故か会話になっちゃった時も会釈したり愛想笑しながらちゃんと挨拶しちゃってさ。妹の手前とか知ったこっちゃないねという心裏腹。

こういう時ってそこにいるのが自分で自分じゃないんだよね。自分なのに何なのこいつ?って思う。ちゃんとした人ぶっちゃって気持ち悪い。

何でそこに嫌悪を抱くのかわからないけど。

 

もしかして皆内心はそうだったりするのかな?表で愛想よくしながら内側ではそんな自分自身を嘲笑って。お互いがそれやってたら滑稽でなんかいいな。

 

でも何はともあれ皆嬉しそうだったり楽しそうで、それは何より良かったと思う。

 

挨拶がなかったことに対しての寂しさってよく考えてみると純粋な兄としての感覚ではなさそうなんだよね。それ言い出すとそもそも純粋な兄とは何なのかって話だけど。

うちは僕が17くらいの時に親が離婚して、それより前から父親が割とどうしようもなくて。7歳下の妹に何か特別なことをしたかと聞かれれば別にしてないんだけど、感覚的にはなんか兄って感覚はそもそも薄くて、何かよく分かんないものになってるんだよね。父親がいないから僕に挨拶が来るのは当たり前みたいな感覚もあったのだろうけど、かといって別に父親代わりというわけでもないし、今だって毎年誕生日プレゼント贈るくらいで普段からメッセージやり取りするわけでもない。

 

うちってみんなスタンドプレイヤーだったけど、繋がりがないかと言えばそうでもなく、ちょっと特殊なのかも。まぁ、何を以て普通の家族というのかもわからないけど。

 

結婚式の最中は弟とLineでやり取りもした。食べ物の写真送ってくるから行けなかった僕は羨ましがってるふりをしたり。本心では割とどうでもよかった。ただ、彼も難しい時期を脱したんだなぁって。

結婚式自体も本当は行きたくもなかったし、オンライン参加も面倒だったけど、妹とのメッセージでは行きたかった自分を演じていた。いや、行きたかったのは事実だよ。義務としてだけど。

 

式の後、新郎新婦とうちの家族が写った集合写真が家族のLineグループに送られてきたんだけど、僕はオンライン参加してた時の自分の画像(ちょっとふざけた顔のやつ)を切り抜いてその集合写真の右上に貼ってそのグループに送っていた。こんなおチャラけて何がしたいんだろうって自分でも思った。

 

妹からは「やれやれ…」って感じのスタンプが貼られ、他の家族からも想定通りの反応があって、僕はそれにとても安心していた。

 

義務を果たした感覚。

構ってちゃん的に仲間外れにされたくない感の演出をしながらわざと呆れられて一石二鳥。なぜ呆れられたいか?そうすれば場が保てるから。僕はある意味しっかりした兄であってはいけないようだ。

 

冷静に考えると、何でこんなひとりひとりの感情を逐一把握して操作してるんだろうって気付いて、つくづくピエロなんだなぁと思った。

役割なのだろう。家庭内での。

 

そういえば妹の夫君は弟より年上と聞いた時も何かざわついた。みんなうまく付き合ってくれればいいのだけど…。は?何で僕がそんなこと気にしてるんだろうか。知ったこっちゃない。ぷんすか。

 

母はずっと苦労人で、父親はめちゃくちゃで、僕は不甲斐ない長男で、5歳下の弟は色々難しい期間が長くあって、7歳下の妹は兄弟で唯一のしっかり屋さんだけど色々難しい真ん中を見下してる部分があったり、プライド高めで気難しい所があったり。

 

いつから僕はこんな手を使ってあの子たちの機嫌を保つことを覚えたのか。全然記憶にない。歳離れてたからそれなりに面倒見は良かったとは思うけど、いつから弟や妹のご機嫌まで窺うようになったのか。なんだか気持ち悪い。今まで無意識にしてたことを急に意識しちゃったからかすごく気持ち悪い。

しかも今頭に蘇ったのが母の「いつも折れてくれてありがとう」って言葉だった。「うわぁ…」ってなってる。僕は結局母に喜ばれたいから諂ってたというのだろうか。だってさぁ、母大変だったしさ、小学生の僕にはそういうことしかできないしさ…これ以上苦労すると救いがないって思ったから。

そう思ったの?わからなくもないけど…気持ち悪。

 

そのチャラけた写真のこと、母だけは真意を何となく察している気がしていた。その理由が分かった気がする。

何で今日のに限ってこんなに気持ち悪いんだろうか。自己嫌悪とは異質の気持ち悪さ。

もう寝なきゃ。ここでやめとこ。

 

 

オチがないんだけどさ、このまま終わるのなんか嫌だから、今日ふと思ったことを書いておこう。

人体で生に一番近いのは皮膚なのかもしれないって思った。骨や肉は生を象徴しないし、むしろ死のメタファーだったりする。内臓だっていくらそれが動いていても、それそのものが見えたらもう生とは切り離される。そんな僕らの身体の一番外側にあって、外界という知覚される世界から一番近くにある皮膚は、生きているものと死んでいるものの区別もその血色や張り、温度なんかから容易にできる部位でもある。そして皮膚は外気から血肉を守ってくれる衣でもある。人体のどの部位もそれなしの生は難しいのだろうけど、皮膚はそれなしで生き得ない一番外側のもの。

そんな皮膚は内外の境界でありながら知覚の最前線であって、能動的である生としても観察される生としても、一番生に近いのは皮膚なのかもって。

どうでもいいけどね。おやすみ!

月 から 尺度 頭 Fleurie - Sirens

丸くてとても綺麗な月。明日は満月らしい。

薄雲が北に向かって流れ、空が忙しなく色々な表情を見せる。波のような薄雲の流れの中、海底に沈む宝石のようだと思えば、一面が晴れて明るい星たちが見えたり、分厚い雲の塊に覆われて薄い部分が丁度眼のようになったり。いくら見ていても見飽きない景色。蚊が多いからあんまり長くじっとしていられないのだけど。

空はいつも、浮かない気持ちの僕の手を引き、より大きなスケールに連れ出してくれる。それがとても心地良い。

童心の頃にこんなスケールの違いなどあっただろうか。いつからこんな小さくて閉塞したところに意識を置くことが当たり前になってしまったのだろう。それすら自分自身が勝手に作り出してる幻想なのかもしれないのに。

 

明日送らなきゃいけない問い合わせとか、定期的に詰まっている仕事とか、いつ再開されるのかもわからない仕事(いっそしなくてもいいとも思う)とか、どの支払いがどうでこうでとか、あの人が何言ってたからどうのとか、更新しなきゃいけないあれやこれとか、控えめに言って生活してるだけで頭がおかしくなりそう。

どれもこれも当たり前になってるけど100年くらい前の感覚で考えればやっぱり頭おかしいと思う。

あれ?おかしいと思うことに合わせようとしておかしくなりそうって至極もっともなのではないだろうか。合わせられない自分がおかしいと思う自分もどこかにいるのに。

いや、合わせられる人はおかしいんじゃなくてただただ凄いと思う。ただ基準って人によって違うじゃん?

なんてことを色々勘案するとやっぱり生まれる時代を間違えたのではないかとも思うけど、そういうのも自分で決めて生まれてきているという人たちもいる。望んだ経験をしてるって。

 

それはそれでこう、なんかロマンチックでいいかなとも思うようにはなったけど、自分に当てはめるとさ、どんだけマゾなんだろうって思っちゃうよね。確かに苦しみなんかから得るものはあるから、無駄ではないのだろうとは思うけど。でもやっぱりもう充分だという意味で楽になりたい。楽になれないのはなぜなのかと問えば状況もそうだけど、それより根本にどこか楽にならないことを選んでいる自分もいるのかもしれない。

楽になろうとすることをエゴだと思いつつ、楽にならないことを選んでいるのもエゴという考え方もよく理解できて、やっぱりいい加減頭をどうにかしなきゃいけないのかもとも思えてきちゃう。どうにかっていうのは別に物理的に破壊しようってことではなくて(それも妥当な解決策だと思えるけど)、いい加減頭にばかり主導権を取られてばかりな現状をどうにかできないかなぁという意味。

いや、より浅く見れば確かに頭が主導権の状態は終わったの。とても辛いプロセスを経て以前なら考えられないほど平和になった。でもその更に奥を覗けば「あれ?やっぱり」と思うようなことが沢山あって。ということを今認識しているということはその部分での変化を求めて進んでいくのだろうけど、でもこれって2度あるということはどこまで続くのか分からないじゃん?

玉ねぎのように一枚一枚配線をいじりながら剥いていくのではないかという謎のイメージが頭に浮かび、それはどこか永劫回帰的だなぁとか意味の分からないことを思った。

 

統合って何を以て統合っていうのだろう。そもそもの人格が自分の中でバラバラになりやすくて、自分の中の自分たちのどれが自分なのか、本当にそれは自分なのかって思いに苛まれたりもするから、一歩踏み誤るとくっつけようとするあまりぐちゃぐちゃになって戻せなくなりそうで怖い。仮に今の意識が内側に閉じ込められて、別の自分と入れ替わって出てこれなくなったらどうなっちゃうんだろうか。

 

なんてことは考えだすと止まらなくなるのでさておき、月を見ながらイメージの中で自転する地球の上に立つ自分を高度2万メートルくらいから俯瞰してみたり、流れる雲はどこに向かうのだろうと、その雲と共に流れゆく地面や変わらぬ星空を眺めたり、ただただ夕焼けの刹那的な美しさに圧倒されたり、そういう時のワクワクしつつも大らかな気持ちというのはやはりいいものだ。頭がおかしくなりそうな尺度にいる自分の実験動物感と比べてみて、例えば大切な人と接するときにどちらの自分で接したいかと考えれば、やはり大きな尺度に身を置く自分の方が自分的にも好みだなぁと思う。

引き戻されずにいられないものか。例えば電気代の支払いがどうのとか考えなきゃいけない時に、って考えるとやっぱり難しい。

切り替え。そんなに器用に生きるのも難しい。比重、距離。これだと思うけれど、それなら今は我慢しなきゃいけないという結論に舞い戻ってしまう。

 

結局いつもこうやって頭でばかり考えて。そういう所を見直そうと思っているはずなのにね。

 

 

これ好き


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この人の歌好きなの多い。奥底からの表現がとても上手な人だと思う。井戸の底で聴くと溶け込みそうなくらい心地いい。

 

そういえば明日は部分月食らしいけど、ここからはぎりぎり見えなさそう。残念。

日本はもう日の入り早いし見えるのかな。

 

これすごいよね。

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ぎっくり首 から 10周年のお題

寝違えた。寝違えというよりぎっくり首的な感じ。

朝起きてトイレに行こうと思って体を持ち上げた時、首から上が付いて来なかったと思った瞬間の激痛。今までも何度かあったので「あーあ、やっちゃったぁ。」って思いながらしばらく悶絶してた。

今回はいつもより酷くて手伝ってもらわないと起き上がれない。でも横になってると寝返り打てないから疲れる。頭が真上に来れば座ったり立っていられるけど、首の可動域が左右8度ずつ、仰角は10度くらい取れるけど俯角が5度くらいしか取れない。

気分は固定砲塔の駆逐戦車。左右を向くのも身体ごと、上下を見る時も腰や膝を使って動くしかない様は超信地旋回と油圧サスペンションで向きを変えるSタンクみたい。痛くてあんなに素早く動けないけど。Sタンク好き。

今日は本当は車で行かなきゃいけないところがあってどうしようかなぁ、運転できるかなぁとか思ってたんだけど、急に行かないでいいことになったのでラッキーだった。昔から変なところツイてる。

 

でも明日は行かなきゃいけないからそれまでには少し可動域が広がるといいなぁ。少し遠回りすれば合流のない道でいけるからゆっくり行こう。車線変更とラウンドアバウトが避けられないのがちょっと怖い。

 

寝転がってても痛くても中々動けない、痒くても掻けない。寝違えでこれだから本当に動けない人は相当辛いんだろうな。床ずれとかあるけど、なった後も勿論辛いだろうけどそれになるまでの過程とか想像するだけで恐ろしい。

 

普通に動けることに感謝しなきゃなぁと体に不自由が起きるたびに思うけど、元気になると忘れちゃうんだよね。

 

最近はストレッチとか体幹トレーニングとかエアロビクスとか色々やってて、腰痛は驚くほど改善してたのだけど、まさかここで首を痛めるとはね。慢心するなということでしょうか。

まぁ早く良くなるといいな。

 

書こうと思ってたことあったんだけどまだ上手く言語化できなそうだから10周年のお題でも書いておこうかな。

 

 

はてなブログ10周年特別お題「はてなブロガーに10の質問

ブログ名もしくはハンドルネームの由来は?

そのまんま。掘り返し、自己消化用ノート。それを詰めてネットの海に供養するメッセージボトル。

 

はてなブログを始めたきっかけは?

実存的危機とかミッドライフクライシスとか魂の暗い夜って呼ばれてるやつ。あの時期は本当に何か外に出さないとだめだった。それは結果的に概念の選り分け、認識のし直しに繋がった。

 

自分で書いたお気に入りの1記事はある?あるならどんな記事?

ない。というか投げっ放しだから何書いたか覚えてないよ。

 

ブログを書きたくなるのはどんなとき?

膿が疼く暗く静かな夜。

 

下書きに保存された記事は何記事? あるならどんなテーマの記事?

半分メモ帳だからいっぱいあるよ。その時浮かんだ思考のシャボン玉。

 

自分の記事を読み返すことはある?

ほぼない。一過性の奔流です。

 

好きなはてなブロガーは?

前バトンにも書いたし…

僕が立ち寄って痕跡残してるブログはみんな好きです。

帰ってこない人多いなぁ。

 

はてなブログに一言メッセージを伝えるなら?

他のサービスより横の繋がりとか生まれづらいと思う。ビジネスだから目に見えてお金になる所を重視するのは当たり前だけど、そればかりだと離れていくユーザーが多くなるのは必然だと思う。

 

10年前は何してた?

ちょうど森に住み始める頃。色々新鮮だった時期。もう10年かぁ。

 

この10年を一言でまとめると?

経験と変容

 

 

 

思ってたよりさらっと終わってしまった。

もう寝る!皆さん良い夢を:)

 

体調不良 から 手 目覚めパニック 知恵の実 幼児への憧れ Slow Meadow - Ghost in the Brazos

先週の後半はお腹の風邪で高熱を出したり蕁麻疹で寝不足だったり。最近体力付いてきたんじゃないかと思った矢先にこれ。ちょっと増えた体重がまた戻ってしまった。油断大敵ということだろうか。でも高熱自体は一日で収まったから身体はしっかり反応してくれてるのだろう。

胃腸にきたせいか全身の蕁麻疹が復活してしまってここ数日はそっちの方が辛い。毎日寝不足だよぅ。昼は出ないのに今はもう出てきてる。眠い時痒いと最悪だよね。蕁麻疹はなぜ夜出るのだろう。

でもこれは何日か経てば治るからもう少しの辛抱。

 

何か書きたいことあったっけな。

うーん…

 

今は珍しくベッド携帯から書いてる。やっぱ打ちづらいなぁ。

時々こうやって仰向けになりながら手を見つめてるの。手って不思議だよね。本当に自分が動かしてるのか分からない。じゃあ誰のものなんだろうって。

 

手を天井に向かって差し出してみるのもよくやる。何なのか分かんないけどその景色が好き。抜け出したそうな感じかな。そのまま誰かが引っ張り上げてくれたら良いなとも思うよね。

何を夢見てるのか。でも夢って言い出すと現実と呼ばれる世界も夢とどこが違うのかよく分からないこともあるし、全部夢みたいなんだよなぁ。そうなったのはいつからだろう。

元々の性質なのか昔色々あった時の物理的に残った後遺症なのかよくわかんない。まぁ今も生きてるし、多くは望まないで良いはずなんだけどね。

 

そういえば寝てる時とかウトウトしてる時に人に近づかれると物凄い反応をしてしまうことがあるんだけど、これは何なのだろうか。軽いパニックで心臓がバックバクになる。

皆なるものかと思ったらどうも違うらしい。

寝込みを襲われたことは覚えてる限りではなかったと思うんだけど…

そういえば寝起きにパニックって小さい子供はあるよね。幼児退行してんのかなぁ。だとしたらいっそ全部幼児に戻してくれないかなぁ。

でも幼児に戻ったらまた徐々に大人にならないといけないのか。それはもういいや。

 

もし仮にアダムとイヴが知恵の実を食べなかったら人類はどうなっていたんだろう。勿論喩えだけど、実際にその形で人類が繁栄できたのならっていう、そんな世界に憧れがある。別に今ほど繁栄してなくてもいいしね。

良くも悪くも文明の在り方も全く違ってくるのだろうけど、そんな人類として生まれたのなら良いも悪いもないのだろうし。

社会性を持った知的生命が善悪や二元的な価値基準に縛られず社会や群れを維持することってできないのだろうか。維持しようとしないで維持される形なら出来そうではあるけど、それは群れありきではないということが前提になる気がする。

ということを思うに社会性を持ちつつ個々に自我がある人間は二本の道を同時に歩んでいるのではないか。片方に寄ろうとすれば片方に引き寄せられる、それでいて徐々に距離が開いていく感じの。だから歩んでいくだけで片方に寄っていくか、さもなくば分裂していく。

 

なんていうのは中身が分裂しかかってる人間がその理由を外側に見出したいがために作り上げる妄想でしかないのだろう。

意識するとあまり良くないものって多分あって、その類のことをしがちなんだろうね。

見なければ無いのだし、見たからといってそれがあるとは限らないのに、一度見てしまうと少なくとも無ではなくなってしまう。

そんなものが積み重なっていくとよく分からなくなってしまうから、だからまっさらな幼児に憧れるんだろう。

無かったことにしたいわけだ。

 

ここまでよく分からないことを書いといてあれだけど、今急にフレッシュネスバーガーのフィッシュバーガーが食べたくなって考えてたことがどうでもよくなった。

あれ好きだったなぁ。急に思い出した。そんなしょっちゅう食べてたわけでもないけどね。

また食べたいなぁ。

 

どうしよう。フィッシュサンド食べたい。近いうちに作ろうかな…

 

そうそう、最近よく聴く曲があるの。とっても好き。パソコンから貼るね!

 


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これすっごい好き。曲名のBrazosは地名みたい。

Slow MeadowはヒューストンのMatt Kiddさんがやってるソロミュージックプロジェクトなんだって。

なんかこう、深海のような磁場のような質量の大きな星のような重さに引っ張られながらもどこか軽やかに揺れる心地良さというのかな。そこに見える光景はどんよりとしているけどとても美しい。

ずっと聴いて浸っていられる。

 

もう2時じゃん。おやすみ!

沈むのが好き から 2速 目標がないこと Life purpose

空深くに落ちていけたらどんな気持ちだろう。雲の向こう側の青い奥底。なんてことを思った。

何でもかんでも奥底が好き。そしてそこに向かう術は浮くのでも飛ぶのでもなく沈み落ちる。

その方が好きだし慣れているということなのだろう。

 

舞い上がり飛んでいく高揚よりは沈みゆく安らぎの方が好きだから。重力に逆らうと疲れるしね。こいついつも疲れてんな。

疲れやすいのは何なんだろうね。過敏とかもまぁそうなんだろうけど、それとは別の慢性的な疲れ。疲れやすいから疲れたくないのか疲れたくないから疲れやすいのか。

 

そういうものだと思うようにはしてるけど、やっぱりこう疲れるよね。周りの速度と合わない的な。そりゃ4速5速で走るのが当たり前の道路を2速で走るわけにはいかないしね。プップーって鳴らされちゃう。でも僕はスクーターなんですよぉ。周りに合わせてたらすぐ壊れちゃうし事故っちゃう。

道路の問題でありそれだけでもない。4車線ぐらいあっても交通量多いとノロノロできないんだよね。数との関係ではいつもそう。それは受け入れるしかない。

そういう意味でも人里離れるしかないじゃん?合わせると危ないし。

トラクターって書こうと思ったけどそんなパワーないからね。

 

別に前に進まなきゃいけないってこともないんだよね。僕は立ち止まるのが好きだし、そうすることで見える景色が好き。進まなくても流れているのだから…

 

そもそも進むって何だろうか。4速5速って。でもそう見える。

目標かな。そこに向かって飛ばしてるように見えるから。

それはすごいことだし羨ましくもある。

まぁレミング的なのも多いのかもしれないけど。

 

羨ましいのは目標があることかな。

僕は自分にとっての目標というものが見つからない。今の所はそういうものなのかなと思うようになった。無い物ねだりしてもしょうがないし、まぁ必要になれば目標も自ずと立つと思う。

 

試しに"quote life without goals"で検索してみると色々出てくる。8割方は目標のない人生についてのネガティブな見方だろうか。でも読んでもなんとも思わないんだよなぁ。

というか結局これらは目標やその達成、それを追うことに価値を見た人たちが残した言葉なわけだしなぁ。

 

“The trouble with not having a goal is that you can spend your life running up and down the field and never score.” —Bill Copeland

僕エンジョイ勢だから無得点でも楽しければいいし

 

“It must be borne in mind that the tragedy of life doesn’t lie in not reaching your goal. The tragedy lies in having no goals to reach.” —Benjamin E. Mays

確かにtragedyでもあるんだけど、tragedyが何も生まないかというとそうでもないじゃん?

 

“You should set goals beyond your reach so you always have something to live for.” —Ted Turner

人参ぶら下げられた馬が頭に浮かぶ(さすがに酷いとは思う)

 

"Without goals, and plans to reach them, you are like a ship that has set sail with no destination." —Fitzhugh Dodson

寧ろあてのない航海とか好き

 

目標、ゴールって考えるとこういう捉え方になるんだけど、それは達成ありきだからかもしれない。だってやりたいことなしに達成も何もないし。

それに計画性がないどころか反計画主義みたいな部分があるからね。なんて言いながら計画計画な自分もどこかに居るという…うぅ…

 

ただ、Life PurposeってなるとGoalやObjectiveに抱くような拒絶感はないんだよね。

Purposeの方が広いからかな。ある意味追うようなものじゃないというか。それがPurposeなら結局は成されるみたいな。それを見ようが見まいが僕自身の主観的な選択より外側にある感じ。そんなもの無いと思っていたところでそう思っていること自体がそれに繋がるかもしれない的な。

 

人生の意味や運命と似てる。人生に意味などないというその人の見方に後々意味が生まれるかもしれない。運命などないという感覚が生まれるのも運命の手中なのかもしれない。そのぐらい寛容で外側にある概念。

 

Life purposeは人生の目的と訳されることが多いけど、目的って言葉だと僕の中ではもっと狭い、GoalとかObjectiveの方がイメージされる。だから人生の目的にしちゃうとなんかしっくりこない。もうちょっとやんわりとした感じの役目とか役割に繋がる意味の方がしっくりくる。これを前提とした目的なら構わないのだけど。

 

やりたいことが見つからないとかさっき書いたけど、見つからないからこそ楽(苦)しんでる部分はあるよね。それこそ何かに衝き動かされる人生は忙しいだろうから、1速2速で走ってられないだろうし。経験、特にその反芻という部分でもとても充実(混沌)している。それこそ何度もその中に身を沈めてる。

それに何だろう、走り過ぎていく人々を見てるのもいいものだよ。一緒に走ってたら見えない見え方もあるしね。

 

人々、人々かぁ。自分と人々、いつもそれだね。