感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

オリンピック から SNSと井戸端会議 実験 Abel Korzeniowski - Melting Waltz 

もうすぐオリンピックなのかぁ。去年は夏一時帰国するつもりでいたから、オリンピックと重なって混んでたらどうしようって思ってたけど、まさか一時帰国する前にオリンピックが開かれることになるとはなぁ。

僕はあんまりスポーツ観戦とかしないからあれなんだけど、折角できるんだし、この時を大切に思ってきた選手の人たちには気持ちよく競技をやって欲しいな。

 

皆色々言いたいことがあるのも分かるし、何かしらに憎悪が湧いてしまう人もいるのだろうけどね。ウイルスだの招致の問題だの建築の問題だの開催方式だのお金の問題だの色々あるみたいだけど、主役はあくまで選手であって競技だと思うし、次は早くても3年後。もう既に1年待っていて、選手生命やコンディションを考えたら次があるかもわからないのだから、その人達が全力を出し切れるのが一番なんじゃないかなって思う。

そのためにも、今は他のことに対する色んな気持ちをぐっと堪えるってことは出来ないのだろうか。

一応平和の祭典ということなのだし、憎悪や妬みや怒りばかりが目立ってしまうのはとても残念なことだと思う。折角この日のために練習してきた人たちも周りがそんな状態で気持ちよく競技に臨めるだろうか。

 

SNSの時代っていうのもあるんだろうな。多数のSNSはとても井戸端会議的だと思う。井戸端会議、噂話。そこにちらつく承認欲求や自己顕示欲、同質性の確認も、継ぎ目が曖昧な社会の中で生きる為には必要なものだったのかもしれないけれど、今はどうなんだろう。そろそろ乗り越えるかリープできてもいいはずなのに、テクノロジーにその部分をいいように取り込まれてしまった感じがある。帰属先の群れが曖昧な個々が一つの場で色んな群れを形成しながら井戸端会議に参加するという、壮大な実験場のよう。人類史を見てもこんなことが今までにあっただろうか。

別にSNS批判をしたいわけじゃなくて、ただあまりにも新しくて壮大だから当たり前になることに僕は不安があるという感じ。

 

分かってて使っているか。その分かっているという部分には色々な捉え方があり、人間はその辺りに結構無頓着な部分があって、でもそれが人類を発展させてきたとも言えるのだろうけど、そろそろ規模が…っていう不安。

インターネットから核、医療、食品、化学、学問、教育、家電、産業、物流、生活圏、結構なんでもそうだと思う。規模的にも速度的にも数的にも。

僕なんか車でさえ人間にはオーバーテクノロジーなような気がしてしまうから、そりゃ不安だし怖いよね。

我ながら人間とは本当に不思議な生き物だと思う。

 

例えばテクノロジーの場合、使い方の問題と言うことも出来るのだけど、その使い方を生きている人間の寿命より長い視点で評価する術がほぼない。演算装置もある今は少し違うのだろうけど、かといって演算も前提がずれていたら結果も全く変わるだろうし。

そういう意味では、発展し続ける文明というものはそれそのものが複合的な実験装置なのではないかという思考に魅入られそうになる。

 

何書いてたっけ。あ、オリンピックだ。

なんかこう、反射的な感情に支配されそうになったら深呼吸してみて、5年間、人によってはそれ以上頑張ってきた選手の顔を思い浮かべてみてはどうだろうか。

その気持ちに報いることは何も、汚職だの政治問題だのある種のイデオロギーだのを肯定することは意味しないと思うよ?

 

はい。

時事問題は色々疲れるからここまで!

 

 

今この曲聴いてる。しゅき!


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またAbel Korzeniowski。このサントラのジャケット画像も好きだなぁ。凄い画像だと思う(致命的な語彙不足)

ペニー・ドレッドフル。観たことないけどちょっと興味ある。もうずっとTVシリーズ系は観てないけど、久々に観てみようかな。

 

Melting Waltz。人生って仮面舞踏会みたいだよね。なんてことをよく思っていて、この曲を聴いてるとその中で身を揺らしているような感覚がする。曲が終わって舞台を降りたらみんな仮面を取るのだろうか。

身体のこと バスタオル枕、腹巻、運動、それと不調 Philip Wesley - Dark Night of the Soul

枕の代わりに畳んだバスタオル使うようになってから、朝起きた時に首が痛いことがなくなった。首の所に熱もあんまり持たないし快適ですね。

首が痛くなってたのはやっぱり枕が合ってなかったのだろう。僕には低いのが合うみたい。20年早く気付きたかったよ。

取りあえずバスタオルで不自由してないから当面このままでいい。ただちょっと小さいからもう少し大きいバスタオルにしようかな。

バスタオル、自分で調整できて色んな高さも試せるからおすすめだよ!

 

あと腹巻もおすすめ。熱帯は夜も浅い時間はそれなりに暑いから上半身何も着ないで寝たりするんだけど、夜中は意外と冷えるのでブランケットかけ忘れるとお腹冷えちゃうんですよ。

5年ぐらい前かな。上半身裸に腹巻を試してみたら凄く良かったんですよね。涼しくて寝付きやすいしお腹冷えないし。

僕昔からお腹下しやすかったんだけど、腹巻を使うようになってから下痢することが殆んどなくなった。食事が変わったのもあると思うけど、腹巻効果も絶大。だって腹巻忘れるとやっぱりお腹下したりするから。日本に帰った時は服着て寝てるけど腹巻も着けるようになった。

こっちでJAPANESE HARAMAKIとかいって売れないかなとか考えたりもする。中華系もお腹冷やすの嫌うから漢方薬屋に売り込めば意外と売れるんじゃないだろうか。考えるだけで実行しないやつ。行動力が欲しい。

 

あとは健康関連の話題だと、背筋伸ばした姿勢が大分維持できるようになった。意識してれば坐骨立てて座っていられる。股関節も前より大分柔らかくなっていい感じです。今はまだ辛いけど一応女の子座りの体勢も出来るようになった。まだ膝に負担かかるからあんまり長くできないけど。ピラティスいいよ!

 

体重もここ数年で一番増えてて筋肉もちょっとついたかな。これは半分ステイホームの影響。運動が減ったのもあるし、食べ物が近いのもあるし、何よりストレスが少ないのは大きいのかもしれない。毎度ストレスで結構ダイレクトに体重減るから…そうだよね。体重増えないわけじゃなくて、感染症やらストレスで落ちるから結果的に中々増えないんだよね。

60kgは難しくても55kgまでいったらその辺りは維持したいな。

 

運動は筋トレとかストレッチ、時々ジョギングをやってる。

筋トレは2日に1回を努力目標にしてるけど大体3,4日に一回になっちゃう。キツいのは苦手(甘え)。ストレッチは気持ち良さがあるから結構毎日できるんだけど…

 

そうそう、この前YouTubeでエアロビ動画見ながら体動かしてみたら終わった後も気分が良くて、やっぱり有酸素運動はいいなぁと思った。ジョギングと違って全身使うのがいい感じ。音楽やインストラクターに合わせて体動かすのは楽しいし、色んな動きがあるから身体感覚を維持するのにもいいかなぁと思う。森の中歩いたりするから持久力は特に大切にしたいしね。

ということでエアロビは取り入れたい。傍から見たら中々滑稽な光景だと思うけど。

 

それとお散歩も毎日してるけど、これは運動というより頭の整理だと思う。僕にとっては特に大切な時間。

 

あとは不調。

これは前にも書いたけど、下の調子がちょっと良くない。残尿感とかおしっこの出が悪いとか。多分前立腺なんだけど、これはしょうがない面もあるのかなぁと思う。30過ぎると症状が出始める人が居るってことで。僕の場合は数年前のレプトスピローシスの感染症も影響してるかも。もろ泌尿器にきてたし、それからというもの体調悪くなると残尿感があったし。免疫が弱まると残党が反乱でも起こしてるのだろうか。

 

前立腺は男性機能の一部ということで射精が大事ともいうけれど、中々ね…ノルマ課して義務感で一人でするにしても気分が乗らなきゃ「何やってんだろう…」ってなっちゃうし。そう、多分気分の問題。

夜って大体メランコリーモードなんだけど、そういう時って全然性欲が湧かない。でも僕はこのモードが好きなんですよね。特にこうやって夜の一人で静かに過ごせる時間はこのモードがとても落ち着くし、この状態に浸る以外に時間を使うのがもったいなく感じてしまう。それで結局明日やろうやっぱりまた明日でいいやが続き、朝は朝でギリギリまで寝ていたいしでどんどん後回しに…

 

抑鬱と性衝動の低下については色んな記事がある。でも大体そういう記事って「だから抑鬱を治しましょう」ってスタンスなんですよね。それってなんか僕にとっては違う。

何ていうのかな、某自堕落小説家が酒は身体に悪いと言われ「酒を飲まなければ、薬を飲むことになるが、いいか」って言ったとされてるように、その状態は僕にとって前提のようなものだから。そういう頑なさがあってね。

 

抑鬱とリビドーは共存できないのだろうか。難しいかな。せめて時間をずらして交代制にしたらいいのかな。

リビドーとかそういうのって情熱的なエネルギーが必要だと思うんだけど、どうしたら情熱は湧くんだろう。フラメンコでも踊ればいい?

 

冗談はさておき、オナ禁、所謂自慰の禁欲をするとどうこうとかって時折目にするけど、生殖機能って他の哺乳類でも使わないとダメになったりするの見るから極端なのはどうなんだろうなぁって思う。別に禁欲を否定するわけじゃないけど、折角欲動があるならまずはそれに感謝して、楽しめるうちに楽しんどけばいいのに…なんて言うともう諦めたおじいちゃんみたいじゃん。まだ諦めてないよ?精力増進のツボとか押してみたりしてるし…

 

そうそう、不調といえば手もちょっと痛い。マウス持つと親指の腹側が痛かったりするんだけどこれは何なんだろう。親指だけじゃなくて全体的に痛みがあるかな。

これからこういうの段々増えてくのかなぁ。別に若返りたいとは思わないけど不調はやーね。

 

姿勢や体調的には今までより寧ろ良くなってるはずだから、習慣的に体動かすようにして抵抗していこうと思う。

 

今夜はPhilip WesleyのDark Night of the Soulを聴いてる。この2曲が特に好き!


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Dark Night of the Soulというアルバム名。とても縁がある言葉。今とても穏やかな気持ちでこの曲に浸れるのもそれのおかげだと思うし、やはり感謝の念が湧く。何に対してなのか分からないけど。

今暫く夜に居たい。

最近の失敗 から ズレに対する不安 複数相手の苦手意識

先日Zoomでお話する機会をもらったんだけど納得いかない内容になってしまった…

 

準備不足と想定不足。

いつももっと軽いノリだから軽くていいやって思って軽めに準備したら、なんかみんないつもと違って真面目モードだし、想定してなかった人たちが来るし…

オンラインだから普段の集まりなんかに来れないような人まで来れちゃう。オンラインミーティングの怖い所。それは想定しとくべきだった。

 

スライドに合わせてメモ用意して話してたんだけど、その普段は来ない人達には言えないような内容満載で、話しながら横目にチェックしてヤバそうなのは飛ばしながらって感じで話してたら自分が何話してるかわかんなくなっちゃった。こいつ何言いたいんだろう状態だったと思う。

 

偉い人だから日和ったとかじゃないよ?その人達のステータス的なのは割と僕にとってはどうでもよくて、でもこう何か思いを込めて活動してる人たちだから、そこにマイナスに働くようなことはなかなか言えないじゃん?事業のことを思えば本人は寧ろ批判的なことも言って欲しいのかもしれないけど、そんなのオンラインじゃわかんないよぅ。ちょっと誤解されたら喧嘩売ってるようにしか聞こえない内容だろうし。何この恐れ。

誤解に対する恐れ?傷つけることへの恐れ?関係悪化の恐れ?

だってさぁ、普段会わない人達だし、ただでさえ違う国に住んでるわけで、釈明するにも難易度がね。近くても釈明なんてしないだろうけど。めんどくさ。

 

オンラインでお話するって難しいよね。特に聞きに来てくれる人が変動するような場だと誰を対象に話せばいいのかわかんなくなっちゃう。先に対象絞っちゃえば良かったのかな?今日はこういう人たち向けの話ですって。いやでも僕はその人達が来ない想定の下ちょっと踏み込んだ話を用意してたわけで、それはちょっと違う気がする。

折角来てくれたのにガッカリさせちゃったかなっていうのが残ってる。知ったこっちゃないはずなのに。それは伝えたいことをセーブした結果のことであって。だってちゃんと伝えてそれでがっかりされるならしょうがないもんね。

 

講演なんかもそうだけど一方的な場だもんね。あんまり来場者の顔色見過ぎるのもどうかって話だし、オンラインであれば尚更崩れた状態で聞いてるわけだから。僕だってカメラ切って別のことしながら聞いてる時あるし。相手の顔が映るのが良くない(責任転嫁)

 

僕はそもそも人のまとまりに向かってお話するの苦手なんだった。だから以前は対話形式の時間を長くしてもらったりしてた。対話形式なら一対一の会話を周りが聞くって感じだから大分楽。

 

まとまりに向かって話すのが苦手なのは何を話していいかわからなくて、それは皆が何を聞きたいかが分からないからで、そこに僕の漠然とした不安があるからだろう。多くの人とは感覚がズレている部分があると思い知らされながら生きてきたから、そういう部分で失敗とまではいかないものの色々重なってきたものなのだろう。小中学校とか正にそうだったし。

 

この前プロレスラーのエル・サムライが出る動画をYoutubeで見ててね、今選手を教えてるのか?という質問に対して「やってないです。」「どうやって教えたらいいかわかんない。」って言ってて、凄く共感したのを覚えてる。本人は素晴らしい動きをする選手だったけど、だからってそれを人に教えられるわけじゃない。

教えるっていうのは本当に難しいことだと思う。

 

わかんないんだよね。

その人(達)が何が分からないか、何を知りたいかを汲むっていうのは実は凄く苦手。対面だと結構汲めるっていうのは、既にその人を知っているからで、合わない人とはそこまでの仲に進まないっていうのもあるし、そうでない人の場合は表情やらその前の言動やらで先回りして相手が今何を考えてるかを推測してるからで(だから疲れるんだろう)、結局はこれも苦手意識からくるものなんだと思う。

 

でね、お話ってたとえテーマに沿って話すにしても、相手が何に興味持ってるかとか、どこが疑問なのかとか、聞きに来る動機が分からないと何話していいかわかんないじゃん?

現場の浅い部分での紹介ってだけならいいけど、僕に振られたからには僕の見たものを話さなきゃいけないわけで、でも僕の抱いてる疑問や問題や実情っていうのはそのまま話しても伝わらないし、だから聞きにくる人達が何を求めるかという推測に擦り合わせるわけだ。で、要するに僕の不安というのは僕のその主観的な推測がズレていることに対するものなわけですよね。確かにそう。

 

でも相手が複数いてグループ分けしても複数の集団になる場合はどれを見ればいいか分からなくなっちゃうし、一人一人の顔が映ればどの顔を見ればいいかわかんなくなっちゃうっていうのもある。そもそも見ないというのも選択肢なのだろうけど、そんな何十分も話してるとやっぱりどんどん不安が積もってくわけですよね。

ズレたこと話してるんじゃないかという不安。それが3分ならいいけど20分30分もズレたこと話してたらどうしようって不安になって、やっぱり顔を確かめたくなっちゃう。チキンだから顔色覗いすぎなんだよね。

いや、でも顔色覗わないと分かんないじゃん。全然違うこと話してるかもしれないし(堂々巡り)

 

・相手の感覚がわからない

・感覚、意識のズレに対する不安

・ズレ故に踏み躙ってしまうことに対する恐怖

 

それらに対して一対一の場面では何とか対処してきたけれど、集団に対しては難しいっていう所がまた僕が数多く抱く集団に対しての苦手意識の内の一要素になってるのかなぁと今思った。

この辺りはもっと掘り下げられそう。

 

今回良かったからって来月も頼まれてるんだけど断りたさも半分くらい。

良かったって言われてもあなたの感想ですよねとしか…いや、それは嬉しいんだけど、多くの人がそうだったとは限らないわけだし、大体主催者の意図は汲んでるから主催者に良かったと言われるのは分かっていて…主催者の感覚こそ他の人とズレてるかもしれないし。大体同じテーマを来月もって飽きるじゃん?そうね、不安なんだよね。わかる。

やるならいっそ前もって何聞きたいかアンケートとってもらおうかな。僕は通常の講演みたいなのは無理だって意識した上で、姑息でもいいから対処法考えていった方が良いかもしれない。

 

参加者が何を知りたいのか、聞きたいのかもそうなんだけど、それに右往左往し過ぎてで自分が何を伝えたいかが迷子になってしまうのが一番嫌なのかもしれない。

もうわけわかんないね。

 

いつもこういう機会があると思うんだけど、やっぱり隠遁したい。

友人の心配 投影的な否定 

暫く会っていない友人、一応今もTwitterやFBで繋がっているんだけど、最近はとても熱心にワクチン啓発をしている。啓発っていうより半分反対する人達への糾弾になってる。

この人は何年か前にお父さんをガンで亡くしているのだけど、そのお父さんが民間療法に頼って改善せずに亡くなられた頃から主流医療の肯定、代替医療の否定にとても熱心だ。

 

なんて言うんだろう。僕は人が何を発信しようがいいと思うし、人がどんな医療なり健康法なりを選択するのかもその人次第でいいと思う。ワクチンもみんな好きにすればいいと思うし、ガンの治療や療養もどれでも好きに選べばいいと思う。

 

ただこの人の発信(信念)はとても強い感情に促されているような気がして、疲れないかなとか色々心配になる。肯定と否定、一見すると父を奪った代替医療への恨み(という主観)がそうさせているように見えるけど、その人の言葉にはもっと違うものが混ざってる。

 

多分なんだけど、その人はお父さんの闘病中から民間療法には懐疑的だったそう(本人談)だけど、それを上手く伝えられなかった、父親の気持ちを変えることができなかった自分を否定し、見ないようにするために主流医療を肯定している感じがする。

その傍ら代替医療に対して疑念を持っていた自分だけを肯定してこの数年間大きくしてきたというのかな。

その人の中で医療に関する善悪観が育つ過程で自分自身が飲み込まれてしまっているように見える。

 

だからいかに論理だけを信じているような態度を取っていても、論理的に肯定し論理的に否定しているつもりになっていても、善意に衝き動かされているとしても、それが滲み出ている。

極端に言えば彼女が根源的に否定しているのは代替医療や非論理や主流に対する反流ではなく、自分自身というのかな。それはそうでない自分自身を肯定し自己を守るためであって。それってとても辛いことだと思う。そうではない自分で在ることを自分自身に強いているわけだから。

 

こういう否定、自己肯定のための外側の否定はとてもよく見られるものだと思う。特にSNSが浸透した現代では。だからTwitterが辛いのもあるんだろうな。数あるSNSでも特に色んなものが混ざってる場だと思う。気軽さ故なのだろうか。

あれだ。『チクチク善意』と名付けよう。皆も使っていいよ!

 

冗談はさておき、もう一つ気になるのは、その人は「父との関わりは殆どなかった」「父のことは病気の頃から全然気にかけていない」という風に言っていたこと。でも会話でもお父さんは時折出てくるし、その人が選ぶ行動、見る映画や足を運ぶ場所は何かとお父さん(の記憶)が絡んでいる。

最近は父親が死ぬドラマを見たことを発信していたし、その夜に父の夢を見たとも書いていた。本当に気にかけていないのならば、傍から見てこんなにお父さんが出てくることはないと思う。

 

それと、その人が以前お父さんの生前のお仕事を肯定的に捉えていることを開示した時もそうなんだけど、お父さん関連のことを肯定的に話す時は必ず自分とお父さんの関係の否定から入る。

親子関係が良くなかったそうで、酔っては幼少期の辛いことを話していたからとっても辛かったのだろうし、お父さんとも関わりが少なかったのだろうけど、僕の主観では気にかけていないというより愛着を拗らせているように見えてしまう。勿論こんなこと本人に言えなかったのだけど…

毎度僕が感じるのが「本当にこの人はお父さんのこと好きなんだなぁ」で、その人の中での『お父さんと自分』の比重はとても大きいように感じる。こんなこと言ったら「は?」って怒られそうだけど 笑

 

僕も自分の父親に対して、今の自分から見ればいい思い出がないし、恨みもしていたからその人の気持ちは何となくわかる気がする。

でも割と最近になって(去年だったかな?)、子供の頃の自分は彼の主観として父親を恨んでいないどころか… ということに気付いたのと、あんまり恨んだり否定したりすると当時の自分、彼までひとまとめに否定され抑圧されるんだなぁと思った。

今僕は子供の頃の主観を彼と書いた。当時の『僕』とはやはりまだ書けない… これは一つのテーマだと思う。

感情というのは単純だからこそ複雑な頭や記憶が絡み難しくなるのかもしれない。

 

まぁ、そんなこんながあるからその人の中に無意識に自分を見てしまって悲痛が見えてしまうというのもあるとは思うんだけど、でもやっぱり心配。

僕はその人の子供時代を知らないけれど、きっと今その子は閉じ込められている。その人の内側で過去の自分と現在の自分のぐちゃぐちゃが見えるような気がして辛い。

 

あれ、これはその人の問題なのだろうか?僕の問題なのだろうか?うーん。

 

これって自然に抜け出せるプロセスなのかな?人によっては抜け出さないでも幸せに過ごせるのかな。

その人は客観的に見れば辛がってはいない(酒を飲めば泣くだろうし、内側でどう感じているかは知らないけれど)。僕と違って普段はしっかりした人だし。たとえ実際に子供時代の自分や、父が好きでもっと一緒に過ごしたかったけどそう言えなかった自分を抑圧していたとしても、多くの人たちのようにそれを糧と言って生きていければそれでいいのかもしれない。どの生き方が合うかは人それぞれだろうし。

 

でもなんなんだろう。うーん…

このまま見ていていいのか凄く落ち着かない。同情ではない。何かこう、耐えがたい否定の辛さ。

なんかこう、エスカレートしているように見える。

 

本人が内面に向き合おうとしていなければ伝えても意味がないし、中途半端に伝えてもただ辛くしてしまうかもしれない。

 

でも向き合おうとしていないわけではないのかな。それを必死に否定している姿とどうにか表に出たい気持ちが見える行動となって、出来上がった彼女の言動は実にちぐはぐしているから、それがとても辛く見える。実際の所、本人は辛くはなく、そして辛いのだと思う。目を逸らしたく、でもどこかで聞こえているのだろう。

 

またそのうち会うのだろうけど、僕はどのその人を見て振舞えばいいのだろう?

 

見て見ぬふりをするにはとても耐えがたく、伝えるにはどうしても言葉が足りない。

孤独 から ”Ritorno - Egor Grushin"

“Loneliness does not come from having no people about one, but from being unable to communicate the things that seem important to oneself, or from holding certain views which others find inadmissible.”
― Carl Gustav Jung  "Memories, Dreams, Reflections"

 

そうだよなぁと思うんだけど、その自分にとって大切なものっていうのが深めれば深めるほどどんどん共有が難しくなっていくっていうのは結構一般的なことなのかなって思う。共有に対する努力不足とかそういう話ではなく、大切であればあるほど言語化の部分で妥協も難しくなるわけだし、ある意味頑なになるのも仕方ないと思う。人によって見え方も捉え方も考え方も違う中では尚更だ。

人は生きている限り孤独なだけでなく、孤独を深めていくものなのではないだろうか。

 

僕は人との出会いには恵まれててもいつも孤独だったし今もそう。そんな自分に自己嫌悪を抱くこともあった。周りは良くしてくれるのに孤独を感じる自分に仄かな罪悪感を持っていた。

それが楽になったのは孤独が当たり前という認識に変わってからだろうか。孤独の辛さ自体は時折あるけど、それも心地よさが混じるようになった。

広大な宇宙にポツリと浮かぶ惑星の気持ち。寂しいからこそ聞こえる歌もあるのだし、その寂しさがどこかの誰かが感じたものと似ていると思えば温かさもある。

 

孤独に対する罪の意識は遡ればやはり学校にあったと思う。仲間意識、社会性を育むために孤独は間接的に否定される。「一人で抱え込まないように友達には手を差し伸べましょう」こういったものが善意で溢れた意識で導入されていく。

それを人一倍真に受ければ知らず知らずの内に自分の内側にも根を張るということなのだろう。

 

学校教育にも孤独を受容する度量があってもいいのではないだろうか。つまりは集団を離れることの肯定。集団、社会性をより自由に捉えてもいいと思う。どのみちヒトは社会性を持っているのだから、そんなにまで孤独に怯える必要もないはずだ。怯える?まぁ、怯えてなきゃ強制はしないだろうし… 強制せずとも人が人の繋がりを遮断するとは思わない。でも強制すれば色々と拗れるものだ。

 

本当に仲間なのであれば、その人の孤独もその人と受け入れられるはずなのに、そうでないということはその程度のものであり、その程度のものになってしまうのではないだろうか。だから生き辛さだけが残ってしまう。っていうのは言い過ぎだと思うけど、一因としてね。

「友達を沢山作りましょう」から生まれる友達がいっぱいいなきゃいけないような感覚。「みんなと仲良くしましょう」から抑圧される嫌な友達を嫌と感じる自分。そんな悪意のない刷り込みから副作用的に生まれ、深い部分に残る思い込みはいくらでもある。

 

人間とは本当に不便な生き物だと思う。それが作るシステムもまた。いや、システム故なのだろうか。

あちらを立てればこちらが立たない。どうしてなのだろう。立たないからこそ発展があるのかもしれないけれど、だから僕はそれが嫌い。

 

 

明るい内容にしようと思ったのに。いや、明るいよね。嫌いという意思表示なのだし(暴論)

先週は元気なかったけど今週は元気!なんかこう、明るい話題で終わらせたいな。

 

そうそう、最近よく聴く曲があってね、凄く良いの。


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これもっと流行ってもいいと思う。

 

Ritorno - Egor Grushin

1. Chronos

2. Run (feat. Endless Melancholy)

3. Chimeras (feat. Endless Melancholy)

4. Harmony

5. Rise

6. Ritorno

 

Egor Grushinさんはウクライナの人らしい。

どのトラックもしゅきしゅき!ってなるけど、特に1. Chronosと3. Chimerasが好き。

通しで聴いてもとってもいいです。

部分で見ると悲愴、混沌、憂鬱さが目立つけど、全体を通すと普遍、希望、安心を感じる 。一見相反する広狭の主観が生む相乗的な世界。より広く見たメランコリーというか、それが僕は好きなのだと思う。こう見えて僕は基本的には楽観的だから。

 

Ritorno' is a new album by the Ukrainian composer and pianist Egor Grushin, consisting of 6 instrumental pieces, which revolve around epic piano and strings parts. Six compositions on 'Ritorno' - six steps from the past to the future. All that is needed in order to defeat the remains of the Old and get ready for the Future.

 

"As CHRONOS keeps turning the Zodiac Wheel

We RUN to live & alter

Leave our CHIMERAS behind

Feel the HARMONY of the universe

RISE up from the shadows of the past to the future light

RITORNO - inizio del nuovo viaggio"

 

https://hiddenvibes.bandcamp.com/album/ritorno

 

最後のトラックのRitornoはイタリア語で『戻る』とか『帰る』って意味みたい。そしてそれはこのトラックでは新しい旅の始まりを意味するんだって。

アルバムを通して6曲が過去から未来へのステップになってるそう。その全てのステップが古の残りを打ち倒すためのもので、そしてそれは未来に向けた準備なんだって。

そりゃ好きと感じるわけだよなぁと思った。

 

でもどうやって立ち上がるんだろう。 秀逸な自虐オチ(自画自賛)

精神的にどん底な週末 "Table for Two"

ここ数日超久々にどん底感。何だか知らないけど感情がぐちゃぐちゃでやりたいことが手につかず、疲れて横になってると寝てしまい、しかも変な夢を見てのループを繰り返し遂に土曜の夜になってしまった。なんだろうこれ。あ、ご飯はちゃんと食べてるよ。

新月のせいかな。

「月が暗かったから(適当)」などと意味不明なを供述しており…

それ以前に雨降ってるけど。

 

今日はイライラが酷かった。プンスカしちゃいそうになる感じ。普段あんまりイライラしないせいか余計に振り回された。今は起きたばかりで大分和らいでるけど、まだ視界がいつもより眩しい。過覚醒状態なのかな。眠れるからまだいいけど。

でもなんでだろう。別に変なストレス受けてないんだけど…いや、ストレスはいっぱい抱えてるよ?内にも外にも。でもここ数日に特別なストレスは特になかったと思う。

うーん…

 

まぁいいや。何か書いてみようかな。

 

やっぱり書けない。うぅ…

 

やたらと短いから音楽貼り逃げしとく


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これ大好き。この人の作った曲好きなのが多い。Abel Korzeniowskiってポーランドの人だったんだ。今知った。ポーランド、いつか行ってみたいんだよなぁ。ウイングハサーの国ですよ。穀倉地帯行ってみたいし、中世の街並みも見てみたい。

オーストリア、ハンガリー、スロバキア、ウクライナ辺りも行ってみたい。民族、文化の境目、時代ごとに残された痕跡そういったものを見て触れられるのが旅の醍醐味だけど、気が済むまで見て回ってたら何年もかかりそう。そもそも行ってみたい場所が多すぎる割に腰が重すぎるという問題。

なんだ書けるじゃん。音楽のおかげかな。まぁでも今日はこの辺で…

 

誰かが作ったループ版もあるよ!普通にループ再生すればいいとも思うけど。


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では皆さん良い日曜日を!

「疲れた」と人 夢のこと 『赤い砂漠』

最近あんまり書いてなかった。書くならゆっくり一人の時間に書きたくて、でもその時間は眠いみたいな。

今はまたこちらはロックダウンだから収入のこと考えないといけないんだけど、中々…お仕事行かなくていいのはいいんだけどね。

何書こうかな。思い浮かぶものはあるんだけど突き詰める気力が足りない。そうなんだー。でもいつもそうかも。

 

そうそう、最近映画あんまり観てなかったんだけどこの前久々に観た。20代までは映画大好きだったんだけど、最近はなんかこう観る前に疲れることを予感してしまうというか…映画ってハマると凄く感動するし色んなものを得るけど、特に初めて観る映画はやっぱり消耗も激しい気がする。気力使うし集中力も要るし情報量多いし。

それを先に予感しちゃって億劫みたいな。

まぁでも新しいものに触れるってことは大体そういうもので、これが過度になるとおじいちゃんになっちゃいそうと思うね。

 

多分興味がまだ内向きっていうのもあるんだよね。いや、ちょっと違うかな。外で得たものを使って内側を掘ってたけど、前ほど狂気的に内側を掘ろうという段階ではないっていうのもあるのかな。今はただ井戸の中に浸ってる感じ。

その内また別の形で興味も外に向くだろうとは思うんだけど、あんまり長いとやっぱり不安になる。今は外側にあんまり価値が見えない。疲れた。疲れた?うーん。

いつも疲れてるけどその疲れじゃなくてなんかこう、生き方の問題なのかな。外側の色んなものを見て浮かぶのがもう疲れた的な。結局そこ?というかそこまで色んな事に関わった訳でもないじゃん?でも色んな景色は見たいな。そうだ、疲れたって感覚の時に浮かぶ景色にはいつも人がいる。人、社会、国、文明。忙しいんだよなぁ。

景色、自然とその中のstillnessっていうか、その雄大な速度の中なら疲れない。それは多分その静寂が自分の中のそれと重なっているからだと思う。人々の中は忙しいし、ある程度合わせなければならないし、合わせれば揺れるし、その辺りが難しいんだろうね。

社会も人々も見るだけで疲れたって感じるのは、結局のところ実際疲れたからなんだろうか。関わってないところも結局、人々との関係という意味では同じことなのだろう。別に人嫌いって訳じゃないよ?1対1なら煩わしさは少ないし…複数いると巻き込まれるから。巻き込まれるとはまた被害妄想じみたものが出てきたけど、まぁでもそうなっちゃうんだよなぁ。例えばどんなに嫌な人でも、どんなに合わない人でも、真に1対1であるならそんなに嫌な相手にはならないはずなのにとは思う。有り得ない仮定だよね。でも本当にそう思う。だってみんな他との関わりの中に生きてるから僕にとって嫌なことをしてくるわけで、それが無ければその行動をする意味もなくなる。極論を言えば嫌な人などいない。と思いたいだけなのかもしれないけど。

何でこんな面倒くさいんだろう。

 

まぁぼちぼちやっていこう…

 

そういえば昨日高校時代の奴らが出る夢を見た。思い出したくもないんだけどね。

一番印象に残ってるシーンがあってね。タイマンという意味の分からない闘いをやらされることがあって、あの頃は何度かそいつに腕ひしぎ逆十字固めをやられたの。僕はほぼ無抵抗だった。体格差もあるし、ちゃんとやったところでどうなるわけじゃないし。ほんのちょっと大げさにダメージを受けることで早く終わるから、そのことばかり考えてた。って言ってもボロボロだけど。彼もやらされる側だったけど、その時ばかりは楽しそうだった。人間そういうものだし、僕も体格が勝っていればそうだったかもしれないし、何も言うことは無いけれど。

腕ひしぎって本当に痛い。若干、今でも肘が変。腕立て伏せが上手くできなかったりね。柔らかくなかったらもっと傷めてたと思う。

 

で、夢に見たのもその腕ひしぎの場面なんだけど、かけてる方が僕でかけられてるのが彼だった。容姿はなんか違ったけど感覚はあいつだった。夢の中で復讐するなよって話だけど、ただその夢の感触としては別に復讐って訳でもなく、自然と、慣れた感じでやってた。恐ろしいって思ったねぇ。その自然な感じが。僕も相手を傷めつけて喜んじゃうような部分があるんだろうなぁ。

別にオチもなく、あとはもう一人の顔がはっきり残ってるくらいだろうか。別にもう憎んでもいないけど、思い出して気分のいい顔じゃないね。

 

あとなんか書くことあったかな。

あ、映画観たこと書いて観た映画のこと書いてないっていうね。1964年の『赤い砂漠』っていう映画。イタリアとフランスの合作らしい。事故のショックで不安定になった女性、ジュリアナを中心にした話。主演のモニカ・ヴィッティが時折見せる不安に支配される演技も、映像も現実の薄さやズレを引き立てるようでとてもマッチしていて、終始感情移入してしまうような内容だった。工場のうつらうつらとした景色もなんかこう、親近感。

 

彼女が経験している不安は主に言動として外から(+音)しか描かれていないけど、本当に何かを見ている、支配されているというのが伝わってくる。特に息子が立てなくなったと思い込むシーンは引きずり込まれるようだった。時折起こる成り立たない会話もいい感じ。

 

ところでamazonにあるこの映画のDVDの商品説明

商品の説明
内容(「Oricon」データベースより)
心の乾きを癒すために不倫に走る女の姿をとおして、人間の孤独と闇を描いたドラマ。モニカ・ビッティ、カルロ・キオネッティほか出演。

これいくらなんでも適当過ぎるのではないか。

神経症の不安から逃れるために結果的に不倫になりかけただけで、心の乾きはあんまり関係ないと思う。不倫に走るっていう部分も別にそういうわけではなく、そこにいたコラードとの関係の中に安心というか、それに対する期待を見出しただけで、ジュリアナが不倫に走る女っていうのは全然違うと思う。彼女にそんな余裕はなかった。多少の男女関係を意識して近づいていたのはコラードの方に見えた。

いずれにせよ、彼女の不安による存在の揺らぎがなければ進展するような関係ではなかったと思う。それをすっ飛ばして人間の孤独と闇っていうのもちょっと…

 

 

はい。そんな感じ。

いい映画だと思います。

改めてこう、人それぞれの経験と現実の乖離というか、そういうものを考えさせられる。… 改めてじゃないね。それが見たくてこの映画を観たんだもんね。不安、恐れ、孤独、そういったものと現実の境界ってどこにあるんだろう?だからそもそも現実というのは何なのだろうか。主観的な現実では境界なんてないのかもしれない。客観的な現実は存在するの?

 

 

書きながら聴いてたやつ


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これ色々浮かびやすいかも。