感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

月食 から 構図 感覚と頭

月食見えた―。わーい!ブラッドムーン、いわゆる皆既月食の状態は間に合わなかったけど嬉しい。結構長い時間探してたんだけど建物に隠れてたのと灯りが多いので見つけるのに時間がかかった。

 

写真はあんまりうまく撮れなかった。三脚がないのもあるんだけど、月食って陰になってるところがメインなんですよね。それがなんだか抜けてたんだと思う。陰になってるところを写すには露出上げないといけないんだけど、既に皆既は過ぎてたからそうすると太陽光が当たってる部分が明るくなりすぎてなんか嫌で(見え方が肉眼から大きくずれるのが嫌)。そうこうしてる内に太陽光が当たってる部分に意識が向いた写真撮ってた。

そういう時ってどうしたらいいんだろう。ちょっと勉強しないとだめだなぁと思った。

 

それでね、さっきちょっと眠くて脳死状態の中クロップや微調整してみてたんだけどね。

 

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いじった後に気づいたんだけど、あれ、これじゃ三日月じゃん?って。位置の話ね。陰の部分が上手く撮れてないことは置いといてね!

 

月食ってことを意識するなら

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大体このぐらいの位置の方がいいかなって。

上の写真が三日月になっちゃうのは光の当たってる部分を意識するあまり

       月

   ↗自分

太陽 

みたいなイメージで切り取った位置関係になってる。 

でも月食ってイメージならバーンと月をど真ん中に据えるか、陰が真ん中あたりにくるように若干ずらす方が月食っぽい。

 

こういうのもいいのかも。

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これは地球の影をイメージしてみたよ!見えない球体をメインに月はわき役。これも月食の見方の一つだと思う。右上に数十分前の月を貼り付けた加工写真も表現としてはいいのかなって思った。

 

何年か前までは撮った動物や鳥の写真を時々fbに上げたりしてたんだけど、構図が上手いねって褒められたことがあった(えっへん!)。ただ感覚的にこの辺がいいなって感じで写真を撮るんだけど、よくよく考えると「この辺がいいな」っていう納まりというか映えというか、安心感というか、それらを生んでるのは、被写体の目線や姿勢、周りの構造物や背景とのバランス、そういうものを全体的に見た時の感覚なんだなって今思った。

だから写真を見るとその人がファインダーの内外に何を意識している(無意識でも)のかがわかる気がするのだろう。

何年も写真撮ってたのに今更当たり前のことに気付いた(繋がった?)感じ。

 

それは何て言うんだろう、例えば写真で意識的に表現をするなら頭を介入させることで表現の幅が広がったり、昇華させることができる余地があるってことだと思う。

 

月、太陽、地球、光、陰、地球の影、動き、そして自分。月を見ていた時、見ているものには意識せずともこれだけの要素があって、多分もっとあるんだけど、僕らはその中の単体もしくは複合で景色を見ている。意識できれば何にフォーカスするかで視点を切り替えることができるし、構図も調整することもできる。

でも感覚的にやってる時ってそれがずっぽ抜けてる。コンディションがいい時は凄くいいものが見えてたりするんだけど、意識的な部分がないから後になって「全然違うじゃん」っていう今日みたいなことがしょっちゅう起こる。というかそれは僕の人生でいつも起こることで、テストも問題なくて何となくお勉強出来てるじゃんと思ってたら全然理解してませんでしたみたいな。

 

僕はまだ頭側の自分を好きになれない部分がある(半分喧嘩別れだし?)のだけど、こういうことを考えるとなんかこう、感覚と頭がうまく協働できたら楽しそうで有意義だなって思ったし、こういう方向なら嫌な感覚も湧かないということが今日これを書いててもう一つの発見。まだうまく文字化できないけど、うーん、遊びの幅が広がるのはいいこと!

というわけで国交正常化を目指したい所存です。

 

スーパームーンの夜に内的な大発見をしてしまったけど、べ、別にスーパームーンのおかげだなんて思ったりしてないんだからねっ!ツンツン

 

そうそう、日本から見た月食の写真も見たけど、やっぱり傾きが違うんだね。そりゃ当たり前なんだけど、改めてそう思ってイメージすると面白いなって。

はい、うん。

 

あと2日お仕事で3連休!なんとか頑張れそう。

おやすみ!

僕の『見る』について 優位知覚によるフィルターと盲点

誰かに共感・感情移入したときに、「この人は何を見たのだろう?」「何を見ているのだろう?」というのがいつも先ず浮かぶ。それはかなり僕自身の感覚に基づいた言葉であって、これを所謂ちゃんとした文章に直すと「この人は今までの人生でどんなことを経験してきたのだろう?」になることが分かる。

極端に言えば、多くの場合僕の中では『経験した』が『見た』にそのまま置き換わるということ。いや、逆かな…。感覚的には『見た』が先に来るけど、”『見た』ということは即ち『経験したということ』である”から。まぁ多分どっちでもいいんだけど。

 

何故こうなるかを少し掘り返してみると、認知特性という言葉を使えば僕は視覚優位だからなのだろうと思う。視覚、再構築したイメージというか。以前やった認知特性のテストでは写真と立体で分けると立体の方が強かった。確かに人の顔覚えるのはあまり得意ではないし…。

視覚イメージを切り取って残してるというより雰囲気をイメージにして構築してるんだと思う。もっと言えばその中に住んでる。だから何もかもが幻想だって感覚が強いんだろうね。認めてしまえばそれも段々好きになってきたようだけど。

 

いちいち読み直さないけど、多分このブログの中には『見る』が多用されてる。そして『それ』『これ』が多用されているのも、『それ』や『これ』を内的に見ながら書いているからに他ならない。(っていうのはだいぶ前に書いた気もする)

それは僕がこのブログの用途として感覚(内向的直感や感情)の文字化を重視しているからで、自然といわゆる感覚的な言語になるし、僕もいちいちそれを修正しないから。(読んでいる人のことを考えてないわけじゃないよ!ただ、そもそも感覚的に通じない人はこんな文章読まないと思うから。なら細かいことはそっちのけで感覚的に繋がりたいじゃん?)

 

何を見たか

↓人は蓄積した経験によってその人の今が形作られている。その人がいかに今に生きていようと、今に生きるようになったその人も経験の蓄積によるものが大きいだろう(その経験の蓄積による造型が必然か偶然かはさておき)。

 

そしてその人が思考するときに無意識に参照している記憶も、慣れによって合理化され無意識に起こる行動も、今その時に感じた感情の根っこも、それらは全て過去に繋がっている。

その過去を詮索すると、記憶の回廊のところどころに象徴的なイメージたち(その多くはおぼろげで言語化できる形になっていない。はっきり見ようとすればするほど形を変えてしまう掴めないものたち。)が4次元的に折り重なっているのがわかる。

僕の無意識が参照しているのはそのイメージで、僕が記憶を意識的に思い浮かべようとすると出てくるのはそのイメージから認識できる形に加工された記憶によって構成されるイメージや動画、空間なのだと思う。どうあっても見ているのだ。

例外的に声や音も残っているが、それらにはやはりイメージが付随していて、参照した際に沸く感情も視覚イメージに繋がる。↑ 

↓↑内は僕の感覚

 

だから僕の場合それを他者にも当てはめて、その人は「何を見たのだろう?」「何を見ているのだろう?」ってなるんだろうなぁって。

 

じゃあ他の知覚が優位な人達は、聴覚優位や言語優位な人達はどんな世界を見ているのだろう?ってほら、この無意識なプロセスの中で僕にとってはやはり『見る』ものであることが前提になっている。知覚フィルター的な。

 

これは一種の、人間にとっての盲点なのだろう。もし自分の感覚で相手のそれを決め付けないこと、相手の生の感覚を尊重することに価値を見るなら、それが盲点であることを認識した上で頭を介在させる必要があるのかもしれない。難しいし、それをやったところでどこまでできるのかわからないけれど。

 

他の人達の感覚を体験してみたいな。

例えばさ、僕が何かを文字化するときに、そのものの形を保ったまま言葉の型枠にはめ込むのに苦労するし、その出来上がりのこれじゃない感にストレスがあるのだけど、それはそのものが手前にあるからなんだよね。言語優位の人は多分そのものの前に言語があったり、そうでなければそのものが自然と言語と融和しているのだろうか。記憶も文字や言葉になるのかな?記号?

それは時にすごく羨ましく感じる。勝手に想像して勝手に羨ましくなってるってなんか滑稽だけど。

 

例えば64+29を暗算するとき、僕の中では64とくっつきたくて仕方ない29が26と3に分裂して64と26ががっちゃーんして90になった所に3がすーっときて93になるけど、あるいはもっと大きい数でそれが上手くいかないときは脳内でいちいち筆算をやったりもするのだけど、数字や記号に強い人ってどんな風に計算が繰り広げられてる(ように知覚する)んだろう?すごい気になる。

それを僕が見たらマジックショーを見ているのとなんら変わらない反応をするんだと思う。

 

あとはさ、本を読むときに文字が声になって聞こえたりもするけど、聴覚が優位な人はそれを掴むのも上手いのかな?僕はその脳内朗読が通り抜けて行っちゃったりするから、やっぱりいちいち想像してイメージに作り変えないといけない。

 

感情を音で表したりできる人もなんか羨ましい。楽しそう。

文字をそのまま吸収すると表現する人、写真のように切り取って残すという人もいるけど、実際どんな感覚なんだろう?後者は記憶法として試したことあるから、なんとなくは分かるのだけど、それを本一冊分とか自然にやるのってすごい。記憶を参照するときもパッパッと出せるのかな?(僕の場合その記憶法は記憶の宮殿じゃなくて記憶の迷宮になってしまうし、知らない人が住んでて勝手に散らかしたりするから上手くいかなかった。その人が僕に統合されて宮殿が支配下に置ければ上手くいくのかな?でも引き出せない記憶が僕にとって引き出せない類のものであるうちは無理なのだろうと思う。)

 

文字をそのまま吸収した人は記憶を参照するときも文字が出てくるのかな?あれ?文字が『出てきて見える』ってなっちゃうとやっぱり違うのだろうか。

 

一回観た映画やちょっと読んだ漫画の台詞をいっぱい覚えてる人もすごいと思う。僕の場合は観た後の自分の感覚を元にふんわり残ってて、その中をチューニングしているとシーンの映像がぼんやり残っている感じ。共感的に観れたものなら中に入れたりもするのだけど、それ自体が僕が解釈して再構築した世界で…

本なんかもそう。あんまりしっかり残らないけど、ふんわり経験として吸収はしてる感じ。なんか危なっかしいな。そのうちどこぞのゲームの主人公みたいにどっちがどっちだか分からなくなったり別の自分に乗っ取られたりしそう。

 

 

ところで明後日の皆既月食、ここだと日が沈む頃には地球の影を通り過ぎ始めた辺りみたい。ちょっと残念。最近夕方雨の日が多いからどの道見えない確率の方が高いけど…

でも楽しみ!

 

 

あとこれ!最近刺さった(言ってみたかった!)やつ!


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この人は何を見たんだろう?とにかくとっても好きなのです。

ドメニコの演説 から 狂人 隣のおばさん

ノスタルジアのドメニコの演説。この映画の中で特に印象に残るシーン。(貼った動画は最後に焼身自殺シーンがあるから苦手な人は見ないでね!)

 


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"What ancestor speaks in me? I can't live simultaneously in my head and in my body. That's why I can't be just one person. I can feel within myself countless things at once.

 

There are no great masters left. That's the real evil of our time. The heart's path is covered in shadow. We must listen to the voices that seem useless in brains full of long sewage pipes of school wall, tarmac and welfare papers. The buzzing of insects must enter. We must fill the eyes and ears of all of us with things that are the beginning of a great dream. Someone must shout that we'll build the pyramids. It doesn't matter if we don't. We must fuel that wish and stretch the corners of the soul like an endless sheet.

 

If you want the world to go forward, we must hold hands. We must mix the so-called healthy with the so-called sick. You healthy ones! What does your health mean? The eyes of all mankind are looking at the pit into which we are plunging. Freedom is useless if you don't have the courage to look us in the eye, to eat, drink and sleep with us! It's the so-called healthy who have brought the world to the verge of ruin. Man, listen! In you water, fire and then ashes, and the bones in the ashes. The bones and the ashes!

 

Where am I when I'm not in reality or in my imagination? Here's my new pact: it must be sunny at night and snowy in August. Great things end. Small things endure. Society must become united again instead of so disjointed. Just look at nature and you'll see that life is simple. We must go back to where we were, to the point where we took the wrong turn. We must go back to the main foundations of life without dirtying the water. What kind of world is this if a madman tells you you must be ashamed of yourselves!

 

O Mother! The air is that light thing that moves around your head and becomes clearer when you laugh."

 

Domenico - Nostalghia (1983) 

 

こんなに奥底からの演説が他にあるだろうか。

狂人と呼ばれるドメニコがガソリンを被る前に人々に説いていたことは、僕は誰よりもまともだと思う。

この映画のドメニコには意味の分からない共感と親近感を覚える。音楽まで用意し自らの身に火をつける彼の姿は、人生を演じ切り、信念のために自らの手で最期を選ぶ姿は、この上なく情熱的に見える。

 

無関心で非現実的な並びの聴衆の中のその姿が、また彼から見た彼の人生をそのまま映しているようで儚い。それでも、いかに狂人と言われようとも、いかに狂人的な最期と思われると分かっていても、彼は彼を通し切った。やり残したことをアンドレイに託したことでそれができたのだろう。本当に純粋な熱。その対比が空間を支配し、映像全体で物語っている。

ただ悲しいのは、ドメニコが火を放つ前から何かを予感している犬、ゾーイの悲痛な叫び。「一人になるのが怖い」と日々を共にする彼女に語っていたドメニコが彼女を置いて死んでいくという悲痛な別れ。この映画では僕はこれが一番苦しかった。

ただの悲痛さというわけではなく、友情という意味で、生死を越えた部分で何かを語りたかったのかなとも思う。

 

イタリア語分からないから英語字幕がどれだけズレてるのか分からないのが残念。日本語字幕だとどうなってるんだろう?

でもきっと英語や日本語で演じていたらこのシーンもまた別ものになってしまっていただろう。アンドレイが劇中で「詩は訳すことができない、その全てがアートだから」と言っていたように。それは同じアンドレイという名の主役に重ねたタルコフスキー本人の思いなのだろうと思う。(って言っても言語ってそのレベルまで習得するにはそれこそその土地の人にならなきゃいけないから、いくつも学ぶなんて到底できないしそれが凄く歯痒い)

少なくとも字幕版では、役者の母国語での感情のこもった素晴らしい演技は本物のまま入ってくる。ただ入ってきた後に言語的に理解できないだけで…

 

ドメニコがいかに客観的な現実から乖離したものを見て信じていようと、それが間違っているというのは客観的な現実からの視点でしかないと思う。でもその客観とは何なのだろう。客観と呼ばれるものがある集団にとっての主観でしかないということがいかに多いことだろう。そこで事実とされるものが、やはりそこだけのものであることがどれだけあるだろう。なぜその一方的な事実を、さも不変のものであるかの態度で突きつけてくるのだろう。

なぜどちらも、そしてどれもが事実ではいけないのだろう? 事実がその程度のものであるのなら、そしてそこに信念もなにもないのであれば、全てが事実という態度の方がより誠実とも言えるのではないだろうか。

 

集団の悪い癖はそこから逸脱した、彼らから見た狂人の言葉には何一つ耳を貸さなくなることではないだろうか。

 

 

もう一つ、全然別の意味でこのドメニコの焼身自殺のシーンは僕の中で残っている。

小さい頃祖父所有の雑居ビルの3階に住んでいた。隣のビルの一階にガス屋さんがあった。ビルもそのガス屋さんも隣のおばさんと呼んでいた僕の少し遠い親戚のおばさんのもの。遊びに行くといつも応接用のお菓子をくれた。僕はルマンドとかバームロールが好きだった。おばさんの色眼鏡をかけた顔とか、少し独特な声とか結構はっきり記憶に残ってる。

 

そのおばさんが仕事を辞め、看板がもっと大きなガス会社の名前に替わってからはもう会うことはなかった。いや、祖母の美容院に来ていた時にちょこっと会ったかもしれない。その辺ははっきり覚えてない。おばさんはとても綺麗なちぎり絵とか作るのが上手で、美容院にも貰ったものが飾ってあった。

おばさんは僕が中学生の時に家の庭でガソリンを被って焼身自殺したと聞いた。おばさんの家は少し変わった芸術家一家として知られていたようで、その死について、「芸術家だからね。何を考えているかよく分からない。」って当時家族の誰かが言ってたのが頭に残ってる。

僕は当時全然交流がなかったし、おばさんの家の前を通ると、この庭なんだなって思うくらいだった。

 

映画の中でドメニコがガソリンを被った時、その隣のおばさんが頭を巡った。そして彼が悲痛な声を上げて転げまわる所で、やはりそのおばさんを重ねたようで、何とも言えない気持ちになった。

僕は表現ができないから、もしおばさんが生きていて接点がまだあったら、何か教えてもらえたかもなって気にもなってしまう。それもこれも「何を考えているかよく分からない。」と言われるおばさんに妙な親近感を抱いていたからでもあるのだろう。

接点があったのは幼少期だけだし、おばさんのことは全然知らないのだけど。

 

オチはないのです。なんであのおばさんのことがこんなに強く浮かんだのだろうっていう、ただそれだけの覚書。

 

実際周りから見れば変わっていたのかもしれないけど、狂人ではないと思う。おばさんもドメニコも。狂気は誰もが内包している(と思う)。それを見つめ、魅入られたというのなら、そこにはその人にとっての何かがあったのではないだろうか。それこそ個人的なものではなく、集団やそれ以上のものの一部としてのその人にとっての何かだったのではないだろうか。

ビールを飲んだ から 酔うこと 物思い 入眠しやすくなったこと

超久々にビールを飲んでみた。知人は酒を飲んで忘れることがストレス軽減の秘訣だと言ってた。

僕はどうしても酒は慣れない。幼少期から酒には嫌な思いをし続けてきたのもあると思う。多分沢山飲んだとしても自分の中である程度ブレーキをかけていて、記憶が無くなるほど飲むということも難しいと思う。

限度を超えた時にどうなるかって興味はあるし、同時に背徳も感じるんだけど。

 

ほろ酔いというのは多幸感があるらしい。多分今僕はその状態なんだけどやっぱりイライラ感がある。僕はどうしても自分をコントロール下に置いておきたいらしく、思うように思考が働かなかったりイメージが霞むのが凄く嫌。記憶や感覚に浸れないのも嫌。これに身を任せれば多幸感があるのかな?でもそれって多幸感もどきな気がする。知らないけど。多幸感にも色々あるのだろうけど、意識が霞むことによって得られるテンションの緩みが多幸感なのか、多幸感を得ながら別の部分で意識が霞んでるのかと考えるとやっぱり前者だと思う。

 

でもその感覚許せないというのはやっぱり僕は脳を休めるのが下手なのだろう。瞑想で意図的に脳を休めようとしている時も何かこう別のものを追い求めてたりする。トランス状態に入って潜在意識を覗き見たい!みたいに好奇心が先走ってしまう。常に何かを考えたり思ったりしてしまうけど、それ自体が煩悩なのではとも思う。でもそれでもいいやとも思ってしまう。

 

酔った状態に身を任せられないのは結局の所一人の時間に脳を使って物思いやら何やらをしている時間が好きだからではないだろうか。ほら、苦しい苦しい言いながら苦しみを見たがってる的な。或いは苦しんでる自分が見たい。

でもそういうことは誰しも持ってると思う。仕事だって嫌だ辛いって言いながらそれに耐え忍んでいる自分が何よりも大切な人っていっぱいいるし。自覚しているかしてないかに関わらず、見方によっては皆Mなのではないだろうか。ということはやっぱり皆Sでもあるのだろう。

 

苦しみって書いたけど苦しみにも色々あるわけで、例えば『なぜ苦しいか』って所から見ると胆汁の中にも甘味もあったりするからそれが大事だったりね。でもその甘味だけを舐めることってできないんだよ?

 

酔ってないですよ。むしろもう醒めたよ。真夜中に醒めてどうするんだよって話だけど。あー楽ちい。楽しいの?そう言われるとやっぱり楽しいんだろうね。脳を潰してしまいたいと思いながら別の場所で楽しんでる。だから潰してしまいたいとも思うんだと思うけど…

なんかあれみたい。好きだから「嫌い!」って言っちゃう女の子。じゃあ好きなんじゃん…どっち?

 

そういえばね、入眠はここ一年くらい凄くいいの。ずーっと入眠には難を抱えて生きてきたけど、それが嘘のように寝入れる。それはなんていうかオン・オフのよりさらに外側の問題で、コントロール外の思考をまぁいいやってできるようになったのが大きいと思う。でもそれは思考をまぁいいやしてるわけじゃなくて、全てがまぁいいやというか。よくよく考えると良くなかったりするんだけど、今の僕が良くないと思うことも含めて多分今はそれでいいからまぁいいやみたいな。

入眠困難の人に教えてあげたいね。でもどう伝えるんだろう。不安でもいいんだよなんて言っても馬鹿にしてると思われる。他に伝え方があるだろうか?

神経症的であってもいいんだよって伝えたところで、その人は考え過ぎてしまう自分の考え過ぎを神経症的と解釈するからこそ神経症的であって…サンプル1で何の根拠もないけど。

 

まぁいいや。

 

やっぱり夜更かしは好き。皆が寝静まって本当に僕だけの時間。誰にも邪魔されず物思いも内観もできる。遅寝遅起きの素晴らしさを啓蒙したくなっちゃうね。

とは言いつつもう3時。流石に寝ないとなぁ。そんなことを考えないで生きたいのにね。あー煩わしい。

ヘビ シリーズものの無かったこと設定 ラマダン明け Ludovico Einaudi

ラマダン明けということで昨日から今週いっぱい休日!わーい!

最近は何も書いてなかったわけじゃないんだけど、なんかこうスッキリしないものとか暗めなのばっかりだから下書きから舞い戻ってくることがなかった。内的な気づきもあったけれど、それもまだ文字化できそうにない。

 

取りあえず今日はたわいもない事でも書こうかな。

 

日本のニュースであったアミメニシキヘビが逃げた話、あれ見つけるの凄く大変だと思う。小さい隙間や穴に入ってじっとしてるだろうし。

僕はニワトリを守るために10匹以上殺してるけど、3mクラスなら別に危ないヘビでもないし(ペットや小さな子どもが食べられる可能性がないとは言わないけど)、騒ぎ過ぎだと思う。日本だと見慣れないサイズで怖いのはわかるけど。ニワトリを食べなきゃ大人しいし愛嬌があるヘビ。

締め付ける力が強いからあんまり大きいのは危ないけど、果たしてそんなインファイトになるだろうか。

僕はやっぱり間違って踏んだり掴むかもしれないマムシやコブラやバイパーの方が怖い。

 

ニシキヘビは丈夫だと言っても硬いもので頭を殴ったり尖ったもので突き刺せば弱るし、切断すれば死ぬ。こっちの人は軽油をかけたりもする(かけると逃げる)。

怖い危ないって騒ぐくらいなら鉈を研ぐなり即席の槍なり先の割れた棒切れと麻袋なり用意すればいいのにと思ってしまうのは一方的だろうか。

 

許可が必要なものを無許可で飼うのもどうかとも思うけど。ヘビのこと大切に思うならそういうことはしっかりしておいた方がいいとは思う。

僕も子供の頃アオダイショウとかシマヘビ捕まえたりもしたし、ヘビを飼いたい気持ちはわかるつもりだけど。大人しくて危険も少ないヘビだから油断があったのだろう。

でもまぁ、飼い主責めてもヘビが見つかるわけでもないし、そういう風潮が飼育の届け出を増やすことになるとも思わないから、いろいろ誇張するメディアに煽られて怒りや憎悪を募らせるのはやっぱり不毛だと思う。はい。

 

あと何書こうかな。そうだ。

DVD店さんの閉店セールでポケモンのDVD(オレンジ諸島編)を子供に買ったんですよね。彼ポケモン好きだから。

で、彼は劇場版の『キミにきめた』を先に見ていて、そんな彼がオレンジ諸島編でホウオウが未知のポケモン扱いなのを見て僕に放った言葉が「何でサトシはホウオウのこと忘れちゃったの?」だった。確かにそうなるよなぁって思うと色んな意味でおかしかったんだけど上手く返せなかった。「何でだろうね 笑」って。

 

パラレルワールド設定なんて伝えても分からないどころか物語に集中できなくなっちゃったり感動や一体感が薄れちゃいそうだし、「記憶なんてそんなものだよ」なんてここの僕みたいなこと子供に向かって言えないしなぁ。

大人の都合で色んな物語ができるのはいいけど、子供向けなんだし主軸はもうちょっとしっかりしてくれてもいいのではないか。と思ったものの、もう20年以上経ってるものを今の子供が見る前提で作る意味も薄いのかな。それでも好きな子なら全部見るかもしれないし、そういう子の気持ちは大切にして欲しいなぁとも思うけど。

いや、単純に僕がそういう設定の変更が苦手なだけなんだよね。多分。映画とかも1,2ってきて3で2が無かったことになってる的なのがザラにあるけど、あれほんと苦手。感動や色んな思いを返せと言いたくなるし、無かったことにされた作品の中の人たちのストーリーや思いはどうなるの?って思う。そう、繋がってないのが嫌なんじゃなくて、都合悪いからって無かったことや改変されるのが嫌。別物として作ってくれるならいいんだけどね。

なんかこう、変なコンプレックスがあるのかな。まぁいいや。

 

あとなんだろうな。ラマダン明けの祝祭。本当は親戚めぐりとかしなきゃいけないんだけど、去年に続いて今年もそれをしないでいいから気分が楽だな。お家でまったり。パーティー好きの人にはいいんだろうけどね。

あと、毎年このイベントでは食品の廃棄が気になるのだけど、今年はそれも大分少なそう。それでこう気持ちの揺れが少ない。僕はつくづくウイルス騒動の良い面ばかりを享受してるなぁと思う。

 

 

これ大好き


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最近よくLudovico Einaudiの曲を聴いてる。彼の曲の中ではThe Path of the Fossilsが一番好き。これSeven Days Walkingっていうアルバムがあって、Day1~Day7まで同じトラックの違うバージョンが入ってるんだけど、day1が一番好きかな。どのバージョンも好きだけど。ただyoutube musicだと邦題(化石の小径)になってるのとそうでないのが混じってたり、結構紛らわしい。

 

でねでね、今上の動画貼るのに検索してたらExperience(経験を重ねて)のVisualizerがアップされてるのに気付いたよ!わーい!


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映像が付くとより彼の世界に引きずり込まれそうになる。重なる。内容ではなく、見え方というか、残り方というか。

彼にとっての作品はやっぱり表現なんだと思う。創作ではなく。

形見

形見に頂いたペンダント。本人に貰ったわけじゃない。

当時どういう思考でそれをしたのか分からないけど、何か形として残るものが欲しくていてもたってもいられず遺族の方にお願いして、その人のお母さんが送ってくれたもの。

 

当時は色々とどん底だったから、自分が自分だったのか分からないくらいに記憶がなかったり曖昧なのだけど、多分訃報のメールをその人とやり取りしていたアドレスから頂いて、そこでお願いしたのかな。

手紙を添えて折角送っていただいたのに、お返事送ろうと思いながらも結局返せずじまいだった。

感情の荒波に堤防が決壊したかと思えば呆然と自分の外側から自分を眺めていたり、どうにもならない意識をお薬で落としたり、それはもう単細胞生物のような日々を過ごしていたので、お返事を送る気力がないくらい精神的に忙しかったというのは言い訳だろうか。その後は自らの常識の無さに自責ですよね。そろそろ時効ということで…

 

形見のペンダント、頂いといてあれなのだけど、見るのも辛くて10年以上仕舞いっぱなしだった。

でも今は少し違っていることに気付いて、昨日から眺めてみたり触れてみたり、握ってみたり、着けてみたりした。チェーンの輪っかを広げてみるとその中にあの人の首があったんだなって不思議な気持ちになる。

リボルバーの形をしていて、弾倉がちゃんと回る。何というか、このロックさがあの人に凄くぴったり。流石だなと思う。

ずっしりしていてくすんでいるから鉄か何かだと思ってたけど、よく見るとチェーンも銃も925のシルバーらしい。調べてみるとちゃんとしたメーカーの絶版のペンダントだっていうことが分かった。はめ込まれてる青い小さい石はサファイアだったらしい。

サファイアの青は好き。

 

感情。このペンダントを手にした時に湧き上がるのは、「クソ」とか「畜生」とか、あの人を連れて行ってしまった不条理に対するどうしようもないもの(自分にこういう感情があるのに驚く)。そしてあの人の理解されない苦しみや孤独に対する悲しみ、支えてもらうばかりで何もできなかったことに対する自責。

本当に暗く寒いところに居たのは分かってたのに。死のうと思って死んだんじゃないことも分かってる。

弱ったロウソクの火がふとした風に吹かれて消えてしまうのはよくある事だ。

 

アップダウンが強めなのに、周りを思って沈んだ自分を外に見せないような優しい人だったから、ついつい酒と向精神薬でODをしてしまっていた。もうしないと言っていたのに。

でも誰が責めることができよう?

冗談交じりに「ついまたやって吐いたまま意識失っちゃったよー」とかちゃらけて言うけれど、それは暗くて深い所、孤独の寒さに居たことの報告だった。僕とあの人が共有していたのはその部分だった。

そして事後報告しかしないのがあの人の姉御的な強さだった。最後は事後報告すらなかったけれど。

 

僕はあの人の死が自殺なのか、事故死なのか、他殺なのか、病死なのか、狂気なのか、被害なのか、脱落なのか、解放なのか、排除なのか、非業なのか、無念なのか、安らぎなのか、一生問い続けるのだろう。答えなど無いことは知りながら。

 

なんであの人は僕を生かして自分は死んでしまったんだろう。そこに意味があるなら残酷だし、意味も何もないのならただ無情だと思う。

 

なんて、前にも書いたようなことを書いてしまったけど、少し変化があることを書きたかった。

悲しみが薄れたとは思いたくないけれど、このペンダントを前よりもしっかり触れられるようになったことで、記憶の中に在るあの人との繋がり、そのほのかな温かさとか、時間の外側にあった一対一の空間に意識を置けるような気がする。

心強さ。心が何なのかわからないと言いながらも心強さを感じる。それはあの人が僕だけを見て接してくれたからだろう。

そこには単なるネットの友達でもないし、姉弟でもないし、親友でもないし、ただの傷の舐めあいでもないし、性や男女を意識するような関係でもない、あの人と僕の絶対的な関係があった。条件も比較もない繋がりの安心感。(そういった人と人の関係には僕は恵まれている気がする)

 

だから、何か大事な時はこのペンダントに頼ってみてもいいのかなと思った。もし僕がそれを頼んだなら、あの人はきっと優しく快諾してくれただろう。

お守りじゃないけど、なんて言うんだろう。直接身につけなくても、持っているだけでも煩わしさの外側を思い出させてくれる気がする。

 

それでね、ペンダント、くすんでいるから綺麗にしてあげたほうがいいのかな?って思ったけど、綺麗にしたらあの人が触れていた部分まで落ちてしまうような気がしてしまう。

有名人と握手したから手を洗わないっていうのと似てるって考えると笑えるけど。

 

ペンダントはピカピカになりたいのかな?それともあの人と触れていた時のままでいたいのかな?

 

僕も当時のあの人の年齢に近づいた。あの人がこのペンダントをつけて、浮き沈みに抗っていた年齢に。ペンダントは何を見たの?何よりもあの人を知っているはずなのに、ペンダントは何も教えてくれない。だから僕は今もペンダントを触ってる。

星が少ない から

街の夜は晴れているのに星が少ない。

自らが明かりの中に居たら淡い光は見つけることができない。何事もそうなのかもしれない。

 

晴れた夜空にあまり星が見えないと不安になる。星空は時期や時間によって映される場所がずれると言っても、星々の位置関係がずれるわけではない(太陽系は除いて)。その同じ模様に包まれている安心感というのは言葉にするのが難しい。

知人は星が見え過ぎると怖くなると言っていた。その数から宇宙の規模に圧倒されるという。

 

僕は星に対してはそういう恐怖はない。(僕は暗い海には恐怖があるけど、ちょっと違うのかな?)

星が沢山見えると僕はウキウキしてくるし、その色んな色の光が生む美しさや描かれる模様が楽しくてしょうがない。

頭を介入させても恐怖よりは希望が湧く。数え切れない星があって、数え切れない銀河があって、それ以上の数の惑星があって、宇宙も複数あるのかも知れない。それって可能性に満ちている。生き物は沢山居るのだろうし、そうでなくとも意識や意思は無数に存在するのかも知れない。

それがなんで希望なんだろう。想像できることが希望なのかな。生き物や意識の何もない空間には確かに僕は希望を感じなくて、『何かが居ないと』想像ということも成り立たないからなのかも知れない。僕にとっての想像というのはそういうものなのだろう。常に何かが中心に居る。主観。でも客観的な想像とはなんだろう?客観的な視点だってそれを見ているのは主観ではないか。それを客観にするためにはまた別の主観を用意しなきゃいけなくて… 想像の主体は飽くまで僕だからかな。想像しているときだけは僕は確かに存在しているみたいな。

 

 

あれ、何書いてたんだっけ。星々に見る希望。会うことも存在を知ることもないような、自分とは直接関係ない生き物や意識、存在になぜ希望を感じるんだろうね。不思議だな。これはすぐにはわからなそう。

希望があれば絶望もあるのになんで希望を見るのだろう。いや、絶望も大枠ではそれがあることは希望の存在を示していて…

人間や文明に見るものも同じなのかな。

 

話は変わるけど、宇宙の規模から見た自分というのが小さくて怖いという人もいた。僕は逆に安心する。それも普段の自分と外の関係によるのかな。

 

なんて言うんだろうな。色んな社会生活の場面で自分を必要以上に大きく見せなきゃいけないっていうのあるじゃん?

何かこう、僕にとっては色んなことがそう。当たり前って言われてることに合わせるだけでそうなる。それが本当に嫌で。

 

必要以上に小さく見せてるって場面が僕には多いけど、それは形を変えてるだけで実際はそれも必要以上に大きく見せてるんだよ。逆見栄っ張り的なね。それも同じでその瞬間はマシだけど蓄積されていくストレス。

 

当たり前をしなければその限りではなかったりもするんだけど、それは良くないことらしい。そこで我を通す強さは少なくとも僕にはなくて、どのみちストレス溜まっちゃう。

社会の中にいる限りは大小上下の相対の中の自分にならなきゃいけなくて、ふざけんなよですよ。

 

何がそんなに嫌なのかって、わがままだからって言われるんだろうけど、まぁ実際わがままなんだけど、大きく見せても小さく見せてもそれは極端な話嘘偽りであって、それを自分すらやっていたら誰も彼も何もかもが嘘になっちゃうじゃない?

偽る自分が自分にとっての真なら何も問題はないよ?針小棒大は許される範囲と言える人なら。僕はそんなに器用じゃない。ほら、今も若干の逆見栄っ張りを発動したでしょ?

あー、もう…

 

宇宙と自分という関係においてはそういうものはないと思っていて、大小はあるようで単なる位階であったりするのかなぁとか。だからこう、宇宙の中での自分って小さいから安心するって言うわけではなくて、そのスケールだと自分が自分を保てるし、それはそんなことをする意味すらないからなのかなぁとか。

 

オフィス復帰早々これだよ。めんどくさ。何にもトラブルないのに勝手にこういうモードになっちゃう。

 

いつもそうだけど、めんどくさいのは外側じゃなくて自分自身の外側に対する反応。難しいね。

なんでここに僕は希望を見出せないのだろう。

 

うーん、モードを変えよう。もう金曜だね。週末!お休み!疲れを癒す束の間の休息。週末の休息が欲しい欲しいとその週末のためにお仕事を頑張るってなんか滑稽。休みを…休みを…ってなんかヤク中っぽい。

違う、お金のために働いてるんでしょ!でもそれじゃモチベーション保てないし…お金のこと考えるとあー、めんどくさってなる。どこかに100万兆円落ちてないかな。このダメ人間思考嫌いじゃない。

 

モード変わんないや。打ち止め!

100万ドルの夜景よりお金が発明されなかった世界の夜景が見たい。