感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ドメニコの演説 から 狂人 隣のおばさん

ノスタルジアのドメニコの演説。この映画の中で特に印象に残るシーン。(貼った動画は最後に焼身自殺シーンがあるから苦手な人は見ないでね!)

 


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"What ancestor speaks in me? I can't live simultaneously in my head and in my body. That's why I can't be just one person. I can feel within myself countless things at once.

 

There are no great masters left. That's the real evil of our time. The heart's path is covered in shadow. We must listen to the voices that seem useless in brains full of long sewage pipes of school wall, tarmac and welfare papers. The buzzing of insects must enter. We must fill the eyes and ears of all of us with things that are the beginning of a great dream. Someone must shout that we'll build the pyramids. It doesn't matter if we don't. We must fuel that wish and stretch the corners of the soul like an endless sheet.

 

If you want the world to go forward, we must hold hands. We must mix the so-called healthy with the so-called sick. You healthy ones! What does your health mean? The eyes of all mankind are looking at the pit into which we are plunging. Freedom is useless if you don't have the courage to look us in the eye, to eat, drink and sleep with us! It's the so-called healthy who have brought the world to the verge of ruin. Man, listen! In you water, fire and then ashes, and the bones in the ashes. The bones and the ashes!

 

Where am I when I'm not in reality or in my imagination? Here's my new pact: it must be sunny at night and snowy in August. Great things end. Small things endure. Society must become united again instead of so disjointed. Just look at nature and you'll see that life is simple. We must go back to where we were, to the point where we took the wrong turn. We must go back to the main foundations of life without dirtying the water. What kind of world is this if a madman tells you you must be ashamed of yourselves!

 

O Mother! The air is that light thing that moves around your head and becomes clearer when you laugh."

 

Domenico - Nostalghia (1983) 

 

こんなに奥底からの演説が他にあるだろうか。

狂人と呼ばれるドメニコがガソリンを被る前に人々に説いていたことは、僕は誰よりもまともだと思う。

この映画のドメニコには意味の分からない共感と親近感を覚える。音楽まで用意し自らの身に火をつける彼の姿は、人生を演じ切り、信念のために自らの手で最期を選ぶ姿は、この上なく情熱的に見える。

 

無関心で非現実的な並びの聴衆の中のその姿が、また彼から見た彼の人生をそのまま映しているようで儚い。それでも、いかに狂人と言われようとも、いかに狂人的な最期と思われると分かっていても、彼は彼を通し切った。やり残したことをアンドレイに託したことでそれができたのだろう。本当に純粋な熱。その対比が空間を支配し、映像全体で物語っている。

ただ悲しいのは、ドメニコが火を放つ前から何かを予感している犬、ゾーイの悲痛な叫び。「一人になるのが怖い」と日々を共にする彼女に語っていたドメニコが彼女を置いて死んでいくという悲痛な別れ。この映画では僕はこれが一番苦しかった。

ただの悲痛さというわけではなく、友情という意味で、生死を越えた部分で何かを語りたかったのかなとも思う。

 

イタリア語分からないから英語字幕がどれだけズレてるのか分からないのが残念。日本語字幕だとどうなってるんだろう?

でもきっと英語や日本語で演じていたらこのシーンもまた別ものになってしまっていただろう。アンドレイが劇中で「詩は訳すことができない、その全てがアートだから」と言っていたように。それは同じアンドレイという名の主役に重ねたタルコフスキー本人の思いなのだろうと思う。(って言っても言語ってそのレベルまで習得するにはそれこそその土地の人にならなきゃいけないから、いくつも学ぶなんて到底できないしそれが凄く歯痒い)

少なくとも字幕版では、役者の母国語での感情のこもった素晴らしい演技は本物のまま入ってくる。ただ入ってきた後に言語的に理解できないだけで…

 

ドメニコがいかに客観的な現実から乖離したものを見て信じていようと、それが間違っているというのは客観的な現実からの視点でしかないと思う。でもその客観とは何なのだろう。客観と呼ばれるものがある集団にとっての主観でしかないということがいかに多いことだろう。そこで事実とされるものが、やはりそこだけのものであることがどれだけあるだろう。なぜその一方的な事実を、さも不変のものであるかの態度で突きつけてくるのだろう。

なぜどちらも、そしてどれもが事実ではいけないのだろう? 事実がその程度のものであるのなら、そしてそこに信念もなにもないのであれば、全てが事実という態度の方がより誠実とも言えるのではないだろうか。

 

集団の悪い癖はそこから逸脱した、彼らから見た狂人の言葉には何一つ耳を貸さなくなることではないだろうか。

 

 

もう一つ、全然別の意味でこのドメニコの焼身自殺のシーンは僕の中で残っている。

小さい頃祖父所有の雑居ビルの3階に住んでいた。隣のビルの一階にガス屋さんがあった。ビルもそのガス屋さんも隣のおばさんと呼んでいた僕の少し遠い親戚のおばさんのもの。遊びに行くといつも応接用のお菓子をくれた。僕はルマンドとかバームロールが好きだった。おばさんの色眼鏡をかけた顔とか、少し独特な声とか結構はっきり記憶に残ってる。

 

そのおばさんが仕事を辞め、看板がもっと大きなガス会社の名前に替わってからはもう会うことはなかった。いや、祖母の美容院に来ていた時にちょこっと会ったかもしれない。その辺ははっきり覚えてない。おばさんはとても綺麗なちぎり絵とか作るのが上手で、美容院にも貰ったものが飾ってあった。

おばさんは僕が中学生の時に家の庭でガソリンを被って焼身自殺したと聞いた。おばさんの家は少し変わった芸術家一家として知られていたようで、その死について、「芸術家だからね。何を考えているかよく分からない。」って当時家族の誰かが言ってたのが頭に残ってる。

僕は当時全然交流がなかったし、おばさんの家の前を通ると、この庭なんだなって思うくらいだった。

 

映画の中でドメニコがガソリンを被った時、その隣のおばさんが頭を巡った。そして彼が悲痛な声を上げて転げまわる所で、やはりそのおばさんを重ねたようで、何とも言えない気持ちになった。

僕は表現ができないから、もしおばさんが生きていて接点がまだあったら、何か教えてもらえたかもなって気にもなってしまう。それもこれも「何を考えているかよく分からない。」と言われるおばさんに妙な親近感を抱いていたからでもあるのだろう。

接点があったのは幼少期だけだし、おばさんのことは全然知らないのだけど。

 

オチはないのです。なんであのおばさんのことがこんなに強く浮かんだのだろうっていう、ただそれだけの覚書。

 

実際周りから見れば変わっていたのかもしれないけど、狂人ではないと思う。おばさんもドメニコも。狂気は誰もが内包している(と思う)。それを見つめ、魅入られたというのなら、そこにはその人にとっての何かがあったのではないだろうか。それこそ個人的なものではなく、集団やそれ以上のものの一部としてのその人にとっての何かだったのではないだろうか。