感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ヘビ シリーズものの無かったこと設定 ラマダン明け Ludovico Einaudi

ラマダン明けということで昨日から今週いっぱい休日!わーい!

最近は何も書いてなかったわけじゃないんだけど、なんかこうスッキリしないものとか暗めなのばっかりだから下書きから舞い戻ってくることがなかった。内的な気づきもあったけれど、それもまだ文字化できそうにない。

 

取りあえず今日はたわいもない事でも書こうかな。

 

日本のニュースであったアミメニシキヘビが逃げた話、あれ見つけるの凄く大変だと思う。小さい隙間や穴に入ってじっとしてるだろうし。

僕はニワトリを守るために10匹以上殺してるけど、3mクラスなら別に危ないヘビでもないし(ペットや小さな子どもが食べられる可能性がないとは言わないけど)、騒ぎ過ぎだと思う。日本だと見慣れないサイズで怖いのはわかるけど。ニワトリを食べなきゃ大人しいし愛嬌があるヘビ。

締め付ける力が強いからあんまり大きいのは危ないけど、果たしてそんなインファイトになるだろうか。

僕はやっぱり間違って踏んだり掴むかもしれないマムシやコブラやバイパーの方が怖い。

 

ニシキヘビは丈夫だと言っても硬いもので頭を殴ったり尖ったもので突き刺せば弱るし、切断すれば死ぬ。こっちの人は軽油をかけたりもする(かけると逃げる)。

怖い危ないって騒ぐくらいなら鉈を研ぐなり即席の槍なり先の割れた棒切れと麻袋なり用意すればいいのにと思ってしまうのは一方的だろうか。

 

許可が必要なものを無許可で飼うのもどうかとも思うけど。ヘビのこと大切に思うならそういうことはしっかりしておいた方がいいとは思う。

僕も子供の頃アオダイショウとかシマヘビ捕まえたりもしたし、ヘビを飼いたい気持ちはわかるつもりだけど。大人しくて危険も少ないヘビだから油断があったのだろう。

でもまぁ、飼い主責めてもヘビが見つかるわけでもないし、そういう風潮が飼育の届け出を増やすことになるとも思わないから、いろいろ誇張するメディアに煽られて怒りや憎悪を募らせるのはやっぱり不毛だと思う。はい。

 

あと何書こうかな。そうだ。

DVD店さんの閉店セールでポケモンのDVD(オレンジ諸島編)を子供に買ったんですよね。彼ポケモン好きだから。

で、彼は劇場版の『キミにきめた』を先に見ていて、そんな彼がオレンジ諸島編でホウオウが未知のポケモン扱いなのを見て僕に放った言葉が「何でサトシはホウオウのこと忘れちゃったの?」だった。確かにそうなるよなぁって思うと色んな意味でおかしかったんだけど上手く返せなかった。「何でだろうね 笑」って。

 

パラレルワールド設定なんて伝えても分からないどころか物語に集中できなくなっちゃったり感動や一体感が薄れちゃいそうだし、「記憶なんてそんなものだよ」なんてここの僕みたいなこと子供に向かって言えないしなぁ。

大人の都合で色んな物語ができるのはいいけど、子供向けなんだし主軸はもうちょっとしっかりしてくれてもいいのではないか。と思ったものの、もう20年以上経ってるものを今の子供が見る前提で作る意味も薄いのかな。それでも好きな子なら全部見るかもしれないし、そういう子の気持ちは大切にして欲しいなぁとも思うけど。

いや、単純に僕がそういう設定の変更が苦手なだけなんだよね。多分。映画とかも1,2ってきて3で2が無かったことになってる的なのがザラにあるけど、あれほんと苦手。感動や色んな思いを返せと言いたくなるし、無かったことにされた作品の中の人たちのストーリーや思いはどうなるの?って思う。そう、繋がってないのが嫌なんじゃなくて、都合悪いからって無かったことや改変されるのが嫌。別物として作ってくれるならいいんだけどね。

なんかこう、変なコンプレックスがあるのかな。まぁいいや。

 

あとなんだろうな。ラマダン明けの祝祭。本当は親戚めぐりとかしなきゃいけないんだけど、去年に続いて今年もそれをしないでいいから気分が楽だな。お家でまったり。パーティー好きの人にはいいんだろうけどね。

あと、毎年このイベントでは食品の廃棄が気になるのだけど、今年はそれも大分少なそう。それでこう気持ちの揺れが少ない。僕はつくづくウイルス騒動の良い面ばかりを享受してるなぁと思う。

 

 

これ大好き


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最近よくLudovico Einaudiの曲を聴いてる。彼の曲の中ではThe Path of the Fossilsが一番好き。これSeven Days Walkingっていうアルバムがあって、Day1~Day7まで同じトラックの違うバージョンが入ってるんだけど、day1が一番好きかな。どのバージョンも好きだけど。ただyoutube musicだと邦題(化石の小径)になってるのとそうでないのが混じってたり、結構紛らわしい。

 

でねでね、今上の動画貼るのに検索してたらExperience(経験を重ねて)のVisualizerがアップされてるのに気付いたよ!わーい!


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映像が付くとより彼の世界に引きずり込まれそうになる。重なる。内容ではなく、見え方というか、残り方というか。

彼にとっての作品はやっぱり表現なんだと思う。創作ではなく。

形見

形見に頂いたペンダント。本人に貰ったわけじゃない。

当時どういう思考でそれをしたのか分からないけど、何か形として残るものが欲しくていてもたってもいられず遺族の方にお願いして、その人のお母さんが送ってくれたもの。

 

当時は色々とどん底だったから、自分が自分だったのか分からないくらいに記憶がなかったり曖昧なのだけど、多分訃報のメールをその人とやり取りしていたアドレスから頂いて、そこでお願いしたのかな。

手紙を添えて折角送っていただいたのに、お返事送ろうと思いながらも結局返せずじまいだった。

感情の荒波に堤防が決壊したかと思えば呆然と自分の外側から自分を眺めていたり、どうにもならない意識をお薬で落としたり、それはもう単細胞生物のような日々を過ごしていたので、お返事を送る気力がないくらい精神的に忙しかったというのは言い訳だろうか。その後は自らの常識の無さに自責ですよね。そろそろ時効ということで…

 

形見のペンダント、頂いといてあれなのだけど、見るのも辛くて10年以上仕舞いっぱなしだった。

でも今は少し違っていることに気付いて、昨日から眺めてみたり触れてみたり、握ってみたり、着けてみたりした。チェーンの輪っかを広げてみるとその中にあの人の首があったんだなって不思議な気持ちになる。

リボルバーの形をしていて、弾倉がちゃんと回る。何というか、このロックさがあの人に凄くぴったり。流石だなと思う。

ずっしりしていてくすんでいるから鉄か何かだと思ってたけど、よく見るとチェーンも銃も925のシルバーらしい。調べてみるとちゃんとしたメーカーの絶版のペンダントだっていうことが分かった。はめ込まれてる青い小さい石はサファイアだったらしい。

サファイアの青は好き。

 

感情。このペンダントを手にした時に湧き上がるのは、「クソ」とか「畜生」とか、あの人を連れて行ってしまった不条理に対するどうしようもないもの(自分にこういう感情があるのに驚く)。そしてあの人の理解されない苦しみや孤独に対する悲しみ、支えてもらうばかりで何もできなかったことに対する自責。

本当に暗く寒いところに居たのは分かってたのに。死のうと思って死んだんじゃないことも分かってる。

弱ったロウソクの火がふとした風に吹かれて消えてしまうのはよくある事だ。

 

アップダウンが強めなのに、周りを思って沈んだ自分を外に見せないような優しい人だったから、ついつい酒と向精神薬でODをしてしまっていた。もうしないと言っていたのに。

でも誰が責めることができよう?

冗談交じりに「ついまたやって吐いたまま意識失っちゃったよー」とかちゃらけて言うけれど、それは暗くて深い所、孤独の寒さに居たことの報告だった。僕とあの人が共有していたのはその部分だった。

そして事後報告しかしないのがあの人の姉御的な強さだった。最後は事後報告すらなかったけれど。

 

僕はあの人の死が自殺なのか、事故死なのか、他殺なのか、病死なのか、狂気なのか、被害なのか、脱落なのか、解放なのか、排除なのか、非業なのか、無念なのか、安らぎなのか、一生問い続けるのだろう。答えなど無いことは知りながら。

 

なんであの人は僕を生かして自分は死んでしまったんだろう。そこに意味があるなら残酷だし、意味も何もないのならただ無情だと思う。

 

なんて、前にも書いたようなことを書いてしまったけど、少し変化があることを書きたかった。

悲しみが薄れたとは思いたくないけれど、このペンダントを前よりもしっかり触れられるようになったことで、記憶の中に在るあの人との繋がり、そのほのかな温かさとか、時間の外側にあった一対一の空間に意識を置けるような気がする。

心強さ。心が何なのかわからないと言いながらも心強さを感じる。それはあの人が僕だけを見て接してくれたからだろう。

そこには単なるネットの友達でもないし、姉弟でもないし、親友でもないし、ただの傷の舐めあいでもないし、性や男女を意識するような関係でもない、あの人と僕の絶対的な関係があった。条件も比較もない繋がりの安心感。(そういった人と人の関係には僕は恵まれている気がする)

 

だから、何か大事な時はこのペンダントに頼ってみてもいいのかなと思った。もし僕がそれを頼んだなら、あの人はきっと優しく快諾してくれただろう。

お守りじゃないけど、なんて言うんだろう。直接身につけなくても、持っているだけでも煩わしさの外側を思い出させてくれる気がする。

 

それでね、ペンダント、くすんでいるから綺麗にしてあげたほうがいいのかな?って思ったけど、綺麗にしたらあの人が触れていた部分まで落ちてしまうような気がしてしまう。

有名人と握手したから手を洗わないっていうのと似てるって考えると笑えるけど。

 

ペンダントはピカピカになりたいのかな?それともあの人と触れていた時のままでいたいのかな?

 

僕も当時のあの人の年齢に近づいた。あの人がこのペンダントをつけて、浮き沈みに抗っていた年齢に。ペンダントは何を見たの?何よりもあの人を知っているはずなのに、ペンダントは何も教えてくれない。だから僕は今もペンダントを触ってる。

星が少ない から

街の夜は晴れているのに星が少ない。

自らが明かりの中に居たら淡い光は見つけることができない。何事もそうなのかもしれない。

 

晴れた夜空にあまり星が見えないと不安になる。星空は時期や時間によって映される場所がずれると言っても、星々の位置関係がずれるわけではない(太陽系は除いて)。その同じ模様に包まれている安心感というのは言葉にするのが難しい。

知人は星が見え過ぎると怖くなると言っていた。その数から宇宙の規模に圧倒されるという。

 

僕は星に対してはそういう恐怖はない。(僕は暗い海には恐怖があるけど、ちょっと違うのかな?)

星が沢山見えると僕はウキウキしてくるし、その色んな色の光が生む美しさや描かれる模様が楽しくてしょうがない。

頭を介入させても恐怖よりは希望が湧く。数え切れない星があって、数え切れない銀河があって、それ以上の数の惑星があって、宇宙も複数あるのかも知れない。それって可能性に満ちている。生き物は沢山居るのだろうし、そうでなくとも意識や意思は無数に存在するのかも知れない。

それがなんで希望なんだろう。想像できることが希望なのかな。生き物や意識の何もない空間には確かに僕は希望を感じなくて、『何かが居ないと』想像ということも成り立たないからなのかも知れない。僕にとっての想像というのはそういうものなのだろう。常に何かが中心に居る。主観。でも客観的な想像とはなんだろう?客観的な視点だってそれを見ているのは主観ではないか。それを客観にするためにはまた別の主観を用意しなきゃいけなくて… 想像の主体は飽くまで僕だからかな。想像しているときだけは僕は確かに存在しているみたいな。

 

 

あれ、何書いてたんだっけ。星々に見る希望。会うことも存在を知ることもないような、自分とは直接関係ない生き物や意識、存在になぜ希望を感じるんだろうね。不思議だな。これはすぐにはわからなそう。

希望があれば絶望もあるのになんで希望を見るのだろう。いや、絶望も大枠ではそれがあることは希望の存在を示していて…

人間や文明に見るものも同じなのかな。

 

話は変わるけど、宇宙の規模から見た自分というのが小さくて怖いという人もいた。僕は逆に安心する。それも普段の自分と外の関係によるのかな。

 

なんて言うんだろうな。色んな社会生活の場面で自分を必要以上に大きく見せなきゃいけないっていうのあるじゃん?

何かこう、僕にとっては色んなことがそう。当たり前って言われてることに合わせるだけでそうなる。それが本当に嫌で。

 

必要以上に小さく見せてるって場面が僕には多いけど、それは形を変えてるだけで実際はそれも必要以上に大きく見せてるんだよ。逆見栄っ張り的なね。それも同じでその瞬間はマシだけど蓄積されていくストレス。

 

当たり前をしなければその限りではなかったりもするんだけど、それは良くないことらしい。そこで我を通す強さは少なくとも僕にはなくて、どのみちストレス溜まっちゃう。

社会の中にいる限りは大小上下の相対の中の自分にならなきゃいけなくて、ふざけんなよですよ。

 

何がそんなに嫌なのかって、わがままだからって言われるんだろうけど、まぁ実際わがままなんだけど、大きく見せても小さく見せてもそれは極端な話嘘偽りであって、それを自分すらやっていたら誰も彼も何もかもが嘘になっちゃうじゃない?

偽る自分が自分にとっての真なら何も問題はないよ?針小棒大は許される範囲と言える人なら。僕はそんなに器用じゃない。ほら、今も若干の逆見栄っ張りを発動したでしょ?

あー、もう…

 

宇宙と自分という関係においてはそういうものはないと思っていて、大小はあるようで単なる位階であったりするのかなぁとか。だからこう、宇宙の中での自分って小さいから安心するって言うわけではなくて、そのスケールだと自分が自分を保てるし、それはそんなことをする意味すらないからなのかなぁとか。

 

オフィス復帰早々これだよ。めんどくさ。何にもトラブルないのに勝手にこういうモードになっちゃう。

 

いつもそうだけど、めんどくさいのは外側じゃなくて自分自身の外側に対する反応。難しいね。

なんでここに僕は希望を見出せないのだろう。

 

うーん、モードを変えよう。もう金曜だね。週末!お休み!疲れを癒す束の間の休息。週末の休息が欲しい欲しいとその週末のためにお仕事を頑張るってなんか滑稽。休みを…休みを…ってなんかヤク中っぽい。

違う、お金のために働いてるんでしょ!でもそれじゃモチベーション保てないし…お金のこと考えるとあー、めんどくさってなる。どこかに100万兆円落ちてないかな。このダメ人間思考嫌いじゃない。

 

モード変わんないや。打ち止め!

100万ドルの夜景よりお金が発明されなかった世界の夜景が見たい。

帰還 アレルギーのこと

おととい1日運転して町の家に戻ってきました。やっぱり3週間じゃゆっくりやりたい事あんまり出来ない。

次は6月にちょこっと戻る予定だからちょくちょく使えそうなものを揃えておこうと思う。

 

今回も町に住んでいて日に日に酷くなっていたアトピーが森の中の村に帰ったら3日で消えた。やっぱり環境が合ってないのだろうか。水か食べ物か空気かそれともストレスか。不思議。次回は毎日患部の写真でも撮ろうかな。

 

物心つく前から酷めのアレルギー体質だった。

アトピー、喘息、鼻炎、結膜炎。

そういうのってなんかこう、ある意味欠陥のように思えて、自分がおかしいっていう感覚を助長してたなって今は思う。

だから環境が自分に合えばアレルギーが出ないってちょっと嬉しい。完全に自分が欠陥というわけでなく、合う合わないがあるだけだって思える。

あ、アレルギーが欠陥だって意味じゃないよ。ただ僕の無意識の深いところで自分がおかしいって部分に絡み付いてたって意味で。

だって病気だからって薬出されてそれ塗ったり飲んだり減感作の注射したりってずっとやってたしね。浄水器とかもつけてくれて、親には心配もかけただろうし。

 

そこにいる限り症状が出るなら薬塗っても飲み水の一部を変えても仕方ないのにね。減感作は効果あったのかな。あっても限定的だろうけど。

 

善意で治らなかったものが人里離れると治るってなんか皮肉。でもそういう事が多い人生だとも思う。

治らなかったのは結果であって善意はありがたいものですよ。

 

環境というのは大事だと思う。そこにいるのが当たり前になってしまうと、それが自分にどう影響しているのかわからない。生活環境も人間関係もあらゆるものがそう。何かがおかしいのならそれは自分と外側の関係からきているのかもしれない。それは変える事でリセットできる。労力はかかるけど。

自らに合う環境を選ぶ事が出来るのは動物の特権だと思う。

 

体質が過敏めなのは仕方ないにせよ、反応が出やすいのは合う合わないが分かりやすいという意味ではいいのかもとも思う。身体さんからのサインはしっかり意識しよう。

 

ここで生活してるとまた徐々に出てくるんだろうな。ちょっと記録つけてみようかな。プチ人体実験。

村のお空

ここにいるのもあと一週間を切りました(えーん;;)。昼は暑いので丘の上にある東屋風の建物で簡単なお仕事をしたりサボったりして過ごしてます。

お空を眺めるのにはとてもいい場所です。今日はネットの調子が良さげなので僕がこの2週間で撮った熱帯の表情豊かなお空の写真を唐突にお届け!

 

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凄く身に覚えのある雲。不快や不安を通り越して居心地の良ささえ感じる。

 

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多分あの下でミュージカル風に歌いながら踊ってる動物か何かがいる。あるいは誰かがレベルアップしてる。

 

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これ好き。雲も夕陽を眺めてる。

 

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一生懸命な虚勢。ガオー!

 

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雲は熱を受けて膨らみ昇る。

 

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これ一番好き。雲は冷めれば自らの重さに耐えきれずバラバラになりながら沈み、堕ちては地表を優しく包む。

 

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雨は恵み。木々は雲を生み雲は雨を降らす。雲も雨も霧も水と熱による循環の上下運動。

僕の6割以上もその一部。

 

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この情報量の多さ。雲は細部としても全体としても、表し、写し、表現し、訴えかけ、反射する。だから響くんだと思う。狼が月を見て遠吠えする気持ちがなんとなくわかる。それは人が狼に自分を見るからだろう。

 

おまけ

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四日月。二日月がもっと綺麗だった。

あんまりはっきり撮るより薄暗くぼやけてる撮り方の方が好きになったのは、僕自身の実存に関する経験から外に何を見るか、求めるかということの変化の現れだと思う。しみじみとまぁいいやって思う。

 

空は映し見るドラマ。プロジェクターで空に映されるのが雲なのか、雲がプロジェクターとして僕らに映しているのか。

 


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色んな空を想う時はこんな気持ち。この曲好き!

短期帰村

8ヶ月ぶりくらいに森の中の村に戻ってきました。今日で9日目。電波があまり良くないこともあってこちらも放置気味…

 

この時のために買っておいた新しい刺し網、撚り糸網仕様は初めてだけど中々良い。

初使用でバラマンディが獲れた。2kgないけどおかずには丁度良いサイズ。先日は2kg強のウラウチフエダイとパンガシウスの仲間。今日は3kgくらいのParaplotosus albilabris。

この1週間でバラマンディは4匹、ウラウチフエダイは3匹。上々です。

因みに僕は、バラマンディは蒸し魚、ウラウチフエダイやパンガシウスはスープ、 ナマズ系はカレーがお気に入り。美味しいよ!

 

空き時間は果樹の周りの草刈り。草どころか小さな木がいっぱい生えて植えた木が見えなくなってる状態をナタでガシガシ切ってく。この時間がとても好き。草刈り機使えば早いけど、やっぱり自分で切るのがいい。なんて言ったらいいんだろう。運動と生活の一致というか、とてもいい感じ。

 

生活だけで全身の筋肉をくまなく使ってる。その疲れはとても心地よく、虫やカエルの声に包まれる夜がとても安らか。

ここは強い灯りが全くないので星空がとても綺麗。無数の星達に包まれる感じ。ここは雷のホットスポットだから、いつもどこかに雷光が見えてそれもとても綺麗。雷ってこう、一瞬の火花、物質の生む瞬間的なエネルギーの爆発と拡散っていう印象だけど、生命もその一つ一つも、集団としての生態系、環境も、やっぱりどこか同じものな気がする。僕もこの数十年という一瞬の生を光っているところで、いずれ静かな空や大地に溶け込めるのかな。そしてまたずっと彷徨う。

 

夜空、ここは月も綺麗。3日前に見た細い三日月がとても好きで息をのみ、じわじわと湧き上がる童心のような気持で眺めていた。森のすぐ上に浮かぶ安らかな閉じた目。とても印象に残ってる。僕は笑っている月よりも眠っている月の方が好きみたい。そんな大発見をした夜だった。

 

ここにいる時間はあと2週間しかないのだけど、自分のペースで過ごすとやっぱり日数が全然足りない。でもそのペースは僕にとってはとても大事だから、急がず大切に過ごそうと思う。

世界の車窓から から

プライムビデオで世界の車窓からがあるのを見つけた。これ昔好きだったなぁ。録画するほどではないけど、放送してたら見てた。

今見てもやっぱりいい。ちょくちょく見ようと思う。オススメ!

 

これ系のDVDも実家に一本持ってる。スペインの車窓だったかな。現実逃避にはもってこいの一品。

ちなみに僕が保育園児だった頃は箱根登山鉄道の運転席から撮ったVHSを持っていて、飽きずに何度も巻き戻して見てたの覚えてる。

 

列車の旅っていうのもいいなぁ。こういう観光地の電車って通勤列車と違ってまったり感があっていい。窓も開けれたり。

 

小田急線とか大嫌いだった。いや、小田急線が嫌いなんじゃなく通勤列車全般嫌い。登山鉄道はok。

通勤電車、あれは移送車両。殺伐とした閉塞的で余裕のない世界。毎日乗りたくないのに乗っている人の方が多い。まぁいいや。

 

世界の車窓からにはバックパッカーとかも出てくるけど、僕もいつかバックパック旅行したいな。

フットワークは軽い方だから向いてるとは思うけど、居心地がいいところに着くと動かなくなりそう。行くならそういうことも心配しなくていい色んな余裕の中で行きたいな。

 

行きたい場所とか書き出すと止まらないから書かないけど、色んな場所行ってみたい。色んな風景が見たいし、空気を感じたいし、色んなものに触れたい。

列車じゃなくてもいいけど、列車の旅は一度はしたいな。

 

いつかお試しで漂泊者にクラスチェンジしてみよう。頑張って生きなきゃ…いや、頑張らないけど生きる。