感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

Personal Values test (2回目) から Inanna - Armand Amar

数ヶ月ぶりにこれやってみた。価値の並べ替え。

personalvalu.es

 

結果はこれ

結構変わったかなぁと思ってやってみたんだけど、あんまり変わってないかも。

 

前の結果どこにあったっけ… あった。

1. Inner Harmony 2. Peace 3. Authenticity 4. Freedom 5. Compassion

1. Authenticity 2. Inner Harmony 3. Peace 4. Freedom 5. Curiosity

 

やっぱりちょっと変わってた。

自分の中での選択の過程を見ていると、ある程度自分にとって当たり前になったものの優先順位は下がるみたい。それとどれかが自分の中で溶け込むことで関係するものが上下したり、余裕が出ることでより純粋に求めるものが上がってこれたり。

 

僕の中ではInner HarmonyとPeaceは切っては切れないものみたい。当たり前といえば当たり前だけど、内側の調和がなければ外側の平和に関わることは出来ないし、外側の状態に内側が干渉されてしまう以上どちらかといえばInner Harmonyを重視したくなる。

 

思えば今は去年よりも内的な不和が減っている。まだまだ何かが欠けているのだけれど、狂ったように求めるほどでもない。

だからそれらに代わってAuthenticityが上に来たのもよく分かる。

 

このサイトのAuthenticityの説明にもこう書いてある。

 People who value authenticity generally have no problems with self-acceptance. 

果たしてそうだろうかと疑問符が付きそうだけど、ある面では絶対的に肯定しているのは事実だと思う。否定も前よりは穏やかで散発的。

 

あとは、それに従って自分が自分として振舞えない煩わしさ、偽ることの煩わしさが表立ったということだろうか。それを内に抱いているから外にも煩わしさを感じる。

自分が真に偽りなく在れれば、いかに外が偽りや嘘や欺瞞に満ちていようとここまで辛くはないだろうし、その労力を理解のために回せる気がしてる。理解?何で理解なんだろう。自分を理解したいだけな気もするけれど、それはいずれ分かるのかな。

 

Authenticity。その対象である自分のことはまだ分からないし、僕はまだ迷子だけれど、「迷子なのは帰る場所、行き先があることをどこかでわかっているからだ」ということに気づいたのが大きいと思う。

これが自ら望んだ漂泊ならばわざわざ暗闇を彷徨い歩くこともないのだろうしね。

 

思い込みを全て捨ててそっちに方向転換できないかなとも思ったけど、やっぱり難しい。思い込みを思い込みと認識できればもうそれは思い込みではないわけで、ねぇ…

 

Curiosityが上がってきたのはやっぱり割と安定しているってことだと思う。外に対する興味、好奇心だからね。色んなものを色んな見方で見たい。そして知りたいし自分なりに理解したい。

 

このサイトは英語しかないのだけど、「Personal values sort card 日本語」とかで調べると日本語に訳されたカードとかが出てくるから、印刷してアナログで並び替えたりしても楽しいと思う。迷子仲間にはお勧めです♡

 

 

これ好き

Armand Amar - Inanna www.youtube.com

 

何時間でも聴いてられる。ピアノとチェロの伝えたいことが違うのに融和している感じ。だからこそ自然な感じがして好き。どちらも大枠では同じことなのだと思う。仄かだけど温かい明かり。初めて聴いた時ちょっと涙が出た。

 

チェロの音が好きだな。

手の関節の痛み から ストレッチ、航海

ここ数年手のこの2箇所の関節が痛くなることが増えた。割と両手がそう。

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親指の方はCM関節、小指の方はMP関節って言うんだって。

なんだろう。マウスとか携帯の使い過ぎかなって思ったけど、それずっと前からだもんなぁとも思う。

なんか足りてないとか年齢的なものもあるのかな。

確かにこう、関節が前ほど滑らかじゃない気がする。引っ掛かりがあるというか。今のところ違うと思うけど、変形があると厄介そう。

攣るのも増えてきたし、だんだん故障しやすくなるのかな。

 

あんまり加齢に悪いイメージはないんだけど、痛いのとか動けなくなっていくのはやだな。まぁ70過ぎてバリバリ投網投げてる人もいるし、気にし過ぎないほうがいいのかも。

 

取り敢えずできる改善はしようと思うけど、うーん。手のひらの運動とかもやってみようかな。

 

運動といえば、ハムストリングは大分伸びるようになってきて、前屈もそれなりに前屈になってきた。股関節はまだまだな感じ。

意識してれば結構座骨立てて座っていられるようになった。意識してればね。

 

割座のストレッチとかお姉さん座りのストレッチがあるんだけど、それやると股関節より膝が痛い。変な方向に曲がってるのかな。やっぱり脚はあんまり組まないほうがいいと思う。って書きながら組んでるっていうね。姿勢を正すとは何と難しいことでしょう。

 

あとなんか書くことあったかな。

あ、スエズ運河の詰まりってなんか血栓みたいだよね。そのまま壊死してしまえとも思わなくもないけど、みんな大切だったり楽しみにしてる荷物や欠かせない物資だったりするのだろうから、早く通れるようになるといいね。

 

喜望峰回りする船とかもいるのかな。時間も燃料も凄くかかるけどロマンあるよね。昔の人はどんな気持ちで航海に臨んだんだろう。例えばこの辺に来た人だとウォレスとかも、今の旅とは全然違う気持ちだったんだろうな。冒険旅行、探索、研究。それらは目的だけど、旅に踏み切る彼等は一体何に後押しされたんだろう?

湧き上がるものなのか、惹かれたのか、導かれたのか、それとも案外合理的な思考の結果だったのか。いずれにせよ何かいいなー。

 

このトピックは寝不足になりそうだからおしまい!

 

おやすみ!

アルベール・カミュ『不条理な論証』から 不条理を取り入れる

アルベール・カミュの本読みたいけど、ペスト以外電子書籍全然売ってないから色々調べてる。

本欲しいな。多分今の僕には、彼が不条理に何を見ていたのかはとても役立つ気がする。

 

このサイト良い。

https://kotento.com/2019/02/20/post-2528/

しかし、思考自体が思考の真偽を省察する時、循環論の渦巻きの眩暈(めまい)に吸い込まれて自己を失ってしまいます。
デカルト的懐疑や胡蝶の夢のように、自分の意識が現実(真)か夢(偽)かを問う時、自己言及的な決定不能の虚無の眩暈にとらわれます。 

 

これ、慢性的な僕の状態。

この人は『夜』についても書いてるし、彼なりの実存を追求しながらも現象的なものの見方をする。多分僕の今の状態を克服した人の一人だと思う。

 

自分は確かに存在しているという確実さと、この自己の確実さを確信しようとしても確信しきれないことの間にある深い溝は、けっして埋められることはありません。
永久に、私は私自身にとって「異邦人」であり続けます。
「汝みずからを知れ」とは、自己を自己によって統合しようとする統一性(一者)への郷愁であるわけですが、人間にそれは許されず、故郷なき異邦人としてさまようべく運命付けられています。

 

本当に色々調べたし、試したんだけど、どれも言ってることは分かるのにいざ自分のこととなると上手くできない。それがこの溝の深さなんだと思う。

 

草のにおいや樹の幹の荒い肌触り、夕日の光をしみじみと感じる時、世界は否定しようがないほどその存在を主張します。
しかし、この世界の確実性を、その世界を私が本当に所有しているかの確実性を、確信しようとして自分と向き合った時、すべては不確実性と懐疑の波にさらわれていきます。 

 

ほんとこれ。 この、感覚、実感の瞬間という僕にとってのこの世界のすべてと、そのすべてを飲み込みひっくり返す懐疑。

 

そんな人間が平和を得るためには、知ることと生きることを拒否するしかない状態に陥ります。
統一や帰郷への本能的な欲求を持ちながらも、絶対に破れない壁の前に跳ね返されます。
希望を持った瞬間、絶望が同時に出現するよう運命付けられ、人は無関心や諦めや心の麻酔による毒のこもった平和(ニーチェの批判する消極的ニヒリズム、宗教や観念論など)を求めるようになるのです。 

 

僕も色んなものを自分の感覚を越えて信じようとしたけど、やっぱり上手くいかない。溝を飛び越えて彼岸に行く人を、この人は軽業師というけど、僕はそういう人たちって凄いなぁと憧れている面もある。僕はどうしても、いざ対岸に向かって飛んだ時にその先に何もないことを恐れてしまうから、その恐れを超えるレベルで何かを信じることができる人たちは凄いと思う。

 

https://kotento.com/2019/02/22/post-2535/

軽業師たちは、理性の虚しさの向こう側に理性を超えたなにものかの存在を措定しますが、不条理を明証的に見る者は、理性の虚しさの向こう側にも虚無しかないことを理解しています。 

 

キルケゴールも軽業師と同様に、「信仰者は自らの敗北の中に勝利を見出す」などと言います。
本来、不条理はこの世の経験の果てにある行き止まりでしかないはずなのに、彼も不条理を彼岸への通行手形にしてしまいます。 

 

厳密に言えば僕の場合は理性の虚しさの向こうに虚無しかないことを理解しているわけではない。ただ、理性に疲れていて、でもだからといって軽業師にもなりきれないだけ。それがなぜだかは分からない。

こちら側の世界には嫌気がさしていて、対岸の世界に憧れはあるけれど、やっぱり怖くて踏み出せない。対岸の世界が美しいことは感覚的に伝わってくる。でも僕は不器用だから、何故かそれが受け入れきれない。

実感を越えているものは掴めないし、それは上手く経験的な理解に落とし込めない。それをどう信じたら良いのだろう?

 

飛躍に先行する微妙な瞬間の中にある危険な状態、眩暈のするような境界の稜角に立ち身を支えることが、唯一誠実な生き方なのであり、他はごまかしに過ぎないのです。

 

ただ信じる力がないのだと思ってたのだけど、カミュはそれを肯定的に書いてくれてる。

 

 

https://kotento.com/2019/02/24/post-2579/

不条理の明察によって何かが解決するわけではなく、ただすべてが変容します。

 

ここで重要なことは、頑強であることです。
確実でないものはすべて斥け、自ら可知可能なものの中でのみ生き、そこに存在するものによって満足することです。
要は不条理から逃避せず、それを貫きその中で生きることです。

 

まぁここまで堅くならなくてもいいと思うけど、不条理を不条理として受け止め、それに反抗する姿勢で生きるというのはアリかもしれない。僕がそこまで頑強であるかはさておき…

 

スピリチュアル系だと経験が目的だったり、そこに学びがあったりするみたいだけど、そこに至るまでに色んな、僕には分かるようで分かりきれないもの(魂とか心とか波動とかハイヤーセルフとか前世とか)を挟むから、やっぱり難しいってなっちゃう。それを素直に受け容れられるならいいのだろうけど、どうもそれが難しい。

架け橋として生きるっていうのもいいんだけど、ちょっと抽象的すぎちゃう。

 

まぁどれもふんわり受け入れてその時の自分のモードによって使い分けられればそれでもいいと思う。あんまりガッチリやったらストレスで早死にしそうだし。

自分を意識的に生きるという意味ではどれも同じだから、上手く使っていきたい。

 

人間を超えたものへの橋にならなくてもいいし、自分が理解できる範囲の向こう側に行かなくてもいい。自分を偽って嫌なものの中に戻っていかなくてもいい。無理に何かの一部になったり、信仰に生きなくてもいい。ただその境界に立って、不条理を不条理と受け容れ、その中で抗い生きる。

 

この捉え方は、武器を失って内的な紛争でも首都陥落後のレジスタンス状態になってる理屈屋モードの僕にとって新しい武器になるだろう。上手くいけば全体的に新しい環境が出来るだろうし、もうちょっと深めてみたいと思う。

 

それとは逆に、不条理な人間は、自分の内部にある緊張感以外のものからは、すべてにおいて解放されてます。
意識への回帰によって、日常的な眠りから脱却し、精神と行動における自由を得ます。
自分の人生に対し、自分は異邦人となって人生を作っていき、恋人を見るような親密な目を捨て、鳥瞰的に人生を眺めること、それが解放の原理です。

 

自分の中の緊張感から自分を解放すること、インナーピースばかり考えてきたけど、確かに大枠ではその通りだと思う。僕にとって大切な自由って一つではなくて、多分この自由も含まれてると思う。さっきも書いたように常にこのモードを維持するのはきついだろうけど、こういう捉え方でとあるモードの僕の在り方も意識的に肯定できるのなら、試してみる価値は大いにあると思う。

 

ということで、不条理を取り入れようと思う。どう変わるだろう?

アトピーから思い出したこと 罪悪の記憶

急に思い出したこと。

小1か小2の時、どっちだかはっきりは覚えてないんだけど、クラスメイトの女の子を泣かせてしまって先生に呼び出されたことがある。

 

その子は割とアトピーが酷い子で、そのことをいじられたりしてかわいそうだった。その子に対して何て言ったか覚えてないんだけど、僕がその子に対してアトピーのことを冗談半分で何か言った。

僕の意図は同じ症状を持ってる者として変な仲間意識(シンパシーと言うよりはエンパシー的な何か)から「気にしすぎないで欲しい」っていう感覚があった。見た目にも似た状態で同じくいじられてる僕がアトピーについて何か言ったら(馬鹿にする意図はないんだけど、馬鹿にするようなことを言ったのかもしれない)ブラックジョーク的な感じでウケて元気出るかなっていう、わけのわからない思考回路と妙な自信が重なって生まれた言動が悲劇を生んだ。

 

馬鹿にする程のことを言った覚えはない(そこ気にしてるの?)んだけど、アトピーを気にしている子には言っちゃいけないことを言ったんだと思う。その子は女の子だったから余計にそうだよね。我ながら子供は残酷だと思う。

 

僕自身は物心つく前から酷いアトピーだったから、痒いこと以外全く気にしていなくて、それで泣いてしまうのは全くの想定外だったのを覚えてる。

後で聞いた話だと同じアトピーの僕から、僕より酷いと馬鹿にされたように感じたらしい。当時の僕には理解不能だった。先生含め周りが僕の首筋とか肘裏を見て、僕のその発言の意図を理解しないのも理解不能だった。

 

人前ではなかった。その子に対して一対一で何か言ったんだよ。それでその子が泣いてしまって、内心あわわわってなってる内に他の子たちがきて、~が泣かせた、ひどーいって言われて。

僕はといえば本心など言ってなるものかという意固地モード。こうなったらな犯罪者として振舞うしかなかった。何故だかはわからないけどそこは負けられない。(僕は大事な裁判で「太陽が眩しかったから」と殺人の動機を述べる気持ちが分かる気がする)

そんな僕を尻目に、みんなその子を心配して(こういう時ばっかり)職員室かどこかに連れて行って、僕は取り残された。

 

その後職員室に呼び出された(人生初)のも納得いかなかったし、僕はその子を励ましたかったなんて口が裂けても言いたくなかったから、だんまりを決め込んだ。

それなりにいい子だった僕がこんな発言をしたことに先生も困惑したようで、注意された程度で怒られはしなかった。

 

色々納得はいかなかったんだけど、でもその子を泣かせてしまったこと、悲しませてしまったことはとても辛かったのを覚えてる。The 罪悪感。人が悲しむのを見るのがダメな僕にはとてつもないダメージだった。その子が悲しむのが嫌でした発言で、僕がその子を悲しませて傷つけてしまった。

当時はいい子という自負もあって、先生の期待も感じていた分、裏切った感覚も残ってる。それも罪悪感。今なら「知らねーよ」って頭では思い…つつも結局ダメージを受けるんだろうけど。進歩がないね。

 

結局は誰にも理解されないことにプンスカと寂しさを感じながらも、泣かせてしまったことは本当に反省していたから、真摯な気持ちでごめんねを言って一応の一件落着だったと思う。釈明はしなかった。昔から変なところでプライドは高かったから、注意されてる最中もノーダメージを装ってた(大ダメージ)。

 

今でもあの夕方前の薄暗い職員室の廊下の空気、僕が注意されてる後ろでこそこそ覗いてるクラスメイト、その時に感じた何ともいえない複雑な感情は結構はっきり残ってる。

 

それからというもの、かなり言動に慎重になったし、思ったこともできるだけ言わないようになったと思う。今思えばそこが大きな転換点だった気がする。

理解されないこと(当時の感覚では)もその頃から学びはじめたし、人によって捉え方や感じ方が違うことや、口は災いの元ということが刻み込まれたし、何より、傷つけてしまったことはより深い部分で恐れに直結したのだろう。

覚えてる範囲では、思ったことをそのまま出さなくなったのはこれが一番最初のきっかけ。その後も積み重なっていくんだけどね。

 

因みにその子とはその後は同じクラスになってないけど、会えば何もなかったように話すような仲だった。連絡は取らないけどfbのフレンドの中にいる。元気にしてるかなぁ。

山の雲の顔

山道を車を走らせていると景色に吸い込まれそうになることが多い。特に好きなのが雲の描き出す景色。この瞬間だけは僕は多分すごく無邪気な顔をしていると思う。そのぐらいワクワクと嬉しさと楽しさと感動で綺麗な気持ちになる。稀にみる心身一致状態。

 

山の雲は特に激しく変化し続ける。

脇見運転いけないと思って車を止めるともう違う顔色をしてる。

 

ある程度のパターンはあるけれど、地形によっても、天候によっても、光の当たり具合によっても、様々な条件のもとその時々の変化を続ける。

 

そんな雲を写真に収めようとするけれど、たった一瞬でさえも雲の顔を正確に残すことはできない。雲はそれだけ豊かな表情で語りかけてくる。

ましてや包み込む全景として、流れる変化として、環境の一部としての雲なら尚のこと。

だから撮るのが楽しい。決して写真では表し切ることができないから。

 

そういう意味では、写真は僕にとって言葉と似ている。見たままを、感じたままを伝えたくてその型に詰め込もうとするけど、逆に壊れてしまったり別の何かになってしまって、決して本物を表しきることができない。

 

土曜日、プチ出張で山道を通ってそんなことを思った。柄にもなくオンラインでワークショップに参加し、とても有意義な時間を過ごさせて頂いた後仮眠してから出発。嫌だなぁと思いながらもカメラを用意したのでウキウキもしてた。

仕事は早く終わったから帰りの山で車中泊して、翌朝の日の出も見て帰ろうかなとも思ったけど、月曜日お仕事だと考えるとやっぱり帰ろって思った。その思考が何より残念。僕のワンダーはちらつく月曜日の影に負けたのである。その程度なのかい?だってぇ、明日お仕事だって考えると楽しめるものも楽しめないって予測できるんだもん。だからその根拠のない予測が嫌い。そう言いながらそれに従う…

 

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これ一番好き

 

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こういう家住みたい

 

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シベリア(お菓子)

 

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日の出前が好き

 

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踊る鳥。僕も鳥になって雲の上飛びたい

 

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もこもこ

 

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高層の薄雲も好き

 

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階層

 

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荒波っぽい

 

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夕焼け積乱雲。雷は上手く撮れなかった。

 

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夕闇と世界遺産

砂浜

朝領事館に用事があり、開くまでの間少し砂浜を散歩。人の少ない砂浜はいい。

 

色とりどりの貝、サンゴの欠片、食事中の小さなカニたち、クラゲ注意の看板、朝日できらめく波、海底の形によって様々な模様を描く砂、風を切るボート、夕方とは違った顔の島、楽しそうに散歩する親子、犬の散歩をするイケてる姉ちゃん達、朝一のマリンスポーツを楽しむ家族、ギィギィ鳴いてるチュウサギ、停泊しているクルーザー。

一日ここにいたいなぁ。

 

携帯のメインカメラが壊れてもう2ヶ月くらい。QRコードが開けない不便さはあるけどまぁいいやって思ってた。でも砂浜の色んな模様を見ている時とか、やっぱりカメラ欲しいなぁって思った。ちょっとしたものを撮りたい時に特に便利だよね。

 

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これはインカメラで撮ってみたけど、なかなかいいなと思った。

でもこれを撮る姿は明らかに変人。身の丈に合っていると言われれば、まぁ…

クラゲっていうよりはタコに襲われてる人っぽい。

 

貝は食用のも何種類かいる。採りたくなっちゃう。

食用っていうのはいささか人間目線過ぎるから、可食の方がいい気もする。

 

突き出た岬の、左右からの波が重なる場所。少しづつズレながら微妙な模様を形作ってる。その模様に変な共感を覚えた。

 

寄せては返す波、穏やかな時の波はそのペースに僕を引き戻してくれる。

 

なんて書いてたらもう領事館開く時間だよ…用事終わったらお仕事。やだなぁ…

 

この砂浜がどこまで続いているのか確かめてみたい。仕事を放ってその衝動に身を任せられないのが僕の弱さ。

頭の中の地図も邪魔だな。

 

例えば縄文人にも、貝拾いに飽きて家族(群れ?)も放たらかして海岸をどこまでも行った人がいるのかな。そうだとしてもやっぱり居場所があるから、悩んだんだろうな。

 

いい加減行かなきゃ。

嫌じゃ!わらわは働きとうない!えーん!

走る

時々無性に走りたくなる。

走る。疾走。スプリント。ジョグじゃなくてね。

ゴールを決めてペースを保つわけでもなく、一瞬の衝動に任せて走る。

その時の気持ち良さ、風を切っている時の一時的な爽快感というのは、自らを覆う、追いかけてくる何かを振り切ろうとしている気持ち良さなのかもしれない。

走っているとそんなことを思う。

 

衝動はそれを望み、頭は馬鹿げている、無駄なことだと諭す。

そんなことすらも振り切るように駆ける。その一瞬の爽快感を求めて。

全てを振り切るような感覚。実際にはまたすぐに追いつかれ、覆われるのだけど、それを振り切った時は全く別の感覚になるような気がする。衝動を解き放つ瞬間。束縛や囲いから自由になるような感覚。霧を突き抜けて晴れた所に出るような感じ。

その時だけは追いつかれることがないし、何ものも僕を捕まえることは出来ない。そんな時は生きている実感を感じているのかもしれない。

 

ということはやっぱり僕は外側にいきたいのかな。もう全部振り切りたい。