感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

砂浜

朝領事館に用事があり、開くまでの間少し砂浜を散歩。人の少ない砂浜はいい。

 

色とりどりの貝、サンゴの欠片、食事中の小さなカニたち、クラゲ注意の看板、朝日できらめく波、海底の形によって様々な模様を描く砂、風を切るボート、夕方とは違った顔の島、楽しそうに散歩する親子、犬の散歩をするイケてる姉ちゃん達、朝一のマリンスポーツを楽しむ家族、ギィギィ鳴いてるチュウサギ、停泊しているクルーザー。

一日ここにいたいなぁ。

 

携帯のメインカメラが壊れてもう2ヶ月くらい。QRコードが開けない不便さはあるけどまぁいいやって思ってた。でも砂浜の色んな模様を見ている時とか、やっぱりカメラ欲しいなぁって思った。ちょっとしたものを撮りたい時に特に便利だよね。

 

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これはインカメラで撮ってみたけど、なかなかいいなと思った。

でもこれを撮る姿は明らかに変人。身の丈に合っていると言われれば、まぁ…

クラゲっていうよりはタコに襲われてる人っぽい。

 

貝は食用のも何種類かいる。採りたくなっちゃう。

食用っていうのはいささか人間目線過ぎるから、可食の方がいい気もする。

 

突き出た岬の、左右からの波が重なる場所。少しづつズレながら微妙な模様を形作ってる。その模様に変な共感を覚えた。

 

寄せては返す波、穏やかな時の波はそのペースに僕を引き戻してくれる。

 

なんて書いてたらもう領事館開く時間だよ…用事終わったらお仕事。やだなぁ…

 

この砂浜がどこまで続いているのか確かめてみたい。仕事を放ってその衝動に身を任せられないのが僕の弱さ。

頭の中の地図も邪魔だな。

 

例えば縄文人にも、貝拾いに飽きて家族(群れ?)も放たらかして海岸をどこまでも行った人がいるのかな。そうだとしてもやっぱり居場所があるから、悩んだんだろうな。

 

いい加減行かなきゃ。

嫌じゃ!わらわは働きとうない!えーん!

走る

時々無性に走りたくなる。

走る。疾走。スプリント。ジョグじゃなくてね。

ゴールを決めてペースを保つわけでもなく、一瞬の衝動に任せて走る。

その時の気持ち良さ、風を切っている時の一時的な爽快感というのは、自らを覆う、追いかけてくる何かを振り切ろうとしている気持ち良さなのかもしれない。

走っているとそんなことを思う。

 

衝動はそれを望み、頭は馬鹿げている、無駄なことだと諭す。

そんなことすらも振り切るように駆ける。その一瞬の爽快感を求めて。

全てを振り切るような感覚。実際にはまたすぐに追いつかれ、覆われるのだけど、それを振り切った時は全く別の感覚になるような気がする。衝動を解き放つ瞬間。束縛や囲いから自由になるような感覚。霧を突き抜けて晴れた所に出るような感じ。

その時だけは追いつかれることがないし、何ものも僕を捕まえることは出来ない。そんな時は生きている実感を感じているのかもしれない。

 

ということはやっぱり僕は外側にいきたいのかな。もう全部振り切りたい。

気力不足から お金、所有、Enter One - Sol Seppy

仕事をする気が起きない。いや、何もしてないようで結構忙しいんですよ。それがお金になるかどうかの問題であって、あんまりお金にならないから仕事してないと責められるような気になるんだろうね。そんなことしたり、送り迎えで車の運転したりしてるともう体力ゲージが赤くなって仕事に割ける余力がなくなる感じ。

 

でも一つ片付きそう。珍しく僕から見限って、しかも積極的に切ろうと思った。取りあえず穏便に距離を開ける形にしたから、このまま切れる縁なら切れるままにする。我が強くなったのか何なのか、申し訳なく思わないどころか腹が立った。

 

金銭に対しては僕の態度も良くないんだろうな。お金に価値を見出すのが難しいのに、お金がないと生活できないから面倒くさくて見たくないって思ってしまう。取りあえずお金のためと割り切って仕事をしてるつもりでもそれが透けて見えてしまうのかもしれない。つまり僕が放ってるのは「面倒にならないといいな」とかそういうムードであって、人によってはそれを察知してるのではないかって。

つけ込まれているというのは一面的な見方で、ある意味彼らは僕の望むものを与えてくれた気になっているのかもしれない。だからそれで十分でしょ?って態度になるのではないだろうか。いや、それでも十分面倒くさいんだけど。早く終わらせて森の中に住みたい。

 

もういっそお金超欲しいオーラを出そうかな。下賤さで嫌われて一石二鳥!でもその分やりたくもないことやることになったら元も子もないから、不労所得欲しいオーラはどうだろう。でもそれはそれで管理が難しそうだし。めんどくさ。

だからその態度がいけないんだろうって。わかってるけどわかってないんだよなぁ。

 

物々交換の世の中に戻らないかな。そうすればもっと分かり易いのに。所有の概念すら煩わしい。そう言いながら誰よりも自分の所有物に固執するんだろう?そりゃ、そうじゃなきゃ煩わしいと思わないだろうしね。

 

所有の概念がない部族って、元々所有意識がなかったのか、それとも共有意識や自然宗教的なものに対する意識でそれを乗り越えたのか、どっちなんだろう?もっと他があるのかもしれないけど。でも体感、僕は後者に近いのではないかと思う。上手く説明できないけど。

自然から借りてるっていう意味では実際誰のものでもあって誰のものでもないしね。

 

もういっそお金もそうしたらどうだろう。国のものってしたら共産主義的だけど、

誰のものでもあって誰のものでもないってしたら?人類いっぺんに変われるわけがないからそれは起き得ないのだろうけど、もしそうなったら経済も文明も崩壊するだろうね(歓喜)

 

またそうやって妄想に逃げ込もうとする。まぁ金曜だから許そう。

Civilizationシリーズとかもうタイトルからして文明ありきだけど、文明の発生前からのifを扱うシミュレーションゲームとかないかな。Empire Earthの先史時代だって実質石器時代からだし。わかってないものをどうシミュレーションするんだって話だけど、その辺りって人類史の想像の中では一番楽しい。大航海~植民地獲得競争辺りとは違った良さがある。

自然宗教勉強したいな。

 

そういえば今日とってもいい歌を見つけた。見つけたというよりyoutube musicでMy supermixっていう自分のLikeした曲とそれに類似したのが選ばれる機能があって、それ流してたら流れた。でもこれ既にLikeしてあったから、以前僕が同じ機能で流れた時にいいなって思ったんだと思う。記憶にないけど。

 


Enter One: Sol Seppy/w Lyrics

 

凄く好き。

ヴァースの部分の曲調やSophieの声色、そしてエコーがとても普段の僕の感覚と近いものがあって、聴いてて居心地がいい。

コーラスの部分はとても穏やかな中に絶対的な希望があって、優しく迎え入れてくる感じなんだけど、奥の方から吸い込まれそうになる。

ほんわかした気持ちになる。

 

歌詞は少し前の僕なら馴染まなかったかも。今はとても好き。追い求めてしまうくらい。

それにしても、こんなに本当と感じる『インシャ・アッラー』は初めて聞いた。

ここではよく聞く言葉だけど、大抵の人がインシャ・アッラーって言う時はこもってる気持ちが別のものだから… 小馬鹿にしたりはぐらかしたり、適当だったり定型句化していたり、格好つけだったり、立場上のものだったり。

でもこの『インシャ・アッラー』は違う。正にEnter Oneで、宗教的な意味よりもっと内的でそれでいて包括的なものに感じる。

 

僕がこれに惹かれるのは、それを望んでいるからなのかもしれない。憧れよりももっと経験的な意味でそれを予感はしているということなのだと思う。少なくとも反発はほとんどなくなったように思う。

 

“Fear not this light”

これがすごく優しくて、僕の恐れを分かってもらえたような感じがする。なぜ光に対して拒絶があるのだろう。

“Into the light” 嫌いなわけじゃない。寧ろその温かさを求めてる。

それに値しないっていうのが拗れてるのかな。そんな気がする。何だろうこれ。何かある。

 

 

Enter One - Sol Seppy

 

[Verse 1]
After a storm
I want to be brave
And keep you warm
And not fade away
As we float from the shore
Into the light
Into the unknown
Like thousands of lanterns
Glowing with grace
In glorious silence
Descending through space
To a friend
A sister in need
Who is not alone
And they are surrounding her
And they will enfold her outstretched hand
In our love

 

[Verse 2]
Into the light
It's hard to believe
It's always been ours to give
And to receive
I want to be shameless like the sun
Moving into you
Entering light

 

[Chorus]
Welcome
Insh'Allah, Insh'Allah
Enter one amazing grace is pouring down
Fear not this light
We are of this light divine
So come
We move as one
Amazing grace is pouring down
Fear not this light
We are on this light divine
Welcome
Enter one

 

[Verse 3]
After a storm
I wanna let go
Of the things that I’ve done
Without any worry
I wanna come home
Into the light
Into the unknown
I want to be shameless
Like the sun
Moving into you
Enter light

 

Sol Seppy – Enter One Lyrics | Genius Lyrics

 

今日は体力切れてこの歌聴きながら昼寝をして、目が醒めて時計を見たら4:44だった。ちょっと得した気分。子供の頃なら『学校のコワイうわさ 花子さんが来た』の4:44の話(団地から手招きしてるやつ)のせいで怖がっていただろうけど、さすがにもう怖くない。

 

いつにも増してとりとめがなくて笑う。どこか繋がってるようで繋がってない。ようでやっぱりちょっと繋がってる気もする。

おままごと、ドラマ 小1の記憶

子どもは親や大人たちを見て学ぶ。例えばおままごとやごっこ遊びは見たものを再現することによる体験型の学びなのだろう。

 

僕が子どもの頃、印象的な出来事がおままごとの中であったのをふと思い出した。

小1の頃、一時期よく一緒に遊んでいた同じクラスの女の子。保育園から一緒だったから割と抵抗なく遊んでいた。

 

その子は古びた平屋の借家に住んでいて、当時は母子家庭だった(3年生ぐらいの時親が再婚して名字が変わった)のでよく家に呼んでくれた。

ネズミが出るという家に僕は興味津々だった。スーパースコープというバズーカみたいな形のスーパーファミコンのコントローラーがあったのを覚えてるけど、テレビゲームをやった記憶はない。僕はそれをやってみたさに通っていたことがあった気もする。

お風呂の形が丸かったのも記憶に残ってる。

 

その子は気が強めの女の子なんだけど、遊び方とか決めてリードしてくれた。今思えば僕はそういう感じの子と仲良くなることが多かった気もする。

 

その子と遊ぶ時は大体2人きりだった。近所の小さな子が時々参加するくらい。あんまり友達が多い子ではなかった。

 

その子とのおままごとは特殊だった。うち一つは、今思うとかなり際どいんだけど、その子が全裸になり、僕も全裸にされて布団に寝転がるというもの。しっかりブランケットをかけて。何の意味があるのか当時はよく分からなかったけど、僕はそもそも他の遊びでもルールとかよく分からないまま遊んでいることが多かったから、別に何も不思議に思わなかった。その遊びは複数回した。

全裸になりブランケットをかけて意味のない会話をする。それだけ。何が楽しかったのかと聞かれると分からない。でも小さな頃は初めてのことは何でも楽しかったと思う。

 

もう一つ、これもおままごと(ごっこ遊び?)だったんだけど、その子と遊ばなくなる切っ掛けになったこと。設定は夫婦だったのだと思う。普通のおままごとだと思っていたら、外出から帰って来たママを演じるその子にいきなりビンタされた。「え?」って感じでいきなりのことにびっくりして僕は泣いた。わけがわからなかった。

その子も僕が泣いたことで現実に戻ったようで、謝られて一旦その場は落ち着いた。

でもそのすぐ後に近所の子供がオーディエンスとして加わり、気づけばその設定でおままごとが再開された。そしてその子は近所の子に向かって、僕が嘘を吐いたと言いながら嘘泣きを始めた。「私がいるのに彼女がいる」「最低な男」という意味不明なことも言いだした。

後々思ったのだけど、クレヨンしんちゃんのネネちゃんのおままごと、あれに似ていると思う。

 

僕は意味が分からないながらも、嘘を吐いた覚えがないのに嘘を吐いたと言われて怒ってしまった。しかも最低なんて言われて、それはどっちだよと思った。さっき僕に謝ったのは何だったのか。色んな事が頭を過った。The 理不尽。

もはやおままごとと現実の区別はなかった。僕はとにかく嘘が嫌だったし、嘘吐きと思われるのはもっと嫌だった。多分僕の昔からの潜在的な恐怖でもある。

誤解を助長したのは、僕の中でそれが既におままごとではなかったというのもあるだろう。僕の中の常識ではおままごとの中でビンタも感情的な罵りもなかった。家庭でそういう光景を見るようになったのはもう少し後のことだったし。

 

拗ねる僕に対し戸惑いながら弁解するその子の言葉を、僕は聞く耳を持たなかった。僕は近所の子たちに「僕は嘘はついてない、嘘つきは~ちゃんの方だ」と弁明し、プンスカしながら家に帰った。

それからは僕はその子と遊ぶことは殆どなかった。嫌な子だと思った。何年か経ってから2回くらい遊んだかも。それぐらい。

 

今思えば全裸ブランケットもビンタも罵りも、その子の中では紛れもないおままごとだったのだろう。恐らくその子は自分が見た光景(実際に見たのか、テレビで見たのかはわからない)を演じ、体験遊びをしたに過ぎない。大人を取り込み、自分のものにするための行動、学習。だからあんなにたどたどしくも感情が乗り移っていた。おままごと兼ドラマみたいな感じだよね。そうだ、僕の中ではおままごとは単に調理とか配膳だったのだろう。

だって小1だよ?僕男女関係なんてその時は全然分からなかったよ。パパとママと一緒に住むものっていう程度の認識しかなかったはず。性教育の内容と理科と従兄の部屋で見たエッチな同人誌と自分の世界の男女が繋がって、やっと性について理解し始めたのが中3くらい。やや遅め。

 

まぁ、そんなこんなで嫌になってしまった友達だけど、そう考えるとその子も再現を通していろいろ知りたかっただけなんだろうなって。

実際に見たのか、テレビで見たのかはわからないとは一応書いたものの、使う茶色のブランケットも布団も場所もいつも固定で、寝転がる場所も指定されていた。シチュエーションの型があった。そしてここは記憶が曖昧だから、僕が付け足したのかもしれないけど、早く寝なさいとその子が架空の子供を追い払うシーンがあった気がする。

 

だから、その子が演じていたのはいつも母親で、オーディエンスとなった小さい子や誰もいない空間の側からその子が見た光景だったのかなって。母親を真似るというのは他の動物を見ていても正常な学習行動だと思う。そう思うともう嫌な子とは思わなくなった。同情はしないけど…

そして小1の僕は気づかぬうちに実在する大人の男を演じていたのかもしれない。そう思うと感慨深いね。ビンタされたのは多分僕だけじゃないのだ。やはりその瞬間、僕はその子から見たら罪な男だったんだろうね。

 

それぞれを通して重なる空間と記憶。その連続こそが恐ろしいドラマだと思う。

 

人生自体が単なるドラマのような感じなのに、その中で見て真似、演じ演じられ、それが繋がり人格が形作られ、また見て真似、演じ演じられていく。外側でも内側でも。鏡に映るものはどこからきたもので、どこへ行くのだろう?

ひな祭り から 転んだこと、イライラのこと

今日はひな祭りでしたね。実家は五月人形はあったけど雛人形はなかったな。

 

数日前、fbに以前アップロードした画像が出てきて、とても懐かしい気持ちになった。

もう11年前の写真。

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可愛いでしょ?凄く懐かしい。

全校生徒約30名の学校で放課後コミュニティクラブの仕事をしてた時に、当時小3でいつも迎えが一番最後の2人が指導員のおばちゃんと一緒に作ってくれたの。今でも実家にしまってある。特に懐いてくれた2人。

 

落ち着いたら顔出そうかなと思ってたらもう11年経っちゃったよ。ってことはあの子達今年新成人だったのか… 感慨深いような恐ろしいような。みんな元気にしてるのかな。当時お兄さんだった僕ももうおっさんですよ。いやぁ…

あの頃の僕はまだ荒んだものが残っていた時期だったから、ここで子供たちに混じって過ごした時間はとても貴重だった。あの体育館の2階の夕方の空気、とても懐かしい。

 

 

ところで、今夜は散歩中に側溝に足を踏み外して転んでしまった。大した怪我ではないんだけど、ネズミが多いので一応オキシドールで消毒。散々だね。まぁ僕の不注意だけど。ショートカットしようとしてね、側溝がそこにあるの忘れてたの。段差で見えなかったのと考え事してたのと。

近くを歩いてた若い兄ちゃんが僕が落ちた瞬間視線を逸らしたのが面白かった。そりゃ急に落ちられたら反応に困るよね。

 

 

 

あとはそうだなぁ。ちょっとイライラがつのってた相手に昨日メールの返信をしたんですね。貰ったメールは自分でも感心するぐらい内容に腹が立った。僕ってこんなにイライラするんだなぁって。アンビエントミュージック聞きながら、それでも冷静さを失ったら中断してを繰り返し、3時間以上かけて書いた。

ちょっと行き違いが多すぎるので、それを正さないといけないのもあってかなり長く苦言たっぷり。これで切れる縁ならそれまでだと思う。というか正せないようなら僕は続けられない。

昨日の夜、夜中に着くように日時指定してemailを送信した。僕は日時指定でメール送ることが多い。これはすぐ返信貰いたくない時とかにも役立つ。送った達成感は得られるし、あとで冷静になって気づくことがあれば送信キャンセルして編集し直せる。夜更かしして書いた感を出すなら2:17とかに送信設定すると◎。

僕がgmailで使う常套手段。皆も使っていいよ!

 

それでその返信が今日の昼に届いた。通知を見ただけでイライラしてしまって、しかもそこに「この件に関しては一度お電話で」どうのこうのって書いてあったから面倒くさいなぁって思ってまだ開けてない。電話嫌いなんだよなぁ。しかも僕怒ってる感を醸し出したいのに電話口だと大人しくなっちゃいそうだし。

 

メール開くかどうか考え中。今読むと折角の寝る前の時間も睡眠時間も台無しになりそうだし、でも開けなかったら開けないで気になるし。

開けるか。よし。気持ちを落ち着かせてから開ける。

 


Ambient Space Music. Space Journey ~ Romantic ~ Deep Relaxation ~ Stress Relief ~ Dreaming

 

これ暫く見ると気分が落ち着く。僕のイライラや不安の対象など宇宙の規模から見ればなんと他愛もないことなのでしょう。寧ろそれを感じられることこそ奇跡なのでは?って感じで。

そろそろいいかな。超銀河団の外側って何があるのだろう。メールよりそっちの方が気になる。宇宙は何個あるのかな。何個って概念で計れるのかな。

 

さて。

一度お電話でお話ししませんか?以上のことは書いてなかった 笑

こやつ…

面倒くさいけど憎めないんだよなぁ。なんかこう、ロボットと対話してるみたい。だめだ、心を鬼にしなくては。また吸い取られる。くそぅ。

 

はぁ、なんか疲れた。自分に。馬鹿らし。

通じない対話を続ける意味があるのだろうか。お互いの為に良くないと思うんだけどな。いや、僕にとってか。

 

もう別の銀河に行きたい。行っても変わらないんだろうなぁ。分かってるよ。

夜空 から 変化、切れ目、ズームアウト

顔の隠れかけた月、その月明かりに照らされる雲がとても綺麗だった。滑らかな雲が月を隠し、少し離れた所から山陰まで鮮明な雲の浮島の世界が広がっていた。カメラを取りに戻ろうかと思ったけど、変わり続けるその景色をずっと見ていたくて立ち止まってた。

ヤシの葉が揺れ、生暖かさと涼しさが入り混じった風が肌に触れた時、ずっと遠くに同じ感触に触れた夜があったことが蘇った。はっきり思い出したわけじゃない。夜家族と外に出れる非日常にワクワクするも、何かを予期した不安な感覚。

 

空は更に流れ、見えない雲に月の場所が分からなくなる。月はいなくなったのに、相変わらず白い雲の世界はより一層はっきりとしていた。雲でできた陸地と陸地の間には明るい星が一つ、煌々と光の波紋を放つように輝く。その光景に胸の奥から吸い込まれるような気持になった。

その時夜空の美しさに感じた怖さ。

 

僕がここに居るということに対する怖さ。

ここが怖いというわけではなく、僕が居るのが、あのいつも違った美しさを見せる夜空ではない、ということに対する怖さ。怖いと思った。そのまま不安になった。

それは多分、風が運んできた過去の感覚と結びついたから。

 

いや、実際不安なのだ。最近ずっと不安だった。見ないようにしていただけ。

大きな変化の中に居ることを肌で感じている。自分の中の変化が人間関係に波及し、周りの世界の変化も人間関係に波及してきた。その変化は川の流れを見るように当然のもの。

それが、今まで乗っていた空気の変化からも、入り始めた新しい風からも、双方向から感じているから、もはや抗うようなものではないのだと思う。

 

僕も一つの束となった関係達との終わりをどこかで予期し、ある部分では踏ん切りがついている。すぐに切れるものではないけれど、僕がこの手で切れ込みを入れなければならない。ほんのちょっと切ってやれば、あとは自然と重みで切れていく。ほんのちょっと。その後は眺めるだけ。

それをすることが決まっているかのように感じている。しないという選択肢はないように。さぞ清々しいことだろう。

 

でも僕は別れが苦手。大抵の場合、僕の別れは流速の違いで起こる。みんなどこかに流れていってしまう。それでも寂しいことなのに、自分で切れ込みを入れるなんて。思い浮かぶのは血抜き。肉に入る切れ込み、噴き出し、滴る暖かく鮮やかな赤い血、遠くなる目、痙攣、そして止る。関係の死を見届ける気分。

 

これは通過儀礼のようなものなのかもしれない。行為自体に意味などなく、ただ示さなければならないのだろう。ある意味ではけじめ。

ただそれは、さっきも書いたように僕の中ではもう決まっている。

 

不安なのは別の部分。この変化がどこまで大きなものなのかが分からないから不安なのだろう。でも同時に、なるようにしかならないとも思う。だからさよならには感謝が芽吹く。それでいいんだろうなぁと思う。

 

お散歩の終盤はもの凄く騒々しくなりかけていたけど、今はまた静かになってる。

不安はいつも、意識を外側にズームアウトしていけば薄れていく。自分の姿が見えるから不安になるもので、山や月や星や銀河の尺度に身を置いていれば落ち着いてくるものだ。

現実逃避?まぁほら、どちらも現実だから。夢と意識と現実の関係でいうなれば、ただクロスしてるだけ。何言ってるの?わかんにゃい。

 

まぁ、だから僕はここに居るのが怖いんだと思う。でもそれが本当なら、怖がるまでもないのだろうけどね。

 

そんなことばっかりしてるから地に足がつかないのかと思ってたけど、ずっと地に足を着けて生きなきゃいけないわけはないと思うしね。べったり着かせようとするからダメなわけで、自分なりっていう方からいけば勝手に足は着くものだから。自分なりに自分のペースで着けばいい。そう。

月を歩く感じのイメージでいいかなと思う。

今は壁に手をついたりしながら宇宙ステーションの中移動してるような感じだけど、それもそれでいいかなと思う。目標は高く持って月ぐらいにしとく。

 

ほら、楽しいね。やっぱり軽い方が合う。このまま気体になって飛んで行ってしまいたい。ダメじゃん。いやダメじゃない。

 

 

*血抜きに対する僕の中でのイメージは大きく見れば肯定的なもの。血肉を狩るのは積極的な生の衝動。その消費(摂取)は連鎖の中の恵み。感謝と繋がり。彼の死が一つの融合となる瞬間。

The Personality Database

このサイト、著名人やフィクションキャラのMBTIやエニアグラム、その他諸々のタイプを投票するデータベースなんですけど、中々使えるのではないかなぁと思うのです。

The Personality Database | Personality Types for Famous & Fictional People

 

そういったタイプに当て嵌めて、しかも不特定多数が投票した結果でその人がどうこうって見るのはあんまり好きではないんだけど、逆から見ればその不特定多数の人が、その人が表に出す人柄や作品の要素から、そのように受け取ったってことなんですよね。

少なくともその人の作品はその性格型の要素があるということ。

割とコアな人が自己満足で使っていて、投票にはグーグルアカウントが必要だからそこまで的外れな投票もあまりないと感じる。

 

性格型というのは心理機能の傾向による物事の見え方や捉え方の傾向、それによって築かれる価値観等々の自分の中での傾向とかそんな感じだと思う。ここで自分と近い性格型やその要素を検索すると、自分と近い見え方で見た世界を様々な作品という形で仕上げた著名人や、その表現の形である作品や架空のキャラクターが見つかる。これが結構自分の持つ価値観を深めたり、他者を通して肯定するのに役立つものだと思う。

 

やり方は簡単。自分の性格型を他サイトで調べてから、このサイトでカテゴリや検索から自分と同じ要素を調べればいいだけです。

アルファベット4字がMBTI、数字w数字がエニアグラムタイプとウイング、数字3つがエニアグラムのトライタイプ、sp/soみたいなのがInstinct Stacking、アルファベット3文字がSocionics Personality Type、CholericとかMelancholicっていうのがFour Temperaments、Good - Neutral - EvilはMorality Alignment。

どれも焦点が違うので色々見てると面白い。

 

自分と近すぎるよりは違う要素も合わさっている人や作品の方が気づきは多いと思う。近い部分があるから普段自分からは見えないようなものや、拒絶してしまうものもすーっと受け容れられる形に整形されてたりっていうのもあると思うしね。

 

哲学者や小説の著者なんかはやっぱりこの人…的なのが多い。

 

逆に音楽なんかは近ければ近い方が溶け込んでいけるものが多い。そういう意味でFour Temperamentsも結構重要。音楽に何を求めるかにもよると思うけど、こうやって探せるのはとてもいい。

 

他にもいろんな使い方ができる。自分の好きな著名人を検索してみるとどうして惹かれるのか、合わない部分はどこなのかが分かったりするかもしれない。そこから自分の求める自分というのも見えてくると思う。

逆に違う人がどう見えているのか、他者理解という面でも使えるものだろう。分からないものは分からないんだけど、どうして分からないのかが分かるのは有用だと思う。

アンケート的な使い方をしている人もいて、それを見てても面白い。

 

僕が一番共通項目が多いのはこの半フィクションキャラこのフィクションキャラでした。まぁ、さもありなん的な感じかな。僕は各要素的にはこの2人を足して2で割ると丁度くらい。

前の人はすっごくよく分かる。下手したら僕もこういう最期を迎えそうと思う時がある。教訓にしようとは思わないね。寧ろ尊敬する。

後ろの人はね、調子いい時は僕もこんな感じかな。このブログで見える僕とはかなり違うかもしれないけど。ある意味理想的なモード。

両方理想的なんだけどね、前者は生き方、後者は精神状態かな。

 

生き方?死に様?いや、本や映画は教訓くささが出てしまうけど、彼の場合はちょっと急ぎ過ぎたのと場所が悪かったのもあると思う。確かに後悔もあっただろうし、そこで思ったこともあっただろうけど、彼の衝動に従った部分が間違いだったと誰が言えるだろうか。急ぎ過ぎたというのも結果論なわけだし。偶々死んでしまったから有名になって本や映画にまでされてしまっただけだと思う。ということは生き方かな。

 

何書いてたんだっけ。

このサイトがこういう使い方出来るよ!って話でした。