感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

客観 から

客観とは何なのだろう。主観と客観。人と人の織りなす社会では客観性が重視される場面が多い。そこに主観客観の二元的な見方が客観を信用に足るもの、正しいもの、主観をその逆としがちだと思う。

 

でも主観と客観という二元的な捉え方はどうなのだろうか。客観性も主観性も重なるものであって、どこから何をみるかで使い分けるっていう方が僕はいいと思う。あ、いや、別に二元的に見てもいいと思うけど。

 

客観で調べると主観の外側とか反対側とか、意識から独立した観点とか、第三者の視点って書いてある。

 

でも例えば客観と呼ばれるものが、ある集団にとっての主観でしかないということがいかに多いことだろう。そこで事実とされるものが、やはりそこだけのものであることがどれだけあるだろう。

彼が主張する客観的な事実が彼の上位の集団の主観でしかない時、僕がその集団の外から見ていればそれは主観的主張に感じてしまう。そしてそこに正しさが入り混じった時排他性が発現する。

客観性が人と人の間にある限り、多くはこれで、あとは程度の差でしかないのではないだろうか。

 

科学的事実だって時代や勢力によってアップデートされ続けるだけで、大げさに言えば100年前の科学的事実と100年後の科学的事実はそれぞれの客観性を持っているけれど間に挟まれた僕から見たらそれぞれの主観じゃんってなる。僕から見たら100年前の方は「なんだこいついまだにそんなこと言ってんの?」って思うかもしれないし、100年後の方は「は?意味わかんない」って思うかもしれない。ものにもよるだろうけどね。

 

求められる根拠というのも客観性を重視されるけど、その根拠になり得る客観的なものがどれだけあって幅広いか考えると気が遠くなることだろう。

 

客観を信じてやまないことは自らが構成要素になった集団としての意識に答えを委ねている状態であって、ル・ボンの言うオートマトンと多分重なるものだと思う。それが外から見ると感情的な主観に感じるのは、多分接着剤というかwifi通信として集団の中の人を繋げる作用を感情が担ってるからだと思う。わかんないけど。

さらっと集団としての意識と書いたけど、集団は意識を持ってるのだろうか。でも僕の中で独立した器官が知覚したものもまとめて意識されるわけだし、腸内細菌やウイルスや寄生虫もそれに一枚噛むって考えれば何も不思議なことはないと思う。似たような機能を示すのだし、社会性なのかそれ以上のものが生んだのかわからないけど、そういう作用はあるのだろう。

まぁ、実際そこにあるように感じるのだからそれでいいってことにしよう。

 

ワンネス(を個々が感じる)っていうのも共通点があるのかな。対象がより普遍的な上位なのか、なんなのか。でも集団の中のそれとは使ってる領域も違うかも。

 

別に客観をディスってるわけじゃないの。(ディスるなんてナウでヤングな言葉初めて使った!)

正しさや善悪も客観的主張が結構狭い範囲のものだった場合とか、勢いのある流れの生んだものの時って割とすぐ掌返すじゃん。下位の集団や個々は驚く程それに気づかないまま正反対のこと言い出す。それが怖いの。そうなの?まぁわかるけど。

もし前世があったなら多分僕はこれに殺されてるね。いや、殺した側なのかな。

 

怖いっていうのは置いといて、それが嫌いなの。それが見えると今まで散々言ってた(言ってなくても態度で根拠としていた)客観ってなんだよって思う。冒涜とさえ思う。何に対してだか知らないけど何かこだわりがあるんだろう。

もっといろんな客観で見ればいいのにと思う。

 

仮に集団の中の立場であっても個々の主観に立った(と意識せずとも認識した上で)主張を交える人に僕が抱く安心感は、そこに彼の主観的事実があることでもある。集団的な幻想より個人的な幻想の方が『個人的な』と弁えてる部分で害は少ないからなのかな。流れとして巻き込もうとはしてこないわけで…

それに少なくともそういう個人は1人以上いるということだしね。

 

さて、もう2時です。で、何が言いたかったのかなぁってさっと上にスクロールしてみたところ、やっぱりいつもの集団怖いの一言でまとまるのではないかという説が濃厚。

お前もその一部なんだぜって今誰かが言った一言はわかるけど、だからなんだろうなぁ。そうねぇ。でもそれじゃないんだよなぁ。

ユートピアとディストピア から

ディストピアはユートピアの反対とされることが多いけど、果たしてそうだろうか?そもそものディストピアも幅がかなり広いのだけど、少なくとも正反対とか陰陽の関係とかそういうものではないと思う。

 

ユートピア、理想郷もある点から見た理想郷に過ぎないのなら、ディストピアもある種の理想郷であって、それはユートピアの一種なのではないだろうか。

最小不幸であれ最大幸福であれ、統制下の秩序であれ無秩序であれ。

 

結局はそれを選ぶ側の問題になる気がする。

いや、ユートピアと呼ばれるものがその程度のもの、ある点から見た理想でしかないのなら、それはユートピアとしては甘えだと思う。それは寧ろある種のディストピアではないか。ディストピアとはどこかで現実的なものだ。ユートピアンならその先の理想を見てもいいと思う。

「大昔から見たら現在は十分ユートピアだ」っていう人が居るけど、その人の言うユートピアと僕の思うユートピアは別のものだ。大昔から見たらとか十分とかそういう相対的なものじゃないと思う。それは甘え。

 

ディストピアを越えてユートピアで在ろうとするなら、その受け手によるという部分をどうにかしないといけない。

そこで受け手に手を付ければそれはもうディストピアになってしまうから、「それぞれの人々が本来的な姿で理想郷と感じる」という線を上手く越えなければユートピアにはならないのではないか。だからユートピアは個々だけでなく全体意思によって築き上げられなければならない。

でも本来的とはなんだろう?その追い求め方でもディストピア止まりになるのかもしれない。

 

ディストピアはどこかで現実的と書いたけど、僕はユートピアは現実的かどうかなんて度外視でいいと思う。ユートピアがユートピアであるのは手が届かないからだ。それを想うことに意味があるのではないだろうか。

ツァラトゥストラが言う、人間という不完全な生き物は超人に向かって架け渡された綱や橋だって言うのと同じで、ユートピアは僕達には手が届かないものだからこそのものであり、それを意識することに意味があるのだと思う。不完全な社会や集団が橋になるためには、その先にユートピアがなければならないし、その存在によって導かれるように目指すことになる。人は夢見る生き物だから。

 

そうであるなら、ディストピアもユートピアを夢見た者の試行なのかもしれない。ディストピアがディストピアで終わるのはそれがユートピアたり得ないと認識できるからだ。そしてそれは同時に教訓を示すものであるから、やはり橋の上にあるものだと思う。終着点ではないから、そしてユートピアに繋がるものだからディストピアなのだろう。

 

超人とユートピア、理想の人間と理想の社会を重ねると、現在は不完全な人間と不完全な社会という対比になるけど、ではユートピアの実現には人間すべてが超人にならなければならないのかという疑問が浮かぶ。多分そうだと思う。同時に乗り越えられる?分からないけど、やはり並行して重なり合った綱が沢山あって、皆がそれを渡っているということなのだろうか。

 

なんか滑稽じゃない?滑稽って好き。何と滑稽な世界だろう。僕も君もみんな滑稽!って思うと楽になる。

 

ユートピアユートピア書いといてあれだけど、ユートピアの中身ってなんだろう?

考えたこともなかった。随分とふんわりした概念として使ってたんだなぁ。イメージの中にはハッキリあるのにな。不思議。

でも実際中身なんてわかんないよね。超人にしかわかんないってことかな。案外温泉パラダイスみたいなものだったりして。でも温泉は一人でまったりが好きです。

Evanescence - Fallen から

高校1年の時かな。Evanescenceのアルバム『Fallen』を買ったんですよ。この中のBring Me to Lifeが映画デアデビルに使われて、多分初めて聞いたのはその映画のトレーラーかCMだった。夜10時ごろの居間のテレビ。あの瞬間は結構はっきり記憶に残ってる。

 

因みにデアデビルはマーベルで一番好き。映画も好きだった。評価が低いの納得がいかない。

 

このCDは映画が公開された後に出たんだっけな。あんまり覚えてない。でもTSUTAYAで発売日に買ったのは覚えてる。

当時バイトもしていない幼気な少年にとって新品のCDアルバムは高級品ですよ。僕が買った新品のCDアルバムとしては3枚目だったかな。MDに移してウォークマンで聴いたり、デスクトップPCにコピーしたりしてとっても大事に聴いてた。今でも実家の棚の中で埃被ってる。

なんだかんだあった時期の夜とか、転校して隣の駅から学校に通う電車の中とか、そのあと何もできなかった2年間の塞ぎこんでる時とか、それが過ぎた後通信制の大学に通っている時とか、かなり色んな場面で聴いたと思う。勿論他の曲も聴いたけど、このアルバムを移したMDが一番よく聴いたかな。

 

当時はパニック発作やフラッシュバックもあって電車すっごいダメだったんだけど、こういう音楽とサングラス(過覚醒状態だと眩しくなる)と一時期は安定剤のフル武装+人の少ない最後尾の車両選んで何とかいけた。辛くなったら途中下車して休憩したりね。今思えば当時の僕も彼なりに頑張ったんだろうね。

 

このFallenはEvanescenceのファーストアルバムなんだけど、内的で感情的な曲が多いんですよね。それが合ったのかな。この次のライブアルバムまで買って、その前後で主要メンバーのBen Moodyが抜けたとかで暫く音沙汰が無くなった頃から知らない。

 

一歩間違えなくても病んでるような曲が多いんだけど、まぁ苦しいからそういう感情があるわけだしね。アーティストとしては産みの苦しみだと思う。

当時の僕は英語も今ほど分からなかったし、Amy Leeの込める感情に反応していたんだと思う。込める?歌に込める。出して(表現だけど)込める。

僕は外に出さないで全部閉じ込めちゃうタイプだから代わりに出してもらってる感じかな。感情が込められた歌はリードしてくれる気がする。歌声に手を引かれるように自分の感情をなぞるから、共感を通して自分が閉じ込めてる同じ感情が肯定される。だから浸ることで安心感があるし、許される。

あと、元々のトーンも合うのかも。

 

悲しい曲や辛い曲ばかり聴くのは良くないとか、同じ感情を起こさせる歌を繰り返し聴くのはある感情に対する依存だとまで世間では言われたりするけれど、そういうのは僕は違うと思う。

 

何て言うのかな。暗い気持ちが安らぐのは静かな暗闇の中であって、無理やり照らされたら痛いじゃん?ドラキュラかよ。
まぁほら、必要だから浸るわけです(脆弁)

悲しい曲ばかり聴くのは良くないと思う人が悲しい曲ばかり聴くのは良くないんだと思う。(相対主義的防御の構え)

まぁいいや。

 

なんてことを色々思い出してたのは、何日か前お散歩するときに急にこのアルバムが聴きたくなって超久々に聴いたから。その夜全部通して聴いた時はちょっと疲れたけど、やっぱり好きだなぁって思った。それからまた何度も聴いてる。

あんまりガシャガシャした曲って苦手なんだけど、EvanescenceとLacuna Coilは当時よく聴いた。Lacuna Coilは苦手な曲も割とあったけど。

 

Fallenの曲は全部好きだけど、僕が一番好きなのはImaginary。夢に逃避している時だけ救われる我々不適合陰キャの気持ちを見事に…って言うと聞こえが悪いけど、とても儚い美しさのある曲だと思う。この曲は前のトラックのTourniquetとメロディがそのまま繋がるように作られているのだけど、このどうしようもない深い苦しみからの夢や幻想の世界への逃避っていう流れるようなモードチェンジが凄くこう、身に覚えのある感じがする。救われるんだよなぁ。

 


Evanescence-Tourniquet (with lyrics)

I tried to kill the pain
But only brought more
(So much more)
I lay dying
And I'm pouring, crimson regret, and betrayal

 

I'm dying
Praying
Bleeding
Screaming
Am I too lost to be saved?
Am I too lost?
My God! My tourniquet
Return to me salvation
My God! My tourniquet
Return to me salvation

 

Do you remember me?
Lost for so long
Will you be on the other side?
Will you forget me?

 

I'm dying
Praying
Bleeding
Screaming

 

Am I too lost to be saved?
Am I too lost?

 

My God! My tourniquet
Return to me salvation
My God! My tourniquet
Return to me salvation

 

(Return to me salvation)
(I want to die!)

 

My God! My tourniquet
Return to me salvation
My God! My tourniquet
Return to me salvation

 

My wounds cry for the grave
My soul cries, for deliverance
Will I be denied?
Christ! Tourniquet! My suicide


提供元: LyricFind

 


Evanescence-Imaginary (with lyrics)

I linger in the doorway
Of alarm clocks screaming monsters calling my name
Let me stay
Where the wind will whisper to me
Where the raindrops as they're falling tell a story

 

In my field of paper flowers
And candy clouds of lullaby
I lie inside myself for hours
And watch my purple sky fly over me

 

Don't say I'm out of touch
With this rampant chaos your reality
I know well what lies beyond my sleeping refuge
The nightmare I built my own world to escape

 

In my field of paper flowers
And candy clouds of lullaby
I lie inside myself for hours
And watch my purple sky fly over me

 

Swallowed up in the sound of my screaming
Cannot cease for the fear of silent nights
Oh how I long for the deep sleep dreaming
The goddess of imaginary light

 

In my field of paper flowers
And candy clouds of lullaby
I lie inside myself for hours
And watch my purple sky fly over me


提供元: LyricFind

 

このアルバムはやっぱり全部通して聴くのが好き。

魂の存在 から

魂とはなんだろう?Soulの方。

それが存在するにせよしないにせよ、多くの人がその存在を確信している。触れた人、見た人、聴いた人、中に入った人、信じる人。統合っていうのも色々読んでもまだ落とし込めない。

それを自分なりに見つけることは僕が生きる上で一つの何かになる気がする。何か見えた時、道筋が浮かんだ時、何となくわかった時、引っかかるのはいつもこれだ。

魂、信念、意味。

 

精神世界に入り浸って生きているのに、心というのも朧気にしかわからないでいる。その存在に実感がないから在るという仮定が弱い。魂はそれよりもさらに奥のもののようだから、もっと分からない。

じゃあなぜそれにこだわるのかと言えば、その存在が発すると言われる感覚の方はとても強く感じているから。解釈が悪いのだろうか。解釈しようとするから余計わからないのかな。でもそれ無しにどう信じるのだろう?せめて実感があれば。

思想体系が合わないのか。精神側だから餅は餅屋でスピリチュアルに行きつくのだけど、なんだろうな。僕は調べて読んだものをそのまま信じれるほど素直じゃないし、湧き上がる疑念に打ち勝てるほど強くもない。経験的な裏付けが欲しい。

ざっくりとスピリチュアルと言っても色々あるのだろうから、僕に合うものもあるのだろうか。

 

逆に深層心理学の方から行こうとしても、例えばユングの思想なんかも彼の根本に根付いたスピリチュアル観があってこそのものだと思うので、結局そこで引っ掛かる。おじちゃん、僕が聞きたいのはそこじゃなくてぇ…ってなる。後世の人の後付けも結局彼が何を根本に持っていたか、奥底で何を見ていたかを知っているわけじゃなく、勝手に解釈しているに過ぎないと思う。その部分に対する言及を避ける人もいるけど、それでいいのだと思う。彼自身でもその世代でもなくその文化の中で育ったわけでもないのであればわからないのだから。わかる人が居てもいいとは思うけど、その人ですら証明のしようがない。

 

宗教系は年を取れば取るほど、熱心な信徒を見る度にそこに強さを見るようになった。ということはその部分、自分自身の信じる部分に弱さを見ているのだろうけど。だってぇ…

お祈りしてる集団とか見ると「僕も人間になりたい」的な感情が湧く。なりたくもないくせに。いや、部分的にね?

そう感じるのは疎外感なんだろう。昔はそんなもの感じなかった。それだけ弱くなったのかなぁと思ったけど、多分当時は僕にとって科学が宗教の役割も演じていたからだと思う。ああ、どっちつかずなのね。知ってた。

 

現代教育の産んだ失敗作なのではないか。ろくに勉強しなかったくせによく言うね!しかもそういう自分が嫌いと言いながら嫌いじゃないとも思ってるでしょ。魂胆は見え透いてるぞ。はい。

 

科学と宗教がうまく融合している人は学者の中にも宗教家の中にも全く別の分野の人にもいる。それは個人の中で中々仲良くしてくれないその2つが上手く溶け合い協調しているからなのだろう。そうじゃなくて、バラバラの主張をうまく継ぎ接ぎして恐らく無意識に利用している人もいる。片方だけ強い人はもっと沢山いる。僕はうまく融合しているような人の書き物とか物言いは好きだから、そういう方向に憧れがあるのだと思う。そうなの?まぁわからなくもない。

 

さっきふと思ったけど、魂というものの存在を認識する上で確証は必要なのだろうか?確証なしにその存在を受け容れるには寛容か信念が必要なのだと思う。他の道から入り込むにも何かが足りない。やっぱり難しい。

 

ブレイクスルーさえあればって思っちゃう。ふと上から見たら「なーんだ」的なことが多いから、よくそれに頼りたくなる。

 

ずっと迷ってる迷路の壁が実はお菓子でできていて、つんつんするとぼろって崩れたりしないかな。真剣に悩んでいた今までの時間を笑いながら、半ば自嘲も込めて崩れた壁を食べてやりたい。「美味しいね」って。花の蜜のケーキ。

その瞬間どんより灰色で閉塞的だった通路は光が差し、全く違う景色になる。そんな経験が何度あっただろう。今回は長い。

迷路は崩れる度にその外側に別の迷路が存在している。体感的には前より広いはずの迷路の通路だけど、ネズミだった自分が人間になるぐらいのサイズ変化があるから、結局自分がまたネズミに戻ったのと同じような感じになる。このループを越えて、いつか何もない外宇宙のような所に出るのを夢見てる。そのループが無限に続くのではないかという疑念、恐れから逃れるために。

 

仕事の合間に何を書いているんだろうか。一旦切って後で再開しようと思ったけど、それやると「やっぱいいや!」ってなって下書きだけ増えるから今はおしまい!

 

まとめ。

要点は

 

わかんない!

旧正月、月と人と感覚

いざ書こうと思ったら書きたいことが浮かばない。何書こうかな。30秒頭を空にして浮かんだことを書こう。

森喜朗…

時事問題書く気分じゃないなぁ。まぁみんな鬱憤溜まってるんだろうなって思う。全員が深呼吸してから対話すれば大分マシだと思うんだけどな。以上!

 

 

そういえば旧正月ですね。花火がいっぱい上がってます。

太陰暦って月と人の営みの関係がどれだけ密接だったか、そして今はそれがどれだけ薄くなったかを思い起こさせてくれる気がする。

太陽は確かに季節を考える上では重要だけど、カレンダーが印刷されるようになるまでは月の満ち欠けがそれを伝えていたんだろうなって。

 

それは村の生活で思っていた。あそこの生活では僕は時計もカレンダーも見たくないからあんまり見ないのだけど、どのみち月の周期で大体の日数の経過はわかるし、漁には潮汐が、狩猟には夜の明るさが重要だから結局そっちに生活が合っていく。月のリズムは生活そのものであると言ってもいい。

だから旧暦のような太陰太陽暦は現代の生活でも使えるものなんじゃないかなって思う。太陽の暦の季節感に加えて、より密接に生物、地球そのもののリズムと関わる月の満ち欠けが考慮されているのだから。夜の明るさ、潮の満ち引き、引力。殆どの生き物はその周期の中に生理反応や行動がある。

いくら自然と関わりの薄い営みが人の生活になっているとしても、電灯の下で月の明るさを感じなくなっているとしても、自然の中の存在であることは変わりないのだからって書こうと思ったけどやっぱり関わりそのものが薄くなってるんだもんね。

 

月の下で生まれて月の下で育まれてきた人類はやっぱり月から遠のいたのかな。

でもそれは何千万年という連続を通して僕らの内側にあるのだから、また人が意識するようになれば呼び覚まされるものでもあると思う。それは僕が月明かりの下の生活で感じたもの。

呼び覚まされるって何が?って、わかんないけど、なんかそういう感覚があるわけですよね。森の中で自分の位置を認識する感覚も似たものがあると思う。頭で考えるならとことん頭で考えないと迷う。でもその逆に、森と一体となったような感覚の時は考えない方が迷わない。これも説明しづらいんだけど、なんて言うんだろう。feelじゃなくてsenseなの。でも中途半端はダメ、下手すると逝く。

動物の帰巣性には磁力が関係するって話もあるけど、環境中の色んなものを利用しているのが動物なのだから、ヒトにもまだわかってない何かが色々あるのだろうと思う。その中でも月が知らせる変化の多さから、月の満ち欠けに関わる何かがヒトの中に内蔵されていると考える方が妥当だろうし、なら何かしら生理的な反応を起こさせるものであってもおかしくはないと思う。そうであればそれが薄れた状態は何か失った状態なのかも知れない。

だからではないけど、僕が村の生活で感じたのはそういったリハビリ感とそれによる充足感も大きい。

 

何が言いたいのって、やっぱり月はいいなぁって事なんだろうね。

繋がりが薄れているのは最早人類にとって必要ないからなのだ、月など忘れてしまえ。っていうのもディストピア的展開で好きだよ?どっちも自分の中にいて両極端。はいまたいつもの流れ。カット。

 

去年の春節はちょっとウイルスのあれで寂しくなり始める頃だった。もう一年。早いねぇ。

無理に人と会わないで過ごせるし、出入国とか地域間移動が面倒じゃなきゃずっとこのままでいいんだけどなぁ。なんて言ってると人と全然会わなくなっちゃうから、多少無理に人と会わなきゃいけない状態も有難いということなのだろうね。

 

去年ほど絶望的な迷子感がなくて割と過ごしやすい今日この頃。何であんなに辛かったんだろうなぁ。またなるのかな?それはそれで…って思っちゃうあたりMだよね。でもあれはあれで意欲的だったんだと思う。その辺はいいなってね。

お誕生日 から

昨日また太陽を一周してしまった。銀河内では曲線的な螺旋運動だとするとこの34周の間に僕はどれだけこの銀河の中を移動したのだろう。きっと宇宙の中では僕の小ささからすると途方もない距離を移動していて、宇宙の大きさからすればそれは微々たるものなんだろうね。西遊記みたい。昔の人は今よりもっと宇宙を理解してたのかも。

 

時間の外側では距離って存在できるのだろうか。人間の置かれた時間って本当に不思議。でも人間がその時間の中に置かれているのは事実だからその外側を想像することに何の意味があるのか。ってよく思ったけど、そっちの方が楽しいんだよね。そうやって外に外に出たがるってことは勝手に閉じ込められてると思ってるのかな。実際閉じ込められてるじゃん?でも外を見なければ閉じ込められていないわけだから、無意味に外を想像するのをやめれば?って思うじゃん?無理なんだよねぇ。

 

自由に双方を行ったり来たり出来ればいいのかな。トリッキーに色んなスイッチをオンオフして。でも僕のコントロールは僕の中でそれができるほどに及んでない。

 

その2つを隔てる障壁がなくなれば、今と想像の入り混じった世界で生きられるかな。絶対支障出そう。今が浸食されて透けていって今ではなくなってしまう気がする。

今この瞬間が限りなく今であるのは、それが実体として知覚され認識されるからなのだろうか。主観的な今と過去未来の違い。

 

ところで、さっき人間の置かれた時間と書いたけど、マイスター・ホラは時間はそれぞれの人間の中に在ると言う。モモはそれを知っていて、奥底から鳴り続ける音楽のような物だと言う。それもよくわかる。

少なくともそっちの時間は牢獄という類のものではない。今も未来も過去も完全に混ざることは無くても多分一つの音楽を奏でているのだろう。なんてことを思うとスーッと今まで書いてたことがどうでもよくなる現象。

 

 

34歳ねぇ。僕は何歳であれあんまり関係ないと思ってる。何歳からだろう。誕生日が来る度に60歳まで生きるとしたらもう1/5終わっちゃったとか、もう1/4終わっちゃったとか数えてた。いつからかその見方があんまり好きじゃなくなってた。

いつまで生きるか分からないから無意味っていう意味ではなくて、結局囲いを作って外からありもしない残りの時間を数えてるのは自分なんだなぁと思って。時間だけじゃないけど、色々そういう風に変わった。

別にその見方が悪いと思うわけじゃないけど、辛い辛いって思いながら自分でそれやってちゃ世話ないだろうって。その癖はまだ完全に抜けてないんだろうけどね。

 

 

年相応がどうのこうのとか大人はどうのとか聞くと今でも「うるせーこの野郎!」って思うんだけど、「あーそうっすねすんません(無反省)」って思う自分も居るから、段々反応は和らいでるのかな。皆それぞれでいいんじゃないかなぁって思うと共に、大人や年相応の在り方が自分にとって大事な人もいるのだろうしね。知ったこっちゃないけど(抵抗)

 

 

お誕生日で印象に残ってるのは小学校1年の時だったかな。友達を家に招いてお誕生日会をしてもらったんだけど、丁度その日は雪が積もってね、お誕生日会の後は外で雪遊びをしてとても楽しかった。うちの実家の辺りは大山っていう山があって気流の関係で雪があんまり降らないの。横浜や東京で積もっても実家の辺はあんまり積もらない。そういうのもあって記憶に残っているのだろうね。懐かしいなぁ。気付けば記憶に浸ってるねぇ。

 

 

そうそう、最近知ってよく聴いてる曲があるの。


14 - Hoshi No Koba

 

ロボットアニメの挿入歌だったらしい。

とても好きで一日に何回も聴いちゃう。聴きながらお仕事するとお仕事のストレスから救ってくれる。

こんな34歳だけどみんな友達でいようね^^

懐かしい写真 から 森、2つのブログ

画像フォルダみてたら懐かしい気分になった。

 

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やっぱりこの森が好きなんだよね。

ずっしりとした重い空気。しっとりした質感。セイランやサイチョウ、ギボン、色んな生き物の鳴き声が聞こえてくる気がする。

これだけで何種の樹種が写ってるだろう。直立したフタバガキ。奥のメンガリスは低く見積もって60mはあるだろう。リサイズしちゃったからわかりづらいけど結構花をつけてる木がある。

鬱蒼とした静かだけど騒がしい森。この雑多だけど主張し過ぎない緑がいい。包み込まれたい。中に居るとそれなりに過酷なんだけど、それがまたいいの。

 

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とある調査で一夜を過ごした野営地の風景。この時は5人だったかな。結構情報量が多い写真。

左上に鍋と米が吊るしてあるのはミズオオトカゲに食べられないように。川を遡上してびしょびしょになるから、日が出てるうちに服を石の上において干す。誰かパンツ干してる 笑 ポリタンクは飲料水だけど、彼らは煮たコーヒーに砂糖500g入れたものを持ち歩いたりもする。右上の木の枝は釣り糸が結んである。大きな魚が釣れる。一応ワニもいる。

焚火は流木。蚊が凄いのと野生動物も多いので夜は切らさないように大量に燃やすから近くにいると煙いし暑い。獲ったお魚や動物(ここだけの話)を焼いて食べる。石が少ない所は寝た所。大きなビニール袋やビニールシートを敷いて服を枕に寝る。ちゃんと石をどかさないと痛い。雨が降るとビニールシートで屋根を作る。結局濡れて寒いんだけど。増水も早いから結構危ない。

彼らにとってはハンティングは日常のイベントだからかなり手馴れてる。一緒に居てとても安心。というより彼らにしか任せられない。僕もそれなりに住んで長くなるけど、まだまだ誰かと一緒じゃないとこの場所は無理。岩場で浅いから一人じゃ危なくてボートで上流に上ることも下ることもままならない。

調査仲間の一人は僕が兄のように思っている優秀なトラッカー。彼が煙草を咥えたまま風下からスーッと足音を立てずに近づき、さも当たり前のようにシカを射貫いた時の光景が今も鮮明に脳裏に残ってる。吹き出る硝煙、空間を切り裂く破裂音、転げ落ちるシカ。午後の日差しの中の神々しい瞬間だった。狩る瞬間は何度も見てるけど、あの瞬間だけは別の何かとして残ってる。

彼にはもっと色々習いたい。

 

子供が大きくなるまでは街と村を行ったり来たりと思っていたけど、去年からコロナで制限が掛かってあまり帰れてない。早く帰りたいよぅ。街に居ると窒息しそう。

景色だけでも音だけでも空気だけでもなくて、全ての感覚を包み込むあの環境。そこでの生活を通じて僕の中での支配構造が変わり始めた。僕が矛盾の外側でただ僕として在れるのがこの森だと思う。

 

森の中はある意味でイメージの世界。音はするけど見えない、見えるけど音が聞こえない、匂いはするけど…、痕跡はあるけど…、何かの気配はあるけど…、経験的にここには…、そんな情報をイメージで補って状況を把握することを脳さんは自然とするようになった。それを子供の頃ほど使わない世界での生活が長くなってたから、ある意味リハビリだったのだろう。それが多分変化の一因。

 

 

このブログではあんまりこういうこと書かないつもりなんだけど、懐かしかったから。

自分を隠すつもりもなく義務感で書いてるブログがあるのだけど、そっちは書いてて面白くなくて全然記事が増えない。題材になる写真はいっぱいあってもお堅いことしか書かないから。知人に見られる確率を考えるとどうしても内面的なことは書けないし、小恥ずかしい言い回しもできなければこんな支離滅裂な文体でも書けないしぃ。つまんねぇなぁ。って。

ゆくゆくはそのブログはサイト内の1コーナーになって、サイト全体は村のツーリズムや来訪者向けの情報として役立てられればと思ってはいるけど、まぁずっと先の話だね。

 

そっちでは図鑑なんかと差別化する為に極力現地住民視点で書くようにはしていて、それもまぁ僕としては大事だとは思うんだけど、内容が客観的すぎるんだろうね。何でそうなるかってまぁ性格とかコンプレックスとか怖れとか色々あるのだろう。昔から自分の主観を人に見られるのが嫌で作文も苦手だし。

でも僕が本当に外に出したいのは多分感情だったり感覚だったり、そういう主観的な内容を混ぜたものやドロドロの思考の産物や誰も答えてくれない疑問だったりするんだと思う。それがここの、僕にとっての役割になってる。多分。

 

この2つの中間をいければいいなと思っていて、実際それに近づいてはいると思うんだけど、まだまだ難しい。でもこの2つが丁度相容れない2つの自分を映し出しているようで、それがなんか面白いな。

こっち側で表側のことを書くのもある意味では歩み寄りなのかもしれないなぁって。

 

 

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ここ、僕が一番好きなところ。さっきの所よりさらに上流。半径15kmは人が居ない。精霊はいるらしいから、要所でお供えをしながら荒らしに来たのではないことを唱えてここまで入る。

常に崖が崩れててちょっと怖いけど、とても空気が気持ち良い。ここに住みたい。