感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

自己アピールが苦手 から 係争状態

自己アピールって本当に苦手。例えばクラウドソーシングのサイトとか見てても、みんなしっかりできて凄いなぁと思う。

自己紹介は苦手だったけど、さらに苦手だったのは自分の良いところや得意なことを言わされる場面だった。これは以前書いたよね。ほんと無理。

 

シャイだから、引っ込み思案だから人前で喋りたくないんだろうと思われてると思うのだけど、その方がいいのかも知れない。

モジョモジョぐちゃぐちゃしててはっきり言葉にするのが難しいのだけど、正直に言えば自己アピールっていう行為に対して感じてしまうのは賤しさなんだと思う。

そう感じてしまう自分を意識するとその賤しさに自己嫌悪ループが始まりそうだけど。

 

何で賤しいって感じるんだろう。でもアピールが上手い人の中に虚偽を見たことも多かったし、アピール下手な人にアピールされない特別なものを見たこともあった。でもそれは人々には評価されないということも学んだ。

それじゃあもういっそそんなアピールならいらないじゃんって思う。

実際何の意味があるの?その人を評価する判断に使う?使えないでしょ。僕のような人間を篩にかけるというなら納得できてしまうな。

 

嫌悪が先に来るからその理由はいつも後付けなんだけどね。実際にその時それを思って嫌悪してたのかなんて分かんない。

 

アピール合戦を見ていてももうなんかそこに居たくなくなってしまう。

仕事の提案だって結局のところ同じ。提案合戦。提案が重要な仕事って、提案に一番力を入れるし、どれだけそれに近く見せられるかで評価を受けようとするし、その動機が次の提案のためだし、そうなればお金中心にくる。僕はその逆がいい。

そうやって世界が動いてるとしても嫌悪は嫌悪だよ。

 

 

釈明させてもらえば自己アピールをしっかりできる人達を賤しいと思うわけでもない(と思いたいのかな)。現代では世界がそう回ってることも理解しているつもりで認めてはいる(その努力はしてる)。

 

いやね、他人は他人だし、向き不向きがあるじゃないですか。その人達のやるべきことはその人達のやるべきことで、それに向かって邁進するのってすごいことだと思う。ただ同時に邁進という時の邁進が社会的でなくてもいいと思っていて、社会の流れの中では立ち止まっている人や後退していると感じている人もそれはそれで邁進といってもいいと思うし、恐らく必要があってそうしているのだろから、それも凄いなぁと思う。

 

釈明ついでに更に釈明させて頂けば、基本的にこのブログのスタンスとして思った時に思ったことをそのまま書くから、時折攻撃的だったりする。でもそれを僕が(この僕が)躊躇しない理由は8割方自分に対して言ってるからなんですよ。傷つけちゃったらごめんなさいとは謝るけど、取り消さないのは、他の人に対して言っているという意識はあまりないから。それでも誰かの気に障ってしまったら謝るしかないじゃないですか。って言うと嫌々謝っているように聞こえてしまうけど、コミュニケーションって基本的に不本意なものだと思っているからかな。何もかも難しい。

 

だから別にアピールがしっかりできる人を賤しいと思ってるわけじゃないよ!という釈明でした。

 

僕がそれを賤しいと感じるのは、結局僕は僕を通して物事を見ているからで、僕がそれをすると賤しいということなんだと思う。その言い方をすると今度は僕が自身を高貴だと思っているみたいになるけど、そういうわけじゃないの。飽くまで感覚の問題であって、言葉は後付けだから…

 

例えば自己嫌悪スイッチが入ると僕は自分の存在が凄く傲慢で賤しいと感じる無限ループが始まるのだけど、それは僕を通して見ている対象の僕が(も)僕であって、その僕は傲慢で賤しい性質を持っているからで、それは多分そう在るべきではないと思っているレイヤーの内側に居る僕が捉えて、賤しい側の僕(レイヤーの外側)が思考しているからなのかなと思う。大ざっぱに言えば。

 

それってモラル・信条的なものは感情が捉え、思考がそれを否定するというものだと思う。MBTI界隈の言葉を借りるならFi-Te conflictっていうものだろう。

成長過程で僕は感情面をかなり縛って生きてきたのだけど、この場を作った理由は後から考えればそれに限界が来たから。Dark Night of the Soulというものを当て嵌めて考えれば、下剋上成就の為のプロセスなのかなとも思う。それは言い換えればそのまま転換期であって、年齢的にもそういう風になる時期なのかなぁとも思う。

一連のプロセス、宗教的にはEgo Deathという概念に繋がるようだ。それを以って終わると書いている人もいる。自我の死というのは日本語で調べても結構出てくる。それは凄く意味として通る。意味としては。

別のグループではMoral injuryとも言われてるけど、こっちは解釈が目に見えてぐちゃぐちゃになってる。他の概念もぐちゃぐちゃ感はあるけれど、これはさらに酷い。それだけ精神的なことを物質的に表そうとするのは難しいということだと思う。見え方が違うから実質見てるものも違ってしまうし、そうこうしているうちに混同も相まってしまうからかな。読み比べてると理性の限界を感じる。

 

このプロセスって見方によってはある心理機能が力を増し統率力を得るということだし、見方によっては二つの自己が和解することであるし、見方によっては本来的な自分への気づきと回帰であるし、見方によっては古い自我の死(これはカトリック系やその派生に多い印象だけどなんか僕には合わない気がする)だし、モラルや信条と人格のコアである魂が似た意味を持つものであるなら生まれ変わりという捉え方の人も理解できる。

 

この転換期がなぜ僕の場合長く続いているのかというのも、多分自分の中ではうっすら答えは見えてる。それなりにハッキリしている気もするけど、角度を変えるとまだうっすら。

 

なぜ辛いのかというのもわかる。

価値観、信条という面ではより本来的な(と感じる)僕で知覚するように変わった(それが許されるようになった)けど、その僕が相対的に弱いというか、統率する気があるのか無いのか分からない状態なこと、そしてずっと力を持ってきた理屈屋の僕が頑固だから仲良くできない。いや、見方によっては互いに頑固だし、それ以外も頑固なんだけど、主要なのはこの2つのぶつかり合いだと思う。

統合という言葉が今の僕に響くのは、統合していないという意識があるかあらだと思うの。僕の場合は統率ぐらいでいいと思うけど。仲良くして欲しい。って書いてる傍から反対意見が飛び交ってるけど…

 

結局僕は僕を作り出して内側でシミュレートすることで世界を見ていて、だからここに書くことは社会的なことを書いても個人的なことに集約されるのです。また言い訳に戻ってる。

 

これまでも変化の連続だったことを見れば、これからも変化するのだろうし、気づけば落ち着いているということも起きるのかな。ただ現状迷子は迷子。早く抜け出さないと何も手に付かない。何より僕の場合それを言い訳に使いだして何もしない為に一生迷子であることを選びそうで怖い。

 

でもさあ、なんで何かをしなきゃいけないの?本当に僕がするべきことなら、自然とするようになると思うのだけど。また言い訳か、見苦しいぞ。

 

いや、そうじゃなくてね、これは両方とも本心だ。ポイントはそこ。だから辛いの。

 

また言い訳?あ、やばいスイッチ入りそう。今日はここまで!閉廷!

極端から極端への飛躍。その繰り返し。多重人格ではないよ。

 

 

そうそう、一つ付け足したいの。例えばこれが一つの自然な内的プロセスだとしてね、僕は慣れてるから何とかなっているけど、急な鬱や失意や意味の分からない無気力、絶望感、孤独感で自分がおかしいと思ってしまってメンタルクリニックに行ったとするじゃない?それで薬漬けになってしまったら、余計出口が見えなくなってしまわないかなって。日本の宗教観、精神病観から見ると当たり前に起こっていて不思議ではない。土壌は固まっている。

 

でも僕は、それはその人達にとって、仮に苦しみが紛れるなら必要なものだと捉えたいし、だから自殺も否定できないの。生きて欲しいと個人的に思っても、それはその人に委ねるしかないしね。でもそれは言い換えれば生きて欲しいと伝えることで、その人が苦しむことが怖いのかなとも思う。そう考えるといかに傲慢だろうか。

あれ、またおかしい。やっぱり閉廷!

電灯カバー落下事件

虐殺の資料を見て凄く波立っている。悲しい。

 

ヘイト、これは人間の持つ一つの性質なのだろうか。だとすれば責めることはできないよね。だから余計に悲しい。ただ悲しい。

群れと群れになればそれは起きてしまう。

 

倫理観の進歩でそれが起きづらくなった?本当にそうだろうか。同じ感情が土台の行動は溢れている。

僕らが実際、その状態に直面したらどうだろうか。本当にそれをしないと言い切ることができるだろうか。

 

例えば自分の国が他国に占領され、圧政の内に家族に死人が出た。その後別の国の支援やレジスタンス活動の甲斐あって犠牲を払いながらも自由を勝ち取った。

この時点で僕は何重にも自分の所属する群れの一員で、敵国は憎き群れだ。

それでさ、もし敵国の入植者達が住む集落がそのまま隣に残っていて、

 

 

今急に天井の電灯のカバーが足に落ちてきた。ガラス製で結構重いの。ベッドの上じゃなきゃ割れてたかも。

直撃じゃないけど痛かった。でもそれ以上にびっくりした。揺れてもいないし風もないのに、しかもあんなの見た後でこんなの書いてる夜中の2時にやめて欲しい。

語彙やばい。落ち着こう。ずっとネジが緩んでいてたまたま今落ちてきたんだ。だよね?

 

怖いから家族のいる寝室に移動した。チキンなの。みんな何も知らないで眠っておる。狭い…

前ならこんなの気にしなかったんだけどね。やっぱり変わったな。

 

最近はてなブログである方が魂について書かれていて、そこで質問させていただいたの。内面を掘り返しまくっているから、スピリチュアルな視点も知りたくて。その中で核に近づくと潜在意識がどうのこうので現実世界にも干渉し、事故を起こしたりもする(かなりざっくり。間違えてるかも。)って書かれていた。つい最近のこと。ピンポイントだなーと思った。

こういうのの解釈も面白い。例えばこういうのが見える人には明確な答えが出るのだろうけど、それがない僕は解釈するしかないからね。物質的に片付けてもいいし、妖怪の仕業(ちょっと前に流行った)にしてもいいし、潜在意識の干渉でもいいわけだ。分からないならではの楽しみだね。

 

扇風機消すの忘れてたからついでに写真撮ってきた。

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黒いのはヤモリくんのうんこと虫の死骸。あ、ヤモリくんが犯人の可能性もある?

反対向きに寝転んでたら頭に当たってたかも。それはそれで笑い話になるけど。顔面だったら鼻折れる。

 

何かこう、やっぱり今日はおしまい。おやすみ!

変な夢見そう…寝たくないな…

Dark Night of the Soul

Einzelgängerの新しい動画が凄く、なんだろう、これなんだよなぁってなった。

10分くらいの動画だから気になったら見てみてね!他にも沢山面白いのがあるよ。


The Dark Night of the Soul (Losing Who We Thought We Were)

 

Soulとか魂とかっていうのは僕はまだ理解できないからそれは置いといて、内面に見つけようとして迷子になっての繰り返しは正にこれと同じなのだと思う。

 

 

何回も見たけどもう一回見ながら気になった部分を抜き出してみる。

取り敢えずこれは"Dark Night of the Soul"や"Spiritual Depression"と呼ばれるもので、この混乱は過渡期の経験らしい。Spiritual Depressionは日本語で探してもなかなか出てこない。僕自身、鬱の原因を物質的なものと精神的なものに分ける発想がなかった。無意識の内に、「物質的な要因が精神面に作用して精神・肉体双方に影響を及ぼすもの」という固定観念があった。

 

何と言うのかな、波としての鬱自体は誰もが持つものだと思うのだけど、それとは別の迷子の喪失感というか、絶望感というか、無力感というのは、確かに要素として物質的なものも絡むのだけど、根底にあるのは精神的なもの。

キリスト教が宗教としてその辺りを良く知っているのは、その出口を神、そして愛に見出した人が多数いるからだろう。キルケゴールさんなんかもそうだと思う。

 

通信制大学時代、友達の教会に遊びに行って感じていたのは、神に対する愛によって救われている人々の歓びと安心感、それと同時に引き返せなくなる恐怖だった。完全にはまったら出られなくなる恐怖というか、その要素が自分にあるのは知っていて、それに対しての嫌悪というか。それ以外に妄信的な人に対する嫌悪もあって、宗教=妄信の危険に繋がっちゃったのもあると思う。若かったからね。

 

過渡期。

何年間過渡期やってるんだよって思うけど、多分自分なりの何かを見つけるまではずっとなのだと僕は思ってる。掴めるものがないんだもん。そして掴めるものは多分、自分なりに見つけるしかないっていうのは分かる。でも見つからない。拒んでるのかもしれないけど。

 

満たされること。

3:59 - Even relationships and romantic love affairs don’t gratify our hearts in the ways we had hoped for.

 YoutubeのTranscript機能便利!

常に穴を埋めるもの、というかなんで穴が開いているのかを探すわけだけど、この部分がとてもよく分かる。愛というもののある側面ばかりが神格化されてしまうからか、これに罪悪感すら感じることがある。

 

04:13 - I quote: They grow up trying to adjust themselves to the values and strivings that surround them, but somehow their hearts are never in it.
They have a deep awareness that fulfillment cannot be found through acquisition and achievement.
They often feel like misfits because of the different, deeper, ungraspable love they feel inside them.
End quote.

これはGerald May著の"The Dark Night of the Soul"からの引用らしい。周りと僕という関係はずっとこんな感じだった。本当に割と最近までfit inしようとはしていたわけだから。その度に「違う」って頭ではない部分で反応する。そして頭は僕を責めるわけです。

 

07:06 - Therefore, the union that comes through the dark night of the soul entirely revolves around love.

It’s the Lover seeking union with the Beloved, which is the divine.
And the divine is in everything and everyone.
When we become one, our emptiness is filled.

 とてもよく分かる。とてもよく分かるのだけどどうしていいか分からない。

結局は愛に対する迷子というのは分かる。そこにそれを見ている以上、「愛などいらぬ!」とかどこかの聖帝のようなことを言って解決する問題じゃないわけです。それは縛られている行為だから。

内的に気付くしかないのだろう。

でも残念ながら似非ムスリムと化した僕は神を見つけようという気力もない。説明書は読まない主義だからね!はい、ただの面倒くさがり屋です。でもそれもこれも、彼らの解釈が氾濫してるからであって…

 

感覚的には、記憶のどこかに紛れている優しいお姉さん。

 

07:59 - It’s a process of giving up control and becoming receptive instead of defensive.

こう繋がるというのも面白い。

コントロールが自己防衛反応だとすると、受容的になることは呪縛を解くことに繋がるのだろうか。ここはゆっくり掘り返さないといけないと思う。自己がバラバラな癖に内面も外面もガチガチの支配体制で、内面には僕の意識が踏み入れない場所があるし、拘束衣を着ている子供も居るから、どうにかこう、全部を解き放ちたいと思ってしまう。なぜかってそりゃ、不安であって恐怖であるから、やっぱり防衛なんだよね。

でもそれをするようになった動機はどうだろう。外側にある、例えば村八分にされることに対する恐怖だろうか。それとも内側にある、例えば誰かを傷つけることに対する恐怖だろうか。混じり合ってるのだろうか。

真の受容とは何だろう?でもそれを考えた時、まず考えなければならないのは、僕自身がそれに値する人間なのかということだ。無理だろうなぁ。その捉え方が既にズレてるのだろうけど。

 

呵責。痛めつけ合うものが肯定し合うためには統合が必要なのだろうけど、どうも頑固だ。意固地。何を間違えているのだろう。

 

 08:04 -  During the dark night, we are losing who we thought we were, while not yet having become what we’re supposed to be.
We’re in between.
We can’t go back, but the way ahead of us is dark and unknown.

何で迷子と感じ続けているかって、先が見えないからなんだよね。もうなんか迷子がアイデンティティとして定着しそうなの。疑念疑念で自分の存在さえもよく分からないから、存在そのものがエラーのような感じさえする。

 

 08:48 - Thus, as far as John and Teresa are concerned, the only thing we can do is endure, and before we know it, the dawn will be upon us.

今朝最初にこの動画を見た時、この部分でちょっと泣いてしまった。夜明けは本当にくるのだろうか。それを見る前に死ぬような気がしないでもないけど、でもどこかに夜明けは必ずあるというのは希望だよね。そしてそれを見た人がいるというのは、本当に嬉しいこと。夜からの解放。個人的に祝福したい。

 

今日また子供がFrozen2を見ていて、この映画にも毎回泣かされる(恥ずかしいからその姿は誰にも見せないけど)のだけど、この映画で僕が泣くポイントも同じなんだよね。モアナも同じだった。

見つけて迷子じゃなくなる瞬間。それは、見つかる瞬間でもある。

 

見つけて欲しいの?拒んでるのに?ツンデレってやつかな。

満月が円環の光で虹色に照らす雲たちは、めくるめく変化する大地のようであり、南太平洋に浮かぶ、密林の島々のようであり、記憶の中の様々な風景を重ね合わせたかのような重厚さであり、繊細な柔らかさであり、どこか立体を超えたもののようだ。

 

その流れを眺めていれば、自ずと風は止み波は静まる。

 

 

今どれだけの人が月を眺めているだろう。僕は僕を通して月を内面に取り込み、複製した月を鎮まった世界の宙に浮かべる。多分これは現実の月より小さくて、もう少し柔らかい光を内側から放つ月。

それを人もワニも居ない、でもクラゲが浮かぶ静かな湖の畔から、月明かりが照らす雲や山、波一つ立たない水と一緒に眺めてる。

 

もしある人がさ、月を眺めて同じような景色が浮かんだらさ、きっとフワッと繋がって雲間の世界へ飛んでいけるのだろうな。

時間を超えた存在になる為には、きっと一人では駄目なのだと思う。形や数やまとまりや繋がりがどうであれ、想うことのできる存在があって、溢れる温かさの中それは永遠となる。

孤独はそこに至る糧であり、夢想は目を直視する力だろう。

 

 

自動筆記モードだとむず痒い上に意味がわからず、それでいて断定の多い文章になる。ぐちゃぐちゃにしてるのは思考なのかな。

歩きスマホが危ないのは分かるけど、入りやすいんだよね。浮かぶからそのまま書けるというか。

敷地内だし今は車いないからいいよね!

オタマジャクシとカエル

オタマジャクシが変態してカエルになるけれど、それって凄く不思議に思えた。

でもそれは自分に当てはめて考えるからで、ヒトの幼体の頃の気持ちをオタマジャクシに当てはめるからなのだろう。

でも幼体というのなら手足が分化し、しっぽがなくなった、変態が終わった後の未性成熟の頃を当てはめる方が合うんだと思う。

 

自律して捕食もするという点でオタマジャクシ、そして他の脊椎動物の幼生達は幼児のようではあるけれど、ヒトで言えば胎児に近い。

受精卵、胚、幼生、変態期、幼体、成体、これに哺乳類を当てはめるなら幼体期に入ってしばらくしてから母胎から出てくることになる。

脊椎動物の形は胚の段階では殆ど同じなのだから、胎内や卵の中でどの程度形を整え、成長して出てくるのかということだろう。

卵から生まれるにせよ、母胎から生まれるにせよ、どちらにしたって受精し発生し分化し、どこかの段階で出てくることになる。

 

ヒトの場合、妊娠3カ月でかなり形ができてくるし、5カ月では骨格が出来上がり、毛も生えてくる。

そう考えると色々と想像が膨らむ。

 

オタマジャクシを見ながら、ヒトの胎児はどの段階でどの程度意識があるのだろうかとか。

変態期のカエルの意識はどうなっているんだろうとか。(免疫的にはしっぽが残ったカエルはしっぽ以外は既にカエルになっていて、オタマジャクシだったしっぽを自己ではないと判断することでしっぽが消えるらしい。とすると両者は別物なのだろうか。その変化はどう体感されるんだろう。)

 

そもそもカエルに意識なんて~とか夢のないことは言いっこなしね。程度の問題であるし、少しでもあるのならそのカエルとしては完全な意識なのだから比べる必要もないでしょう。

 

そういうことを考えていると、例えば妊娠中絶に関しての見え方も変わるのかもしれない。中絶は早ければ早いほど倫理的な問題が少ないと捉える人の焦点とか、色々と理解できる部分が増えるのかも。

 

胎教というのも、教えるというと少し押し付けっぽくていやだけど、聞こえているということはもっと母親も周りも意識していいと思う。

 

人間は子供を未完全なものと見做しがちだけど、形としては完全に出来ている。カエルとして見るならば立派なカエルと言われる状態で生まれてくる。幼児になれば自由に考えて自由に動き回る。性成熟や適応がそんなに立派なのだろうか?というと僕の思考が見透かされそうなので、もう少しこう一個体として尊重しても良いのではないか。

 

 

とかね、そんなことを考えていたらお仕事が手につかなかった水曜日でした…

 

 

そんなことはどうでも良いのだけど、オタマジャクシの気持ちをカエルは覚えているのだろうか。僕には胎内の記憶なんてないのだけど、でもどこかで懐かしさを感じ、回帰を願うのは、カエルになってから感じていたからなんだろうね。

ところでさ、僕はどこから僕だったのだろう?

昨日の続き 見え方

陰鬱とした内側から外側を見るから陰鬱に感じるのか

陰鬱とした外側には陰鬱な要素があるのか

陰鬱とした外側を見たいから内側が陰鬱となるのか

 

まぁ昨日のはサティさんの見え方もあるかもしれないけど、でもそのBGMが柔らかく溶け込むのは、丁度似たような感覚だったとも言えるだろう。

 

明る過ぎる見え方の人たちの中にいれば陰鬱な見え方は強調されるとも言える。僕の見え方がたとえニュートラルだとしても相対的には暗くなるから。

朱に交わって赤く染まれれば苦労しないよ。ピンクぐらいにはなるのだろうけど、それが頭にくるから無理矢理緑に持っていこうとするんだろうな。極端な反射的反応。

 

そういう前提に立つなら、結局皆それぞれ別のものを見ている。それが僕の合理主義への反発の根源。

でもそれは、言い換えれば理性の発展を望んでいるからなのかもしれない。

理性の純度を高めるならば、その中の非理性を非理性として認識して摘まなければならない。

でも僕の場合、そうこうしている内に理性など見えなくなってしまう。気づけばほとんど全部摘み取ってしまうから。

 

そこまではいい。

ある他者が、僕が自ら内面で摘み取ったものと同じものを掲げ、理性的だという振る舞いを見せた時、否定感情に襲われる。摘むのだから持っているし、ある意味で投影だろう。

理性への冒涜だと感じるし、時に見下しているのかもしれない。日頃理性に反発しておいてその態度は笑えるでしょ。

 

その他者の擁護をすれば、それはその人の持つ世界の摂理では摘む対象ではないのかもしれないし、僕にはそれを見る術がないのに。

 

でも一つ言えるのは、本当に僕が理性的だと感じるもの、人、考え方、理屈、それらには、傲慢さや排他的な空気は感じないことだろう。

そしてそれは、感情的なものとうまく溶け合うものでもある。でも僕にはそれを見つけるのは難しい。だから全て摘んでしまう。

 

それはともかく、誤解されないように書いておけば別に僕は全てが陰鬱に見えてるわけでもない。ただ、この環境に居るとどうしてもそればかりが僕を包み込んでしまうし、強調される。時計、日付さえも僕を雁字搦めにしようとするし、その共有された時間の流れは、この街という環境の中の全てのものを支配している。その中の自分はさながらケージの中の毛の抜けたネズミでありまして…

そして川や山、海や森に居れば、自然に包まれていれば、その時間の流れを感じていれば、そんな陰鬱としたものの見えかたとは一切無縁になる。寧ろそっちの自分があるべきあり方なのだろうと7年森で暮らして思った次第。

環境要因で慢性的に見え方がそうなる、ということであれば、まぁ合っていないのだろうね。

 

であるなら、

陰鬱とした内側から外側を見るから陰鬱に感じるのか

陰鬱とした外側には陰鬱な要素があるから内側が陰鬱になるのか

陰鬱とした外側を見たいから内側が陰鬱となるのか

 

どれなのだろう。どうしたら理性的に解釈できるだろうか。

端から僕には出来ないとはわかってるけどね。だって順番の問題だから。

一方的感情移入散歩

強制投射に外側から自らの内面を読み取ろうという試み。

 

月明かりに照らされ、羞恥に顔を染める雲もまたイヤイヤ期の子供のように存在の歓びに満ちる。

 

放り出されたまま忘れられたサンダルは独りの不安と自由が解き放つ精神の躍動に身を焼きながら朝を待つ。

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ぽつんと浮かぶ航空障害灯の寂しさ。耐え難い孤独に願いを込めて妖しげな光を放つ。

 

どこまでも地表を覆う瘡蓋のようなアスファルト。たまに剥がしたくなってしまうのは痒いからだろうか。

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スクラップ場に満ちる酷使からの解放の喜びと未知への不安、後悔の念そして祈り。

 

街路樹の抱く自らの生まれへの不満と、裏腹の生への執着。

 

無用の長物と化した公衆電話の安堵と孤独。

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鼻をつくゴミの臭気は無念の香り。

 

生まれて初めての長期休暇を満喫する観光バスのペシミスティックな悟り。

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内側に色んなものが詰まりすぎて気が狂いそうな日々が続く建屋。

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静寂を望むも些細な波紋に身悶えするプール。

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生き恥を悔やみ死を切望するバナーの気高さ。

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ある衛星放送受信アンテナの抱く懐疑。

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猫様はやっぱり猫様であり、僕が憧れる側の存在であった。

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犬のうんこを踏んだので終わり。もう帰る!サンダルの底に穴が空いていることを初めて悔いる瞬間だった💩

 

当たり前だけど見え方はいつも通りだった。詩人は誇張するというから、適当なことを書いてる部分もあるだろうね。

因みにお散歩BGMはエリック・サティさんでした。

 

見えたものや抱いたものを言葉に変換するのが本当に苦手。もやもやした物体を無理矢理言葉の型枠に入れるから、語彙力のなさも相まって別の物体になる感覚がある。このもやもややぐちゃぐちゃを目を合わせるだけで伝えられたのならなぁ。

家に着いたからサンダル洗わなきゃ…