感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

体罰 から

殴られて分かる事っていうのは、それをやったら(またはバレたら)殴られることであって、どうして殴られたかについて考えることには繋がらないし、行動が間違いであったとしてもその行動がよろしくなかったんだなぁとはならないんだよね。理不尽さについては学ぶのかな。

だからって体罰において「理不尽さを思い知らせてやったんだ」なんて言ったら本末転倒だけど、感情的に怒る側っていうのはそれさえ言いかねない。

 

もう一つ殴られて学ぶことといったら、自分がこういう立場、こういう状況になれば殴ってもいいんだってことだろう。

連鎖。血は争えないと言うけれど、それは血じゃなくて記憶だと思う。

ただその辺は子供の性質によっても大きく変わると思う。一つの要素。

 

僕が体罰を肯定するとしたらどんな状況だろうか。思考させないこと?立場を思い知らせる?逆転されることを考えれば無理だろうな。陶酔的にさ、自分が加虐を、相手が被虐を求めるならいいかな。でもそれってなんか別のプレイなんだよなぁ。僕が内面でやってるやつ。

体罰をする人がSなのかと言えば、そうでもないんだろうな。そういう人はそもそも、自らの嗜好を認識していない人が多いと思う。

 

体罰。

「これは理性的な体罰だ」という態度をいかにとったところで、理性的に体罰を行っている人を見たことがあるだろうか。主観的な理性なんていくらだって無意識に操作されるものだ。

あ、一度あった。小学校3,4年の時の先生。作文がどうしても書けなかった子3人(僕含む)が前に立たされ、順番にお尻をはたかれた。でももの凄く加減されてたし、ポーズだけっていう姿勢が滲み出てた。ニュートラルな状態で体罰を加えるというのは難しいことなのだろう。それは人間の明るい面だと思う。

良い先生だった。でもこういう羞恥の記憶ってはっきり残るものだなー。

 

作文、文章が書けないわけじゃないんだけど、誰かに見られるって分かってて書かなきゃいけないってすごい難度だった。文集にまでなるんだもん。同じく書けなかった女の子もそうだったんだと思う。もう一人は違うかな。分かんないけど。

 

怒りの感情というのも暴力と同じぐらいの強度を持つものだった。僕はそっちの方が暴力よりも苦手だったかもしれない。殴られるのは嫌だけど、殴られれば終わるから。イライライライラずっとされてると、いつ来るんだろうで神経が磨り減る。ブスブス、ジュクジュク。

 

殴る側は「お前が悪い」って気持ちを込める。それを言葉にも出す。それって植え付けられるものでさ、少なくともその中に居る間はね。僕の自己否定は元々あったものが増幅されたのか、それとも単に後から植え付けられたのか。そんなのは分かんないんだけど、自分が悪いというのは辛いけど都合のいいものだとは感じていたな。

彼らも機嫌がいい時は別人でさ。両方の顔を見ているとどうしても恨めなくなるし、なら怒らせる方が悪いって思いこんだ方が楽。意識は本当に都合がいい。

人間の致命的なバグだと思うね。少なくともこの時代には即してないからパッチ当てるべき。ストックホルム症候群っていうと物々しい感じがするけど、軽度のものは本人も気づかないだけで結構普通にあるものだと思う。嫌だな。

 

あ、僕は親に暴力はあんまり受けてないよ。これは高校の話。DVは見て育ったけどね。

家庭内暴力や虐待を受ける側は似たストレスがあると思う。

 

 

体罰、まぁ僕の場合は自分に向けている面もあるから、余計に外に出さないように気を付けなければならないのかもしれない。

罪悪感、自罰、自己嫌悪、自己否定、そして自己矛盾。数珠つなぎのこれって本当に複雑で、解こうと思うと更に絡まる釣り糸のような感じ。

 

でもまぁ、これって世間が言う程悪いものではないと思う。少なくとも僕はその明るい面を見ているし、それを強く持っている人達が持つ柔らかさには助けられてきた。

それにさ、例えば自己否定感情を強く持った人が、自己否定感を捨て自己肯定感を持つ自分を想像したとき、その自分を受け容れられるだろうか。

僕の場合、やはりどこかしらで何らかの内的なモラルが自己を否定する(ことを定めている)ようで、やっぱりそんなモンスターは受け入れられないな。

この部分はそれなりにしっかりした自己評価だと思う。ほら、そういう所は肯定できる。だって鏡に映るのは事実だからね。

だからこそ僕はそういう人には背中を向けることができるわけです。カラクリ。

 

ただ、自己否定を否定する空気に曝されて、自己否定を抱く自分はおかしいという、その余計な終わらない多重否定には気を付けた方がいいと思う。偏見に根差したそれを主体的なモラルが受け入れる義理はないし、その集団が放つ毒を受け入れれば殺されるかもしれない。

 

また集団かぁ。ここまでくるとヘイトもいいとこだなー。集団に親でも殺されたのかな。でも集団ならやりかねない。まぁ…この凝り固まった実感を崩せるほど僕は群れを愛せないだろうな。

イランのメタノール中毒から

例えばメタノールの集団中毒で多数が死んだイランを見て、土人だと言う。知識があれば防げた。知らないのは土人だって。

でも先ずこう、アルコールに対する見方が違う別の文化圏をそう断じるのはどうなのだろう。化学的視点もそうなのだけど、一般常識的にメタノールが区別できるのは飲酒文化があるからでもあると思う。あ、でもロシアを見るとそれも違うかな。でもあれはあれで別でしょ。酒を求めて同じアルコールだからメタノールも同じっていうのと、表向きには酒を薬の一種としてしか見ていない人達がエタノールとメタノールを混同するのは別。

その辺は結構どうでもいいのだけど。

 

メタノールを使わなきゃいけないのはエタノールが手に入りにくいからだろうし、作って売る側はともかく、薬用の酒として売られてたら買う側は気づき辛いと思う。普段飲まない人なら尚更でしょ。僕だって酒飲まないから見分けがつくか自信ない。

それを土人と言ってしまうのなら、ほぼ糖分でできていて酵素が入っていても製造の過程で変性しているであろう酵素飲料を、宣伝文句のまま受け取って買い、経口摂取するのも似たようなものでしょ。

他国人をそう見たくなってしまうだろうけど、日本人も見方によっては大差ないと思う。そう見せるのはバイアスでしょ。ところがどっこい両者は実際は全然違って、僕のバイアスで同じに見えてたりして。それはそれで笑える。

 

他文化圏の人間を土人と言う前に、先ず彼らがそのメタノールを飲むに至った経緯として、例のウイルスへの不安と恐怖があるじゃないですか。(酵素飲料は太ることや不健康に対する、不安とか恐怖でしょ)

でもそれはウイルスや感染自体への不安や恐怖とは別物で、集団が、それも国際的に人類が作り上げたと言っても過言ではない像に対する不安と恐怖であって、感情的な流れ、それも鉄砲水じゃないですか。群衆という現象はこれだと思う。(ファクトはファクトで点在するけど、点を線で繋いだ像が戦隊ものの悪役よろしく巨大化したものはもうファクトじゃないでしょ。だからそれは一旦置いといて。今は怪獣大戦争状態だと思う。)

 

濁流の感情的な作用は離れて見ていても引っ張ってくるから、僕は自分が関与していないというのは難しい。ということはほら、ある意味で皆で作った物じゃない。そうじゃない人もいるのだろうけど、そこで自分は違うと言える人は僕は超越してると思う。

で、自分が素粒子レベルでも構成要素になっている怪獣が人を殺していると見た時(飛躍してる?僕はそう思わない。)に、土人が勝手に死んだと言えるだろうか。

 

言い替えてみる。

ビルの火事でさ、人混みの流れとなって逃げた時に階段とエレベーターがあって、たまたま開いていた故障中のエレベーターに乗った人たちが死んだとして、非常時にエレベーターに乗るのは馬鹿だと言えるだろうか。それは結果論だろう。結果的にそっちが助かったかもしれない。

それに我先に逃げようとする人たちの流れに押されていて、気づけばエレベーターに乗ってたなんてことは普通にある事でしょ。気づけば階段を下りていた人たちと何ら変わらないし、窓から飛び降りる人もそんなに違いはない。違いがあると言い得るとすれば、誰も向かわない先にある非常階段や避難梯子の存在をその状況下で覚えていてそれを選択できる人くらいだと思うけど、そういう人は中々居ないと思う。

 

不安や恐怖が作用し合う集団の流れの中で生まれた幻像が原因となったのなら、そこに関与してないというのは難しい。反対の意見を持つ人たちの流れだって、別の像を生み出して共有しているに過ぎない。

僕自身は流れの外に居るつもりでも、僕が実際にその幻像を感じてしまっているとしたらある意味同じだと思う。漂う感情に触れて不快と感じれば、向きが違うだけで同じく影響を受けているということでしょ。残念ながら影響されたくないと思っている僕も影響は受けていて、それでも巻き込まれたくないと感じて多分自分を差別化しようとしてる。傲慢だよなぁ。何がって、差別化するのも同一視するのもどっちも傲慢に感じる。同一視の方がかろうじて柔らかめだからそっちを選んでるだけなんだろうなぁ。一体どうしろと言うのだろうか。

 

何と言うか、その死んだ人たちを土人と言うのなら、僕の価値観からすると人類皆土人になってしまう。

 

土人というのは嫌な言葉だ。それは否定の念が混じっているからで、その否定は自分の属すグループを肯定する為のものだから。と僕はいつも感じる。

それは見方を変えれば、単に僕が群れに拒絶反応を示してるだけかもしれないのだけど。ものにもよるけどサル山に見える。でも僕はサルを見下すつもりはないから誤解しないでね。果物を荒らすサルは僕にとって仇敵だけど、だからこそ尊敬してる面もある。そういう意味で、土人という大元にあった言葉はここまで差別感情が混じってなかったのかなとも思う。戦時の本ではナチュラルに土人表記があるけど、筆者はその人達を尊敬もしてるんだよね。

 

それは置いといて、僕のこの群れに対する拒絶や嫌悪も自己投影なのだろうか。誰よりも羊だから外に居たいのかなぁと思うことはある。出られなくなることが怖くて。

あ、何度も同じこと書いてるかも。

いや、でもさ、出られなくなることが怖いってことはやっぱり中に居たくないのかな。

まぁ少なくとも、中に居たことがあるからそう感じるんだろうな。

 

まぁいいや!

取り敢えずほら、みんな仲良くできればいいのになぁと思う。結局それ?まぁほら、定型句みたいなものだと思って!

眠い から

何だか最近いつも眠い。何をしていても夢の中に居るようだ。完全に夢の中ならいいけど中途半端。夢やマインドワンダリングの世界と現実と呼ばれる世界の意識の境目が薄まって、混ざってしまったかのよう。ぼんやりして中途半端。

しっかり寝なくても眠いけど、しっかり寝たつもりでも眠い。半分ここに居ないような感じ。

 

ここってどこだ?いや、物理的に居る場所の住所くらいは分かるけど、そういうことを言ってるわけじゃなくてですね。ここってどのここだ?の方が心象的には正しい。でもその『どの』を認識している、又は錯覚している主体が定まらないし、だからそれらが指すここも分からない。

 

僕はいつも迷子になるのだけど、これもまた別の迷子なのだろうか。

昨日食糧を買い出しに行って、結構な重さのプラスチック袋を運んだら、右手中指第一関節の神経か何かを傷めてしまったのか、麻痺した指先の感覚がまだ戻らない。最近の意識は丁度こんな感じ。

 

やらなきゃいけないことにも中々身が入らないからストレスは溜まる。それがなければ、ただ身を任せていたい心地よさもあるのだけど。読んでいた本も進まなくなってしまった。

ブログを書くペースが落ちたのも、僕は今こんな感じなのであんまり出てくるものがないからだと思う。踏ん張っても出るものが出ないのならトイレに行っても意味がない的な。

 

そういえばここを開いて昨日でちょうど一年だったらしい。一昨日だったかな。まぁいいや。

内的には激動の一年だった。ここ三年くらいずっとそうなのだけど、変化が多くて追いついていかない。それがお仕事が進まない言い訳として理解を得られればどれだけ休まるだろうか。

変化が多くてって、誰が変化を欲してそれをしているのかと言えばまぁ僕なんだろうけど。いやでもさ、そうしないと何事も手がつかないから…先ずはスタート地点にですね…

じゃあこれを続けていればスタート地点につけるの?価値観の合わない仕事に手がつくようになるの?掘り返せば掘り返す程、自分の価値観を肯定すれば肯定する程、合わない仕事に手がつかなくなることには気づいてるはずだろう。

いやでもね、じゃあそれを押し込めてまた同じことを始めるの?いや、もうできないでしょ?

一生迷子を認めるか、それでもと探求を続けるか、それとも放棄してオートマトンになるのか。いや、なんでそこでオートマトンなんだ。そう感じていた?いやでもそればかりでもなかったじゃない?

でも記憶の中のどれを掴めばいいの?その記憶ほど曖昧なものはないというのに。大体内容なんていつも覚えていないじゃないか。感情的な解釈の雰囲気だけで記憶されていて。背景だけしかない中に映っているのは影絵で、その影絵は都合のいいものだろう。

 

その影が見えないから辛いんだろう?顔が見えれば、表情が見えれば安心するかもしれないのに、それがないから。じゃあ表情のある記憶は何だろう。それは妄想かもしれない。あいつがあんな顔をしたことがあったか。するはずがない。記憶の表情が見えないのになぜそう言い切れる?だって、想起する度に、詳しく見ようとする度に顔がぐちゃぐちゃになるじゃないか。笑ってる顔も、怒ってる顔も、混ざってる顔も、歪んだ顔も、どれも再現できるだろ。そう、再現。それもその都度都合の良い。分かっていたんだろう?

そうね、そうだね。でもそれを言うのはロジハラでしょ…そんなこと真面目に受け取った側はまた迷子になってしまう。どのみち迷子だけど、記憶すら参照に値しないとされたなら、孤立もいい所じゃないか。

 

僕はいったい何がしたいのだろう?そもそも僕とはどれなのだろう。霧の中の影のように『なんとなく』バラバラだったものを、どうしても気になって突き詰め、形を見てしまう。それを認識してしまえば、それはもう霧の中の影ではなくなってしまう。初めは砂粒としか認識していなかった砂粒の中のアリジゴクをアリジゴクだと認識してしまえば、次からはそれはもうアリジゴクでしかないように。でもそれは本当にアリジゴクなのだろうか?よく見て。ほら。見れば見るほどに分からなくなる。

 

僕が僕として何がしたいのかが定まらないのは、そのバラバラの自分達が少しづつ意見がずれているからだ。180度裏側まで居る。せめて君たちの仲が良かったなら…

 

問題はこれが実際にバラバラなのか、それともバラバラなものを作り出しているのか。玉ねぎ全てが僕なのか、一枚一枚が僕なのか。

そんなのどうでもいいと言えばどうでもいいのかもしれないけど、僕としてはかなり深刻なの。だって180度逆の意見まで抱えて、いったいどの声に耳を傾ければいいのか分からなくなってしまうから。

より正確に言うならば、パッと頭に浮かんだ応答を、既に逆側から精査している僕がいて、それを更に別の見方で精査する僕がいて、そして更にという流れになる。

自信のなさからの疑念。自信のなさ?攻撃的なものを避けたいのではないか。結局のところ同じだ。取り敢えず口に出すのを躊躇って作り上げた視点で精査していくからそうなる。視点。そう。彼らは僕の視点なんだよな。別の視点から見ることを勧めるのは良いことばかりではないと思う。視点というのは、捉え方というのは、僕の経験論から言えば増やすためには人格を増やさなければならない。

 

このプロセスはミミックの様なものだ。

『人の気持ちになって考えろ』

これが元凶なのだろう。人の気持ちになって考えた結果がこれなんだよ。さらに言えば、それは彼らを肯定する為。何故肯定しなきゃいけないの?それはわからない。

 

その人を取り込むというのとは違う。あくまで複製。不完全な複製。シミュレーターの様なものでね、その人の反応を感情面の動きから再現していく。土台になっているのはどれも僕なはずなのだけど、不思議と再現できるものが多い。感情の動きだけ見るならば、人間の反応は割かし単純なものだ。でも苦しいよ。

 

苦しいのになぜそれをするの?そりゃ、もっと苦しいものが嫌だからだよ。人を傷つけてはならないから。それはその人の為かと言われれば違う。自分のためだ。自分が傷つかないため。結局のところ、根本の根本にその恐怖と不安があるから、外側の恐怖と不安には特に敏感なのだろう。排他的なものになぜ嫌悪があるかと言えば、多分自らの排他性が怖いから。内的なモラルも突き詰めれば自己投影に過ぎない。外の世界で触れる怒りにはそういったものが見え隠れするから嫌い。直接的に作用する。ボン!と内臓を揺らすウーファーのように。干渉。

 

悲しみや痛みはどうしてそうならないのだろう。それは内向きなものだからかな。沈んだ先で酸に身を焼かれたとして、水圧に首を絞められたとして、自らの手を自他の血に染めたとして、その内的な経験はその人固有のものだ。それでいて僕も経験するものでもある。前提さえ持っていれば。

同じ痛みなど、その人の感じ方など分かる筈もないのだけれど、僕自身のものとして僕なりに再現できる。

 

例えばさ、僕はリストカットをしたことはない。だからって分かろうとして手首を切っても物理的な痛みしか感じない。そうではない。

材料として、極限まで沈んだ時の自分、孤独感、自罰感情、怒り、疲れ、そして止まらない思考が先ずある。そんな時になぜ髪の毛を引っ張ると楽になるのだろう。動物も毛を引き抜くように。指を跡がつくほどに抓ると感覚がそこに集中する。カッとなった時に行き先がない手を壁や床に叩きつけるのも大差がない。外に向かうか自分に向かうかの違い。それは大きく違うけれど、あまり違いがない。強いて言うなら自分に向かう方が両面で満たせる。

痛みに対する生の実感。血を見るとなぜか自分が生きていることに気付く。実感に安心する。頭が止まる。ようやく。禁断の果実は特効薬。

経験はないとは言ったけど、すれすれなのは昔何度もあった。

 

何が言いたいのかといえば、どこまで緻密に再現できるか。それはどこまで本気なのかということ。そうでしょ。

積み木遊びのようなものだ。元あるものを使って積み上げ、見て感じたものを再現する。崩してもう一度。崩してもう一度。

人の数だけ、その瞬間の数だけ感じ方はあるから、その再現は終わることはない。よくよく考えるとそういうものをアップデートするために生きてるのだろうか。

理解したい。

 

理解してどうするの?わかんない。なんでこう、分かんないことばっかりなんだろう。なんでそれで苦むのだろう。知っても知っても知った分だけ疑問が増える。かと思えば知ったと思ったものが知ったのかすら分からなくなってまた迷子になる。

お預かりセンターに住んだ方がいいよ。誰も迎えに来ないけどね。それでも誰かが迎えに来てくれるかもと期待してしまう。

 

 

途中でスイッチ入っていつもより一段と意味わかんないのになった。どこでスイッチ入ったか分かり易くて笑える。これ聴きながら書いてたからかな。

 


SHADOW WORK MEDITATION ❁POTENT 0.25 HZ Binaural Beats High States Of MEDITATION❁ Spiritual INSIGHT

 

何でそんなの聴きながら書いてたのかって、まぁなんか期待してたんだよね。藁にも縋る思いなの。

最近こういうの投稿するのは少なめだったと思うけど、約一周年だから無修正で上げちゃう!久々の羞恥プレイになんか興奮する。

 

でも真面目に3800文字強を読んでくれた人がいたら申し訳ないです。ごめんね。でもここはチラシの裏だよ。

放浪系

ウルトラマンオーブのガイさんかっこいいなぁ。放浪系の主人公の作品って好きだなぁ。仮面ライダー555のたっくんも好きだった。仮面ライダーに多いよね。

仮面ライダーOOOもそんな感じらしいけどまだ見たことない。

 

主人公自身の雰囲気もそうなのだけど、その地で運命的に知り合った人たちと段々と打ち解けて、居候になっていくっていう流れがいい。仲間なのだけどこう、あまりガチガチでなく、でも離れられない的な距離感。引き合ってる。

 

ウルトラマンシリーズは隊員になることが多いからガイさんのタイプは珍しい。スーパー戦隊シリーズはがっちりチームだし。そういう意味で、孤独な戦士としての仮面ライダーは僕にとっては特別な位置づけだった。最近はその傾向が良い意味で崩れたけど。

仲良しグループとかチームっていうのは、そういうのもいいなぁっていう一種の非現実的な逃避の対象としての憧れなのだけど、仮面ライダー系はなんかこう、一部共感先でもあるし一部投影先でもあるし憧れでもあるというか。

 

ガイさんはそういう意味では仮面ライダー的に感じた。

そしてお決まりの居候展開なのだけど、ガイさんはウルトラマン自身だけど、土地持ちで収入があるという設定らしい。たっくんはクリーニング屋で住み込みバイトだった。

僕も放浪したいなぁ。

 

バイトはやめるのも気を遣うからメンタル強くないとあんまりコロコロ変えられないし、不労所得がいいな。でもそれはそれで面倒ごとが多いんだろうなぁ。

憂き世よのぅ。

 

放浪、漂泊、風来、流浪。移動が億劫なら森の中で隠遁でもいいけど。僕はある種のホームレスにも好感がある。でもこれはまた今度。

親鳥

生まれない卵を、すり替えられた無精卵を抱き続ける雌鶏を見て笑う?それが無精卵だと知らないから馬鹿だと、その行為は無駄だと。

親鳥はなぜ卵を温めるの?子供が欲しくて待ち遠しいから卵を温める?自分の子が欲しいから卵を温める?

でも親鳥が卵を抱きたいから抱いているとしたら、卵が愛おしくて、それを抱くことに歓びを感じているとしたら?それでも馬鹿だというの?

 

己に似つかぬ子を育てるホオジロを可哀想だと憐れむ?本当の子供はその似つかぬ子に殺されているのに、それを知らずに実の子ではない雛を育てる親は可哀想だと。

でもその親鳥にとってそれが紛れもなく愛する子であるなら、その第三者視点の事実がその親子の間でどんな意味を持つというのだろう。親が子を愛し、子が親に育まれる、それだけのことではないか。温かさは変わらない。

 

愛にもいろんな形があるのだろうけど、僕から見える愛はそういうもの。絶対的なもの。客観的な見方は確かに賢いのかもしれないけれど、だからといってそれが正しいとは思わない。

主観的な愛の繋がり、温かく柔らかい実感の世界。とても安らかで、ふんわりしている。

 

問題は、その世界は真逆に反転することもあるということだ。実感そのものの世界では辛すぎるから理性が発達したのかな。でもこれじゃ二重苦だよ。

ヒトラー

ユダヤ人迫害についてアドルフ・ヒトラーばかりが死んだ後も責任の名のもとに死体に石を投げつけられ続けているけれど、それってどうなのだろうか。

戦争に大義を持ち出すのなら、その大義によって行為を正当化するのなら、民族浄化こそ大義がなければ実行に移すことは出来ないだろう。

ドイツ民族としての大義の実行だとするなら、ヒトラーはその先頭に立つべくして立つ才覚を持った人材であっただけで、それは集団の意向として実行に移されたと考えるのなら、果たして誰の責任なのだろうか。

 

ナチがスケープゴートなのはわかるけど、そうじゃなくて、何故スケープゴートが必要なのか。そしてなぜスケープゴートと分かっているのに見直すことが許されないのか。

それはユダヤ人の力ということだけでは説明がつかない。本当に多くの人々がそこに甘んじているからではないだろうか。

 

集団となった人々に幻想ばかり持たせようとする。いや、彼らは持とうとする。

ベトナム戦争では反戦運動の成果を一面だけ見て持ち上げ、イラク、アフガンでも同じことを繰り返す。繰り返しを避けられない後出しじゃんけんの反戦運動が成果なのだろうか。民主主義の悪い癖だと思う。それを自浄作用で片づけるのは趣味が悪い。

 

アラブの春は忘れられかけられているけれど、群衆化する人々と感情によって先走る情報(それがマスメディアかソーシャルメディアか、その性質を問わず)というものは本当に相性が悪い(ある意味本当に相性が良いのだろうが)と思う。その相手が人間でないだけで、集団が1つでないだけで、今も同じものを見ている。

 

それは置いといて、いかに大義が行為を正当化しようと、ヒトラーという人が個人的に背負ったものは計り知れないくらい大きかったと思う。

Youtubeのおすすめに出てきた動画で、ヒトラーのメイドだった女性のインタビューがあった。とても悪意のある、言い換えれば善意で塗り固められたドキュメンタリーで、結論ありきのものだった。飛ばし飛ばしにしか見てないので、詳しい内容は控える。

その動画のコメント欄でドイツ語話者が、彼女の言葉が正しく訳されていないことを残念がっていた。He was crazy(だったかな?)と訳されていた部分が、正しくはHe was clownと言っているとのことだった。訳文ではこの程度の差異はよくあることとはいえ、この二つの意味はかなり違う。

 

Clownはどうして必要になるのだろう。それは集団の中でしか存在しない1つのペルソナのようなものだ。それを生んだのは誰なのだろうか。

倫理を振りかざし、責任を押し付ける者はそれ以上のことはしない。それはその言動にこそ目的があるからだろう。しかしClownはClownという存在として既に集団の中での責任を全うしているものだと僕は思う。さらに彼は己の、集団のための大義の中に殉じた。ソクラテスやイエスと何が違うのか。行為というのなら、それは役割の違いだと思う。ただそれだけ。

 

ヒトラーがそれだけの深みを持った人間だということは、著書からも溢れ出ているし、なにより最期まで添い遂げたエヴァの存在が物語っているだろう。あまりに悲愴に満ちているけれど、2人が一緒に逝けたのは救いだったのかな。

 

なぜ祖国の為に、集団として意思を共にし、殉じた指導者が石を投げ続けられるのだろう。そこまで含めてClownと言ったのだろうか。

ヒトラーを絶対悪とする人は倫理を武器にするが、であるならば個人や一部に負わせるものではない。後から裁くものでもない。所詮他人事の理屈であって、だから何も変わらない。外向きの感情の一種の作用がそうさせるのだと思う。であるなら、変わる筈がない。

悪に石を投げるのが善なのか。その基準が集団の中に見え隠れするとき、同じことは繰り返される。常に、いたる所で繰り返されている。善悪なんて捨ててしまえばいいのに。でもその彼岸は人間が群れの動物である以上遠すぎる。

Pinterest

最近おっさん化のせいか新しいサービスには中々手が出ないのだけど、半年前にコンセプトが気に入って登録だけしてたPinterestを使い始めたらはまりつつある。

 

楽しいよぅ…

情報が視覚的に、そして直感的に集めやすいし、余計なものが入ってこないから煩わしさがあんまりない。

本当にボードに気に入った写真を集めてるみたいで楽しいし、情報欲もアイディア欲も満たせる。

 

ただ、あまりに楽しいので情報を集めてる時の興奮で脳の疲れに気付かないことが起きると思う。僕はそれをよくやってしまう。そこだけ気をつければとっても良いツールだと思う。

 

最近SNSはFBもTwitterもMemesだけ見たいのに煩わしい情報の方が多いから遮断してた。しばらくこっちに疎開しようと思う。

ここなら感情的な煩わしさを気にせず、Memesもクオートも風景写真も絵もアイディアも図も沢山見つかる!容量や保存先を気にせず気軽にピンできて、似たものも沢山探せる!天国だね!わーい!

 

早速ホームフィードがカオスなことになってて笑える。Youtubeとかより的確。まぁ意味のわからないオススメが混じるYoutubeはそれはそれで好きだけど。

 

でもアプリ版はiphone5ではちょっと重い。おかげでSE2を買う決心が出来そうです。