感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

オタマジャクシとカエル

オタマジャクシが変態してカエルになるけれど、それって凄く不思議に思えた。

でもそれは自分に当てはめて考えるからで、ヒトの幼体の頃の気持ちをオタマジャクシに当てはめるからなのだろう。

でも幼体というのなら手足が分化し、しっぽがなくなった、変態が終わった後の未性成熟の頃を当てはめる方が合うんだと思う。

 

自律して捕食もするという点でオタマジャクシ、そして他の脊椎動物の幼生達は幼児のようではあるけれど、ヒトで言えば胎児に近い。

受精卵、胚、幼生、変態期、幼体、成体、これに哺乳類を当てはめるなら幼体期に入ってしばらくしてから母胎から出てくることになる。

脊椎動物の形は胚の段階では殆ど同じなのだから、胎内や卵の中でどの程度形を整え、成長して出てくるのかということだろう。

卵から生まれるにせよ、母胎から生まれるにせよ、どちらにしたって受精し発生し分化し、どこかの段階で出てくることになる。

 

ヒトの場合、妊娠3カ月でかなり形ができてくるし、5カ月では骨格が出来上がり、毛も生えてくる。

そう考えると色々と想像が膨らむ。

 

オタマジャクシを見ながら、ヒトの胎児はどの段階でどの程度意識があるのだろうかとか。

変態期のカエルの意識はどうなっているんだろうとか。(免疫的にはしっぽが残ったカエルはしっぽ以外は既にカエルになっていて、オタマジャクシだったしっぽを自己ではないと判断することでしっぽが消えるらしい。とすると両者は別物なのだろうか。その変化はどう体感されるんだろう。)

 

そもそもカエルに意識なんて~とか夢のないことは言いっこなしね。程度の問題であるし、少しでもあるのならそのカエルとしては完全な意識なのだから比べる必要もないでしょう。

 

そういうことを考えていると、例えば妊娠中絶に関しての見え方も変わるのかもしれない。中絶は早ければ早いほど倫理的な問題が少ないと捉える人の焦点とか、色々と理解できる部分が増えるのかも。

 

胎教というのも、教えるというと少し押し付けっぽくていやだけど、聞こえているということはもっと母親も周りも意識していいと思う。

 

人間は子供を未完全なものと見做しがちだけど、形としては完全に出来ている。カエルとして見るならば立派なカエルと言われる状態で生まれてくる。幼児になれば自由に考えて自由に動き回る。性成熟や適応がそんなに立派なのだろうか?というと僕の思考が見透かされそうなので、もう少しこう一個体として尊重しても良いのではないか。

 

 

とかね、そんなことを考えていたらお仕事が手につかなかった水曜日でした…

 

 

そんなことはどうでも良いのだけど、オタマジャクシの気持ちをカエルは覚えているのだろうか。僕には胎内の記憶なんてないのだけど、でもどこかで懐かしさを感じ、回帰を願うのは、カエルになってから感じていたからなんだろうね。

ところでさ、僕はどこから僕だったのだろう?