感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

情報の拡散 恐怖 理屈 mass

移動制限4日目。無性にイライラする。何にイライラするのだろうって考えると、政府の出した移動制限に対してではないのだと思う。それがいかに効果が限定的であろうと、政府はそれをやらなければ民衆から非難を受ける立場にあった。同情の余地がある。

だからこそそういう空気に満ちたSNSが気持ち悪いと感じていた。

 

人間は噂が好きだ。

彼らは何のために噂をするのだろう。何のためにセンセーショナルなものばかりに釣られ、何のためにそれを信じ、何のためにそれを話したがるのだろう。

 

その裏に感じるのは恐怖だ。僕もビックリするくらい、彼らは本当に恐怖を感じていると僕は感じる。

噂をする人にとって、その情報の真偽なんてスパイスの一種の様なものなのだと思う。結局のところ、何か情報を見つけ、恐怖を感じ、それを拡散するのが目的になっている。だから真偽ではなく、センセーショナルさなのだと思う。

 

センセーショナルなものほど集団としての感情的な真だからなのだろう。

それは、論理的な、真偽を求める対話的姿勢とは全く別の軸である。

僕は正論というものが好きなわけではない。でもこの集団的な感情はもっと嫌い。

自己顕示の為の拡散もある。でもこれはまだこちらに矛先が向いてない分許容できる。

 

この恐怖が根底にある、厚かましく、強迫的で、偏向的で、欺瞞し、何より排他的なものに対し、凄くイライラする。

それが何故かといえば、僕の個人的なモラルとぶつかり合うからなのだと思う。

例えばシェアされたものを見て、その本人が内容を全く吟味しておらず、軽率な気持ちでシェアしたのなら、その軽率さの影にある恐怖に対しイライラするのだ。(ほら、軽率って言葉が出たように、僕はそれを軽率と感じている)

僕はどうしてもそれを、彼らは傷を舐め合いたいがためにやっているのだと感じてしまう。気持ち悪いし嫌悪感がある。

 

彼らが求めるのは肯定の安心だと思う。いや、もっと適切な言い方をすれば同調であろう。それは恐怖(他の感情であっても)の中で、実際に自らがそれを感じている中でこそ満たされるものである。だからある意味で、恐怖する自分を欲している。

そしてその感情的な選別は、恐怖する自分を認めるために、『同じように』恐怖しない者に対し排他的になる。それは、『同じように』恐怖する者達だけの確認行為だから。

 

 

「何で君たちと同じように感じなきゃいけないんですか。」それが僕の内側での反抗。

噂も気持ち悪いけど、SNSでシェアされる内容はもっと気持ち悪い。それは、SNSがそれを利用しているという見え方が僕の中にあって、それによって増幅された軽蔑なんだと思う。

僕はなんて傲慢なんでしょう。でも気持ち悪いもんは気持ち悪いんだもん。

恐怖があるのは分かるし、それは認めるけれど、一度同調を求められると「こっちに押し付けるな!」って内側でなってるんだと思う。

 

正論は嫌いと書いたけれど、その正論は主張ばかりの正論のことなのかな。

情報の発信において、僕が内面で大切だと思っているのは、それが理屈であるならば、理性的であること(生の負の感情が隠れて引っ張っていないこと)なのだと思う。個人の感想や主張なら感情的であっても構わない。

でも他人に対し、集団で共有できるはずの『理屈』を振りかざすのなら、そこに理屈に対する責任と僕が感じる何かが伴っていないと、僕はイラっとくる。

 

今日もそれに対し二度反論してしまった。反発と言っても、僕が思う理屈をぶつけただけなのだけど。それは普段しないで飲み込んでいるだけに、イライラが溜まってたんだと思う。

でも彼らに『理屈』はない。本人の主張がないのだから。理屈として対話にならないから反論しても後味が悪い。集団の真の中に身を置く彼らからしたら、何だこいつって思うんだと思う。

 

何よりこの時、僕は正論おじさんなのだ。自己投影して普段嫌っている影の自分が出る。それが嫌。

でもさ、あまりに無責任すぎない?理屈を求める心への冒涜じゃない?あんなに彼らにとっては他人事としてしか向き合ってなのに、なぜ拡散しようとできるのだろう?なぜその目でこっちを見てくるのだろう?

 

情報共有は人類にとって、とても重要なものだったのだろう。だからそれを促す感情が生きている。でも情報の在り方は、社会の在り方と共に変わった。ならその感情にリードされたものに何の意味がある?

 

多分戦中に生まれてたら同じイライラを感じたのだと思う。

政府も国民も一丸となって外敵をやっつけよう!このスローガンは何度繰り返されるのだろう。

The masses、いや、Crowdsの心理は本当に気持ち悪い。結局政府を促しているのは彼らだ。他人顔をしながら促されるままに政府を賞賛し、後戻りできなくさせるのも彼らだ。最終的に促されるまま掌を反す。そして「あいつらが悪いのは初めから知っていた。俺たちはいつも犠牲にされる」と嘆き、同じループを始めるのである。

 

 

いや、いいんだよ。恐怖が本物なのは知ってる。怖いんだね。ならなぜそこに居ようとするの?

もしそこに居るのが目的なら、こっちだけは見ないで欲しい。僕はそこへは行かない。

ゲームと僕 ゲームと親と子

ゲームって一括りにするけど、それぞれのゲームにそれぞれの世界があるし、何より沢山の学びがあると思うんだけどな。

仮想の世界だからといってそこで学んだことを現実に適用できないということはないはず。

といってもゲーム自体幅広くて、人によって好みの違いもあるのだろうけど。

 

僕は結構色々なゲームをやってきた。それなりにゲーマーだと思う。

中学生の時は友達とよく64のパーフェクトダークをやってた。ストーリーも好き。Haloシリーズも結構やった。PCではHalf Lifeから色んなFPSもやったし、シムシティやシムズも好きだった(昔のシリーズは)し、RTSも大好きだったし、スロットル付きのフライトスティックとラダーペダルを買うくらいにフライトシムも好きだった。

Remedy社のMax Payne1, 2やAlan Wakeは素晴らしいストーリーに引き込まれたし、Mount & Blade WB, WFASの壮大な世界には僕の分身が何人もいるし、Age of Empires 3の探検から始まる植民地の覇権争いではゲームをやっていながら色々な情景が浮かんでは消える。

 

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Mount & Blade NWの風景。しゅき。

 

良くも悪くも、売れることを重視して大衆向けになるとどのジャンルのゲームでも刺激や爽快感、順位の要素ばかり目立つようになってしまう。プレイヤーがいないと続かないからそれも必要なのかもしれないけど、僕はニッチでやっている人が少なくても(だからこそ)ジャンルは問わず凝っていて深い世界を作り込んでいるものが好き。商品と言うよりも、より趣味に近く、創造の世界だと思う。

個人製作のゲームが売りやすくなって、支援者が集まりやすい今はニッチなゲームが増えてて羨ましい。環境があればまたやると思う。steamは入れたままだしね。

 

レベル上げ要素の強いRPGだけは苦手で勧められてやってもいつも途中で飽きてしまう。コツコツレベル上げとか無理。

そのくせ潜水艦で商船待つのは数時間やっても苦じゃないし、爆撃機に乗って1時間近く飛んで爆弾を落としてまた1時間近く飛んでRTBも苦じゃないし、ベトコンというゲームでは隣部屋のPCに座った友達と何故か1対1で戦い、空が白むまで互いにすぐ近くの茂みに潜伏していたこともあった。

HL2modのBattle Groundというアメリカ独立戦争のゲームでは、全員がプレイヤーのFPSの世界で初めて戦列歩兵によるラインバトルを経験してとても楽しかった。何故か督戦隊のようなコマンダーがいて、戦列を乱すと殺される不思議な世界だった。思い出すと笑える。

 

 

例えばコンバットフライトシムでは現実とはズレるとはいえ航空力学を学べるし、爆撃照準器の扱いから様々な空戦機動や連携、機体や武装ごとの有効な対空、対地攻撃方法、敵との心理的な攻防、タクティカルからストラテジックな戦場の動きの把握、様々な定石の裏をかくことも学ぶだろう。それをさせるのは僕の場合は、遊び心を最大限に生かす為でもあるのだと思う。

関連する知識もその脇で自然と得ていくものだ。その両者が重なり、独自のスモレンスクの空やノモンハンの空の情景が出来上がることになる。

 

これはゲームの中の話で、現実とはズレたもの。

死んでも生き返れる、リセットできることを批判する人もいるけれど、だからこそ本来できないことを何度も試行できる。現実とのズレだって学び得た物は調整ができ、他のことに利用できるものだと思う。何より、それらの経験は色々なものの見え方にも影響を与えるものだ。

色々なゲームの世界を体験することは、本の世界と同じく、色々な見え方を生むものであると思う。(活字が想像の世界を生み、ゲームは作られた世界を体験するだけだと言う人もいるけれど、それは単にイメージの話。両者とも、想像の世界はその作品の外側にあると僕は思う。)

 

ゲームとの関わり方も色々ある。クランのようなチームを作る人もいるし、ゲーム内の色んな技巧を競う人もいるし、Modやマップを作る人もいるし、録画して独自の映像作品を作る人もいるし、最近は配信も手軽なようだ。それを見るだけの人もいるらしい。

 

どのゲームも仮想であれ世界だから学べるものはあると思うのだけど、ソーシャルゲームとかそういうのは知らない。射幸心とか収集欲とか刺激ばかりのゲームも多くあるのは事実だから。それは求める物の違いだろうから何とも言えない。僕は嫌い。課金要素が強いのも嫌い。

 

 

香川のゲーム1時間条例もそうだけど、子供がゲームばかりやっていると悩むくらいなら、その子がどういうものを楽しめるのか、どういう楽しみ方をしているのかを見てからでもいいと思う。今の時代一般的に、大人もスクリーンを2時間は眺めてると思うのだけど、ゲームは何が違うのだろう?

 

楽しんでいるものなら、取り上げるというのは僕は良いと思わないし、制限は出来ても今の時代完全に触れさせないというのは難しいだろう。

主体性を重視するなら子供の権利を認めた上でスクリーンタイムに家族共通のルールを敷けばいいと思う。その土台の上で親も一人の人として一人の人相手に提案すればよいのだし、そうすれば子供もきっと提案してくれるだろう。

不平等条約は親子でも僕は良いと思わない。関係の在り方の好みの問題だろうけど。

 

ゲームも一緒にやってみれば互いの楽しみ方を提示できるかもしれないし、大人だからこそ提案できるゲームやその遊び方もあると思う。新しい発見は互いに見つけていくものだ。親が見て好ましくないと思うゲームばかりしているなら、別のものを提案すればいい。

 

それができないというのなら、ゲーム云々の問題ではないのではないだろうか。

テレビでも漫画でも携帯でも、常に同じことが言われてきたのでしょ。

 

 

IL-2 sturmovikのファンメイドの動画。10年以上前のだけど久々に見ても好き。


I/JG54 - Requiem (IL2 sturmovik)

屈強なJG54が反攻の波に乗ったソ連の数の暴力に削られていく切なさ。

思考

ランダムに点灯する記憶の電球を勝手に紐で結び、その見栄えに喜ぶ。

それが僕の思考なんだと思う。

 

それは嫌いじゃない。

でもその切っ掛けがワンダーでも探究心でもなく疑念なのがなぁって思う。何かこう、汚れてしまった感覚。

 

ワンダーはあるんだよね。とても強く感じる。

だからこそ報いたいと思ってしまうからいけないのだろうか。

 

素直に受け取りたいと思えば思うほど素直じゃなくなる。いや、素直じゃないから素直になりたいと願うのか。

 

切ないなぁ。

対話、主張 

熱が出て昨日今日と寝て過ごした。

そんな中拾った(流れてきた)画像が面白かったから貼る。

 

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これはそのまま。僕の場合中の円はどれももっと小さいと思うけど。

 

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meme好きなの。

細かいところを言えば僕はmentally mature enoughという部分は好きじゃない。寛容でいいと思う。それとgraspも尊重でいいと思う。

後半はその通りだと思う。寧ろno pointどころか間違って伝わったり、切り取って断じられたり、百害あって一利ないと思うことも多々ある。

 

このぐらい対話というのは難しい。主張となると更に。

主張しなきゃって言うけど、伝わらないものを主張する意味ってあるのだろうか。その意味が意味する意味が、『相手をねじ伏せる』ではなく、ただどう思うかを伝えたいって人はどうしたらいい?

 

だから主張は、それに事なかれ主義と口下手が相まって僕にとってはリスクにしかならない。

 

伝える努力?人が自らの捉え方の土台を越えられない以上、伝わらない人には伝わらないよ。間違って伝わることは僕は好きじゃない。だから僕は、間違って受け取っていないかいつも不安になる。

 

多分、僕の伝えたいものは努力するといった時、既に伝わり得ないものなのだと思う。

 

 

この2つの画像が面白かったと書いたけど、どちらも僕の内側にあるもので、僕が対話から遠ざかってきたのはこれらを何となく感じていたからというのも一因だと思う。

僕にとっての対話って何だろう、主張って何だろうって考えると、それで良かったのだろうなって思えてくる。

 

本心を守りたいのだ。だから知りたいのも他者の本心なのだと思う。

自分の本心を知るために。

 

ハードル高くて笑える。

それでもどこかで伝えたいと思う気持ちがあるから、ここがあるのだと思う。

温かいものだから。

尊敬と軽蔑

時々、尊敬と軽蔑がどっちがどっちだか分からないぐらい混ざり合うことがある。ここでは正直に書こうと思う。必死に尊敬だけ見ようとするのだけど、結局のところ僕の中ではいつも隣り合わせ。

不思議だなぁと思うし、僕は傲慢で我侭なんだろうなぁとも思う。

僕が尊敬すると書く時、僕はその対象を本当に尊敬している。でも同時に軽蔑していることが多い。わざわざ尊敬と書く場合には、寧ろ光が当たっているのは鏡の中の軽蔑だったりする。

せこいなぁ。

 

それはしかし、突き詰めれば対等の目線に立っている場合に起こるもので、ある意味では真摯に相手を捉えている場合に起こるものだ。

 

尊敬と軽蔑が同居しない場合にも、ただ尊敬の念を抱いているというわけでもなさそうだ。いたわり(というある種傲慢なもの)、畏敬、愛情、常に様々なものが同居している。

多分、尊敬というもの自体が、自らの気持ちを解釈したものに過ぎないから付随する、元となった感情が含まれるのだろう。軽蔑もまた解釈だから、多くの場合どちらともとれるのかもしれない。

 

なぜ僕の中では人を軽蔑するのが傲慢で、尊敬する謙虚さが善いものになっているのだろう。

その基準を捉え直せば、必ずしも軽蔑は傲慢ではないし、見方によっては尊敬は、それだけ見ようとすれば卑屈な匂いがあるものだとも思う。

 

でもやっぱりオフェンシブな立場には立ちたくないし、そう相手に捉えられるのは嫌だから、尊敬だけ見ているのが楽なのだ。もう少し正直になりたいけれど、自分の中に何か内的な道徳観が巣食っていて、そのためのプロトコルができていて、でもそれはどこかで僕自身の気持ちや大事にしたい他の何かとぶつかり合って苦しい。

 

面倒くさいことこの上ない人間だと思う。

 

文字通りに尊敬はしていないけれど、文字通りに軽蔑もしていない。心から尊敬しているし、その裏腹軽蔑を抱いている。

両者を抱いているのは、僕なりに真摯に対話している、ということなのだ。

僕のほぼすべての対人関係はこれを端折ったものなのだと思う。疲れる。いや、疲れてるからこんなこと書くんだろうね。

 

貴重な土曜日が終わっちゃうよぅ…

リラクゼーション効果 ストレスと癒しと自然

興奮やパニック、緊張や不安な状態の時、多分交感神経が優位な時、僕はその環境の中の存在ではなく、外界との接続を遮断した状態なのだと感じる。

 

リラックスした状態はその逆で、周囲の環境の一部となっている。そして、そこには自然の要素が重要になってくる。音、匂い、視界、感触、風味、それらが繋がりを持つと感じさせるものはやはりここ数百年以前の僕らの生活に根差していて、人工的な環境にそれを求めることが出来ないのは当たり前なことなのだろう。

アロマ、ホワイトノイズ、植え込みの緑、ある種の風味(体内である種生理的に作用するものは別として。別ではないのかもしれないけど)などがもたらすものは、それらを感じることによるリラクゼーション効果であって、そこで得られる癒しは癒しを超えることが出来ないものだ。(多分、マイナスイオン発生装置というものが目指したのもそこだったのだと思う。)

自然環境を支配し、自然環境から隔絶された僕らが癒しを求めるのは、とても当たり前なことなのであろう。でもそれは癒しを求めているのだろうか?そこに癒しを感じるからそれを取り入れているのであって、求めているものは別なのだ。

 

僕の問いは『なぜ癒しが必要なのか』。それに尽きる。

それはとてもおかしなことではないだろうか。癒しと呼ばれるもの以上のもの、例えば五感全てが癒し効果のあるものたちに包まれ、その環境の一部として繋がりを持ち、自らの存在が明確であり明確でない状態というものは、ある種の環境では当たり前のものである。そしてそれは都市生活を始める前の人類が当然のように感じていたものなのではないだろうか。それは僕が森の中で実感するものである。

 

時間、流れ続けるこれも、60秒刻みのすべての人が共有しなければならない強迫的な流れと、川の流れ、太陽や星の流れ、風や様々な音の流れ、空気の質感の流れ、それらとでは同じ時間という流れを騙っていても全く別のものなのだ。前者は実感という環境と僕との接点がないのだから。(実感がない=)存在しないものに縛られるストレスなのである。

 

例えば前者が、時計の時間の流れが支配する空間におけるストレスを、後者を疑似的に感じるものを利用することで『接続先を切り替える』というものが癒しであるとしたらどうだろうか。

僕はとても納得できるような気がする。

 

例えばミニマリストという人たちが、少なくともその源流が目指していたものは同じではないだろうか?ストレスの発生源を物質に見ているだけなのではないだろうか?

同じようなものは沢山ある。

 

みんな本当はそこから逃げたいのではないだろうか。本当はあの場所へ帰りたいのではないだろうか。

癒しの渇望、物質に対する疲れ、流れからの逃避、病んだと思い込まなければならないとても自然な感覚を持った人たち。

自然への回帰とか言うとなかなか受け入れられないのだろうけど、僕には多くの人がそれを望んでいるように見える。

 

この流れの先が正しいのだろうか。それが正しい向きに流れるとしても、その流れを肯定することは正しいのだろうか。

 

癒しもそうだし、ミニマリズムもそうだけれど、それを肯定することは、僕にとってその大元にある流れそのものを肯定するに等しい。だから僕はそれを求めたくはないし、それそのものだけを肯定することはしない。でも実際その流れの中に居るから、癒しというものには縋ってしまうのだけど。

 

 

何が言いたいのかといえば、この流れの中に居る以上、僕にとっての静寂はないのかもしれないということだ。

だから僕は言う。生まれる時代を間違えたと。

多くがこの生活に正しさを持つ世界だから、個人の感想として、時にふざけた振りをしながら、思いを込めて言うのである。

元父親の記憶 嫌悪

僕はあの人を父親と思っていないのだけど、掘り返せば事実として父親だった。

遡れば遡るほどそれは当然のものであって、疑いの余地のないものであった。

 

今の僕の年齢の時のあの人の、5歳の子供として僕がいた。

その頃の僕はこの人を父親だと認識していた。物心は付いていた頃だ。既に色々なものを見ていた。理由はわからないけど母が泣くのは悲しい、ただその感覚が残る。

それでも父親という存在との関係を疑うことはなかった。

 

悲しいことは当たり前に起こるものだった。だからお酒が嫌いだった。お酒があるからと思っていたのだろうか。お金のせいだと思ったこともあったのだろうか。仕事のせいだと思ったこともあるのだろうか。

どれも間接的なものにすぎないと気づいたのはいつの事だろう?

「やめて」と何度言っただろう。馬鹿の一つ覚えのようにそれしか言えなかった。ああいった場面で口から出る言葉はそればかりだった。あとは泣くとか叫ぶとかそんな程度だった。

恐らくこれも美化しているだろう。こちらに矛先が向くことは少なかったとはいえ、実際に痛みを知った以上怖いものは怖かった。「自分に矛先が向くことは少なかった」というのは学習の上の傾向を記憶しているだけなのだから。

 

外に助けに行こうにも、祖母に助けを求めて電話しようにも、その仕打ちを受ける母に止められたらそれまでだった。「いいから」って言われても「良くない」ということを学んだのは相当後だった。でも成功体験とは大きいもので、一度や二度それが効くとそれに頼ろうとする。単純。

 

あの人を個人として恨み拒絶することを覚えたのはいつだろうか?とても遅かったのだ。

僕は年齢の割に幼かった。中学前半ではまだあの家庭があの構成で続いて欲しいと願っていた。

 

なんと暴力的な発想だろうか。

でも疑うこともなく、父親がいなくなる=崩壊の恐怖だった。継続の日々が終わる恐ろしさ。実際はそんなことないのにね。中にいるとそうなってしまう。迷路の中のネズミの思考。僕は何度それを人生で痛感すれば良いのだろう?

結局の所、あの人を否定し恨むことができたのは、あの人自身が勝手に家出をしてからだった。嫌悪はその後のものなのだ。極新しい、実害の後のもの。でもその嫌悪は今では僕にとって大切なものになってしまっている。それがあっても色々おかしな回路になっているのに、もしそれがなかったら?

 

 

あの人が家を空けた期間、3週間はあったかな。精神のリズムから、迷路が箱の中にあると気づくには丁度いい期間なのだろう。思考が異常の外に出るには、継続的なストレス環境が自らを生かしているわけではないと気づくには、その程度は離れないと気づけないものだ。朝陽のような眩しい思考で、それを受け入れる心身が開かれるのはいつもその後だった。

そしてようやくその存在を不要だと思えた。

 

 

共依存は単なる関係の在り方であって、夫婦であろうがカップルであろうが兄弟であろうがなんだろうが、たとえ他と比べて歪んでいようとそれはその2人の在り方だと僕は思う。それは良い。

 

でも僕という主体にとって、僕という存在の目を通して見た世界で、その夫婦にとって僕自身が1つの鎖になっていた時にどう考えればいいのだろう。

 

僕が居なければここまで母が苦しむことはなかったし、僕が嫌だと思う光景は早くに去っていたのだ。痛み苦しみを見るのが嫌と言いながら、ある期間においてそれを生んでいたのは明らかに僕の存在そのものであった。

僕があの人を父親だと認識していて、そこから脱却できなかったこと、その意識は弟妹にも継がれ、より強固な鎖を作り上げた。それは母に現状維持を正当化させるものであって苦しみの増幅装置として(他の面があったとしても結果的には)機能したものだったのだろう。

 

外から見れば意味のない、それでいて極端な仮定かもしれないが、『僕の主観』というある程度バグっているものからしたらこれは一種の事実であって、だから事実それそのものなのだ。

 

僕の大切なものを肯定したい立場に僕が立つ時、僕は否定されるべき存在として僕の中に存在し続ける。捻れ、捻れ、いくら捻れてぐちゃぐちゃに絡まり分からなくなっても、それだけは確定的な事実になっている。そのバグをバグと言える程度には疚しさを捨てられても、バグはもう固定されている。弄ることのできない領域で、自動的に否定される。肯定するための否定が否定のための肯定を生むうち、否定と肯定が捻れ合う。その螺旋が三つ編みを作り上げ、狂騒的な唸りと叫びと泣き声と動悸のリズムを奏でる。

 

いつも以上に訳が分からなくなってきた。僕にとってはより中核にある深い泥沼だからね。覗くたびに反転を繰り返す。

 

弟や妹も僕のその「やめて」を学んでいった。それぞれにやり方を学びながら。なんて壮絶でぞわぞわして気持ちが悪く地獄のような重苦しさでそれでいて滑稽な光景だろう。誘発する感情の爆発。泥の塗り合い。足の引っ張り合い。傷つけあってその傷を舐め合う。

家族という意味のわからない幻想に縛られた可哀想な人達。歪んだ世界の住人。

 

中にいる人間は囚われ続ける。記憶の中で。

だから嫌悪するんだね。これもまた線引き。肯定のための否定。

 

もうやめ。変な夢見そう…