感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

尊敬と軽蔑

時々、尊敬と軽蔑がどっちがどっちだか分からないぐらい混ざり合うことがある。ここでは正直に書こうと思う。必死に尊敬だけ見ようとするのだけど、結局のところ僕の中ではいつも隣り合わせ。

不思議だなぁと思うし、僕は傲慢で我侭なんだろうなぁとも思う。

僕が尊敬すると書く時、僕はその対象を本当に尊敬している。でも同時に軽蔑していることが多い。わざわざ尊敬と書く場合には、寧ろ光が当たっているのは鏡の中の軽蔑だったりする。

せこいなぁ。

 

それはしかし、突き詰めれば対等の目線に立っている場合に起こるもので、ある意味では真摯に相手を捉えている場合に起こるものだ。

 

尊敬と軽蔑が同居しない場合にも、ただ尊敬の念を抱いているというわけでもなさそうだ。いたわり(というある種傲慢なもの)、畏敬、愛情、常に様々なものが同居している。

多分、尊敬というもの自体が、自らの気持ちを解釈したものに過ぎないから付随する、元となった感情が含まれるのだろう。軽蔑もまた解釈だから、多くの場合どちらともとれるのかもしれない。

 

なぜ僕の中では人を軽蔑するのが傲慢で、尊敬する謙虚さが善いものになっているのだろう。

その基準を捉え直せば、必ずしも軽蔑は傲慢ではないし、見方によっては尊敬は、それだけ見ようとすれば卑屈な匂いがあるものだとも思う。

 

でもやっぱりオフェンシブな立場には立ちたくないし、そう相手に捉えられるのは嫌だから、尊敬だけ見ているのが楽なのだ。もう少し正直になりたいけれど、自分の中に何か内的な道徳観が巣食っていて、そのためのプロトコルができていて、でもそれはどこかで僕自身の気持ちや大事にしたい他の何かとぶつかり合って苦しい。

 

面倒くさいことこの上ない人間だと思う。

 

文字通りに尊敬はしていないけれど、文字通りに軽蔑もしていない。心から尊敬しているし、その裏腹軽蔑を抱いている。

両者を抱いているのは、僕なりに真摯に対話している、ということなのだ。

僕のほぼすべての対人関係はこれを端折ったものなのだと思う。疲れる。いや、疲れてるからこんなこと書くんだろうね。

 

貴重な土曜日が終わっちゃうよぅ…