感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

コジコジ 象徴

コジコジがyoutubeにあることをいまさら知ってさっきまで見てた。ちびまるこちゃんはそれほどでもないのだけど、コジコジは大好き。懐かしいなぁ。

 

第一話で名言の「コジコジだよ。コジコジは生まれた時からずーっと将来もコジコジはコジコジだよ。」が出る。勉強しないコジコジが先生に将来何になりたいのか問われた時の言葉。

勉強自体を否定するわけでもなく、ただ頑ななのかそれとも何も考えていないのか、「勉強をしたことがない」とだけハッキリ言う。

僕はそれがコジコジが唯一無二のコジコジという存在で在り続けられる理由だと思う。

勉強しないのがコジコジというわけでも、コジコジは勉強をしないもの、というわけでもないと思う。コジコジは一種の概念と言い替えられる存在であって、それと勉強という概念は無縁で交わり得ないものなのではないだろうか。

 

純粋さを求める心は結局そこへの回帰を望むものだから。

僕が時折抱く、経験や知識の習得は引き換えに何かをバーターとして失うという感覚、それと同じ。

僕は求める側である以上コジコジを求め続ける。でもそれは自由に飛び、虹のように掴めない存在。

 

これを描いた作者のさくらももこさんも、きっと求め続けたのだろう。それは、ませた存在のまるこちゃんを自己認識しているからこその存在なのだと思う。呵責の淵で生まれる虹なのかもしれない。

 

なんてことを思ったけど結構どうでも良くて、楽しいから見たい人は見てね!公式チャンネルから他のコジコジ動画にも飛べるよ!

 


【公式】さくらももこ劇場 コジコジ 第1話

 

訳の分からないことばっかり言ってる人だらけの現実と言われる世界で、「?」ってとぼけた顔をしてやりたい。『とぼけた』って言っている以上できっこないのだろうけどね。そこがもう決定的な違い。

内面でばかり反発した振りをして、相手にはチンチンしてしっぽを振りながらワン!って言うばかりの僕だからね…

寝違え 床屋

寝違えた。変な体勢で寝てたから起きた時にピキッっていって、「あっ…」って。

寝違えも腰痛も人体の重大な欠陥だと思う。人間が乗り越えなければならないのは先ずはそこからなのではないか。と思ったけど、二足歩行を始めた時、農耕生活を始めた時、そしてオフィスワークと、微妙なバランスで成り立つ人体は常に腰痛のような過負荷を適応する間もない生活の変化とともに味わっている。

これはもう個体レベルでは苦しむために生まれる動物と言ってもいいのではないか。

はい…

 

 

今朝は時間があったので髪を切った。いつもの床屋。新しいおじさん。ハズレだった。

僕は髪型の出来上がりはあんまり気にしないんだけど、鋏で切って欲しい。その床屋さんは5人店員さんが居て3人バリカンマンなんですよ。

左手で頭を押さえられながら右手でブーーーーンって刈り込まれる瞬間はどうしても毛を刈られる羊が頭を過り、それでも平静を保ってじっとしている自分に羊の気持ちを重ねているうちに吹き出しそうになって肩を震わせてしまう。

 

剃刀を素肌に立てられた時も似ている。首にナイフを突き立てられるシカを想像したり、時にはいつか見た斬首動画が頭に浮かぶ。剃刀が肌を這うゾクゾクに毛が逆立つような気がするのだけれど、目を閉じて身を任せ、肌を這うその剃刀の動きを追い続ける。頸部に来た時に、スパッとやられることが頭を過り、それでも成り行きに身を任せる感覚を味わう。

 

話が逸れた。バリカンだっけ。

実家が美容院でずっと祖母か母に切ってもらっていたからか、やっぱり鋏がいい。

その都度確かめながら鋏を入れ、整えていく。

バリカンで刈られた部分を見ていると、均一過ぎてこれもう草刈り機でしょって気持ちになる。チョキチョキチョキとビイイイイイイイイイイイインは違う。

効率っていう面では良いのかもしれないけど、僕は草刈り機より鎌と鉈がいい。気持ちを込めてその作業をする時間って特別であって、効率やお金のためといって他のもので代替できるものではないと思う。(日本語で『作業』という言葉がもはや機械作業的な空気を放つのも、何かの為の作業という単なる一過程と見做す見方が強まったからだろう。それが僕にとっての労働の苦のひとつ。)

と刈られる草のような気持ちになったけれど、床屋さんはお金のためのお仕事だし、それを他人に求めるわけにはいかないよね。バリカンでもその人なりに気持ちを込めてるのかもしれないし(今回の人からはそれを感じなかったけど)

 

だからいつも、好きな店員さんに当たることを祈りながらドアを開ける。

 

現代ではやはり、ベッポじいさんは淘汰されなければならないのだろうか?

なんてことを考えていた。

それにしても首が痛い。うぅ…

イヤーワーム The Power of Goodbye

今日は2つ書きかけで途中で飽きてしまった。一つのことに関して集中が続かない。そのことに関して気に病むことはもうしない。って書いてるってことはまだ気にしてるんだろうね。

いいの。また興味が戻ったら続きを書くかもしれないということにしよう。

 

そうそう、ネットでマドンナの記事をチラ見してから昔好きでよく聴いてた曲が頭から離れない。イヤーワームってやつかな。

 

マドンナは好きな歌が何曲かある。一番好きなのは”The Power of Goodbye”で、頭から離れないのもこれ。

今聴いてもとっても素敵な歌詞だと思う。

恋愛関係を終わらせる意味でのGoodbyeとのことだけど、他の人間関係にも言えることだと思う。寧ろ僕はこういう関係をお友達にも求めてるのかもしれないと思った。だからさよならも苦手。

心を開くとなれば一対一の愛憎関係にも似た物になるのかもしれないね。他の要素はおまけでしかないのかも。

 

Your heart is not open so I must go
The spell has been broken, I loved you so
Freedom comes when you learn to let go
Creation comes when you learn to say no

 

You were my lesson I had to learn
I was your fortress you had to burn
Pain is a warning that something's wrong
I pray to God that it won't be long
Do ya wanna go higher?

 

There's nothing left to try
There's no place left to hide
There's no greater power
Than the power of good bye

 

Your heart is not open so I must go
The spell has been broken, I loved you so
You were my lesson I had to learn
I was your fortress

 

There's nothing left to lose
There's no more heart to bruise
There's no greater power
Than the power of good bye

 

Learn to say good bye
I yearn to say good bye

 

There's nothing left to try
There's no more places to hide
There's no greater power
Than the power of good bye

 

There's nothing left to lose
There's no more heart to bruise
There's no greater power
Than the power of good bye

 

Source: LyricFind
Songwriters: Madonna Ciccone / Richard Nowels
The Power of Good-Bye lyrics © Warner Chappell Music, Inc, Spirit Music Group

 


ビデオも好き。チェスの駆け引きとか、愛憎の表現とか。だからこそさよならを選ぶ彼女に強さを感じる。

辛さもそれを導いた感情の海に洗われるのかな。
 


Madonna - The Power Of Good-Bye (Official Music Video)

 

何だか懐かしくて嬉しいし、このセンチメンタルな気分も含めて懐かしいから、今日はこれ聴きながら寝る。さざ波が安らかな気分。

おやしゅみ!

どっちかにして欲しい

経済活動って不思議。

感覚的にいまいちわからないのは、資本主義だの市場原理主義だの新自由主義だの、それが基本なんだからそれに合わせろと、なにかとそこは高圧的なのに、買い占めだの高額転売だのが起こると叩くじゃん。自粛しろって。それが特にわからない。

 

金だ自由だ競争だ、それについてこれない奴は自己責任だって旗を振り回しながら、こういうことが起こると真逆のことを言いだす。自粛、統制。僕が言いたいのは政治思想とか経済思想の問題ではなくて、それらの土台にある精神性の問題。その点においては前者と後者は真逆と感じるから。

何でそんな器用なことが出来るのだろう?凄いなぁって思う。

 

僕は不器用だからどっちかにして欲しいって思うの。

ただでさえ僕にとってその原理は双方ともストレスが溜まるのに、やれこっちが正しい今はこっちが正しいなんてやられても訳が分からなくなる。

嫌だけど一生懸命ついていこうとしてるのに、そこで梯子を外された気分になる。

 

別に僕は企業側でもないし、消費者としてもあまり関係のない位置にいるし、転売とかしたことないんだけど、なんかこう、イライラする。

要点が分からない。いや、それぞれが何を言ってるかは頭ではわかるよ。でも感覚的に分からない。だって僕の中では相反するんだもん。

 

迷惑だの譲り合いがどうのだのっていうけど、それも織り込み済みでその旗を振ってるんじゃないの?緊急時に需要が変わって値段が吊り上がるものと下がるものがでることも。

転売を叩くなって言ってるわけじゃないの。何を根拠に個人を叩いてるのだろうってこと。

そんなこと言うなら時限で立法させるように働きかければいいじゃん。法治国家なんでしょ?

 

 

私刑の風と同じ。ゴミ捨て場の臭気が乗った風。しょっちゅう向きを変えるけど、どこから来たかすぐにわかる。

その毒気には梯子を外されて途方に暮れる僕も侵され、こうやって毒を吐いてしまうのです。

落ち葉

信号待ちの時にひらひらと揺れ落ちる葉っぱをみて、僕にとっての時間というものはこういうものなのかなぁと思った。

時に風に揺られ、時に螺旋を描き、ゆっくりと落ちていく。穏やかに、優雅に、時に壮絶に。

 

時間は進み続けるものなのだろうか?真っ直ぐに等速で?

手を離れた石が下に向かうのならそれでいいのだし、紙切れが宙を舞うのならそれでいいと思う。地球が地球としての時間を持ちつつも、高山の時間を抱き、深海の時間を抱きながら太陽系の時間や銀河系の時間に抱かれ、その中を彷徨ってもいいのだろうし、沢山の尺度の時間がひしめき合って複数の時間を作り上げてもいいのだと思う。色んな楽団が色んな音楽を奏でるように。

 

僕はどう踊るのだろう?あの落ち葉のように優雅に踊れるだろうか?

 

宙を舞う落ち葉が土に帰る夢を見るように、人は地を打った後のことを考える。

でも人は、自分が人であった時のその存在を捨てることを受け入れられるのだろうか。

土に抱擁され、形を崩しながらその中の何かに移り変わる葉のように、別の時間の抱擁は僕の固執も溶かしてくれるのだろうか?

 

書いていて自分でも意味がわからないけど、そんなようなことを思った金曜日でした。

『Think you're lazy? Watch this』から

YouTubeのお勧めに出てきたんだけど、これ面白かった。

 


Think you're lazy? Watch this

 

Ambitionというものも、社会的に価値のあるとされるものではなく、自分にとっての価値を追い求めることと捉え直す。多くの生物が様々な尺度で生存を求めることに野心を見出すように、人の多くの行動もそう捉えることが出来る。

自らが主体的にその何かを追い求めているという意識は、それがネガティブだという固定観念から脱却するだけでなく、一種の比較(ネガティブ、消極はその対極があっての見え方)からも抜けだすことになるだろう。

 

「日々やっている小さなことから」ということだから書いてみよう。

 

私は野心的です。なぜなら僕は土曜日は12時間以上寝てゴロゴロ過ごすから。浪費が激しくてそうなってしまう。これは違う。

私は野心的です。なぜなら僕は合気道教室に通っているから。通っている…?サボりの方が多いのだけど。ほら、コネって大事じゃん?こういう場がないと僕は人と会わなくなっちゃうし…動機が不純だけどこれはまぁ野心かな?いや、これは主体的と見せかけてそうしなければならないと自分を思い込ませてるだけなんだよね。

私は野心的です。なぜなら僕は車の運転をする…のは嫌々なんだよなぁ。

私は野心的です。なぜなら子供と映画やアニメを一緒に見ているから。子供向け作品は僕が失った色んなものを思い出させてくれる。これはいいね。

私は野心的です。なぜならブログを書いているから。これは内面の整理として大事な作業でして、特にぐっちゃぐちゃで自分で自分が分からなくなる僕にとっては大事。一大野心でもあるのかな。

 

なんか宗教儀式みたい。自己暗示的な意味もあるのだろうか。

20分ぐらい考えたけどこれ以上思い浮かばない。どうしても繋がらないから書いては消してになる。

 

これ多分ね、生きる実感というものに凄く関係してると思う。

森の中の村にいる時の自分として書いてみる。

 

私は野心的です。なぜなら僕は魚を獲るために刺し網を仕掛けるから。そしてそれは食べ物を与えてくれるだけでなく自然の状況の変化を教えてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は投網で漁をするから。食材を得るためのこの行動は、活動を通し本来的な人の生活リズムを思い出させてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は森の中を散歩するから。それは五感を通じ森の一部となることで自分という存在が確かになる。そしてその時間は自分の内面の変化を教えてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は星を毎晩眺めるから。無数の星たちは僕の立っている場所を教えてくれる。

私は野心的です。なぜなら僕は果物を採るから。甘い果物を得るための行動にも、視覚、嗅覚、時に聴覚を使い、木を登るという沢山のプロセスがある。頭をよぎる落下の恐怖を制すのは、果物をたくさん採って配り、皆の喜ぶ顔を見たいという野心に他ならない。

私は野心的です。なぜなら僕は村に果物の苗をたくさん植えているから。10年後には僕が植えた木の実を子供たちだけでなく色んな人が食べて、その喜ぶ顔が見れる。孫ができる頃には大木になっていて、その頃には漁をしながらゆったりと暮らすのです。

 

やっぱりいくらでも書けそう。

帰りたくなっちゃった…

 

ああ、そういうことなんだなぁってなんか自分の中で繋がった。これは収穫。

街の生活では僕の野心や望みに繋がるものが少ない(手の届く範囲の物では)。願望ならいくらでもあげられるんだけどね。僕自身の価値観に見合わないものに合わせ浪費して過ごしているのだろう。そりゃ衝動的に世界を、いや文明を破壊したくもなるよね。

 

この動画はAmbitiousとLazyの対比の問題を扱っているけど、別に他の言葉でも構わないんだよね。あの人はAmbitious、僕はLazyという捉え方を、みんなAmbitiousでみんなLazyな部分があるのだ、と直すことに意味があるのだと思う。

周りからそういう目で見られる場合、そして自らをもそういう目で見てしまう場合、対比の逆側の言葉を自らに当てはめ、捉え直すことでその相対性のシーソーから降りられる、的なことだと思う。

 

でもこういうのは休日にやるのがいいな。楽しいけど疲れる。逆か。疲れてるから楽しみが減る。

2.0

タミル映画『2.0』を観た。SF作品『Enthiran』の続編で、主演はスーパースターRajinikanth(主人公役の彼は1人3役。実質4役!)。

邦題はロボット2.0だって。

 

インド映画というとヒンディばかりに焦点が当たりがちだけど、アクションと発想のぶっ飛び具合からいえばタミルも素晴らしい。

 

この映画も結構ぶっ飛んでる。そしてユーモアも挟むけど内容は真面目。どこかロマンチックであるし、どこか哲学的で、やっぱり歌と踊りのセンスはヒンディに負けず劣らず。この映画は作中でいきなり踊りが入るようなことはないのだけど、エンディングの踊りはとても良かった。幻想的。

 

僕の印象に一番残ったのは悪役だった。

ここからネタバレね!

 

 

生まれながら鳥に選ばれ、研究者として鳥とともに生きてきた初老のPakshi。研究を通じ携帯電話に使われる電波の鳥への影響、そして鳥が減ることの人間への影響を訴えるも、誰も耳を貸さない。それどころか自分の運営するバードサンクチュアリの近くに電波塔が立ち、その電波の影響(企業は法外な高周波を流していた)で生活を共にしてきた鳥たちも死んでしまう。

失意の中懸命に訴えるも伝わらず、電波塔で首を吊り自殺する。

その彼の身体から出た魂が死んでいった鳥たちの魂と融合し、携帯電話使用者=人類への怒りや憎悪を元に復讐のモンスターと化す。

 

その融合するシーンで僕は凄く安堵したし、嬉しかったし、泣いた。

陰鬱としたシーンの連続から彼が怒りの化身になる間に一瞬見える救い。素晴らしい描写だと思った。

 

鳥に選ばれ、鳥とともに生きた人の喪失と失意、それが自殺に繋がるわけだけど、彼は死の先でその鳥たちのもとに帰れた。魂となって溶け合い、それまで以上の繋がりの状態に帰ることが出来たし、そこで人生、そして苦しみに意味が付いた。それ以上の救いってないと思う。

彼は主人公たちに負けちゃうんだけど、憎悪の化身であるからそれはそれでよかったのだろう。僕は、彼はそれ以前の段階で救われていたと思うから、その憎悪は負けることでしか止まらないものだとも思う。

 

 

エンディングでは人類の無配慮が続けばこの惨事は再び起こるだろうという視点で、電波使用は法によって抑制することが必要だと主人公と大臣が合意するシーンもあった。投げっぱなしにせず人類側の反省に繋がることで、物語の中の悲惨さが無駄に終わらないのも良かった。

 

 

現実でも技術競争は続く。

5G、これも鳥が死んだという話もあるからここから着想したのかな。そこまでのものが必要かどうかってこともそうだけど、例えば人が文字を得てから記憶力を失ったと言われるように、僕は何か失う部分があるのではないだろうかと考えてしまう。急速であればあるほど、人の認識能力を超えていれば超えているほどに。

便利になればなるほど余裕を失うと感じるように。

色々考えさせられる部分でもある。

 

トレイラー貼っとくね!


2.0 - Official Trailer [Tamil] | Rajinikanth | Akshay Kumar | A R Rahman | Shankar | Subaskaran

 

歌とダンスも貼っとくね!


Endhira Logathu Sundariye (Video Song) - 2.0 [Tamil] | Rajinikanth | Shankar | A.R. Rahman

 

前作からの主人公の一人、ロボットのChittiが見る未来なのかなって思うと感慨深い。沢山の仲間とともにロボットダンス。人間はまだいるのだろうか。