感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

会話 感じ方の違い コミュ障たるコミュ障

先日来た一人との雑談の中で、彼は海外出張で中東のある国に行ったことを話した。今世紀に入ってからも戦争があって治安もあまり安定しない所。

僕は素直な気持ちで「いいですねー。」って言ったのだけど、返ってきた返事は「えっ?」だった。僕も「えっ?」って返してしまった。

彼「いいですか?怖かったですよ。」

僕「あ、そうですよね。」

 

ここで会話が途切れてしまった。

 

・物事への感想や思う事がずれてる

・本心とは明らかに違うような融通の利いたことが言えない

・気を悪くさせないようにすぐ引き下がる

・言葉を精査した結果出さないで終わる

このコンボで間が持たなくなってしまう。

 

僕は素直にいいなって思った。紛争地帯で経験できることって多いと思う。その中の人々の生活とか見てみたいし、その国の文化にも興味がある。怖いだろうけど死ぬのならどこでも死ぬリスクはあるし、そういう場だからこそより生を実感できる場合もあると思う。

でもそれは言わなかった。僕のその場に行ってない者としての言葉は、その場で怖い経験をした彼に伝えるものではないから。それにそんな僕の感覚を伝えても理解されることが少ないのは知っているから。

 

 

僕が上司にあたる人をジャングルで引率したとき、その人は僕があまり考えずに行動していると言った。ワニがいるのに川の近くを歩いたり、ゾウが近くに居るのを分かってて行動を続けるって。

でも考えていないって言われると反論したくなる。

僕が川べりを歩いている時、僕は襲われることを想定していないわけじゃなくて、寧ろ僕自身は脳内で何度もワニに引きずり込まれている。でもそれは実際には起きないという確信をその瞬間は持っていて、それを確かめているに過ぎない。実際に引きずり込まれる時は白昼夢は見ないのだという持論が僕の中にある。

それに一応反射的に逃げられる距離は保っている。

 

 

ゾウだって襲われたら嫌だなぁと思うけど、皆大人の男だから僕は強行した。自分の身ぐらい自分で守れる人たちだと判断したのだし、もしそこで死んだとしても周りも自身もその死を受け入れられる人たちだと思ったから。ツアー客やらあまり経験のない人だったらそりゃ引き返すけど、目的があって入るのだからそのくらい覚悟してるものでしょ。と思ってしまう。

 

これも伝えた所で火に油を注ぐだろうから言わないのだけど。伝えたところで誰も得をしない言葉たちが僕の喉には沢山詰まっているわけです。

 

本心がこれだから本心で会話が上手くいかない。融通を利かせようと思うとあまりに本心と離れていて、それを嫌う僕自身が許さない。顔色・空気読み取りマシーンなので気を悪くさせるようなことは避けようとするし、そうなると何も言えなくなる。

だから出身地の特産品聞いたりとか、お天気の話とか、すっごくどうでもいい会話になって、その互いの空気に耐えられなくなる。

 

まぁ所謂コミュ障というやつなんだろう。でも僕は大人のコミュニケーションがしたいとも思わないわけで。大人のコミュニケーションは嫌いだもん。嘘に塗れてるし、裏表があるうえに裏が見え透いてドロドロチクチクしてて。そのコミュニケーションで維持される関係に僕は意味を見出せない。

お仕事なら我慢するけど、それが積み重なればお仕事そのものを辞めるだろうし。

 

でもこういう人って意外と多いんじゃないかと思う。

そもそもコミュ障ってなんだろう。その嘘塗れのコミュニケーションを難なく出来るのが正常で、出来ないと障害?

僕のような人間が本心をぶちまけるようになったらそれはそれで糾弾されるだろうし、誰も得しないだろう。皆が嘘に慣れてチクチクの会話に違和感がなくなればそれはそれで地獄だろうし。その慣れは内面をも変えてしまうものだから。

 

そもそもすべての人がその役割にある筈はないのだから、それを正常にしてしまうのは集団としては長い目で見れば損失なのではないかと思う。スキルはスキルであって、器用貧乏になる為にそこに割り振る意味は無いと思う。むしろ違いが大事でして…

また始まった。

 

もういいや。今日はここまで!

僕はコミュ障はコミュ障でいいと思うのです。逃避?知らないね!

野垂れ死

野垂れ死に憧れる。

死ぬならやっぱり病院でも自宅でもなく、どこかでひっそりと野垂れ死にたい。

 

過酷な自然に抗って抗って、遂に生き残れないことを悟って死んでいくとかいうのもいいな。死を悟った後、最期の景色はどんな風に見えるのだろうか。

 

旅先っていうのも有りかな。森の中もいいけど、砂漠や大海原で水がなくなる時、どんな絶望を感じるのだろうか。

寒いのは嫌だから雪原や高山は却下ね。

 

唐突に動物に襲われて死ぬ(ここだとワニかな…)のも悪くない。でも何が起きたか分からないまま死ぬだろうから死を感じる暇がなさそう。それに中途半端に食べ残されたらSNSやニュースに晒されるだろうからなぁ。

 

死、怖くもあり、たった一度しか体験できない可能性が高いと考えるとしっかり味わいたい気もする。

どっかの死刑みたいにじらされてじらされて順番が着たりしたら、それはそれで失禁しちゃうかもしれないし、未練たらたらになりそう。それはあんまり想像したくない。

 

それよりももっと、生きる為に抗いつくして、「あ、ダメだな」っていうのがいい。きっとその時に、また受け入れる瞬間を感じるんだと思う。中途半端な状況でまだ生き残れる可能性が残ってれば、そんな感覚には身体がならない。

 

ストレス状態を超えた時というのは意外に安らかなものだ。あの絶望も、そこで死んでいたのなら受け入れていたということなのかもしれない。

折角生きているから、暫くはいいけれど、死ぬときにはもう一度あれを感じてもいいかな。そう思えるだけで大きな進歩なのだろう。

 

家族に看取られるとかっていうのもいいけど、でもやっぱり僕は男の子だからね。ひっそりとどこかに去りたい。ケンシロウも言ってたでしょ。「俺の墓標に名はいらぬ 死すならば戦いの荒野で」って。それがとてもしっくりくる。

 

リーダー争いに負けて群れを追い出され、ひっそりと死を待ちながら独り余生を過ごす元ボスザルとか見かけた時、あー、なんか良いなって思った。

 

自然の中で最期を感じ、その感覚のまま景色を、過去を、死を眺めてみたい。

誰もいない所でひっそりと。なんだか猫みたい。

二項対立 認められること 腫れ物 多様性

例えばLGBTでも、発達障害でも、ある種の精神疾患でも、ポリアモリーでも、HSPでも、内向型でも、概念そのものは僕は感覚的にはとてもよくわかるわけです。

 

でもそれら、マジョリティに対する二項対立的な位置になる概念として認識されることは、マイノリティ側の感覚を持った人たちにとって本当に良いことなのだろうか?ということをよく考える。多分前にも似たようなことは書いてるけど。

そういった概念は提唱される段階ではより幅広い意味を持つ場合が多いけれど、使用されるうちにどんどんと狭量になっていく。この言い方がふさわしいかは分からないけど、広がる内に反発的な排他性を持つようになる。

 

それはLGBTQ++の迷走からも感じる。だけど、概念の中に身を置くこと、その安心感を求めるなと言うことは出来ない。程度の差こそあれ、人はそうやって認められることを必要とするものなのだと僕は思う。

それは元を辿れば、狭量で排他的で無意識的な暴力性を持った社会の在り方と多様性を認めるという全体的な流れとの摩擦によって起きているものだろう。

 

でもその『認められる』ということは、社会に求めるものでもないと思う。

問題の根源が社会に絡まっているから、社会全体の認識の変化は必要だと思うけれど、それを社会に求めればどうなるだろう。LGBTQ++を見ても、グラデーションそのものが認められることがないから概念という枠ばかりが増えていくのだと体感してる。

 

その社会にその概念を以て認められるということを考えてみて欲しい。それは認められるのではなく、枠の一つ一つが腫れ物として扱われているに過ぎないのではないか? 

それは新たな反発を生み、枠を強固にするばかりか、マジョリティ側の、それらすべての『違う人たち』に対する否定的な感情も強化されるのではないだろうか。

 

これは双方が排他性を持つことによる結果なのだと思う。マイノリティ側はマイノリティ側で、アイデンティティを盾として身を守るばかりでは本当の理解からは遠ざかるという意識が必要なのではないだろうか。勿論盾は必要だし、ある意味で常に認められる側にある主流側を認めることは、一方的な理不尽を感じることとなると思う。でもそれは全くの無意味ではない筈だと思う。

理不尽を感じる側だからこそ、同じことを繰り返すのではなく、それを超えなくてはならないのではないだろうか。

酷なことだから強く訴えることは出来ないけれど、僕はその先にしか協調は無いと思う。

 

僕から一つ言えるのは、どの個性においても、事象においても、マジョリティ側が無意識の暴力を行ってしまうのはそれが無意識であるからだと思う。通念の中では当たり前だからそうなってしまう。それは仕方ないし、彼らもやりたくてやっているわけではない。

ならば先ずはその彼らの状況を、彼らの無意識の暴力をも認めることから考えた方がいいのではないか。そこで重要なのは、全てにグラデーションがあることを忘れないことだと思う。

 

全ての集団に、一人一人の中にもグラデーションがあることを認識してもらうことが重要だろうと思う。その為にマイノリティ側は、自分たちもそのグラデーションの一部に過ぎないことも、そしてマジョリティ側にもグラデーションがあることを、彼ら一人一人にもいろんな色があることを常に心に置いておくことが必要なのではないだろうか。

 

色を否定されたから色の近い別の集団の色に身を置く。それはいいのだけど、あまり長く身を置くとそこに染まってしまうのではないだろうか。そうなれば、別の人々の色も単調に見えてしまうだろう。集団と集団の関係というのはそういうものだから。

 

 

僕がボランティアをしていた頃見た発達障害と定義される子を持つ親たち。親は子を発達障害と認められ、初めて自分自身も認められる。腫れ物を持つ親として。その親たちと発達障害界隈の学会に漂う宗教臭さ。それが本当に気持ち悪かった(暴言でごめんね)。

社会に認められない子を認められないのは親自身に見えた。赦しを与えてくる学会、先生を崇拝する。

その親も痛みを持ってる以上、誰が責められることでもないけれど、でもそれは子供たちにレッテルを貼ることに正当性を持たせるものではないと僕は今でも思ってる。

 

例えば狩人としてなら認められるような素質を生まれながらに持った子供が、薬を飲まされて学校でお勉強をする世の中。向精神薬を飲んでいる時の自分は自分であって自分でない。それが強要されてしまう世の中。その自分であって自分でない状態の子供が親に認められ、自分そのものの子供は認められない世の中。本当に辛く苦しく気持ち悪い世の中。

勿論、程度やそれに伴う難しさ、辛さも置かれた環境もそれぞれあるし、見方によっていろいろだから一概には言えない。でも辛く苦しく気持ち悪いと感じるのは本音。世の中がね。

 

 

『認められる』という点において、特に個の色を認められるという点において、重要なのは集団でも社会でも権利でもないのではないだろうか。どこか一つでいい、その『失ったもの』を僕らは探しているだけなのだろうから。気の遠くなる年月、部族というものに頼ってきた僕らが失ったものを。

 

グラデーションについては、多様性を認めていくという流れがあるから僕はそう捉えている。これ自体は時代の流れだと思う。

一色に揃えたいなら有無を言わさず、違いなど端から認める姿勢を示さずに押し込め、反発の猶予すら与えないことが必要だろう。そうでないから、中途半端だから余計に人が苦しむのだと思う。どちらかにしろと言いたい。

 

でも多様性を認める社会と、表面だけでもそう在りたいというのなら、僕はそれを表面でばかり取り繕う痛みを断たないといけないと思う。それが進歩とも発展とも言わない。ただ、その流れに居るんでしょ?それに乗るんでしょ?それならこの不毛な二項対立の繰り返しを超える以外に何を見ればいいのだろう。

 

本来的にはそんなもの、認めると意識するまでもない単なる僕と君、僕とあの人になれば一番だと思うのだけど。

 

虹を目指すなら虹を見て欲しい。虹は7色でも人の名付けた色の一つ一つでもなく、ただ虹であるのだから。

会食と中華料理症候群

今夜もまた同じメンバーで会食だった。

隣の人が静かでもあまり気にならないタイプの人だったので居心地は良かった。

 

今夜は中華料理症候群になりかけた。首回りの硬直感、頭のぐわんぐわん、顔面の軽い痺れ、熱を持つ後頭部。いつものやつ。

原因は多分スープとチャーハン。高級食材使ってもこれじゃあなって思うけど、お金持ちは高い金出して食べて喜ぶんだからそれはまぁいい。

 

でもなぜ他の客は気づかないのだろう?そんなに化学調味料慣れしてるのか。いくらかは気づいていて言わないだけだろうか。払ってもらった場じゃ言えないしね。

 

ひとつ気づいたのは、僕はお酒を飲まないからダイレクトに症状に気づくのかもなってこと。こういった中華海鮮の店ではみんな酒を飲む。僕の体調の異変は彼らの酔いが顔にでるくらいの頃だった。症状は酔いに隠れてるのかもしれない。

 

化学物質過敏症と同じで敏感な子供はかわいそうだと思う。自分で原因に気づかず体調を崩したりその影響でぐずったりしても親は気づいてくれないんだろうな。やっぱり外食は怖い。

 

まだ頭がぼーっとして何が書きたいのかいつにも増してわからない。だから今日はおしまい。

会社自慢

日本からのビジネスグループとの会食。

隣に座ったおじさんは口を開けば会社の自慢、しかも酒癖が悪いという…。

その興味のない話を延々と、素面で聞かされるって拷問以外の何物でもないでしょ。

 

確かにビジネスで来てるんだろうけど、お食事の時までそんな話されても…

過去の成果の話ですら聞いてて反応に困ることがあるのに、この会社自慢は何が目的なのかもっとわからない。

 

僕は「わー、すごいですねー。」と何回心のこもってない感心の反応を示したのだろうか。僕ならこんな反応されたらもうその話題やめるのだけど、その人はことあるごとに自分の会社を自慢した。

その人の経験の話とかそういうのは面白いのだけど、なぜ会社を持ち上げるようにばかり話をつなげるのだろう。その自分の経験まで会社に献上してるのだろうか。

 

ロイヤルさを認めて欲しいのだろうか。でもそれって話す相手は僕じゃなくて、誰でもいいんだよね。

会社に対する忠誠を語る自分に向かって話してるわけでしょ。僕のことは見てない。だから僕は反応に困る。過去の栄光の話の方がまだマシ。

そういうのは鏡に向かって話した方が効率良いんじゃないかと思う。

 

そのロイヤルさには気品がない。自慢なのにかっこよく見えない。それどころか…

会社がかっこよければいいの?

あなたはその会社にとって何なの?あなたにとってその会社は何なの?僕はあなたにとって何なの?

 

 

ほんっとに疲れた。

それぞれの事実 主観の孤独 意識の檻

僕のどんなに親しい人であっても、僕を生み出した母でさえも、僕という存在を認識するために、僕という存在をそれぞれの持つ感覚で捉え、自らの箱の中で再構築している。

それは恐らくそれぞれが見る僕という存在で、そしてそれはそれぞれが創り出す僕という存在だ。

その僕はどれも僕であって、この文章を読んだ人が構築した、より断片的なものから成る僕と同じく僕であるというのは事実だろう。

 

僕自身は自分の身体を動かし、意識を持ち、その人達よりは若干深く僕という存在を知っているつもりではある。でもそれも結局のところ、僕自身が必死に意識や無意識に穴を掘っては粗探しして、箱の中で造形しては破壊し、半ば狂乱状態になりながら創り出しているものに過ぎない。

 

ということはどれも僕であって、どれも僕ではない。写真と同じではないか?

その写真さえも…

 

僕自身に限った話ではなく、全ての物質がそうだ。恐らく非物質も。

では君と半分こにして食べたリンゴ、それは同じリンゴなのか?

 

僕が知覚し造形したリンゴと、君が知覚し造形したリンゴは同じなのか?

僕らの中に入る前までは客観的に同じだった?それが事実?

でももうそのリンゴの存在は僕らの中では上書きされているよね?それも別々の味や香り、もしかしたら色さえも違うリンゴとなってしまった。もうその同じだったリンゴは存在しないのではないか?こっちの事実はその事実と共存出来るの?

 

世界はなんて孤独なのだろう。生はなんて孤独なのだろう。

この檻の外にはどうやったら出られるの?どうやったら誰かが入ってきてくれる?

 

でもきっと、その内側にも、その外側にも檻がある。僕に意識というものが存在する限りは…

必然性の香り

全ての物事を偶然性の土台に置いた時、そこに必然性という花のような香りが漂うようになる。

僕にとって必然性とはそういうものでなくてはならないらしい。

 

今まで会ってきた物事の必然を説く人への嫌悪感は、その土台を無視するか説明しないことによるものだったのかもしれない。

偶然性を無視した必然性は、胡散臭い説教であって詐欺師の理屈であって答えを暗記させその世界に人を押し込める学校の教育であって柵で囲われた放牧場だった。

それは全てが僕にとってしがらみであって、嫌悪の対象だった。

 

でも自分自身が嗅ぐ必然性の香りは僕を魅惑する。

この香りは彼らの信じようとする必然性なのだろうか?前提として縋り、救いを求めるものはこれなのだろうか?

 

でもこの香りは僕の世界では、それだけを見ようとすれば消えてしまう。掴もうとすれば逃げてしまう。

偶然という自然の戯れに身を置いている時のみに内側で感じる光であって、希望であって、陶酔であって、僕が僕である以上は外に求めることは出来ないものなのだ。

 

なぜ君達は理屈ばかり押し付けようとしたの?もしこの香りが同じものであるなら、この香りの美しさを語らないの?

そして本当にそれを感じているのなら、なぜそれを感じる方法を伝えようとしないの?

 

もし僕たちが互いに同じ花の香りに魅了されているのなら、その伝え方一つでこんなにも分かりあえないのはとても悲しいことではないだろうか。

 

『もし』同じものを感じているのなら…

 

たとえ僕がそれを反省したところで、僕はやっぱりその伝え方には共感することは出来ない。

たとえその香りが本物でも、全く同じものを感じているとしても、君達の言葉は僕を檻に閉じ込めようとするから。

手に縄を持ってこちら見てる君達をどう信用しろと言うの?

 

必然性を語るなら、まずはその自分の足枷を外し、柵の外に出て偶然のままに駆け抜ける姿を見せてよ。

共に駆け抜けて、君の嗅いだ香りに感じたものを語ってよ。

 

それをしてくれないのに、その気持ちのこもってない無味乾燥の言葉をどう信じろというの?

僕はそんな目で世界を見て生きたいとは思わない。その輝きのない、まやかしの必然性に殺された目で。