感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

星空の道標

ここは空気が綺麗で周囲に灯りが全くないので月が出ていなければとても綺麗な星空が見えます。

どのくらい綺麗かというと視力0.1以下の僕が裸眼で天の川を見えるくらい。

 

昨夜は刺し網をチェックしに行く途中、ボートから満天の星空を眺めた。沢山の蛍が一本の木を恋の光で満たすのを通り過ぎ、両岸の木が開けた時夜空全体が光る星で満たされた。

 

数えきれない様々な星たちはそれぞれが違った光を放つ。青い星、白い星、赤い星、その瞬間瞬間に色々な光を放つ星たち。

木々や川をまたぎ、頭上を通る輪っかのような天の川。

 

以前ある人が「吸い込まれるような星空を見ていると怖くなる」と言っていた。自分の存在の小ささが怖く感じるらしい。

 

同じものを見た時の感じ方も人によって違う。

僕が星空を眺める時は子供に戻る感じだ。壮大なワンダーを前に眼が開き、安らかな笑みに口が半開きになる。

星空を眺めていて感じるのは「綺麗だなぁ」ということと、希望。

光り輝く多くの恒星を周る惑星があり、その惑星を周る無数の月がある。そしてこの天の川のような銀河が数えきれないほどあり、その外側に何があるかは分からない。総てが一つの、僕らには認識できない大きな秩序のもと色んな段階を重ねながら周っている。

その壮大な中の小さな一つの存在であること、その中のほんの一瞬としてここに存在し、今この瞬間星空を眺めていると認識した時、とても安らかな気持ちになる。その自分の存在の小ささは僕にとっては希望であるらしい。

 

その小さな存在である僕の中にも壮大な宇宙と同じような世界が複数の段階的な尺度で存在している。壮大な星空の下にいる時はその双方の世界の境界がなくなり繋がったと感じた時、自分という存在がただの空間としてすら存在しないような不思議な感覚になる。何かを越えたようなとても安らかな感覚。

 

もう一つ星空が呼び起こしてくれる感覚がある。

邪魔をする灯りが無い星空はそれぞれの星がはっきりと輝き、一つ一つの輝く星が僕の居る位置を教えてくれるように感じる。

勿論地球上での座標や位置が分かるという意味ではない。もっと大きな銀河、宇宙の中での位置を体は感じているのかもしれない。自分という一つの存在としての位置ではなく、地球として、太陽系としての位置。

なんとなくだけどはっきりと、自分の場所が分かる感覚。道を見失い迷子になっていた時に、ふと何かから自分の居場所がはっきりとわかった時のような感覚と同じ。

そこから感じる温かな安心感と、内から湧く自信、勇気、そんなものを星空は僕の内側に呼び起こしてくれる。

 

街の灯りに囲まれ、滲んでしまった星空からは感じられない感覚がこの瞬間にはある。

 

この百年より前は当たり前だった星空。僕らの祖先も地球も悠久の時の中、常にその星空の中に在った。地球ができる前からあまり変わっていない星空、その中に僕らは在り続けてきた。そこに生き物である僕らが何かを感じるのは自然なことだろう。それが恐怖なのか希望なのかは人によるとしても、感じるものがあるということに意味があるのだろう。

 

ヒトとしてなのか、哺乳類としてなのか、生き物としてなのか、物質としてなのか、それ以外としてなのか、集合体としてなのか、何かの一部としてなのか、それとも全体としてなのか、時の内側なのかそれとも外側なのか。分からないけど何かを越えて何かと共有して感じるものがある。

 

街の生活は忙しい。全てが作られた世界で、1つの生物として生体的に適応するだけの年月を僕ら一人一人は与えられていない。

そんな生活に僕のようにすぐ迷ってしまうような人は、立ち止まり自分の位置を確認する必要があるのかもしれない。星空は大きな道標の1つなのだろうと思う。

僕らは星空の下に居るのではなく、星々の中に居るのだから。

帰村中

アプリから色々書いたけれど押し間違えて消えてしまった…

 

2週間の期限付きですが村に帰ってきたので村の生活を満喫しています。

帰村と言ってもここで生まれたわけではありません。11年前にこの村に出会い、9年前にここで結婚してから6年間過ごしていました。今は子供の学校や仕事の都合で街と行ったり来たりですが、住所もここのままだし、心はいつもこの村にあるので帰村です。

 

高校生ぐらいから常に抱いていた、100年かそれ以上生まれてくる時代を間違えたかなという思いを確信に導いてくれた場所。

身体的な性質が人によって現代生活に合う合わないがあるように、性格的な性質もそうなのだと今は思ってます。

そんな思いを持つ僕が活き活きできる場所であり、生きる為に心を置いている場所、といったところです。

 

電波が悪いのであまり開けませんが、また時々書いていこうと思います。

 

効率 行動速度 文明と加速

明日の村入りに備えて今日は400km強運転しました。山道が多く結構大変。

 

車を運転していていつも感じるのは、何でこんなに急いでいるのかということ。

70〜100kmの速度で同じ方向に向かって進む車たち。僕もその中の1台だった。

車は流れるように進むけど、ヒトのコントロールの域を超えている。とても不自然な流れ。それは事故という形で眼に映る。

 

イヌ、ネコ、ネズミ、オオトカゲ、鳥。動物を何十匹も轢き殺しながら車は道路を走り、車自身も搭乗者もろとも事故で死ぬ。

でも何の為にそんなに急いでいるのだろう?

 

動物に乗るようになり、車輪を使うようになり、様々な機関を組み合わせるようになり、空も飛ぶようになった。

肉体で出来ないことが可能になるのは夢でもあり、希望でもある。技術の進歩と共にヒトは行動範囲を増すだけでなく、行動時間も短縮している。

 

人は時間に囚われる。

時間を認識すると共に未来が予測できるからこそ、急ぐことに意味を見出すのだと思う。そして技術は肉体ではできない速度へのアクセスを可能にする。

それを覚えてしまったから、行動にかかる時間の短縮を追い求めるのだと思う。そして時間の価値は効率へと傾いた。

 

でもそんなに急ぎ、効率ばかり追い求め何になるのだろう。

 

効率良く過ごせば自分の時間が増えるという人もいるが、本当にそうだろうか?

人は時間に追われ、行動時間を短縮する術を身につける。需要に支えられた技術もそれを後押しする。

でもその短縮された行動時間はすぐに集団の平均値となり、社会から求められる基準となってしまう。

だからまた効率を求める?

 

生まれた時からインプットされている本来的なヒトの行動速度を求めれば、多くの社会では生きていくことは難しい。それに逆らえばストレスを感じるとしても、生きる為に社会の速度に合わせなくてはならない。

 

車輪は回る。早く早くという想いに応え、速く速く回り続ける。それは人が人である限り加速し続けるのかもしれない。

文明が生まれた時に始まったその加速はヒトを置いてけぼりにしてしまった。いったいどこへ向かい急ぎ行くのだろう。

僕にはなにも見えない。

 

明日から村にいる2週間は出来るだけ時計を見ないで過ごそうと思う。

2週間に縛られるのも辛いのだけど。

選挙 投票の価値観

選挙は権利の行使という意味で僕は行った方がいいとは思うが、一方で行かないという人の気持ちも分かる気がする。

特に「行かない奴は馬鹿だ」「行かない奴は意識が低い」っていう雰囲気の人達を見ていると、うーん。って思う。

 

そういう風に捉え方の違う人たちを見下す発言をすることは、異質を貶める自分を同質にアピールすることに目的があって、投票に行かない人を既に異質と決めつけている姿勢が見える。

そのアピールは同質の中での示威行為でもあって、集団の中のいじめやはぶきと同じ行動原理があるのではないだろうか。人間の行動なんて単純なものなのだろうし、どうでもいいのだけど。

ただ、その言動は行かない人を説得することには繋がらないし、投票率を上げることにも繋がらない。

 

民主主義というもの自体もずっと試行錯誤の中にあるのだから、色んな人の意見があって当然だと思う。投票が義務ではなく権利であるのなら、受け取らないことを含め、色々な権利の受け取り方があるのも認めなくてはいけない。

 

政治家が自分の票にしか興味がないように、人もまたそれぞれの価値観や捉え方で選挙を見ている。であるなら、投票率を上げたい人は行かない人を貶めるのではなく、いろんな価値観の上の選挙があることを認めた上で、投票率を上げるにはどうしたらいいのかを考えるべきだと思う。

 

国、政治体制、地域、票、単純な中にもの凄く沢山の要素がある。行く人にもいろいろな考え方があるように、行かない人にも色々な考え方がある。

票の格差に目が行く人もいるだろうし、選挙制度そのものに疑念がある人もいるだろうし、民主主義自体に違和感がある人もいるかもしれない。

権利を行使しないだけなのだからいいだろうと考える人もいるだろうし、疑念があるものに参加することは肯定することに繋がるから嫌だという人もいる(僕もそういうところがある)だろう。

 

自分の時間と投票を秤にかけて行かないと判断する人たちもいるだろう。でもそういう人たちが全て同じわけでもない。

投票自体の意義が小さい人もいれば、自分の時間の重要性が大きいがためにその人にとって選挙の重要性が高くても結局行かない人もいるだろうし、移動や投票所の雰囲気が嫌いで、結果自分の時間を優先する人もいるだろう。

 

 

僕は選挙は与えられた権利だと思っているので行くようにはしているけど、それで何か変わるかと言われればそれは見えない。馬鹿らしくなってやっぱり行くのやめようかなーと思うこともある。

でもまぁ、政治家がお金渡して票を入れさせるこの国よりは、日本の投票所の雰囲気は公平感が出てて面白いなぁと思う。本当に公平なのかは知らないけど。

線と結び目

人や動物の人生を線で想像していた。

同じ時間軸の方向にそれぞれ動きながら進む沢山の線。

 

出会いは線と線の交差になる。

色んな交差があるが、交差したように見えても僕のような人間の場合、多くは接触には至らない。微妙に距離が開いたままとなる。そしてまたそれぞれ別の行き先に向かうことになる。

線と線の距離は、実際の人と人の距離とは違う。実際には離れていても、やり取りの中で結び目が出来ることもある。

 

時に会話は線と線のダンスとなる。それは互いに心を開いて初めて起きる現象なのだろう。その時線と線は初めて接触し、そのダンスは結び目となる。互いに惹かれ合いながら、恒星の周りを螺旋を描きながら銀河をまわる惑星たちのように、躍動的な心の呼応。

 

結び目は互いの過去を繋ぎ、未来を繋ぐ。その結びつきが時に呪縛となるのは、それだけ心の交差は意味があるものだからだろう。

どんなに強い絆も結びつきでしかない。それぞれが進む方法が同じでも、その線達の作り出す結びつきが強くても、二本の線が一本となることはない。

しかしその一本の線にとって、その過去や未来の結びつきは大きな意味を持つことになる。

 

この先に結び目があるのなら、今の苦痛や苦悩もその結び目の糧となる為にあるのかもしれない。今がなければこの先の結び目もないのだから。

 

線は命が消えればそこで止まってしまう。どんなに強い結びつきを持った線が止まってしまっても、生きている線は進み続けなければならない。

その線が生き続けている限り、結びつきを持った線はたとえ止まってしまっても線であり続ける。

そう考えるとまだ、その止まってしまった線もどこかで進み続けているような気がする。どこかで。

この線の視点を越えられない限り、それは見つけられないだろう。でもいつか見つけたい。

 

いつか、僕が線であることを超えることが出来たら、色んな線、そして線と線の繋がりを時間を越えて傍観したい。きっとそれぞれの人間や生物そのものを観るよりもずっと美しい物語となるだろう。

そしてその先に、人々の絶望や悲しみが本当は光であったことを見つけられるかもしれない。それを希望に僕は生きている。

だからこそ、今見ている情景ばかりに惑わされず、命の結び目を大事に生きていこうと思う。まだ見ぬ結び目、そして今はもう見えない線の為に。

『へんないきもの』『ざんねんないきもの』図鑑

子供向けの本のコーナーでは『へんないきもの』『ざんねんないきもの』等の図鑑があった。

小学生の頃図鑑好きだった僕はこういう本は無意識に避けていた。生き物について純粋に知りたいのに、こういった本は作った側の主観が強く、面白おかしく紹介しようとするものが多かった。それを子供ながらに押しつけがましいと感じた。

 

そういうのが楽しいと感じる子もいるだろうし、だから最近もそういう本が増えているのだろう。それは単に捉え方の違いというか、感覚の違いという事だと思う。

僕はただ、淡々とした一般的な図鑑が好きだった。

 

一つどうしても引っかかるのは、自分とは違う他種について、『へん』とか『ざんねん』という言葉を使って表現するのはどうなのだろう。『ユニーク』『個性的』だと言葉が難しすぎるからそうなるのだろうか。で

それにしても『へん』『ざんねん』は否定的だし、人間の中でも一部の人から見た主観の度合いが高い。主観の度合いが高ければ読む側としては押し付けられる感じを受ける。一見肯定的な『おもしろ』がそうであるように。

 

その言葉を借りて『へん』で『ざんねん』な動物を選べと言われたら、先ず僕が出すのは『ヒト』でしょう。

二足歩行で体毛が少なく、髪の毛が長い。成長するとへんなとこに毛が生えて、道具を使ってへんな行動ばかりする。その生態は極めてへんで、1匹ではざんねんなほど弱いし、集まってもざんねんな結果ばかり生む。

 

『ふしぎ』はあまり僕にとっては拒否感がない。それは多分視点の提供であって、物の見え方(自分のものとは違うその人の主観)を押し付けられる感じが少ないからだろう。

 

『へん』『ざんねん』を僕が気に入らないのは、他者で他種のいきものを勝手な視点で勝手に差別的に見ている大人の感覚を、そういった感覚を持つ前の子供に植え付ける可能性がある気がするからだと思う。

そう在るべくしてそう在るいきものを、ある人の勝手な価値観で『へん』だから、『ざんねん』だからとレッテルを貼って、それを面白おかしく子供向けの本として提供している。

自分とは違うものを『へん』、自分の基準に満たないものを『ざんねん』とレッテルを貼る行為を小学生に植え付けるのはあまりよろしいことではないと思う。子供が本から知識だけを面白おかしく受け取ると思っているのなら、それは子供の学習能力を軽視しているとも言えると思う。そういう意味で、こういう言葉のニュアンスはもう少し考えた方がいいのではないかなと思う。その方が売れるのはわかるけど。

 

僕の勝手な経験論では、こういった『おもしろい』を前面に出す押しつけがましい本を好む子は、同調を好むがゆえに他人の心を知らぬ間に踏み躙ってしまう子が多かった。

よく言えば他人の価値観、主観に違和感を感じず同調できる素直で純粋な子なのだけど。

そういう子が主たるターゲット層になるのなら、なおさら言葉のニュアンスや他種・他種に対する態度を考えた方がいいと思う。

 

『へん』『ざんねん』という感覚を他者に対して覚えるばかりでなく、主観がないまま集団としてレッテルを共有し、自分がなぜ相手を蔑んでいるのか気にも留めずに批判するような大人が多い。こういった本を書いているのもそういった部分を持った人たちなのだと思う。

人の性格はどうでもいいのだけど、その態度は人を傷つける場合が多い。

 

いずれそれを読んだ子供がそうなるかならないかはわからないけど、素直で純粋な子をレッテル貼りで食い物にするのは、負の連鎖を生むばかりでなく趣味が悪いんじゃないかなと天邪鬼系の子供だった僕は思うのでした。

 

 

*ヒトの悪口を書いた部分で、僕は自分の悪口ならいくらでも言えることを思い出した。他者に対してそれが難しいのと同じに、他種に対しては出てこない悪口が自種に対してはすらすら、原稿用紙数枚は書けそうな感じで出てきた。面白い。

地球環境 菌 迷子

地球環境システムを人間とすると、一人一人の人間は細菌だろう。

善玉菌か悪玉菌かで言うならば悪玉菌なのかなと思う。

環境の一部、システムの一員としての存在をやめ、環境を食い物に居して単一種で環境を支配しながら増えていくのだから、善玉や日和見と言うのは無理がある。

現在は全身感染の状態で、この菌は今も爆発的に増えている。

 

人間ならここで抗生物質を投与して全て殺してしまおうという発想に至るが、地球環境はどうだろうか。

それがなくとも地球環境システム自体が安定を失い、急激な変化が起きれば菌は激減することになるだろう。

地球環境システムは人間と違って中々死なない。それは決まった形がなく、長い年月の末また新しい秩序で安定し、不安定になりを繰り返す。

 

人間という菌は神に許可を得た唯一種のように振舞うが、環境変化の中で絶滅すればそれまでだし、一部生き残れば自然の回復速度の中で新しい秩序に飲み込まれ、環境システムの一部に戻るだろう。それは幸せな在り方に戻るという事なのかもしれない。

 

なぜ生物は環境に恵まれると増えすぎてしまうのだろう。短期的な生存戦略しか組み込まれていないからなのか、それとも別のベクトルの意味を持って増えるのだろうか。

後者であるならば生命の繰り返しにも救いがあるかもしれないが、前者であればとても虚しいものではないだろうか。

 

人間が不自然な存在として地球環境を食いつぶしていても、地球環境の生物史から見れば自然な種の繁栄であり、その先には約束された、自然な盛者必衰があった。

自然のこの繰り返しは何なのだろう。

そんな壮大な繰り返しの中では、一つの菌に何の意味があるのかが分からなくなる。

 

それでも、一つ一つの菌の中にはその一つの地球環境システムに負けずとも劣らない環境システムが備わっていて、一つ一つの菌に固有の美しく壮大な内なる世界が広がっている。そしてそれぞれがそれぞれの壮大な過去の物語を紡いでいる。

全てのものが壮大だからこそわからなくなってしまう。

僕はどこを見て生きていけばいいのだろう。

 

僕がもう少し素直な人間のままで居られたのなら、自分の内なる世界をより自分らしく創造することに意味を見出せたかもしれない。

でもそんなことは意味がないとどこかで思うぐらいには、まともに育ってしまった。

つくづく迷子だなぁと思う。

 

僕は後回し人間なので、答えが出ないことは死ぬまでには自分なりの答えが出るだろうから、まぁいいかなと思っている。

迷子の一個の菌として、取り敢えず手探りで生きている感じ。でも折角迷子なのだから、最期には迷子なりに見た世界を心に描けたらなとは思う。

最期の最期に自分が納得できる『辞世の句』でも詠めたのなら、もう何も言うことないんだろうな。