感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

幼児向け番組 ペッパピグ ペネロペ

今日もまた何を書こうにも暗いことしか浮かんでこないので、 無理やり楽しいことを書いてみよう。

 

こんなことを30代が書くと危ないと思われるかもしれないが、こういう気分の時は幼児向け番組を観るのがいい。難しいことは抜きに、明るい気分になれる。

小さい頃にはそれが続くと錯覚していた優しく楽しい夢の世界。もしも画面の中に入ることが出来たらもう出てくることはないだろう。

 

中でもお勧めは『ペッパピグ』と『うっかりペネロペ』。

ペッパピグはイギリスの会社が作った世界中で愛されているアニメ。Youtubeで『Peppa Pig』で検索すると英語版がたくさん観れます。日本語版も少ないけれど上がってたと思う。

ペッパピグは元気になりたいときに観るといい。暖かい家族、楽しい幼稚園、家族でのお出かけ、お友達と過ごす時間。明るくテンポが良く、気持ちよく観ることが出来ます。

やんちゃで優しいお姉ちゃん、ペッパの日常は失ってしまった時間を思い出させてくれる。失敗してごめんなさいのある回もあるけど、反省や仲直りから安定してハッピーエンドなので安心して観られます。

ペッパの親友のヒツジの女の子、スージーが可愛い。ペッパやスージーと一緒におままごとしたい。

 

ペネロペはフランスの絵本を映像化したもの。アニメ版は日本の会社制作でEテレでやっていたので、日本ではペッパよりペネロペの方が有名かも。

ペーネロペ ペーネロペ こーあらのおんなのこ きょーはなにしよー♪ は素晴らしいオープニングテーマだと思う。

ペッパに比べるとゆったり目。内容はやっぱりちょっと日本的な優しさが感じられる。

ペッパは中に入りたいと思うのだけれど、ペネロペはナレーションによるテレビの前のお友達への語り掛けが時々あるので、頭を空っぽにして知識レベルを4歳児レベルにしてテレビの前のお友達として視聴する方が合う気がします。

最初は背徳感を感じるかもしれませんが、すぐに慣れるので皆さんも是非お試しください。心身共に幼児になる為にできるだけ一人の時に観ましょう。

 

もう少し慣れてくると『いないいないばあ』や『テレタビーズ』なんかもその感覚で観れるようになります。なるべき年齢を調整したら、すべてを捨ててあの頃に戻るだけです。

 

冗談っぽく書いてきたけど、結構まじめな話、こういった現実逃避が必要な人もいると思う。現実逃避というと逃げているようだから僕の言いたいことと合わないのだけど。

リラクゼーションやセラピーと似てるのかなと思う。幼児退行リラクゼーション法とでも名付けておこう。

実際言わないだけでやっている人は結構多いと思う。ペッパピグは中国で社会問題になったらしいし。それが悪いという風潮こそどうかと思う。

赤ちゃんプレイとかも同類なんだろうな。

 

幼児退行リラクゼーション法、特にピュアであるがために苦しんで生きている人にはこの方法はとても有効だと思う。ストレスの少なかった頃に帰り、先ずは安心してリラックスする。

その次が重要。普段押し殺し、下手をすると忘れかけてしまっているているピュアな自分に戻ることで、自分自身の大切な色を取り戻すことが出来る。その自分自身を知り、うまくコントロールできるようになれば現実生活でもそのピュアさをうまく生かすことが出来るようになるかもしれない。

子供の心を持った大人で何が悪いのかと思えるようになればいいと思う。

どうせ辛い思いをするなら、自分らしく自分として生きられれば一番だと僕は思うのです。

 

幼児向け番組にはそういった可能性があるという事で、僕自身時々観ていることを正当化して終わりにしようと思う。幼児に戻りたいなー。

 

こういう記事を投稿する背徳感もたまらないね。

深淵の底 戻ってこない人達 生き残り

生きていることはどう捉えるべきなのだろうか。

沈んでは浮き、その繰り返しで今日も生きている。

 

本当に酷い時は、暗い深海にフェードアウトするような感覚だった。

深淵は何度か覗いたが、それでも完全に引き込まれることはなかった。

深淵の底まで沈んだときには何を見るのだろう。

 

自分が生き残っている中、同じ世界を見ながらもう戻ってこない人達がいる。

僕の恩人の一人もそうだった。あの人は何を見たのだろうか。

僕にできるのは安息を願う事しかない。

そのことを思い出すと、あまり楽しんではいけないような気がしてきてしまう。

 

日本では電車が止まる度に同じ気持ちになった。

同じものを見た、同じものを感じたんだなという一方的な共感からだろうか。

彼らを脱落したと捉えたくはない。でも戻ってこない。どう捉えればよいのだろう。

僕が生き残っている中、戻ってこなくなる人達が沢山いる。

戻ってこなくなる人達が沢山いる中、僕は生き長らえている。

 

 

生き残ってしまった者の生は、自分でも気づかぬ間に重くなっていく。

『ランボー』のジョン・ランボーのように。

 

幸い(と書くと不幸から脱したと書いているようで、なんだか悪い気がしてきてしまうが)今は沈んでもあまり深い所にはいかない。多分底を見ることはないだろう。

でもそれはどう捉えるべきなのだろう。

 

彼らを弱者や異質や敗者として切り捨てるこの世は地獄で間違いないだろう。

もしも浮き上がり生き長らえることが地獄の継続で、深淵の底にその苦しみの対価となるような楽園があるのなら、僕は本当の意味で、素直にこの地獄に生きていることを感謝できる。

でもそうではなしに、どう自分が生きていることを捉えればいいのだろう。

これも答えが出るのはまだまだ先だろう。そんなことばっかりだなぁ。

 


Dan Hill - It's a Long Road + lyrics

 

 

*下書き行き候補だったけど書き直す気力もないので上げます。

下書きばっかり溜まるなぁ。

先送り主義 迫ってくる時間

軽いギックリ腰をやってしまい、携帯から書いています。

 

痛い…けど痛いから明日決めていた外出の予定をやめちゃおっかな♪とすぐに予定キャンセルに結びつけてウキウキできる程度には元気です。自分で勝手に決めた買い物の予定なのに。

 

僕はあまりワクワクを感じないと思っていたけど、よく考えたらそうでもなかった。

昔から予定キャンセルはウキウキ、ワクワクでした。お家で『何もしない』をすることが大好き。『何もしない』は本当に何もしないわけではなく、ダラダラしたり、動画を観たり、本を読んだり、何をしてもいいのです。何にも縛られず自由な時間であることが重要であって、場所は家の中でも森の中でも海岸でも、人との接触が少なければそれで良い。

 

この時こそ生きていることを実感する。

 

でも問題は月曜日がすぐそこという事だ。楽しみの先に嫌なことがあると思考も引っ張られてしまう。1週間休みがあっても8日後を憂鬱に過ごす人間だから、逃れられない呪縛なのかも知れないけど。

 

僕が先送り主義なのは、この性質に依るところが大きいのかも知れない。

早く終わらせるべきという人の論理では、早く終わらせればそれだけ自分の時間が増えて気持ち良く過ごせるらしい。

確かに事実として自由な時間は増える。でも僕の場合はその自由な時間も結局は次の作業開始が見えてしまい憂鬱に過ごすので、あまり褒美として認識されず、その行動が強化されづらい。

ぐだぐだやってても時間に追われているのだけど、早く終わらせても結局時間に追われてしまう。

そういう宿命なのかもしれないなぁと思うようになった。

 

正確には追ってくるものは時間ではなく予定や期限なのだけれど、イメージとして迫ってくるのはカレンダーや時計なので時間。

迫ってくるというのも面白い。自分が時間軸に乗って進んでいるので相対的にその時間、期限や予定が迫ってくる。向こうは立ち止まっているのに追いかけてくるように見える。

 

時間軸から抜け出すのは現状難しい。死んだら抜けられるかもしれないが、そんな保証もない。これはやがて分かるだろうからそれで良い。

ならできるのは迫ってくるという認識か、迫ってくる対象の捉え方を変えるしかない。でもそれが難しい。

解放されるにはまだまだ時間がかかりそうだ。時を超越したい。

 

超越って言葉を思い浮かべると紫色の服を着たあの人が頭に浮かぶ。今日はもうやめとこう。

 

 

動物の想い

人の勝手な見方を動物等の行動に当て嵌めた記事や動画やテレビ番組が凄く嫌いです。

 

例えばこれ

このオランウータンがブルドーザーに向かっていったのは事実だけど、行き場がなくてブルドーザーに向かっていった可能性が高いだろう。左右に抜けられる幹があればそちらに抜けている可能性が高い。それを「森を守ろうとして」は全くあり得ないとは言わないけれど、やはり勝手に解釈し過ぎだと思う。

 

その方がウケるのはわかるし、それで世の中が回っているのも分かる。でもこれをそのまま受け止めるというのは、この行動に至る当事者(オランウータン)の感じたもの、経験を蔑ろにするだけではなく、それを自分の言いたいことを伝える為に曲解し、プロパガンダの為のパペットとして利用しているだけだろう。傲慢と呼ばずして何なのだろう。

この手法が本当に嫌い。

 

NGOもよくやるし、テレビ番組でも見かけるし、Youtubeの動画なんかでもよくある。

動物の行動はよりピュアで崇高だと僕は思っている。それも僕の勝手な想いなのかもしれないけど。人間は自分たちの感じ方を何にでも当て嵌めたがるが、僕はそれがとても気に食わない。同じ人間ですら他人の想いは分からないのに、なぜ動物の行動を解釈できると思うのだろう。どうして彼らの想いを尊重することが出来ないのだろう。そこには自分の方が優れているという潜在意識がないだろうか。

 

分かる筈がないものを分からないとしておけないのだろうか。自分の眼で見た光景を、自分として受け止められないのだろうか。

異文化を勝手に理解しようとして、他人の気持ちや他種の気持ちまで勝手に解釈しようとする。すべて繋がっていると感じる。

 

NGOの人はそうやって勝手な想いを抱いて活動して、それは結局自分の想いを押し付ける結果にならないだろうか。そうやって勝手な想いを振りまいて、色んなものを無視した勝手な想いばかりが伝搬されてしまう。本人の想いなど端からどうでもよいのだろう。

 

こういった記事を真に受ける人たちはとても沢山いる。そういう人達は本当に優しい心を持っている。

その勝手な優しさが子供の頃から怖かった。

牛乳と下痢 給食 食育

この前ミルクが多めの飲み物を飲んだら下痢をした。小・中学校の頃はしょっちゅうおなかを壊していて、自他ともに認める胃腸が弱い子だった。思い当たる節は色々あるのでどれが原因だとは言えないが、給食と弁当の時間には毎日牛乳を飲んでいた。

そんな胃腸の弱い子だった僕も今は快便の日が多い。お腹を壊すのは外食をした日か特殊なものを食べた日か風邪を引いた日かお腹が冷えた日という事で、大体原因が分かってきた。牛乳もその一因ではあるようだ。

 

日本の食育を意識した給食システムは僕はとても素晴らしいものだと思う。ただ一つ、出されたものを全て食べなければいけないというシステム以外は。

出されたものを残さず食べるという意識は、食べ物への感謝、マナーを育むという意味では必要なことだと思う。その中で食べ物の栄養やバランスを学ぶという食育も良くできているなぁと思う。

でも出されたものをただ全て食べるだけでは、価値観やマナーを植え付けること、そして知識の導入にはなっても、そこで止まってしまう。

 

食という根源的な命の営みは、何より主体性が大事ではないかと思う。最終的には自分で食べるものを決め、食べるという部分に持っていくことに焦点を当てることが必要ではないかと思う。

ただ出されたものを全て食べるだけでは、食に対する主体性が育たないばかりか、6年間という経験を経て、食べ物に対する認識も凝り固まってしまうかもしれない。

 

我々は不自然な中で不自然な生活をしている。食べるものも不自然で、それを科学で解明しようとするが、科学は色んな『一面』しか捉えることが出来ない。

牛乳一つとっても、とても不自然な飲み物なようだ。乳児がいなくても母乳が出続ける不自然な牛に、穀物や肉骨粉という不自然な餌を与え、不自然な抗生物質も与え、不自然な量を不自然な期間搾り続ける。そこには教えられたような栄養素以外に色々な不自然なものが紛れていて、人間にとってはとても不自然な飲み物である上に、日本人にとっては更に不自然な飲み物のようだ。しかし、広告と同じで栄養の一部という一面だけを見せるので不自然さに気付かない。売る側にとっては都合がいいのだろうけど、下痢を自分の身体のせいだと思っていた人間としてはたまったものではない。

 

不自然なものだらけの中で食という命の根源とどう向き合っていくのか。それは結局は一人一人の判断に委ねられる。学校の食育は導入に過ぎないが、それが導入だという事は誰も教えないがために常識・教養として刷り込まれてしまう。

学校というオールドファッションな小社会全体に言えることだが、主体性という言葉を使うのであれば、その体質からは抜け出さなければいけないと思う。

 

僕は学校で9年間牛乳を飲んできたが、それを疑ったことはなかった。不味いし嫌いだったけど飲んでいた。今思えば身体が拒絶していたのかもしれない。味覚というものは本当によくできていて、必要なものは自然と身体が欲す。でも「お残しはいけません」という忍たま乱太郎の食堂のおばちゃんのような標語の中で慣らされてきた。でも口は慣れることができても胃腸は慣れることはできない。

 

つまるところ、この『疑ったことがなかった』という結果が給食のシステムの良い点でもあり悪い点なのだと思う。同じようなケースは沢山あるようだ。

常識として導入することは集団相手には効率が良いが、やり方によっては主体性を奪うことに繋がる。それに起因する問題が現状とても多いと思う。そしてその常識はその時点でのある集団の一般的な認識、見解であって、それが正しいというわけではない。数年ごとに変わる可能性すらある。

それを食という生命の根源的な活動に適用してしまうのは、危ないのではないかなとも思う。

象徴的な栄養素ばかりに偏る見方が導入されてしまうのも良くないと思う。

 

給食システムは食育の導入としては素晴らしいと思うけど、その先の主体的な食生活に繋がらなければ、洗脳で終わってしまうのではないか。折角世界に誇っても良い素晴らしいシステムを築いてきたのだから、時代に合わせて進化させて欲しいと勝手ながら願っている。

 

食べ物がただでさえ溢れている現代、我々は『食』をしっかりと捉え直す必要があると思う。 戦後の栄養がなかった時代の価値観に基づいた給食のシステムや、朝昼晩しっかり食べるという価値観もさすがに古くなってきていると感じる。どんぐりを食べようとは言わないけれど、数万年の尺の中で見ればほんの一瞬のこの数十年の価値観に囚われるのではなく、一人一人がそれぞれに合うと思う『食』を見つけていくのが生命活動なのではないかなと思うのです。

 

 

ここだけの話、小中学生の頃は何回下痢をお漏らししてパンツをトイレに捨ててスースーしながら帰ったかわかりません。久々に牛乳で下痢をして思い出したその恨みつらみが原動力でこの文章を書いたのかもしれません。何回かあるけどどれもバレたことはなかった!はず…

水の旅

水の多くは移動し続ける。さっき飲んだ水もそうだろう。

気体となり気流に乗り、雨として山に降り、地中を通って再び地上に出て、貯水池を通り、浄水場を通り、パイプを通り抜けて出てきて、煮沸され、残ったものが冷蔵庫で冷やされて、コップに入れられ、胃に入った。

それらはどこからかくっついたり離れたりしながら一群となってコップにまで来た。ずっと一緒の分子もあるだろうし、出会ったばかりのもあっただろう。

ドラマチックな旅を経て胃に入った。

 

多くは尿となってとなって数時間後には排出され、パイプを通り下水となって海へ出て旅を続ける。同じく汗や他の形で排出されるものもあるだろうし、暫く僕の中を循環するものもあるだろう。僕も60パーセントは水だから。それでもやがて元の旅に戻る。

途中で蒸発してしまったものや、コップに残ってしまったものも旅に戻っている。

 

僕は単なる経路に過ぎない。僕の身体から『排出』されると書いたが、水からすればただ通っているだけだろう。

年月をかけ、地球規模で大きな大移動をしている途中、たまたま僕の中を通った。運命的。

 

中には野菜となったり、牛や魚の血肉となった水が食物として僕に入ってくる。それらも同じような旅を続ける。因果だなぁと思う。

 

僕がワニやゾンビに食べられれば、僕を構成していた水がそれらを構成する一部になるかもしれない。この妄想は小さい頃によくしていた。水としてではなかったけど。自分の一部がそのものの一部になるのは、死を恐れる子供だった僕にとっては、何だか安心感があった。水と捉えるとより色んなものに適応できて面白い。

そんなワニやゾンビに入った水も、結局は旅を続けることになる。

 

別々の人間を通る水が、愛し合う2人の表面で交わる事も起きる。そういう行為も水の移動を想像すると壮大で美しい。

 

中には氷河となって長い年月とどまっているものもあるだろうけど、多くは旅をしている。もし温暖化や何かの現象でその氷が解けたなら、束縛から解かれ、旅を再開することが出来る。感動的。

 

 

中には何かの拍子に宇宙空間に飛び出してしまったものもある。それらは今どこでどんな形をしているのだろう。そんな英雄的な水とつながりがあったかもしれない水が世界中に散らばって今も存在している。

 

地球がなくなっても水は形を変えて存在し続けるだろう。そう思えるのは何だか救いだと思う。

 

オチはないのです。たださっきそう思っただけだから。

水の移動、なんと壮大でドラマチックなのだろう。尺度や角度を変えればもの凄く沢山の妄想ができそう。

認識の外側の存在

微生物から僕らはどのように見えているのだろうか。影ですら見えているのかわからない。

細菌やウイルスから僕らはどのように認識されているのだろうか。ただの環境としか認識されていないかもしれない。

時間の尺度も違うだろう。それもまた邪魔をする。

 

顕微鏡によってこちらから向こうへは視覚的にアクセスできるが、仮に僕らよりも大きな存在がいる場合、どうやったら捉えられるのだろうか。望遠鏡は遠くのものを捉えるのに用いることは出来るが、細菌レベルのものが望遠鏡を使っても、僕らを捉えることは難しい気がする。

 

でもどこかにブレイクスルーはある気がする。別次元にアクセスするような、そんなイメージ。次元と書くとヤプール人的なものがイメージされてしまうけど、どうなんだろう。

気付かないだけで、案外手が届くところにあるのではないだろうか。

五感に頼るから認識できないのか、時間の尺度が違うから認識できないのか、そもそも存在しないのか。

 

存在するとするならば、僕らが細菌やウイルスを顕微鏡で見るように向こうから見られているのかもしれない。下手なこと出来ないな。

 

神というものもそれに近いのだろうか。見えたら見えたで、案外大したことなかったりするんだろうな。