感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

効率 行動速度 文明と加速

明日の村入りに備えて今日は400km強運転しました。山道が多く結構大変。

 

車を運転していていつも感じるのは、何でこんなに急いでいるのかということ。

70〜100kmの速度で同じ方向に向かって進む車たち。僕もその中の1台だった。

車は流れるように進むけど、ヒトのコントロールの域を超えている。とても不自然な流れ。それは事故という形で眼に映る。

 

イヌ、ネコ、ネズミ、オオトカゲ、鳥。動物を何十匹も轢き殺しながら車は道路を走り、車自身も搭乗者もろとも事故で死ぬ。

でも何の為にそんなに急いでいるのだろう?

 

動物に乗るようになり、車輪を使うようになり、様々な機関を組み合わせるようになり、空も飛ぶようになった。

肉体で出来ないことが可能になるのは夢でもあり、希望でもある。技術の進歩と共にヒトは行動範囲を増すだけでなく、行動時間も短縮している。

 

人は時間に囚われる。

時間を認識すると共に未来が予測できるからこそ、急ぐことに意味を見出すのだと思う。そして技術は肉体ではできない速度へのアクセスを可能にする。

それを覚えてしまったから、行動にかかる時間の短縮を追い求めるのだと思う。そして時間の価値は効率へと傾いた。

 

でもそんなに急ぎ、効率ばかり追い求め何になるのだろう。

 

効率良く過ごせば自分の時間が増えるという人もいるが、本当にそうだろうか?

人は時間に追われ、行動時間を短縮する術を身につける。需要に支えられた技術もそれを後押しする。

でもその短縮された行動時間はすぐに集団の平均値となり、社会から求められる基準となってしまう。

だからまた効率を求める?

 

生まれた時からインプットされている本来的なヒトの行動速度を求めれば、多くの社会では生きていくことは難しい。それに逆らえばストレスを感じるとしても、生きる為に社会の速度に合わせなくてはならない。

 

車輪は回る。早く早くという想いに応え、速く速く回り続ける。それは人が人である限り加速し続けるのかもしれない。

文明が生まれた時に始まったその加速はヒトを置いてけぼりにしてしまった。いったいどこへ向かい急ぎ行くのだろう。

僕にはなにも見えない。

 

明日から村にいる2週間は出来るだけ時計を見ないで過ごそうと思う。

2週間に縛られるのも辛いのだけど。