感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

電話が嫌い

急に電話かけてくるの本当にやめて欲しい。アプリでメッセージが送れてそちらの方が確実なのに、何故通話したがるのか。

メッセージアプリのステータスは常に『メッセージオンリー』になってるのに、それでもかけてくる。

やっていたこともやりたいことも手が付かなくなってしまった。

 

どのくらい電話が苦手なのかと言うと、itunesのパスワードを複数回間違えてアカウントがロックされてしまったのを3年以上放置してるくらい。サポートに電話しないとロック解除してもらえないとか理不尽すぎると思う。本人確認の手段なんていくらでもあるのに。取り敢えず使えることは使えているので今はそのままでいいけど。

 

先ず、急に電話かけて来られるとびっくりする。電話そのものにトラウマがある人間なので心拍数が急上昇し、他のことが考えられなくなる。

最近は着信音をできるだけ静かで柔らかいものにすることで対処してる。

家にかかってきた電話は相手が分からない場合は8割方無視する。携帯もメッセージアプリからの着信は相手によるが、無視することが多い。無視すればメッセージが来ると学んだ。そしてそのメッセージも数時間空けて(できるだけ相手によって忙しそうな時間を選んで)返せば、すぐにメッセージが帰ってきたり、メッセージを通話で返されたりするリスクを減らすことが出来ることも学んだ。仕事でコンタクトを取ってくる人相手には相手の就業時間以外で返すと時間が稼げる。

相手に失礼のないように『すぐに出なければいけない』という強迫観念が捨てられたのは大きかった。そもそもアポなしなのだから出られないかも知れないのは相手も承知の上だろう。その強迫観念が出来上がってしまったのは、上記のトラウマと重なる込み入った事情があったから。思い出したくもないので今は書かない。

 

 

会話でもそうだけど、通話だと内容が頭に入ってこない時がある。何か気になる単語が出てくるとそっちに気が逸れてしまって、話が右から左に通り抜けてしまう。それが一度起こると会話についていけなくなってしまう。

そして聞き直すのも失礼かなと思って、適当な受け答えをしてしまう。それが自責に繋がる。

 

元々口数が少なく、言いたいことも頭の中でぐるぐる回って結局出ないことが多いので、会話に間が開いてしまう。対面ならジェスチャーや表情でカバーできる面があるけど、顔が見えない通話だとそれも無理。

 

会話の時の言葉選びに重要な相手の表情も見えない。目の動き、表情筋や頭の揺れ、そういったもので相手の出方を窺っているこちらとしては、相手の気持ちが読めないと何を言っていいかわからなくなる。自分の言った言葉に対する反応も見えないのでどんどん話していることに自信がなくなって、そちらにばかり気が行って会話どころじゃなくなってしまう。

気心の知れた友達ならその辺は想像できるのだけど、そうでないと想像はどんどん悪い方に向かってしまう。疲れるし、内容は疎かになるし、良いことがない。

  

いろいろと書いてみたが、電話が嫌いと言うのはある種の性格型に共通なものらしい。僕もトラウマ云々の前から電話は嫌いだった。経験は一要素に過ぎない。

 

僕にとって、より根源にある通話への嫌悪感はどこから来るのか。

大雨やシャワーの中、感覚が制限されて人の気配が分からない時の恐怖に近い。

恐らく、見えない・気配を感じない相手=『存在を認識できない相手』と会話するという不自然な状況が問題なのだと思う。身体が相手の存在を認識できず、でも声は聞こえ、会話しているので身体が勝手に恐怖を感じているような気がする。

 

ステージフライト的な要素もあるように思う。通話が相手と自分の世界であったとしても、こちらの自分はこちらの環境の中、電話に向かって話しているわけで、周りに人が居れば注目を浴びることになる。注目を浴びるのが怖いというのは、死と隣り合わせの自然の中では当然の恐怖だろう。注目に快があればそれは自然に薄らぎ、消えるのだろうが、僕にそのような快の経験はなかった。

自意識過剰とかそういう事ではなく、身体が反応するんだもの。

プライバシーは大事。

 

携帯の通知も重要なの以外はオフにしている。

電話はやっぱりオフにするわけにもいかず、携帯とのお付き合いも難しいなぁと思うのでした。

生活としての食 自然な欲求と悦び

食に限らず、根源的な欲求はどれも健康的・幸せに過ごすために重要だと思います。

ジャングルに囲まれた村で自給自足の暮らしをしていて、一番に感じるのは肉体的にも精神的にもコンディションが良いことです。もちろん個人差はあるでしょうが、僕の経験という事で。

 

先ず、村に居るとほぼ野菜(野草)、果物、魚、エビ、貝類、たまにシカ、そのくらいしか食べません。こちらは調理法にレパートリーがないので、料理に飽きることがありますが、素材としてはこれで十分だと感じます。すべて数種類ずつありますし、栄養素が足りなくなることはないと感じています。

当然のことながらどれも新鮮ですし、意識するまでもなくオーガニックです。生活習慣病など恐らくなかったであろう我々の祖先たちも、同じく限られた素材を活用して生きてきたはずなので、問題はない筈。

 

素材は同じものばかり食べていれば、自然と他のものを食べたいと体が欲するので、気づけばローテーションになっています。

自然な欲求というものは満たされた時の幸福感が違います。例えば同じ野菜やエビを数日間にわたって食べ続け、『飽き』を感じ、魚が食べたいなぁと思います。そういう時は魚を獲りに行く過程で既に食べたい!という思いに駆られていて、魚が獲れた時の喜び、調理している時に感じるウキウキ、そして食べた瞬間の幸福感、食べ終わった時の満足感。それらはすべて繋がっていて、形容しがたい本能的な悦びです。

そんな魚も数日魚ばかり食べていれば飽きてしまい、やっぱり違う種類のものが食べたくなる。意識せずとも、そういう風に不規則でありながら自然なローテーションになります。人体はよくできているなぁと思います。

『食』というと『食生活』というように、生活の中に食があるとイメージしてしまいますが、僕は『生活というものの根底にあるのは食である』と思います。ヒトも動物も、前後関係(漁・その準備・調理・おすそ分け・食休み)を含めた食を基軸に生活が作られていると僕は思っています。

 

自然の中での、特に狩猟・採集・漁といった人間の根源的な食糧調達行為には、心を癒す効果があると思うのです。人類や生物の歴史から言い換えれば、お金と加工された食品を交換する現代の方がイレギュラーであり不自然なのかもしれません。仕事が基軸になっているから食も疎かになります。仕事は食の前提になりはしても、(農業や漁業でなければ)それを身体が感じることは出来ません。

 

シカを見つけた時や魚が掛かった時の緊張感、それを仕留めた時の報酬的な快楽。それはやはり男達(だけでないけど)を虜にします。報酬快楽、射幸心と言うとパチンコや競馬などのギャンブルが思い浮かびます。両方やったことないのですが、多分同じものを感じています。20代前半の時に釣りを一緒にやっていたパチンコ好きな友達も、「パチンコと同じものを感じられて魚が獲れるから健全だ。」と言ってました。根源的な欲求に入り込んだギャンブルは凄いですね。

 

我々の行動は脳内物質に支配されています。それに素直に従うのが動物です。どんなに高尚な理由をつけても、単純に説明するなら、僕が『釣りをしたいなぁ』と思うのは、魚が掛かって釣りあげた時の快楽を味わいたいからです。「この辺で当たる気がする」と思っている時に魚が掛かった時の脳内の状態は説明が難しいほどの興奮状態です。針が外れ、バレてしまった時の落胆は大きいですが、その落胆は次に釣り上げた時の快楽を底上げします。十分釣れるとその快楽は弱まり、満足感に変わってお家に帰り、まったり休んで過ごすのです。その安息も興奮の後だからこその安息。そしてさっきのご飯に繋がります。

これらの一つ一つはそれぞれ別の脳内物質で説明がつきます。(でも間違えるといけないので名称は書きません。)

 

脳内物質がどうこうというのはまぁどうでもよくて、動物的な自然な環境の中においては、本能的な欲求と報酬に従うことはとても健全なことだと思います。寧ろそれは人間の心・肉体双方の健康に欠かせないものだと思うのです。

魚や動物でなくても、キノコ狩りや栗拾い、山菜取り、それらも似たようなものです。たくさん生える美味しいキノコや山菜を見つけた時、それらを収穫している時、持ち帰り、調理する時。食べる時。

果物を木に登って採るのが危険なのは当たり前ですが、その危険な過程があるからこそより美味しく食べられるし、また登るのです。採る時に危険で大変な思いをすれば自分で食べた時により美味しいし、誰かにあげた時により満たされるものです。

 

もう一つ付け加えたいのは、これらが沢山獲れた時のおすそ分け。これにも根源的な欲求が満たされる感覚があります。採ってきたものをあげるだけですが、心が温かくなります。物があふれる現代では嫌がられることがありますが、人間の本来である部族社会を思えば健全なもののはずです。それは分担と助け合いで成り立っています。貰えば嬉しいし、あげれば満たされる。単純なもの。

シカの解体や魚の処理を手伝い、分け前をもらうというのも、同じく食に関する助け合いですね。大量に採れたから共同で調理し、村の中で振舞い、一緒に食べるというのも食の共同作業です。これらはすべて村の生活の中では当たり前の共同作業です。みんなが食に関わります。

これらが売り物になってしまうと、お金という腐らないものに変わるので、食に関する文化は蔑ろにされていきます。それが村に見える最近の傾向です。

 

僕は果物や野菜を育てていて、そちらにも喜びは感じるのですが、これはベクトルが違うものです。見つける、狩るという段階の射幸性がありません。(収穫を予感しながら育て、)収穫し、食べる、おすそ分けする。後半部分は同じです。育てるという前半部分で僕が感じるものは達成感と愛着です。それもとても大事なものに感じますが、根源的なものとはちょっと違う感じがします。

いずれにしても、これらは両方とも現代社会において忘れがちな感覚ではないでしょうか。

 

これらの感覚は、仕事をして対価としてお金という物をもらい、そのお金という物と食べ物を交換するという不思議な間接的生活の中では見失ってしまうものです。それは生活に身を置く本人が見失うというよりも、本能の部分で既に迷子になってしまうのではないでしょうか。

僕の場合ですが、お金をもらっても興奮は得られませんし、食べ物を買ってもやっぱりそこまで嬉しくありません。別のルートで報酬に繋げているせいか、何か歪んでいる。そんな感じがします。本能的な幸福はより直接的なものなのです。そしてそれは心身の健康にとってとても重要だと僕は思います。

 

 

複数回にわたって心も体も自律神経も壊したことがある僕がここまで健康的に過ごしているのは、自分でいうのもあれですが、とても説得力があると思います。自分の中では筋が通っています。

10代や20代前半の頃より、今の方が心も体も元気です。

 

現在は街と村を行ったり来たりしているので、街に居るとストレスを感じ、アトピーも再発します。原因が腸と言われるだけあって街だと便の質も悪いです。それが村に戻るとまた元気になります。

原因はわかりません。村に居ればいるほど化学物質に触れることがないので、街の化学物質には過敏になります。買ってくる食材、飲料用の水道水、大気、全てに色んなものが混ざっています。それが原因かもしれませんし、先に書いた欲求に関するストレスが原因かもしれませんし、恐らく両方でしょう。

でもやっぱり、まず考えるべきは僕は前者だと思います。本能的な感覚との付き合い方が整えば、後者は自然と身体が避けるようになります。都市生活で避けきれるかは別の話ですが。

 

 

では現代社会の中で『食』に関する根源的で衝動的な欲求を捉え、満たすにはどうしたらいいのか。それは僕には分かりません。それだけ自然から見れば不自然な生活です。

ただやはり、『自分の中にある命と、取り入れる対象の命をどこまで本能が感じられるか』というのが一つの鍵になってくると思います。形を変えてしまった加工食品はその点で少し不利です。頭では元の姿がわかっていても、血肉の匂いもしないのですから

 

日本には素材を大切にする素晴らしい食文化があり、素材の鮮度を生かす技術もあります。それはこの食材を大切にする概念があまりない国にいる僕にとって、とても羨ましいことです。忙しい街の生活になると、食事は栄養補給、下手をすれば腹を満たせばそれでよくなってしまいます。

ただ、本能を満たすという事を考えるのであれば、栄養ばかり考えるのもあまり良くないのかなぁと僕は思います。それは、『食欲を腹の減る減らないで考え、快楽物質が出やすい食べ物を食べて満たす』という短絡的な方法ではなく、楽しむことに重点を置き、自然な欲求と悦びのリズムを取り戻すのが良いのではないかと思います。

ジャンクフードや加工食品は身体に悪い点ばかり取り上げられますが、むしろそういった感覚を鈍らせるところに害が強いような気がしています。

たまに食べたくなれば僕もジャンクフードは食べますし、食の前後関係も含めて楽しんでいれば、しょっちゅう食べたくなることもありません。

 

欲求のリズムを取り戻すということであれば、やはり主体的に、楽しむことが主軸になるのが一番だと思います。人間として本来的な、自然な営みの中で入手できる食材を極力使い、食材調達や調理にこだわりを持って楽しむこと。日本の得意とする素材の味、旬の味を大切にすることでしょうか。それらを通して身体の本来持つ食べ物に対する勘を取り戻すこともできるのではないかと思うのです。都市生活では食が生活の主軸になることはとても難しいです。でももう少し意識してあげることは出来ると思います。食べることばかり考えてても、それは自然なことだと思うのです。

 

 

色々書いてしまいましたが、観念に囚われるのではなく、一人一人の生活、趣向の中から『自分の心・身体と欲求の関係』を見つめ直すこと、そこから繋がる『食』というものを意識してみることが肝要だと思います。

僕にできるのはただ一つ、僕という例からの考察を掲示することだけで、あとは皆さまひとりひとりそれぞれの世界ですから。

今回珍しく全文通して敬語なのは、多分外へのメッセージという意識があるんだと思います。それなりに一般的ではない経験をしてきたので、伝えることに意義を見出したのかもしれません。

 

ドリアン食べたいなぁ。

印象

僕は印象を前面に押し出すものほど信用できません。どうしてこんなに嫌悪感があるのかについて考えてみようと思います。

 

印象とはそもそも何だろう。第一印象、印象操作、第一印象、印象派、良い印象・悪い印象。

Impressionに近いが、日本語では感想は含まない。より浅く、儚いものに感じる。見る度に違う印象を受けるという言葉があるように、「その時の見え方、感じ方」とか、そんな感じかな。イメージ的な何か。

僕のブログ名の『感じたこと』というのは何かから受けた印象と言い換えられるかもしれない。でもそれだと受動的な感じがするので、なんだか合わない。やはり印象は受けるものであって、Feelingとはちょっと違う。双方無意識のものであっても、僕の感覚ではFeelingには掘り起こせる根拠があるのに対し、印象はやはり捉えづらく、儚く、頼りなく、信用できないもの。

『感じを受ける』は印象により近いかもしれない。これはやはり『感じる』とは違う。

印象というものは色々なものに左右される。個人の中でも揺らぐものだ。

 

ではその印象になぜ嫌悪感があるのだろう。恐らく理由は複数ある。

先ずすぐ思い浮かんだのは、『印象というものは当てにならない』という事。『感じる』というのは後々理由が分かり、自分の感覚として感じているので間違えが少ない。そもそも自分の感覚が第一なら間違えるものではない。

それに対して『印象』というものはより表面的で、見誤りやすいと思う。

 

『好印象』という言葉がある。これが信用できないのは、『印象』は相手の発するものを受ける為だろう。相手が意図的に着けた仮面も含む、表面的なもの。この段階で洞察は働いていないし、それに十分な情報も集まっていない。その条件を満たすと『良いと思う』になる。

 

信用できないのは相手だけではない。例えば第一印象が静かな人。そういう人は弱弱しいという印象を人に与えることがある。『印象』を無視して『感じる』に留めておけば、ただ静かな人だと感じるだけ。

それは恐らく、受ける印象というのは世間的な見方というか、何か外側からのバイアスも既にかかっているものだからだと思う。『受ける』印象というのは、受ける側の無意識的な『見え方』が反映されている。その見え方は既にフィルターがかかっているので、情報を認識した段階で既に屈折している。フィルターとして作用するのは多くの場合ステレオタイプ的なバイアスだと思う。そしてそれは集団の中で過ごすうちに体得するイメージ的なものや、より内面の心理的なものが多い。前者は大抵の場合(僕に言わせれば)事実無根のもので、後者も利用される場合が多いので、自分の中で整理せずにこれを信用すると、物事や人を見誤ることが多いように思う。常識というのも多くの人にとって好・悪印象のバイアスを生む源だろう。それは前者だと思う。

 

印象は表面的で、色々なバイアスがかかったもの。

 

 

印象は一度受け、無意識に定着すると、その幻影は抱いた人を惑わし続けるものでもあると思う。その印象を払しょくするには、同じ対象から新たな別の印象を受けるか、それとも主体的に自分の目で見て感じるか、基本的にこの2つしかないと思う。

 

印象は引きずるもの。

 

 

プラスの印象は興味となり、知ることの原動力となり、その時点で印象の域を脱することが多い。

気を付けなければならないのは、マイナスの印象はそれ以上知ることに繋がらず、無意識に偏見・レッテルとしてその人の思考に根付くことが多い。その負の印象が関連したことを考えた時に考えや感情を引きずることがあり、それ自身がマイナスの偏見を更に固定する根拠になる。

 

印象は偏見に繋がるもの。

 

 

世の中の所謂『賢い人達』は印象の力を知っている。印象は彼らにとって武器だ。

相手の懐に入り込んだり、その人に何かを信じ込ませたり、表面的に満足させたりする為にこの印象を利用する。人、商品、テレビ、情報、なんでもそうだと思う。

印象を盲目的に信じれば彼らの思う壺になる。そしてそれは大概回り回って良い結果にならない。と思う。

 

彼らが印象を操作する方法は様々だ。自信があるような『語気』で信じ込ませたり、微妙な『言葉のニュアンスの違い』で騙したり、装飾や表情で好印象を与えたり、テレビのように『表面的な感情を誘導』することで捉え方を歪ませたり。

 

『常識的に振舞うこと』も見方によっては自衛的な意味での印象操作だと思う。常識を装っているのだから。

印象を操作することは、欺くにしろ取り入るにしろ、社会性の中で学習して体得するものだと思う。ある意味で、印象を操作するのは自然なことでもある。

 

印象は常に操作されているもの。

 

 

人はそれぞれ物の見え方、捉え方が違う。ただそこにはパターンが存在している。僕の場合、多数派の人たちと物を見た時の感じ方が違ったりしたので、印象という面においても同じだった。

 

小学校や中学校の道徳の授業で、平和学習として『平和アニメ』を見せられたり、戦争経験者の話を聞く時間なんかがあった。そこで戦争というものに対する印象を植え付けるわけだけれども、僕はどうしても彼らと同じように感じることは出来なかった。

 

平和アニメは非現実的で、偏っていて、感情を煽ってくる印象を受けた。

今思うと、ストーリーが良くても恐らく映像化する段階でいろんな意図や想いが組み込まれるんだと思う。すべてが同じ感覚、悲壮感で構成されていて、それが非現実的な印象に繋がっていた。そんな世界は1人の人の心の中でしかあり得ない。

作品が『悲しい』とか『痛ましい』という印象を与えることが出来ても、それは内側からのものではなく、所詮外側から与えるものだ。それが受け手の内側の感情に結び付くかどうかは、受け手の経験や見え方・捉え方とどう関係するかによると思う。僕には結びつかなかった。結びつかないだけならまだ良かったが、その非現実的な滑稽さがコメディと結びついてしまい、笑ってしまったが為に批判の的となった。同調圧力が正義の旗印の下、鬼の首を獲る理由を得た瞬間である。教師は自分の生徒たちが『間違いを犯した』生徒を裁くのを喜びながら見ていた。

 

受ける印象は受け手によって異なるもの。パターンはあるけど。

 

 

そして戦争を経験した祖父は、「戦争はやるなら負けちゃだめだ」と言っていた。

学校の平和教育の一環だった戦争経験者の話も、彼らの視点の体験の話だった。それは尊重すべきものなのに、戦争を見ていない教師がそれでは足らぬと言わんばかりに補足を入れるのが気に入らなかった。

子供は単純なもので、小さな僕が戦争に抱いた印象は、率直に「負けると悲惨」だった。

道徳の授業はすでに目標が設定されているのだろうか。こういったズレた感想は粛清の対象だった。「自分の『感じたこと、思ったこと』は外に出してはいけないものだ」ということを学ぶいい機会だった。そして感想なんて書かせなきゃいいのにって思った。

僕の視点からすれば、常識として振りかざされる『印象』というものは、こうして出来上がるんだという経験であった。自信を失いながら、気持ち悪いなぁと思った。

 

印象は植え付けられるもの。

 

 

僕は「平和平和」と宗教的に、表面的な平和の印象だけを妄信する姿勢は平和につながらないと思っている。何事もそうだけど、すべての人が『印象』に惑わされず、自ら『感じ』『思い』『考え』なければ第一歩にもならない。と思う。

 

なので

(僕の視点では)印象は世間に蔓延する害悪の根源の一つ。

 

 

印象というのは印象派の描く絵のように、その人の儚い主観。その儚い主観を素直に信じることが出来ないこの世界は、なんだか悲しいなぁと感じるのでした。

 

いつものように主観全開なので悪しからず。

『民族』『マイノリティ』『個性』と違いの認識 アイデンティティと同調圧力

昨日今日は伝統祭。複数の民族がお祝いをしています。

 

州都の祝祭拠点では故郷地区ごとに伝統家屋が用意されていて、そこで同郷の人、そうじゃない同じ民族の人、別の民族の人も垣根なく集まり、飲みまくる。宗教上飲めない人や豚肉を食べれない人に配慮した料理も用意される。

美人コンテストのクライマックスも今夜。凄い人出だった。

 

適切な郷土、民族アイデンティティは上位で同じ社会集団を構成する別民族集団との適切な関係を構築するのに必要といういい例だと思う。

自分たちのアイデンティティの理解がなければ相手集団に別のアイデンティティがあることを意識することもできない。その『互いの違いの認識なしに互いを尊重し合うことは不可能である』と思う。この地区は他民族の尊重という面でとても上手くやっている。

(国という概念が出来た以上、国籍による民族差別は存在する。でもそれは国という概念がこの形で存在する以上避けられないだろう。例えそれが宗主国が引いた線引きによるものでも、国というものはやはり最上位のアイデンティティとなるし、政権にとってナショナリズムは武器でもある。)

 

アイデンティティや民族(集団)の在り方は、勿論、その集団として目指すものによっても変わってくるだろう。幸福度の高いと言われるブータンのように、排斥・弾圧の上に成り立つ幸福な文化もある。日本に僕が感じる閉塞感はこれに近い。同質思考の閉塞感。裏を返せば、適応できる人にとっては幸福なのだろう。

それらの社会の在り方は、正しいと思う人からすれば正しいし、正しくないと思う人にとっては正しくない。それぞれの考え方は『自己のアイデンティティ』に根差す個人の領域だと思う。しかしそうならないことが多い。

 

『互いの違いの認識なしに互いを尊重し合うことは不可能である』

集団としての考え方を強要してくる人たち程、個々の違いを理解していないし、理解しようともしていない。違いがあることを認識していない人も多い。それは同質性の中に浸かり、そこに馴染み過ぎた結果なのではないかと思うことがある。個人としてのアイデンティティをすっ飛ばして、『社会の中での我々』という観念が強く感じられる。

そういった人たちは『自分が社会を構成している』というよりも、『自分は社会に帰属しているし、あなたもそうでしょ』という同調圧力を常に放ってくる。

 「一体いつから同じ集団に帰属していると錯覚していた?」と言いたくなってしまう。

冗談は抜きにして、その同調圧力は無意識のうちに人を傷つける暴力だという事を見ながら、感じながら生きてきたので本当に許容できない。無意識な分たちが悪い。

 

 気質の違いによるデザインされた社会によって起きることだと認めてしまうのは簡単。でもそれでは良くできないと思う。

民族は民族としてアイデンティティを主張することでその民族が在ることを権利として確立している。マイノリティがマイノリティとしてアイデンティティを主張するのも違いを主張し、権利を守るためだ。

それらは上位の社会集団からは異質化という社会悪として叩かれることになる。社会を同質集団システムとして捉えれば当然でもあると思う。小さな民族集団の独立戦争と似ている。

 

違いを主張する為には、先ず認識される必要がある。であるならば、個人が個人としてのアイデンティティ、『個性』を主張することも必要なのかなとも思う。しかし、民族やマイノリティは集団としてのまとまったアイデンティティとなるから、もの凄い圧力の中闘うことが出来る。そしてマイノリティはある意味で、マイノリティという小さな集団を利用することで、共通の個性を守っている側面もあるだろう。

 

『個性』の主張は孤独な闘いだ。その闘いは生まれた時既に運命づけられている。

個性が染まることを拒否すれば、成長の過程で集団によって歪められてしまう。多数派が縋る集団としてのアイデンティティは僕個人としてのアイデンティティとは共存し得ない部分があるからだ。『浸食される』というイメージが分かりやすいと思う。染められる、変えられる嫌悪感の前には浸食される恐怖があった。

そしてその同調圧力は僕のような人間にとっては自覚症状の伴わない苦痛であり、それが続けばストレス反応として現れ、次第に無意識のうちに集団を拒絶するようになる。それも生得的な性質から後天的な結果に至るプロセスのデザインなのかもしれない。

 

同調圧力の主要な犠牲者である子供は、一人で主張して闘うことは出来ない。それを守ろうとなった場合、やはりその経験を持つ大人が支援するしかない。しかしその大人たちは、自分も含めバラバラなまま傷を背負いながら生きている。

もし社会の中で子供たちの個性を守ろうとするならば、一度現象を整理し、先ずは傷を背負った大人たちが自らの共通性を見出し、マイノリティとして団結するべきなのかもしれない。

無意識の相手に認知されるようになること。それは言い換えれば社会における自治権を要求する戦いであると思う。ばらばらにローンウルフ型テロリスト的な主張を繰り返してもダメ。各個撃破されぬよう、燃え尽きぬよう、潰されぬよう、ある程度のまとまりを以って戦略的にムーブメントを起こす必要があるだろう。『気質』の問題も人々に広がり、機は熟しつつあると思うのだけど。

それができる性質の人間ではないのだけど、やらないといけない気がする。問題はこちら側は負傷兵ばかりで士気も低いことだろうか。仕方ないことだけど。

 

 

小学生Youtuberに僕が乗らない方がいいと判断したのは、彼は自分の存在の特別さを主張する強さ、後ろ盾があるように見えたから。真っ当な主張だし、彼には頑張って欲しい。

でも、あれに乗ると確実に間違った印象を与えることになる。そう思った。

強い子はまだ問題は少ない。それよりも、先ずは自分が違うという事に気づけず、合わせることができない自分を気づかぬうちに責めて傷ついていく子をどう認知させるかが重要だと思う。焦点がずれると表面しか見えない人達には正しく認識してもらえなくなる。そう思った。捉え方の違いを認識し、相手を分析しないといけない。

 

 

以上、連想ゲームのコーナーでした。

民族のお祭りの話からよくもまぁ…。疲れてるのかな…。

美人コンテスト、どこの地区出身者が優勝したのかなぁ。

エコな商品 人と物 消費活動

エコを謳い文句にした商品に釈然としない。

知人がクラウドファンディングで環境負荷の少ない商品を出すようだ。

 

勿論従来品より環境に配慮するのは良いことだし、社会的にその方向に進むのは望ましいことだと思う。

でもこの謳い文句だとエコや道徳的なことに付加価値をつけて購買意欲を煽っているだけはないかと思ってしまう。

本当にエコがいいのなら買わなければいい。でもこれだと少し原理主義的。

 

大量消費社会や環境への無配慮に疑問があるなら、消費者の商品選択心理よりも消費活動に対する価値観の方に影響を与える必要があると思う。

どれもこれも相対的なものなので、それは個人個人が常に対象となる一つ一つの物との関係に環境的視点を織り交ぜて測らなければならない。

 

僕は買い物自体あまりしない(できない)ので、色んなものを長く使うことだけ考えている。そもそもお金がないので、エコに付加価値を付けた商品は買うことが出来ない。

でも極端な話、環境負荷が多少大きくても長く使えばその分はペイできると思う。

 

フェアトレードや商品と人権の話も、標語に踊らされるだけならあまり意味がないのではないだろうか。

その標語ではなく、その物とその人がどう関係するか、消費者が物の先の現象を、その物を通してどう知り、考え、見て、関わるかの問題だと思う。それがなければ、結局は他人の言葉の上で踊り続けることになる。

 

売り上げの一部を寄付するというのは面白いと思う。でも、その寄付をただの寄付で終わらせる(消費者→ l 企業→ 寄付先)のではなく、一人一人がその寄付というものを追い、寄付先とのつながり・影響を実感する工夫(消費者⇔(企業)⇔寄付先⇔使途)が必要だだろう。そうでなければ一周回ってやはりただの購買を煽る標語に変わってしまう可能性が出てくると思う。

 

 

そんなことばかり言っていたら従来よりエコなものは売れないし、消費社会が変わらないのはわかるし、その土俵に立つことに意味があるのはわかる。人の認識が無意識に優先される機能によるものなのもわかる。多くの人が行動に優先順位が傾いているのもわかる。人そのものは中々変わらないのもわかる。僕が世間からズレている側なのも、このクラウドファンディングがすぐにゴールを達成しようとしてることを見ても明白。

 

でもエコと言いながらその商品がどうエコなのかをもう少し明確に、公平に比較できるように伝えてくれないと僕は納得できない。だらだらと偏りが垣間見える想いだけ書かれ、更に感情を煽るものが入っていると僕は更に納得できない。エコでしかもインスタ映えするとか言われると僕はもうわけがわからない。故意か意図していないのか知らないけれど、良いように誤解されやすい言葉選びの姿勢がなんだか嫌(世の中どれもそうなのだけど)。

 

だから僕がこの商品を単に知人だから、目的は同じだからと応援することは、僕の倫理観には反してしまう。それはもう少し、物と人の関係に入り込むやり方があるのではないかと思ってしまうから。

 

 

以前なら『知人だから』、『共通の友人が皆応援しているから』という理由で応援しただろう。でもそれはもうやめようと思う。ささやかな自分自身へ向けた意思表示として。

我ながらわがままだなぁとは思うけど。

砂漠に行ってみたい 生と無機質の認識

砂漠とはどういう所なのだろう。

 

イメージでは寒暖の差が激しく、もの凄く乾燥していて、日よけになるものも風や舞う砂を除けるものもなく、生き物もほとんどいなくて、そして広大で視界を遮るものがない。思い浮かべてみても知識として知っている世界や見たことのある写真のような映像だけだ。

僕が落ち着いて自然と一体化したような気持になれる熱帯雨林とは真逆の性質のものに思う。

東京砂漠的なものは心の中で味わってきたが、それはまた孤独という部分ばかりに焦点を当てた想像の中の幻想でしかない気がする。

 

 

僕が魅かれる本には砂漠の描写が多い。

人は何を砂漠に見て、砂漠は何を人に見せるのだろう。その先に何が見えるのだろう。

 

お金はないのに行ってみたい場所だけは沢山ある。全然行けてないし現状では生きているうちに行ける気が全くしないのだけど。

そんな僕の中で、最近砂漠は突然、行ってみたいところリストの上位に食い込んだ。

僕の行ってみたいところリストの中に僕の基準で過酷で危険なところは一つもなかった。日本の関東平野部レベルの冬の乾燥や寒さに音を上げ、湿潤な場所に居るのに一日に水分を2L以上摂る僕にとって、砂漠は想像もつかないほど過酷なところだろう。ましてや文化に触れることもできないし、生き物もあまりいない。

でも、砂漠に身を置くことよって物事の見え方が変化することは何となく想像ができる。

 

熱帯雨林では、目に映るもの、聞こえる音、触れるもの、吸う空気まで、すべてが沢山の命やその痕跡に溢れている。安心して身を委ねることが出来る。虫に刺されることも、それが当たり前になれば生の実感に変わった。(ここだけ読むと危ない人みたい)

始めの頃、熱帯雨林で動物に会うことは容易ではないと思った。声や飛び移る音が聞こえても、匂いが漂ってきても、足跡などの痕跡が見えても、幾重にも茂る枝葉に隠れ、そこに居るはずの動物の姿を目視することは難しい。尻尾は見えてもその動物には会えなかった。でも今はもう色んな動物に会えるようになった。そこに身を置いていれば、僕にとっての『会う』という条件自体が緩和されていった。会うこと自体には尻尾を見る必要すらない。会うの最低条件が『種の同定ではない』し、会うという現象がその対象と『目が合うことでもない』のだ。互いに気配を察しているのだから僕とその何かは会っている。

 

僕は小学生の頃から釣りが好きなので、海も僕にとっては生の予感で満ち溢れている。自然現象はすべて連鎖しているので、海面を見ればその海中、そこに居る生物が見えてくる。

10年ちょっと前、毎週砂浜から弓角で回遊魚を狙っていた。その中にはベテランの漁師さんも趣味で来ていて、彼は僕やほとんどの人たちには見えない回遊魚の兆候を的確に捉えることが出来た。僕が魚の気配を感じられるのはせいぜい、海面に『もじり』や『なぶら』という、直接的な魚の兆候が見えた時ぐらいだった。なぜ彼がそれらの兆候もなしに海中のことが分かったのかは本人に聞いていないのでわからないが、今は僕にも見えるようになってきた。場所が変わればすぐに見えるようにはならないけれど。ただ単に視力の問題ではなかった。

 

より単純なのはニッパヤシ林の貝採りだろう。こちらの先住民たちは次から次へ拾っていく。僕ははじめ、泥から少し出ている貝しか見えなかった。彼らには泥の中の貝が見えていた。貝を探していては貝は見えない。

人はその環境に身を置いていれば、自然と学んでいくものだった。僕は今は泥の中の貝が見える。彼らほどではないけれど。

 

長々と書いたのは僕の自然についての認識や知覚の変化。

 

では砂漠に行くとどうなるのだろう。それは僕には分からない。でも一つ思っているのは、生物の気配がほとんどない過酷な自然環境に身を置く(街は生物の気配がないのではなくゾンビの気配がある)ことは、より生の気配に敏感になるのかなということ。

僕が期待しているのは、その先に無機質から生を感じられるようになるかもしれないということ。そして更にその先に、僕の中に根強い、生と無機質の間にある認識の壁を打ち破れるかもしれないということだ。

動物の痕跡も、泥の中の貝も、見方によっては有機質から感じ取っているに過ぎない。イメージとして近いのは海面と海中の関係だろうか。

 

生と無機質の間にある認識の壁、それが打ち破れれば、生の見え方や無機質の見え方だけでなく、僕自身の在り方や生死の認識も変わるような気がする。

 

 

でもそれはツアーで体験するような期間では無理だろうなぁと思う。お金や家族に縛られているという言い訳が思いつく辺り、まだまだその時ではないのだと思う。その時は来るのかな?

 

 

最後に誤解の無いように書いておきます。僕は昨日の哲学傾向テストでは精神主義的な傾向が高いことになっていたけど、スピリチュアルな感覚は今のところ持っていません。ただ、世の中が物質的すぎる、五感に頼りすぎることに疑問があるだけです。あのテストでは物質主義の反対軸が精神主義になっていたのでそうなっただけだと思う。こういう傾向テストではよくある罠ですね。

そもそも物質主義と精神主義は相反するのだろうか。調べたことがないのでそれすらわからない。

 

スピリチュアルな世界が有るなら有るのだろうし、無いなら無いのだろうし、人によってなら人によってなのだと思うし、集団によってなら集団によってなのだと思う。

ただ、個人として僕の見方が今どうで、これからどう変わるのか、死ぬまでにどう変わるのか、その先が僕にとっては有るのか無いのか、その認識がどう変わるのかに興味があるだけなのです。今は「何となくそういうのもあってもいいかなぁ」って感じてますが、見える(感じる)=あるでもないし、見えない(感じない)=ないでもないし、「結局証明できないものを追っても仕方ない」とも思ってます。今までがそうだったように、なるようになるんだと思う。

捉え方や感じ方、考え方が変わるのは僕の中では自然なのだし、僕が分かるのは僕の経験を通した認識でしかないのだから。

地球市民 から 哲学傾向テスト 眠いので何を書いたのかよくわからない

僕は考え方がユートピアンで地球市民的と思われがち。誤解されないように僕の性質を書いておけば、現実的に軍は必要だと思うし、戦争の歴史は直視するべきだと思うちきゅし、兵器はかっこいいと思う。武器や武力は扱う人間や社会の問題だと思っているし、個人的な趣向は趣向なので、人の話を聞こうとも思わない。だから僕は、誰かの勝手な道徳観を押し付けてくる道徳の授業が嫌いだった。

でも人が傷つくのは極力減らすべき。でも傷つくというのは何も戦や暴力だけではない。現代社会が人をどれだけ傷つけているのかを先ずは直視するべきだと思う。

 

地球市民はや世界市民というのは僕自身の心情的には当てはまるけど、その考え方を人類に適用するのは無理だということもわかりきっている。それは、人類の多くは国家という枠組みでさえ持て余してしまっているという僕の主観的事実だけで十分だと思う。

そんなことをしても痛みばかりが増えるだろうと思う。

 

そもそも、発展、変革、進歩、人間が求め続けてきたものは正しいのだろうか。それは恐らく尺度とするものの基準や人それぞれでも答えが変わるだろう。

 

僕個人の意見で言えば、心というものを重視するのであれば、それらの前進的な発想よりも、在るべき状態への回帰を考えるべきだと思う。変革の先にそれを望むのであればまだいいけれど、発展という考え方はもう人間がついていけるレベルではなくなっていると思う。

ずっと中身としては変わってこれなかった人類が変われるという前提は僕は否定するし、人そのものが変われなければ発展や変革の先の社会も、結局同じことを繰り返すだけだろう。

なら回帰するしかない。ただそれだけの理由。

動き出してしまった流れを止めるのは無理かもしれないけど、この発展ばかり求める流れの先で心を取り戻すという方がもっと無理だと思う。少なくとも過去にはそこに人類が存在したという事実がある。石器時代に戻ろうとか、そういうことを言っているわけではない。過去に学ぶのなら発展を前提として学ぶのではなく、回帰的に過去に合わせていけばいい。それは現代の思想が許すはずがないのだけど。

とにかく前進ばかり求めるのは疑問だということです。

 

 

以前哲学傾向テスト(http://dichotomytests.com/test.html?id=0&fbclid=IwAR0mMY9Cp2GqYRxu2a8ni1w8_nU1spPp5eIn_HeH9okfo7M5fWf0HpCHjn8)をした時、同じ性格型のコミュニティの中で比べると僕はその人達よりニヒリズムの傾向が高かった。別にニヒリズムとか興味はないのだけど、倫理倫理って、なんで倫理が人として共通だと思うの?その倫理がずれた前提の上に成り立っていた場合、人を傷つけることもある。倫理で人を押し込めようとするのは倫理上正しいの?

倫理という考え方が間違っているとは言わないけど、曖昧な倫理というものを共通認識という意味の武器にすることは、僕の倫理観からすれば倫理ではない。その僕が否定する倫理観を持っているのが日本社会(の多くの人たち)。理由は知らない。

 

 

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思想や哲学はあまりわからないけど、ネタとして面白いので貼っておきます。

僕はニーチェの思想とか知らないのだけど、よくニーチェに行きつく。興味がないので行きついてはそこでストップしてたけど、少し調べてみようかな。

 

眠いので今日は何を考えて何を書いているのか自分でもわからない。いつものことだけど…