感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

名前はまだない ありがたいありがたい。

『名前はまだない』このフレーズが頭に浮かんで離れなくなった。元がなんなのか思い出せない。

Googleで検索してみるとレストランばかりが出てきた。

『名前はまだない 詩』で検索すると『吾輩は猫である』に続く文だったと分かった。夏目漱石の処女小説らしい。一時帰国の際子供が見ていた『にほんごであそぼ』、そこでひたすら『吾輩は猫である 名前はまだない』の2文だけが繰り返されていたことを思い出した。

 

僕は夏目漱石についてはあまり知らない。有名な肖像はすぐに頭に浮かぶ。その肖像には親近感があった。それはいつも財布にあったのが福沢諭吉でも新渡戸稲造でもなく千円札だったからとか、そういう事ではない。事実ではあるが。

遠くを眺める目、落ち着いた表情。彼の肖像の表情は、今は亡き僕の最愛の祖父の、ニュートラルな時の表情に似ている。そして僕の自分の中に残る祖父の記憶に自分が重なることがあった。

 

 先月買った本の中で、夏目漱石について書かれている部分が少しあった。そこには彼が留学の末、自分の在り方に苦しみ、鬱状態だったことが書かれていた。

 

『吾輩は猫である』は著作権切れで全文が公開されていた。ふと興味が出て15分くらい所々飛び飛びに読んでみた。

 

人々の世が猫の視点で描かれていた。世の中の人々の考え方、生き方、主義主張、思想、そういったものを見て、自分なりに考えている猫。

 

最後の部分。猫はビールを飲み、酔って大きな甕に落ちてしまう。もがかなければ苦しい。苦しいからもがき、少し浮き上がる。しかしもがき続ければ疲れてしまう。甕から出られないのは明白で、何のためにもがくのかわからなくなった時、すべてが馬鹿げているように感じた猫は抵抗をやめる。

その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責かしゃくに逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水のおもてにからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらもいても、あせっても、百年の間身をにしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。みずから求めて苦しんで、自ら好んで拷問ごうもんかかっているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむるよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支さしつかえはない。ただ楽である。いな楽そのものすらも感じ得ない。日月じつげつを切り落し、天地を粉韲ふんせいして不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。*

終わり。

 

メタファーは共通の経験を通した時、理屈よりも直接的に伝わるものだと思う。それがずれていたとしても、感じる本人にとっては壮絶なもの。

この死んでいく猫、恐らく夏目漱石自身の言葉「ありがたいありがたい。」は解放として僕の心に響いた。それは彼自身の自分の在り方に関する、もがき・苦しみがそれまでの文章から感じられたからだと思う。

 

直後にwikipediaで調べると、夏目漱石はやはり苦悩の時をこの猫の視点で過ごしていたようだった。最終連載で猫が死んだ2歳という歳も、きっと意味がある数字なんだと思う。そして彼は一時的にせよ何かから解放されたと僕は感じた。

 

僕は以前、鬱に苦しんだことがあった。色々ある人生だったので、僕は2回死んだと割り切っている。そう割り切れるまでは本当に苦しんだ。浮き沈み、もがき、自責、内側の自分と外側の自分、そして周り。

この小説の猫と順序が逆ではあるが、僕は枠の外に出て、気づけば自分の心が元気になり、本来の自分の在り方の手掛かりが見えた。それを追求する過程で、僕の存在が間違っているのではなく、僕が小さい頃から思い込まされ、自分でもそう在るべきと『思い込んでいた自分の在り方』が間違いであったと気付くことが出来た。

猫を借りれば、僕の猫は僕自身がその存在に気付く前に、自然と増した水嵩によって既に殺され、水と融和していた。時間はかかったけど、今は甕も水位が上下する水も含めて自分そのものだと実感できている。僕の猫が死んだと思われる周辺で、僕は何度も諦めを繰り返し、正当化を繰り返しては失敗していた。潮汐のように上下する水に揺られながら、その都度苦しみの末感じたのは、やはり解放の『ありがたいありがたい。』だった。

 

経験を伴った心の表現はプロであれ一般人であれ、読んでいて心を動かされる。そんな自分に気付いたのも最近のこと。その昔僕の猫は芸術、文学を含め色んな事に触れてこなかった。自分とは関係の無いものだと思い込んでいた。いや、彼にとっては実際関係なかったのかもしれない。

僕は今、僕として生き始め数年になる。いつかその死んだと思うことで割り切っている2度の人生分(ややこしいけど死んだ僕の猫と表現した自分とは別)も僕そのものであり、経験は糧だったと認められれば一番だとは思う。まだまだその時ではないと感じているけど、いつか。

今は『僕』として、心のこもった芸術や、心のこもった文章への興味に衝き動かされている。この歳まで触れてこなかったのでどうしていいかわからないけど、それもそれとして自然に生きるように、自然に親しんでいければいいなと思うのでした。

夏目漱石の書いた文章についても、『吾輩は猫である』を含め色々読んでみたいなと思います。

 

しっかり読んでもいない上に主観しかない僕の感想です。言いたいことはただ『何かが繋がった感じが嬉しかった』。それだけなのです。あしからず。

 

 

* 吾輩は猫である 夏目漱石 青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card789.html

ドリアンが臭いというレッテル 多様性と多様性の出逢いの可能性

夜のさわやかな風にドリアンの香りが乗ってくる。その度にふと、内側から湧き上がってくる怒りと悲しさの入り混じったような感情があります。感情とは面白いもので、匂いを認識して考える前に湧き上がってきてる。

 

僕はドリアンが大好きです。ドリアン依存症と言っていいくらい大好き。結構な値段がするけど、匂いを嗅ぐと食べたくなってしまう。

日本の方を案内すると、決まってドリアンはいい(拒否)という人が何人か居る。そういう人たちに限ってドリアンを食べたことがない。ではなぜ拒否するのかと言えば、臭いという先入観。それを聞く度に怒りと悲しさでいっぱいになる。「うんこの匂いがするんでしょう?」とか意味の分からないことを言い出す人までいる。

 

『ドリアンが臭い』というのはいったい誰が日本で吹聴したのだろう。誤解によって貼られたレッテルの一人歩きでしかない。

 

ドリアンは匂いは強烈。でも決して嫌な臭いではない。南国のフルーティーな匂い。中には確かに人によって不快と感じる匂いのものもある。でもそれは少数。品種・鮮度も関わってくる。

 

僕がドリアンが好きなのは美味しいからだけではない。品種によって、育てられた場所によって、木によって、そして同じ木から採れた実でもそれぞれ匂い、舌触り、脂分、コク、甘み、苦み、風味が違ってくる。個性が本当に豊かなのだ。恐らくは農業技術が発展し始めたばかりで品種があまり固定されておらず、決まった農法もそこまで普及しておらず、収穫・輸送にもムラがあるからというのもあるだろう。でもそれは僕の感情にとって関係がない。美味しくて東南アジアでしか食べられない、個性豊かで素晴らしい子たちだから、それを試してもらおうと思ってる。にもかかわらず先入観で臭いと決めつけた上に食べようとしない人がいる。食べてもなお先入観を覆せない人もいるけど。

 

これも最近まで気づかなかったのだけど、自分の中では色んな事がぐちゃぐちゃに繋がっていて、それで怒りや悲しみを感じていた。ただ僕が好きなドリアンを馬鹿にされたから怒ってるわけでは決してない。

 

臭いという認識はそう聞いてきたのだから仕方がないし、百歩譲って許せる。でも現物があるのに試そうともしないのはどうなのか。現物を自分で確かめもせずにレッテルの方を信じるの?それがレッテルがレッテルとしてこの世に存在し続ける理由でしょ。

何故自分で確かめるより、人の作った訳の分からない常識を信じるのだろう。トマトが体にいいとテレビで放送するとトマトがなくなったり、トレンドと聞いた服が素敵に見えるようになったり、そこまでは違和感は感じてもまだ許せる。それはその人の在り方なのだろう。

でもオタクが陰湿だとか、鬱の人が弱いだとか、発達障害だから失敗をし易いとか、ゲイは汚いとか、どうして中身を見もしないで一元的に否定できるの?誰が言い出したのかも、訳さえも分からないレッテルだけ見て集団ごと否定するのは本当に許せない。そのレッテルを背負ってそこにアイデンティティを見出し、更に歪んでしまう人も沢山いるのが本当に辛い。

 

ドリアンは一部不快な匂いのものがあると書いたけど、その不快さも気にならなくなるくらい美味しいものもある。そしてその感じ方は更に食べる人によって変わってくる。でもその好みを否定する人はドリアン愛好家ではないと思う。ドリアンと人の関係は1対1のものだ。他人の入る隙はない。

あと、高級なドリアンは高級なので確かにおいしいのも多いけど、ドリアン一つ一つの真価は価格とは別物。価格やブランドに惑わされ、ニュートラルな自分としてドリアン一つ一つとの関係を味わえないのもドリアン愛好家として認められないと思う。

ドリアンは一つ一つ尊重すべきだ。それが自分の好みに合わなくても他の人の好みには合うかもしれない。自分に合わないドリアンだからと見下すのは違うと思う。

 

人とドリアンの数だけ出逢いがある。それが多様性と多様性の出会いであって、その可能性は無限大。その可能性を自分で試しもせずにどこかで聞いたレッテルだけで否定するの?自分がドリアンより偉いと思ってるの?少なくともドリアンは最初から人との出会いを拒んではいない。人との関係の中で傷んでしまうだけだ。それなのにそんなドリアンをイメージだけで否定できるの?

 

人にはそれぞれ匂い、舌触り、脂分、コク、甘み、苦み、風味等の好みがある。それを一つの社会とすれば、ドリアンは多様な中の一つの個性、一人の人としてみることが出来ると思う。

僕の中での理想は、多様な社会と多様な人から生まれる無限の可能性にあるのだろう。だからこのレッテル貼りだらけの現状が許せない。

 

もし人々がこのままドリアンを一部の人の味覚に合わせた品種でばかり選り好みするようになれば、価値観は固定化され枠ができ、常識によって弾かれるドリアンは増えてしまう。枠の中ではドリアンは品種によって価値に差が出来てしまう。個性は関係ない。
やがて高く売れる同じ品種のドリアンばかりを作る農場ばかりになるだろう。そうなれば市場には同じドリアンばかりが溢れ、ますます価値はブランドに移り変わり枠は固定される。

勝ちの亡くなったドリアンは切り倒され、新しく農場で管理されるドリアンは同じ接ぎ木苗ばかりになる。生まれ持った根っこではなく、育っていくのは幼い時に接ぎ木された自分とは違う何かとなり、自分自身を見失い不全を起こして死んでしまう木も出てくる。そしてモノカルチャーは病害に対する耐性も奪ってしまい、長期的には果実の収量も落ちることになる。本当にドリアンたちを愛していた愛好家は、ドリアンと人の在り方の変化に絶望することになる。

それは望んではいけない未来だろう。

 

『みんな違ってみんな良い』を表面的なただの言葉の伝搬だけで終わらせないで欲しい。否定され続ければ人は傷つくし、放置されたドリアンも傷み腐ってしまう。それでも傷み腐ってしまったのは、ドリアンの落ち度だと言うの?

ドリアンも悲しいんだよ?なんて言うと胡散臭くなるけど、回り回ってその態度が人を傷つけているかもしれないことは考慮して欲しいのです。こんな意味の分からない文章を最後まで読んでくれる方に、そういう人はあまりいないだろうけど。

 

 

感情を文章に発散した中で一番スッキリしたかもしれない。

勿論僕はドリアン偏愛者なので、多少(?)色眼鏡でドリアンを見ているところはあると思う。でも怒りに任せた殴り書きにしては僕の心を映し出していて、そこまで的は外れていないと思う。思いたい。ドリアン食べたい。

死者へのコメント 村社会の行動原理

昨日義理の親戚がその元妻に刺殺されてしまった。義理な上に会ったことは2度くらいしかないので、可哀想だなぁとか、子供はどうするんだろうなぁぐらいしか感情も感想も湧かない。

その話はまぁ置いといて、誰かが死ぬと必ずfacebookでは、その死を知らせる投稿を複数人がして、ムスリムなら『Al Fatihah』、クリスチャンなら『RIP (Rest In Peace)』というコメントで埋まる。日本で言えば『ご冥福をお祈りします』だろうか。

 

この現象に何か違和感がある。これらの死者を偲ぶ言葉は誰に向かって言ってるのだろうか。死者や神に対してならそんなコメントを人の目に付くようにするのは不要だろう。心の中で祈ればいい。親族の喪失感に対する『お悔やみの言葉』なら親族に直接伝えればいい。

みんなに見えるように書かれるお祈りコメント、その多くは言葉が別の場所に向けられているように感じる。それはお祈りになるのだろうか。

 

苦難の下に居る人を紹介する文章に書かれる『Amen』というコメント(こっちではかなりメジャー)もそういうものを感じる。結局当事者も神もその人にとってただの他人だからそういうコメントが書けるのではないだろうか。

お祈りやら神やら、そういったものと無縁の僕に言われるのは心外だろうけど。

 

SNS、特に実名で実際の友人と繋がるfacebookは現実の延長線上にある。結局のところそういったコメントをする心理には、『社会に自分の態度を示す』という意味が隠れている気がする。社会社会と言うが、人間の心が今も属しているのはTribeの延長だと思っている。

村社会というのは『見られている』ことが行動原理になっている場合が多いと思う。こっちの村に住んでいても、その『見られている』というのは重圧で息苦しい。多くの場合結婚式や法事などの行事に出るのは、結局のところ祝うためでも死者を弔うためでもなく、親戚に見られているから。様々な行動の目的は無意識に『見られているから』にすり替わる。だから口では色々と綺麗な理由を並べるけど、結局は『見せるため』の行動となる。それは村社会で生きる為には重要なことだ。でも僕は重要と分かっていてもそれだけでは意味を見出せない。そんな中出席するのはすごく苦痛。それを常識として割り切るのが大人なのはわかるけど、そんな気持ちで出席するのはかえって悪い気がしてしまう。

そして「そんなことよりガーデニングの方が大事なんですが…」と言いたくなる。けど我慢する。

 

そんなこんなで村社会では様々なことが『見せること』、『社会に自分の態度を示すこと』に目的が移ってしまうという事を感じていた。もちろんすべての人がそうとは限らないけど。

現実の社会やSNS上でも人は多分、どこかで村社会の中に生きているのだと思う。

 

『Al Fatihahコメント』の中にある僕のもう一つの嫌悪感の源は、僕が死んだら恐らく同じように複数人によって僕の死という事実を晒されて、その投稿に心の伴ってないお偲びコメントがいっぱいつくんだろうなぁという事。

神に対して僕の行く末を祈ってくれるのはその人とその人の信じる神の関係だから良しとしても、僕と神はそういう関係にないような気がする。

 

死ぬ時ぐらい静かに消えてゆきたい。葬式もいらない。そういう気持ちがあるからだろう。それは結局、そんなに繋がりのない人達に死を知ってもらう意味も、僕は既に死体になってるのにわざわざ葬式に来てもらう意味も感じないから。葬式にもお金がかかるし。本当に心で通じ合った数人がたまーに思い出して偲んでくれればそれでいいと思う。

でも世間の家族は、葬式を行うという行動で家族として(Tribeの中での)常識を態度で示し、親戚知人はそれに出席するという行動でその立場として(Tribeの中での)常識を態度で示す。そこからずれて(自分の属するTribeに)非常識と思われることが問題であって、死体となった僕は既に関係ないのかもしれない。それじゃ僕の死体はただの、Tribeの常識を強化する為の道具でしかないじゃないか。もう死んでるのだからどうでもいいのだけれど、でもやっぱり嫌だな。

 

我ながらひねくれてるなぁとは思うけど、きっと何かの反動と生まれ持った何かが合わさったものなのでしょう。大目に見てやってください。

街の星空 星座 知識の呪い

僕は空を眺めるのが好き。でも街からは星があまり見えない。ひとりで居るつもりでも、街に居る限り人々の灯した明かりの中に居る。人々の存在から逃れることは出来ない。星があまり見えないという事実は、関わってもいないはずの集団の中に居る現実を否応なしに叩きつけてくる。

ジャングルから見る星は現実に居ることを忘れさせてくれるほど壮大だ。周りに明かもなにもなく、自分と星空を遮るものが何もない。星を見ているというよりも、星の中に居るという感覚。

 

心と星空は表裏一体だと思う。ジャングルから見える、壮大だけれど人類の祖先からすれば当たり前の星空の下に居ると、自分の心とも星空と同じように向き合える。星空と心が直結し、自分の存在は無になる。そんな中に居るととても大事なことを思い出せそうな気がするのだけれど、頭の中の知識が邪魔をする。自分の存在が星たちの過ごす時の流れの中では一瞬の花火ですらないという事実に恐怖を感じてしまう。

それでも星空は本来の自分を自然の流れのままに思い出させてくれる。

 

街に居るとそうはいかない。人々の存在、気配、影響、そういったものが常に心に靄をかけてしまう。それはちょうど、街から眺める星空のように。色んなものに影響を受け、遮られ、誰にでも見える部分しか見えなくなってしまう。自分と心が離れ離れになってしまう。見つめることしかできない。

 

僕は星座をあまり知らない。はっきりわかるのはオリオン座、カシオペア座、北斗七星と、多くて10個くらいだ。以前覚えようと思ってアプリを買ったのだけど、結局頭に入らなかった。覚える意味が感じられなかった。でも今はそれでもいいような気もする。

星座の概念が共通化される前は、祖先たちはずっとこの星空に、自分自身の心の中にある風景を映し見ていたのだろう。目印として共有していた星座はあったにせよ、それぞれの人が違うものを見ていたはずだ。変わりゆく雲に何かを映し見るように、それぞれの心の数だけそれぞれの星座があった。

でも僕にはオリオン座はベテルギウスのあるオリオン座、カシオペア座はWの形のカシオペア座、北斗七星はひしゃくの形の北斗七星にしか見えなくなってしまった。星空に心の中の何かを映し見ようとしても、知っている星座が目に入ると頭で考える世界に入ってしまう。自分の心は映せず、誰かが見て皆に伝わった星座が邪魔をする。今更気付いても記憶は消せない。今の僕にとっては悲しいことだ。

 

『星の王子さま』で、ボアを飲み込んだゾウの絵を見て「帽子」と答える大人たち。僕はそうはなりたくなかった。でも実際、そういう大人になってしまった部分が沢山ある。当たり前になることが悲しいと感じる人もいる。僕がそう。その自分がそうなってしまったのだから救えない。

 

星座を覚えたのは学校や科学館だった。知識は必要な場面があるかもしれないし、僕もそれが大事だと思ってこの歳まで生きてきた。そして悲しい大人になってしまった。

世間は事実(という何か)ベースの常識(という押しつけ)によって回っていて、知識はその中で生きるには重要な役割を果たす。その知識は人によっては有用かもしれないけれど、すべての人にとってそうではないのだと思う。僕は後者なのに気づくのが遅すぎた。

知識は消すことが難しい。油性ペンのように。いや、タトゥーの方がいいかな。

知識は見るものを照らす『灯り』であり、物事の本当の姿である星々が自分自身の目では見ることが出来なくなる『呪い』なのだ。呪いの懐中電灯。なんかの小説に出てきそう。この呪縛は解けるのだろうか?諦め、自分の一部として付き合っていくしかないのかな。

 

 

なんてことを星が少ししかない空を眺め、想いながらお散歩して、猫ちゃんたちと戯れてきたのでした。

 

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猫に星空はどのように見えてるのだろう。と、ふと思ったけど、そんなことを考え出すと眠れなくなるのでおしまい。

おゆうぎ会 因幡の白兎

今日は寝不足でぼーっとしていて書くことが思いつかないので、3分間目を閉じて頭に浮かんだことについて書くことにします。

 

はい。

頭に浮かんできたのは保育園の年中の時(多分4歳)のお遊戯会の時のことでした。宇宙でも出てくると思ったのだけど…久々にこんなこと思い出した…。

 

保育園のおゆうぎ会で『因幡の白兎』をやった時のこと。

このブログと対峙するとそういうモードになるのかもしれない。

お遊戯会の練習の時に、主役の白兎は男の子が2人やることになっていたのですが、何故か僕がその2人に入ってました。小さい頃はそれなりに可愛かったからかな 笑 それは半分冗談で、実際は園長先生とうちの家族がご近所付き合いが長かったせいだと僕は思ってる。

普段からぼーっとしている上に幼かった僕は、その時はあまり重大に考えていなかったのです。

 

そして練習の時。2人しかいないウサギ役はサメの群れとなった他の男の子たちに囲まれた中演技をしなければなりませんでした。それが説明できないけど本能的に無理で、すべてを放棄した上に泣きだしてしまったのです。困惑する先生達は、僕をなだめ、次の練習も続投させようとしたのですが、結局駄目でした。

 

理由をつけようと思えばステージ恐怖症なのかな。他人と違う事をやりたがるくせに注目を浴びるのは嫌い(というより無理)なのは、今思えば幼少期から。今も変わってないし、向き不向きはあるんだと思う。頑張って変われる人はもともと変われる人なのです。

 

そして僕はサメになりました。皆と同じコスチュームを着て、皆に紛れてサメとしてウサギを囲む側になりました。安心する面とどこか不満な面の両方を感じました。

 

めでたしめでたし

 

あまりいい思い出ではないのでここまで!こんな思い出ばっかり…

性差間のレッテル貼り合戦 怪獣大戦争 LGBT

男と女の枠に籠り、相手にレッテルを貼って差別し合う人たちが沢山いますが、とても悲しいことだと感じるのです。

 

異質を排除することで、女・男という双方の枠の中の同質性を確認し合って安心してるのだと思うけど、それに何の意味があるのかが分からない。相手の枠を罵れば罵るほど自分の枠に囚われていくし、枠の中のイメージが凝り固まれば凝り固まるほど枠の中の人たちは自分たちの首が締まっていくといういつもの構図に見える。それは意味がないどころか、自分の集団にとっても、相手の集団にとっても、共通の集団にとっても、未来に生きる人たちにとっても、害でしかないのではないかと思う。

 

『身体的特徴』『生理的特徴』は勿論多くの場合違いがある。それは前提として区別し、尊重しなければならないと思う。

 

でも、この人たちがレッテルを貼り合う性格的特徴、認知傾向的な問題はどうだろう。彼らの見方では男女で違いが優位にあるという。僕もそれは傾向としてはないと言えないと思う。でもそれは『男女の違い』が決定的要素なのだろうか。女と男はそれ以前に個人の集団。その個人を男と女で割り振った中で、特徴を分布傾向で見て、その傾向の強い部分を男はこうだ、女はこうだって言っているだけだろう。そこに当てはまらない(僕のような)人は無視して。それに意味があるのだろうか。それ以前に、性格的な部分を男女で分けて考える必要があるのだろうか?

 

男と女のイメージは小さな時から刷り込まれる。女の子はおままごと、男の子はスポーツ、男の子は青、女の子はピンク。女の子はかわいいもの、男の子はかっこいいもの。僕はそれが小さな頃から理由は自分でもわからないけど嫌いだった。反発心だけで敢えてピンクのノートを買ったこともあった。

表面的に男女平等と謳っても、『そうあるべきだ』『そうあるはずだ』という通念的な圧力は幼少期から常に存在し、その中で枠のイメージが刷り込まれていく。(そこに合致しない人間は無意識のうちに集団から弾かれたり心を削ったりするわけだけど、それは話がずれるので置いておく。)

 

ではその刷り込まれたイメージを土台にして出来ている価値観上の表面的な性格は、男女のレッテルの貼り合いの際に考慮されているのだろうか。恐らく考慮されていない。そこに無意識のうちに苦しみながら合わせている人が居るのに、無視されている。それを考慮しないで『女はこうだ』『男はこうだ』という話を続けていくのは、結局同じ枠づくりを繰り返す土壌を整え、差別の種を植えているだけだと思う。遊び半分で言っている人も、回り回って子供の心を踏み躙ることになるかも知れないということを考えて欲しい。枠の大半は社会が生み出す虚像でしょう。その虚像の為に人が傷ついていくのは馬鹿げた話だと思う。

 

男性脳・女性脳、女性的・男性的という性格的特徴を示す言葉があるが、個人の内面を指し示そうとしてこういう言葉が作られる事が本当に気に入らない。何かに囚われて本と末が転倒しないとこういう言葉にはならない筈だから。言葉は無意識に作用する分、重いものだ。

 

勿論文化が成り立つ上で、女と男は常に区別されてきた。区別はされてきたが、一つ一つの枠の許容範囲が広かった。地域差もあれば認識に色々な違いがあっただろう。枠に当てはまらない人もそれなりの生き方があった。そして何よりすべての伝搬速度は遅く、人は虚像から逃れることが出来た。

通念の虚像はより大きな集団で一本化され、凝り固まれば黒くて大きなモンスターになってしまう。国家形成、教育システム、情報社会は一方的なイメージの一本化をもたらした。インターネットは多様性の光を含んでいたが、利用する人間が大きく変わることは出来ていない。そこに現れ巨大化したソーシャルネットワークは人々の承認欲求を餌に、そのモンスター形成のプロセスに一層拍車をかけた。そんな感じに見える。

文化的に区別されてきた歴史があっても、そもそも現代にあっては取り巻く状況が恐ろしい速度で加速しながら変わっていくのだから、『区別』という行為の在り方も常に見直さなければならないと思う。

 

フェミニズムについては結局はまた別の枠を作る行為だ。思想である『ism』ができれば感化された『ist』が現れ、その中の多数派が虚像を暴力的なモンスターに変えていく。ここまでくると怪獣大戦争みたいでワクワクしちゃうけど、実際は心を痛める人が居るので笑える話ではない。繰り返し、繰り返す。そのスピードは加速し、傷つく人の数も増えていく。

 

 

ひとりひとりの違いを認識し、その中で自分に気づき、その多様性を真に認めることが、黒い靄に覆われたモンスターを可視化する上で欠かせないことだと思う。男女の違いの上にそれぞれ居座っている同質性から生まれたモンスター達は個性が放つ多様性の光の前には無力だ。

女・男という枠の外に散在する『個性』という宝石は、男女の傾向なんていう小さな違いよりもよほど大きく、虚像を溶かす輝きを放つものなのだから。そしてその『個性』を真に認めた時、尊重する為に前提として区別した『身体的特徴』『生理的特徴』という壁さえも無意味なものに見えてくるものだろう。心から認め合えば、尊重という枠の下書きも自然と必要なくなってくる。

 

 

本当は、LGBTの上に立つモンスターばかり見ていないで、ひとりひとりの心の色や輝きを見て、ひとりひとりが築く繋がりを尊重するべきだということを書こうと思ってました。でも先ずはウルトラマンに出てくる温和な怪獣、『ピグモン*』のようなLGBTの上に居るモンスターよりも、凶暴な『ガラモン』のような男女の上に居るモンスターについて整理しなきゃいけないなぁと思いました。

自分たちにガラモンがいるからピグモンがガラモンに見えるのだと。気づいたらピグモンに入る前に長文になってしまった。

 

でも結局LGBTも同じことだと思います。性関係は人と人の中で生まれる自然な関係であって、性別が違う中の関係でもいろんな問題は起きます。それを無視し、ひとりひとりの違いやその間にある人と人の関係までも無視し、ただ性別の違いだけ見てヘテロセクシャルだけが社会的、倫理的に正しいという認識を振りかざすのはおかしいと思う。LGBTの権利に反対する人が主張する、「彼らを認めることで社会にもたらされる悪影響」は枠の中で、しかも短絡的に見た場合の悪影響でしかない。そして結局それを認めないことによる悪影響で自分たちの首を絞めているように見えます。

 

LGBTの人たちは『自分』をしっかり認識している分、他人に対して本当の意味で優しい人が多い。少なくとも僕が話したことある人たちは、本当にピグモンみたいな人が多い。サポーターにガラモンがくっついてる時もあるとは感じるけど。

 

ひとりひとり、すべての人から枠の虚像がなくなれば、LGBTもヘテロも消滅し、ただ単に在るべき人と在るべき人の自然な関係となるのではないでしょうか。すべて同じ、シンプルな問題だと思う。

 

いつもながらユートピア思考なのは分かるけど、それ以外に根本的な解決法は僕には見えないのです。

 

 

* "映画『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』に登場するピグモンはガラモンとの見分け方について、「複数いるのがガラモン、1人でいるのがピグモン」と教えている。" wikipedia [ピグモン] よ

これはさっき調べて知ったのだけど、面白い設定だなぁと思う。ピグモンとガラモンはまたどこかで使えそう。ガラモンばかりの世の中でピグモンとして生きたい。(非業の死を遂げそう)

『僕がテレビ番組が苦手な理由』を掘り下げた理由

昨日は『僕がテレビ番組が苦手な理由』という事を掘り下げてみました。嫌なら見なければいいのに、何故それを掘り下げたのか書いてみます。

 

海外でこういった辺境暮らしをしていると、テレビ番組の制作担当者から取材依頼が来ます。テレビが嫌いな僕はいつもそれとなく理由をつけて断っていました。

でも今回は少し違っていました。先ず、前提として僕の中にあったものを掘り下げてみます。

僕が住んでいる村も少し危機的な状況にあることもあって、彼らを励ますことにも繋がるかなぁという漠然とした思いと、渡航中止勧告が出ているエリアだしどうせ延期になるだろうという考えがありました。

そして小学校時代唯一恩師と呼べる存在の先生が、以前お会いした時に僕が海外に住んでいることを伝えると、海外の日本人を紹介する番組が好きだと言っていたのです。

 

そして今回依頼してきた担当者さんはとても熱心で、伝えるまでもなくご自分で図書館に行って調べて来られて、僕との通話でのやり取りも合計で数時間になっています。そして彼なりのイメージ、番組制作への想いがとても伝わってきました。そして喋る雰囲気が落ち着いていて、上から目線でもなく、わざとらしく下からでもなく、誠実な人だなと感じてしまったのです。今まで連絡を取ってきた他の番組の人たちが総じて酷かったから余計に心を許してしまったのかもしれない。

 

結局断りづらくなってしまい、なあなあにしている内に決まってしまいました。断れなかった。自分の中では前述の3つの理由も意思決定に作用したと思いたいのだけど、結局のところただ断りづらくて断れなかっただけかもしれない。

 

テレビ嫌いの僕が、しかもその番組を一度も見たことがないのに決まってしまった。一時帰国の時に制作チームさんとお話をしに行きました。「うちの番組ご覧になったことありますか?」と聞かれ、堂々と「見たことないです」と言ってしまったのに少し動揺された(嘘はつけないでしょう)。ディレクターさんは「そうなんですね。~曜日の~時に放送してますので、ぜひ見てみてください」と僕に言いました。

でも結局日本に2か月いた間、その番組を見ることはなかった。見ると後悔するような気がした。いや、絶対しただろう。

 

僕にとっては自分の価値観の合わないテレビ番組というものに出るのは『客寄せパンダ』や『晒し者』になるのと同義なのです。この歳になったので恥ずかしいという感情は寧ろ少ないのだけれど、曲解された自分が面白おかしく伝えられるのだろうなぁと思うと今から憂鬱で仕方がない。

延期になればいいなぁと思っていたものの、担当者さんの熱意もあり、企画が通ってしまった。

仕方がないので腹を括って、連絡を取ってきた担当者さんを信じてみようと思っていたところ、複数の制作会社のチームがそれぞれ作っている番組という事で、「制作会議の結果別チームが担当になってしまいました。」とのこと…。今まで出演依頼を撥ね退け続けてきた僕の心が動いたのはあなたの熱意があったからなのに…。

運命とはいったい何なのか。

 

ともあれ、価値観の合わないテレビ番組に出ることになってしまったのは、その制作者さんの一人に心を開いてしまったから。その人の心、熱意は僕の価値観に合っていたという事なのでしょう。我ながら出ることになってしまったことに関する僕の中での理由に自分がない。でもそれもきっと、自分の心はそこを見ているという事なんだろうと思います。そうであればきっと主体性はある。となれば自分の選択と言い換えることも…できるのかな?

以前ならそういうことでいちいち落ち込んでいたけど、今は大分、自分自身も、選択も、成り行きや流れも受け入れられるようになってきた。それは大きいと思います。

 

この一回と自分に言い聞かせ、ピエロになるしかないのだろう。どのみちカメラの前で自分でいることなどできないだろうし、それなら変なキャラを演じて困らせてやろうかなとまで思っていたり。本当にそんなことするかは別として、そう思える余裕は大事にしていきたいなと思うのでした。