感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

『民族』『マイノリティ』『個性』と違いの認識 アイデンティティと同調圧力

昨日今日は伝統祭。複数の民族がお祝いをしています。

 

州都の祝祭拠点では故郷地区ごとに伝統家屋が用意されていて、そこで同郷の人、そうじゃない同じ民族の人、別の民族の人も垣根なく集まり、飲みまくる。宗教上飲めない人や豚肉を食べれない人に配慮した料理も用意される。

美人コンテストのクライマックスも今夜。凄い人出だった。

 

適切な郷土、民族アイデンティティは上位で同じ社会集団を構成する別民族集団との適切な関係を構築するのに必要といういい例だと思う。

自分たちのアイデンティティの理解がなければ相手集団に別のアイデンティティがあることを意識することもできない。その『互いの違いの認識なしに互いを尊重し合うことは不可能である』と思う。この地区は他民族の尊重という面でとても上手くやっている。

(国という概念が出来た以上、国籍による民族差別は存在する。でもそれは国という概念がこの形で存在する以上避けられないだろう。例えそれが宗主国が引いた線引きによるものでも、国というものはやはり最上位のアイデンティティとなるし、政権にとってナショナリズムは武器でもある。)

 

アイデンティティや民族(集団)の在り方は、勿論、その集団として目指すものによっても変わってくるだろう。幸福度の高いと言われるブータンのように、排斥・弾圧の上に成り立つ幸福な文化もある。日本に僕が感じる閉塞感はこれに近い。同質思考の閉塞感。裏を返せば、適応できる人にとっては幸福なのだろう。

それらの社会の在り方は、正しいと思う人からすれば正しいし、正しくないと思う人にとっては正しくない。それぞれの考え方は『自己のアイデンティティ』に根差す個人の領域だと思う。しかしそうならないことが多い。

 

『互いの違いの認識なしに互いを尊重し合うことは不可能である』

集団としての考え方を強要してくる人たち程、個々の違いを理解していないし、理解しようともしていない。違いがあることを認識していない人も多い。それは同質性の中に浸かり、そこに馴染み過ぎた結果なのではないかと思うことがある。個人としてのアイデンティティをすっ飛ばして、『社会の中での我々』という観念が強く感じられる。

そういった人たちは『自分が社会を構成している』というよりも、『自分は社会に帰属しているし、あなたもそうでしょ』という同調圧力を常に放ってくる。

 「一体いつから同じ集団に帰属していると錯覚していた?」と言いたくなってしまう。

冗談は抜きにして、その同調圧力は無意識のうちに人を傷つける暴力だという事を見ながら、感じながら生きてきたので本当に許容できない。無意識な分たちが悪い。

 

 気質の違いによるデザインされた社会によって起きることだと認めてしまうのは簡単。でもそれでは良くできないと思う。

民族は民族としてアイデンティティを主張することでその民族が在ることを権利として確立している。マイノリティがマイノリティとしてアイデンティティを主張するのも違いを主張し、権利を守るためだ。

それらは上位の社会集団からは異質化という社会悪として叩かれることになる。社会を同質集団システムとして捉えれば当然でもあると思う。小さな民族集団の独立戦争と似ている。

 

違いを主張する為には、先ず認識される必要がある。であるならば、個人が個人としてのアイデンティティ、『個性』を主張することも必要なのかなとも思う。しかし、民族やマイノリティは集団としてのまとまったアイデンティティとなるから、もの凄い圧力の中闘うことが出来る。そしてマイノリティはある意味で、マイノリティという小さな集団を利用することで、共通の個性を守っている側面もあるだろう。

 

『個性』の主張は孤独な闘いだ。その闘いは生まれた時既に運命づけられている。

個性が染まることを拒否すれば、成長の過程で集団によって歪められてしまう。多数派が縋る集団としてのアイデンティティは僕個人としてのアイデンティティとは共存し得ない部分があるからだ。『浸食される』というイメージが分かりやすいと思う。染められる、変えられる嫌悪感の前には浸食される恐怖があった。

そしてその同調圧力は僕のような人間にとっては自覚症状の伴わない苦痛であり、それが続けばストレス反応として現れ、次第に無意識のうちに集団を拒絶するようになる。それも生得的な性質から後天的な結果に至るプロセスのデザインなのかもしれない。

 

同調圧力の主要な犠牲者である子供は、一人で主張して闘うことは出来ない。それを守ろうとなった場合、やはりその経験を持つ大人が支援するしかない。しかしその大人たちは、自分も含めバラバラなまま傷を背負いながら生きている。

もし社会の中で子供たちの個性を守ろうとするならば、一度現象を整理し、先ずは傷を背負った大人たちが自らの共通性を見出し、マイノリティとして団結するべきなのかもしれない。

無意識の相手に認知されるようになること。それは言い換えれば社会における自治権を要求する戦いであると思う。ばらばらにローンウルフ型テロリスト的な主張を繰り返してもダメ。各個撃破されぬよう、燃え尽きぬよう、潰されぬよう、ある程度のまとまりを以って戦略的にムーブメントを起こす必要があるだろう。『気質』の問題も人々に広がり、機は熟しつつあると思うのだけど。

それができる性質の人間ではないのだけど、やらないといけない気がする。問題はこちら側は負傷兵ばかりで士気も低いことだろうか。仕方ないことだけど。

 

 

小学生Youtuberに僕が乗らない方がいいと判断したのは、彼は自分の存在の特別さを主張する強さ、後ろ盾があるように見えたから。真っ当な主張だし、彼には頑張って欲しい。

でも、あれに乗ると確実に間違った印象を与えることになる。そう思った。

強い子はまだ問題は少ない。それよりも、先ずは自分が違うという事に気づけず、合わせることができない自分を気づかぬうちに責めて傷ついていく子をどう認知させるかが重要だと思う。焦点がずれると表面しか見えない人達には正しく認識してもらえなくなる。そう思った。捉え方の違いを認識し、相手を分析しないといけない。

 

 

以上、連想ゲームのコーナーでした。

民族のお祭りの話からよくもまぁ…。疲れてるのかな…。

美人コンテスト、どこの地区出身者が優勝したのかなぁ。