感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

印象

僕は印象を前面に押し出すものほど信用できません。どうしてこんなに嫌悪感があるのかについて考えてみようと思います。

 

印象とはそもそも何だろう。第一印象、印象操作、第一印象、印象派、良い印象・悪い印象。

Impressionに近いが、日本語では感想は含まない。より浅く、儚いものに感じる。見る度に違う印象を受けるという言葉があるように、「その時の見え方、感じ方」とか、そんな感じかな。イメージ的な何か。

僕のブログ名の『感じたこと』というのは何かから受けた印象と言い換えられるかもしれない。でもそれだと受動的な感じがするので、なんだか合わない。やはり印象は受けるものであって、Feelingとはちょっと違う。双方無意識のものであっても、僕の感覚ではFeelingには掘り起こせる根拠があるのに対し、印象はやはり捉えづらく、儚く、頼りなく、信用できないもの。

『感じを受ける』は印象により近いかもしれない。これはやはり『感じる』とは違う。

印象というものは色々なものに左右される。個人の中でも揺らぐものだ。

 

ではその印象になぜ嫌悪感があるのだろう。恐らく理由は複数ある。

先ずすぐ思い浮かんだのは、『印象というものは当てにならない』という事。『感じる』というのは後々理由が分かり、自分の感覚として感じているので間違えが少ない。そもそも自分の感覚が第一なら間違えるものではない。

それに対して『印象』というものはより表面的で、見誤りやすいと思う。

 

『好印象』という言葉がある。これが信用できないのは、『印象』は相手の発するものを受ける為だろう。相手が意図的に着けた仮面も含む、表面的なもの。この段階で洞察は働いていないし、それに十分な情報も集まっていない。その条件を満たすと『良いと思う』になる。

 

信用できないのは相手だけではない。例えば第一印象が静かな人。そういう人は弱弱しいという印象を人に与えることがある。『印象』を無視して『感じる』に留めておけば、ただ静かな人だと感じるだけ。

それは恐らく、受ける印象というのは世間的な見方というか、何か外側からのバイアスも既にかかっているものだからだと思う。『受ける』印象というのは、受ける側の無意識的な『見え方』が反映されている。その見え方は既にフィルターがかかっているので、情報を認識した段階で既に屈折している。フィルターとして作用するのは多くの場合ステレオタイプ的なバイアスだと思う。そしてそれは集団の中で過ごすうちに体得するイメージ的なものや、より内面の心理的なものが多い。前者は大抵の場合(僕に言わせれば)事実無根のもので、後者も利用される場合が多いので、自分の中で整理せずにこれを信用すると、物事や人を見誤ることが多いように思う。常識というのも多くの人にとって好・悪印象のバイアスを生む源だろう。それは前者だと思う。

 

印象は表面的で、色々なバイアスがかかったもの。

 

 

印象は一度受け、無意識に定着すると、その幻影は抱いた人を惑わし続けるものでもあると思う。その印象を払しょくするには、同じ対象から新たな別の印象を受けるか、それとも主体的に自分の目で見て感じるか、基本的にこの2つしかないと思う。

 

印象は引きずるもの。

 

 

プラスの印象は興味となり、知ることの原動力となり、その時点で印象の域を脱することが多い。

気を付けなければならないのは、マイナスの印象はそれ以上知ることに繋がらず、無意識に偏見・レッテルとしてその人の思考に根付くことが多い。その負の印象が関連したことを考えた時に考えや感情を引きずることがあり、それ自身がマイナスの偏見を更に固定する根拠になる。

 

印象は偏見に繋がるもの。

 

 

世の中の所謂『賢い人達』は印象の力を知っている。印象は彼らにとって武器だ。

相手の懐に入り込んだり、その人に何かを信じ込ませたり、表面的に満足させたりする為にこの印象を利用する。人、商品、テレビ、情報、なんでもそうだと思う。

印象を盲目的に信じれば彼らの思う壺になる。そしてそれは大概回り回って良い結果にならない。と思う。

 

彼らが印象を操作する方法は様々だ。自信があるような『語気』で信じ込ませたり、微妙な『言葉のニュアンスの違い』で騙したり、装飾や表情で好印象を与えたり、テレビのように『表面的な感情を誘導』することで捉え方を歪ませたり。

 

『常識的に振舞うこと』も見方によっては自衛的な意味での印象操作だと思う。常識を装っているのだから。

印象を操作することは、欺くにしろ取り入るにしろ、社会性の中で学習して体得するものだと思う。ある意味で、印象を操作するのは自然なことでもある。

 

印象は常に操作されているもの。

 

 

人はそれぞれ物の見え方、捉え方が違う。ただそこにはパターンが存在している。僕の場合、多数派の人たちと物を見た時の感じ方が違ったりしたので、印象という面においても同じだった。

 

小学校や中学校の道徳の授業で、平和学習として『平和アニメ』を見せられたり、戦争経験者の話を聞く時間なんかがあった。そこで戦争というものに対する印象を植え付けるわけだけれども、僕はどうしても彼らと同じように感じることは出来なかった。

 

平和アニメは非現実的で、偏っていて、感情を煽ってくる印象を受けた。

今思うと、ストーリーが良くても恐らく映像化する段階でいろんな意図や想いが組み込まれるんだと思う。すべてが同じ感覚、悲壮感で構成されていて、それが非現実的な印象に繋がっていた。そんな世界は1人の人の心の中でしかあり得ない。

作品が『悲しい』とか『痛ましい』という印象を与えることが出来ても、それは内側からのものではなく、所詮外側から与えるものだ。それが受け手の内側の感情に結び付くかどうかは、受け手の経験や見え方・捉え方とどう関係するかによると思う。僕には結びつかなかった。結びつかないだけならまだ良かったが、その非現実的な滑稽さがコメディと結びついてしまい、笑ってしまったが為に批判の的となった。同調圧力が正義の旗印の下、鬼の首を獲る理由を得た瞬間である。教師は自分の生徒たちが『間違いを犯した』生徒を裁くのを喜びながら見ていた。

 

受ける印象は受け手によって異なるもの。パターンはあるけど。

 

 

そして戦争を経験した祖父は、「戦争はやるなら負けちゃだめだ」と言っていた。

学校の平和教育の一環だった戦争経験者の話も、彼らの視点の体験の話だった。それは尊重すべきものなのに、戦争を見ていない教師がそれでは足らぬと言わんばかりに補足を入れるのが気に入らなかった。

子供は単純なもので、小さな僕が戦争に抱いた印象は、率直に「負けると悲惨」だった。

道徳の授業はすでに目標が設定されているのだろうか。こういったズレた感想は粛清の対象だった。「自分の『感じたこと、思ったこと』は外に出してはいけないものだ」ということを学ぶいい機会だった。そして感想なんて書かせなきゃいいのにって思った。

僕の視点からすれば、常識として振りかざされる『印象』というものは、こうして出来上がるんだという経験であった。自信を失いながら、気持ち悪いなぁと思った。

 

印象は植え付けられるもの。

 

 

僕は「平和平和」と宗教的に、表面的な平和の印象だけを妄信する姿勢は平和につながらないと思っている。何事もそうだけど、すべての人が『印象』に惑わされず、自ら『感じ』『思い』『考え』なければ第一歩にもならない。と思う。

 

なので

(僕の視点では)印象は世間に蔓延する害悪の根源の一つ。

 

 

印象というのは印象派の描く絵のように、その人の儚い主観。その儚い主観を素直に信じることが出来ないこの世界は、なんだか悲しいなぁと感じるのでした。

 

いつものように主観全開なので悪しからず。