感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

生活としての食 自然な欲求と悦び

食に限らず、根源的な欲求はどれも健康的・幸せに過ごすために重要だと思います。

ジャングルに囲まれた村で自給自足の暮らしをしていて、一番に感じるのは肉体的にも精神的にもコンディションが良いことです。もちろん個人差はあるでしょうが、僕の経験という事で。

 

先ず、村に居るとほぼ野菜(野草)、果物、魚、エビ、貝類、たまにシカ、そのくらいしか食べません。こちらは調理法にレパートリーがないので、料理に飽きることがありますが、素材としてはこれで十分だと感じます。すべて数種類ずつありますし、栄養素が足りなくなることはないと感じています。

当然のことながらどれも新鮮ですし、意識するまでもなくオーガニックです。生活習慣病など恐らくなかったであろう我々の祖先たちも、同じく限られた素材を活用して生きてきたはずなので、問題はない筈。

 

素材は同じものばかり食べていれば、自然と他のものを食べたいと体が欲するので、気づけばローテーションになっています。

自然な欲求というものは満たされた時の幸福感が違います。例えば同じ野菜やエビを数日間にわたって食べ続け、『飽き』を感じ、魚が食べたいなぁと思います。そういう時は魚を獲りに行く過程で既に食べたい!という思いに駆られていて、魚が獲れた時の喜び、調理している時に感じるウキウキ、そして食べた瞬間の幸福感、食べ終わった時の満足感。それらはすべて繋がっていて、形容しがたい本能的な悦びです。

そんな魚も数日魚ばかり食べていれば飽きてしまい、やっぱり違う種類のものが食べたくなる。意識せずとも、そういう風に不規則でありながら自然なローテーションになります。人体はよくできているなぁと思います。

『食』というと『食生活』というように、生活の中に食があるとイメージしてしまいますが、僕は『生活というものの根底にあるのは食である』と思います。ヒトも動物も、前後関係(漁・その準備・調理・おすそ分け・食休み)を含めた食を基軸に生活が作られていると僕は思っています。

 

自然の中での、特に狩猟・採集・漁といった人間の根源的な食糧調達行為には、心を癒す効果があると思うのです。人類や生物の歴史から言い換えれば、お金と加工された食品を交換する現代の方がイレギュラーであり不自然なのかもしれません。仕事が基軸になっているから食も疎かになります。仕事は食の前提になりはしても、(農業や漁業でなければ)それを身体が感じることは出来ません。

 

シカを見つけた時や魚が掛かった時の緊張感、それを仕留めた時の報酬的な快楽。それはやはり男達(だけでないけど)を虜にします。報酬快楽、射幸心と言うとパチンコや競馬などのギャンブルが思い浮かびます。両方やったことないのですが、多分同じものを感じています。20代前半の時に釣りを一緒にやっていたパチンコ好きな友達も、「パチンコと同じものを感じられて魚が獲れるから健全だ。」と言ってました。根源的な欲求に入り込んだギャンブルは凄いですね。

 

我々の行動は脳内物質に支配されています。それに素直に従うのが動物です。どんなに高尚な理由をつけても、単純に説明するなら、僕が『釣りをしたいなぁ』と思うのは、魚が掛かって釣りあげた時の快楽を味わいたいからです。「この辺で当たる気がする」と思っている時に魚が掛かった時の脳内の状態は説明が難しいほどの興奮状態です。針が外れ、バレてしまった時の落胆は大きいですが、その落胆は次に釣り上げた時の快楽を底上げします。十分釣れるとその快楽は弱まり、満足感に変わってお家に帰り、まったり休んで過ごすのです。その安息も興奮の後だからこその安息。そしてさっきのご飯に繋がります。

これらの一つ一つはそれぞれ別の脳内物質で説明がつきます。(でも間違えるといけないので名称は書きません。)

 

脳内物質がどうこうというのはまぁどうでもよくて、動物的な自然な環境の中においては、本能的な欲求と報酬に従うことはとても健全なことだと思います。寧ろそれは人間の心・肉体双方の健康に欠かせないものだと思うのです。

魚や動物でなくても、キノコ狩りや栗拾い、山菜取り、それらも似たようなものです。たくさん生える美味しいキノコや山菜を見つけた時、それらを収穫している時、持ち帰り、調理する時。食べる時。

果物を木に登って採るのが危険なのは当たり前ですが、その危険な過程があるからこそより美味しく食べられるし、また登るのです。採る時に危険で大変な思いをすれば自分で食べた時により美味しいし、誰かにあげた時により満たされるものです。

 

もう一つ付け加えたいのは、これらが沢山獲れた時のおすそ分け。これにも根源的な欲求が満たされる感覚があります。採ってきたものをあげるだけですが、心が温かくなります。物があふれる現代では嫌がられることがありますが、人間の本来である部族社会を思えば健全なもののはずです。それは分担と助け合いで成り立っています。貰えば嬉しいし、あげれば満たされる。単純なもの。

シカの解体や魚の処理を手伝い、分け前をもらうというのも、同じく食に関する助け合いですね。大量に採れたから共同で調理し、村の中で振舞い、一緒に食べるというのも食の共同作業です。これらはすべて村の生活の中では当たり前の共同作業です。みんなが食に関わります。

これらが売り物になってしまうと、お金という腐らないものに変わるので、食に関する文化は蔑ろにされていきます。それが村に見える最近の傾向です。

 

僕は果物や野菜を育てていて、そちらにも喜びは感じるのですが、これはベクトルが違うものです。見つける、狩るという段階の射幸性がありません。(収穫を予感しながら育て、)収穫し、食べる、おすそ分けする。後半部分は同じです。育てるという前半部分で僕が感じるものは達成感と愛着です。それもとても大事なものに感じますが、根源的なものとはちょっと違う感じがします。

いずれにしても、これらは両方とも現代社会において忘れがちな感覚ではないでしょうか。

 

これらの感覚は、仕事をして対価としてお金という物をもらい、そのお金という物と食べ物を交換するという不思議な間接的生活の中では見失ってしまうものです。それは生活に身を置く本人が見失うというよりも、本能の部分で既に迷子になってしまうのではないでしょうか。

僕の場合ですが、お金をもらっても興奮は得られませんし、食べ物を買ってもやっぱりそこまで嬉しくありません。別のルートで報酬に繋げているせいか、何か歪んでいる。そんな感じがします。本能的な幸福はより直接的なものなのです。そしてそれは心身の健康にとってとても重要だと僕は思います。

 

 

複数回にわたって心も体も自律神経も壊したことがある僕がここまで健康的に過ごしているのは、自分でいうのもあれですが、とても説得力があると思います。自分の中では筋が通っています。

10代や20代前半の頃より、今の方が心も体も元気です。

 

現在は街と村を行ったり来たりしているので、街に居るとストレスを感じ、アトピーも再発します。原因が腸と言われるだけあって街だと便の質も悪いです。それが村に戻るとまた元気になります。

原因はわかりません。村に居ればいるほど化学物質に触れることがないので、街の化学物質には過敏になります。買ってくる食材、飲料用の水道水、大気、全てに色んなものが混ざっています。それが原因かもしれませんし、先に書いた欲求に関するストレスが原因かもしれませんし、恐らく両方でしょう。

でもやっぱり、まず考えるべきは僕は前者だと思います。本能的な感覚との付き合い方が整えば、後者は自然と身体が避けるようになります。都市生活で避けきれるかは別の話ですが。

 

 

では現代社会の中で『食』に関する根源的で衝動的な欲求を捉え、満たすにはどうしたらいいのか。それは僕には分かりません。それだけ自然から見れば不自然な生活です。

ただやはり、『自分の中にある命と、取り入れる対象の命をどこまで本能が感じられるか』というのが一つの鍵になってくると思います。形を変えてしまった加工食品はその点で少し不利です。頭では元の姿がわかっていても、血肉の匂いもしないのですから

 

日本には素材を大切にする素晴らしい食文化があり、素材の鮮度を生かす技術もあります。それはこの食材を大切にする概念があまりない国にいる僕にとって、とても羨ましいことです。忙しい街の生活になると、食事は栄養補給、下手をすれば腹を満たせばそれでよくなってしまいます。

ただ、本能を満たすという事を考えるのであれば、栄養ばかり考えるのもあまり良くないのかなぁと僕は思います。それは、『食欲を腹の減る減らないで考え、快楽物質が出やすい食べ物を食べて満たす』という短絡的な方法ではなく、楽しむことに重点を置き、自然な欲求と悦びのリズムを取り戻すのが良いのではないかと思います。

ジャンクフードや加工食品は身体に悪い点ばかり取り上げられますが、むしろそういった感覚を鈍らせるところに害が強いような気がしています。

たまに食べたくなれば僕もジャンクフードは食べますし、食の前後関係も含めて楽しんでいれば、しょっちゅう食べたくなることもありません。

 

欲求のリズムを取り戻すということであれば、やはり主体的に、楽しむことが主軸になるのが一番だと思います。人間として本来的な、自然な営みの中で入手できる食材を極力使い、食材調達や調理にこだわりを持って楽しむこと。日本の得意とする素材の味、旬の味を大切にすることでしょうか。それらを通して身体の本来持つ食べ物に対する勘を取り戻すこともできるのではないかと思うのです。都市生活では食が生活の主軸になることはとても難しいです。でももう少し意識してあげることは出来ると思います。食べることばかり考えてても、それは自然なことだと思うのです。

 

 

色々書いてしまいましたが、観念に囚われるのではなく、一人一人の生活、趣向の中から『自分の心・身体と欲求の関係』を見つめ直すこと、そこから繋がる『食』というものを意識してみることが肝要だと思います。

僕にできるのはただ一つ、僕という例からの考察を掲示することだけで、あとは皆さまひとりひとりそれぞれの世界ですから。

今回珍しく全文通して敬語なのは、多分外へのメッセージという意識があるんだと思います。それなりに一般的ではない経験をしてきたので、伝えることに意義を見出したのかもしれません。

 

ドリアン食べたいなぁ。