月に2回友人に現地語をzoomで教えるようになって8カ月。
昔日本語教師のコースを修了していることもあり、授業の組み立てなんかはあんまり難がなかった。簡単な講座なのでしっかりカリキュラムを組むことはしてないけど、ぼんやりとイメージは作ってる。
話を持ってきてくれたのも向こうからだった。あんまりこう、僕は人にものを教えるのは得意ではないので普段なら避けて通るのだけど、その人からの頼みだったので引き受けることにした。
引き受けたという体だけど、実際は色々と億劫になりがちな僕に機会を作ってくれたんだなという気がしていて、僕はそれが嬉しかったし蔑に出来ないと感じたから応えたような感じ。
出会ったのは13年前。僕はまだまだどん底から抜け出し切れていない時だったけど、当時はその友人のイベントの手伝いなんかをさせてもらったり、会に参加させてもらったりしたことで明かりを見ることができた。
20歳くらい上なのに僕のことを友人と言ってくれる人であり、母性的な包容力を持った人(自分ではそんなことないと言うだろうけど)。そして数少ない、僕の目を見て話してくれる人。
僕がこちらに移り住み、その人も日本で引っ越したこともあり、ここ10年くらいは疎遠だった。それでもこちらに来た際は連絡を頂いてお茶したりもしたのだけど。癌で、しかもそれが末期なことを知ったのはZoom講座が始まった後だったのだけど、以前会った時に大病をしたと聞いていたし、「やりたいことはやれる内にやっておきたい」という言葉の影で時折覗くどこかニヒルな作り笑顔からも何となく察してはいた。
だから、講座の話を持ってきていただいた時はその友人のやりたいことに関われるのだというのが嬉しかったし、単純にまたその人との時間が持てるのも嬉しかった。
何より、上手く言えないのだけど、その話をもらった時には色々な人たちとの縁の切り替わりを感じていて、切り替わり先の一つがその人だと思えたのもまた嬉しかったのだった。自分を生きていて深い優しさを持った人なのだけど、友人であり尊敬もしていて波長も合うから、そっちに行っていいんだなぁっていうよく分からない安心感。
先週末の講座ではその人の疲れがとても顔に出ていて心配だった。忙しかったからその間打たなかった抗がん剤を打ったそうで、それでしんどいのもあるらしい。その人はそれを軽い話のように言うから、僕もそれに合わせて心配し過ぎないように「あんまり無理し過ぎないで下さいね」っていう程度に返す。作り笑顔がばれているのかは分からないが。
(表面上は)生をあまり重く捉えない人だからというのもあるだろうし、病を重く捉えたくないというのもあるのだろう。
その人は今年はとても忙しそうだ。大変だろうなぁとも思うけど、でも日々が充実してるのだろうとも思う。それこそ、「やりたいことをやれる内にやっている」のだから。
でも、その多忙に身を投じる姿が、先週末のやつれた姿からは、見たくないものを見ないためのものなのかも、という風に見えてしまって、それからというもの僕は余計なことを考えてしまっている。
いつもなら「もう少しゆっくりして下さいね」なんて口から出そうにもなるけど、「やりたいことがやれる内」を意識しているような人にそんなことを言うのもある意味軽薄なのではないかとか、ゆっくりするように言うことも、考えなくてもいいことを考える時間を強いるようなことなのかもしれないとか。
そういうことを考えるのが余計なことと書いたのは、失言を恐れるとかそういう類のことではなくて、そんなことを僕が考えてしまっていては、真摯にその人と、そしてその人との時間と向き合えないのではないだろうか。ということ。
その講座にはもう一人参加者さんがいて、その方はこの友人と同じ病気で奥さんをなくしている方。この2人も何かしらの縁、繋がりがあってのことだと思うけど、友人が体調悪そうにしている時、この方が友人に対して投げかける軽い労りの言葉とは不釣り合いな寂しそうな目がいつも印象に残る。改めて不思議な場だと思う。
僕はやはりいつも感情を見ている。煮え切らず思考も感情もごちゃごちゃしているのも、先のことを思ってしまったからというよりは、友人の複雑な感情に触れてのことだろう。複雑だから、どれを見ていいのか分からなくなっている。
そもそもそんな他人の持ち物ではなく、自分の持ち物に責任を持ってその心配をすればいいだけのはずなのに。
友人からは一種の夢のような、やりたいことを聞いていた。それがこの言葉を学ぶ理由だとも。僕はその人の病気など端から無かったかのように、講座の時間を大切にして、その夢を応援したいと改めて思った。それがこの場を作ってくれた友人に応える真摯な態度だと思う。
やりたいことを応援したいけど、やれる内という期間が見えることで場に対する気持ちを濁したくない。
普段メメント・モリを意識したいと思っておきながら、他人のそれに対しては引っ張られたくないというのは我ながら自分勝手が過ぎる気もするけれど、意識するとやはり濁ってしまうから。
別れは必ず訪れるから、だから今を大切にできるのは分かるのだけど、それ抜きで大切には出来ないだろうか。
主観的な死は誰かの言うように概念の域を出ることができないとしても、客観的な死はやはり現象であり再現性のある反応であるというジレンマ。
他人の、死生観を土台にした感情に対しては自分の死生観を適応することはやはりできないのだろうな、ということを今日大切な人とメッセージをやり取りしてて思った。
それを乗り越えるには、人の死が重くなり過ぎているのかもしれない。その善し悪しは別として。その重さを無視しようとしてもやっぱりさっきのジレンマにぶつかってしまう。