何かちょっと転換点を通った気がした。
僕は今まで色んな捉え直しをほとんど狂気のレベルでやってきた。それは自分の内面を直視することに拘り、違和感を頼りに自分の中にある外側の理屈の言葉を自分だけの言葉に翻訳し、色んなものを観察、再定義し、その目で見える構造を深め、そういったことを繰り返してきた。それは自他を切り離すためだった。そうすることでしか僕は息ができないから。物事を自分の目で見たかったから。濁った目で見ることに耐えられないから。だから徹底的に自分の中にいる他者、言葉についた手垢をこそげ落としてきた。強迫的な潔癖症のように。地獄だったけど、そこでしか息ができなかった。
いつしか受容と統合という方向性も手に入れ、長い長い終わらない夜がやっとのことで終わり、明るい、新しい朝を感じた日々もあった。でもその捉え直しは終わらなかった。
いつだっただろうか。去年かな。孤独を自己欺瞞としてではなく、そのものとして受容するためには、それが自分にとってずっと当たり前だった平気なものとして感じるのは違うと思って、その孤独の中に身を置いてみた。直視して初めて見える、寒い、寂しい、その感覚の中に沈み込んだ。その感覚はどんどん深まっていった。その度に、やはり欺瞞だったと、苦しさの中に歓びを見ていた。
それから本当に数日後のことだった。ふと気づいたら誰もいない真っ新で真っ白な、本当にだだっ広い荒野に一人でぽつんと立っているイメージが浮かんで、骨の髄から凍るような、ものすごい寒さに襲われた。
今ではその寒さにも大分慣れたのだけど、でも寒い。その内的な景色は変わらないまま。
今ようやくわかってきたのだけど、僕が自分の中で切り離してきた他者の言葉、それは結局人々がコミュニケーションの中で無意識に共有しているものだ。それはヒトという群れる動物が帰属の安心に身を置くために、社会という繋がりの中で使う共通言語のようなもの。そして僕がしてきたのはそれを引き剥がして、切り離して、こそげ落として、自分の言葉に直すということ。それが自分の、自分だけの目で見る、知覚するためにはどうしても必要だった。何がそうさせたのか?見たかった。それだけ。ただ、そうしなければならなかった。
人々が見ているものに対する違和感。そこにかかるバイアスをこの目で見たかった。そのためには、流れから降りなければいけない。相対速度なんだよね。中にいる限り、一緒に流されている限り、自分たちがどれだけ流されているかはわからない。だから共有しているものを一つずつ切り離して、自分だけの速度にならなければならなかった。
そして気づいたら独りだった。
もともと独りみたいなもんだけど、今までとは質感が全く違う。でもここからしか見えないものが沢山ある。多分僕が無意識に追い求めてきたものはきっとこれだったのだと思った。そういう意味ではこれが僕にとっての個性化と言われるもののプロセスだったのかもしれない。
振り返れば道は一本。運命だのっていう人もいるけど、色んな可能性が淘汰され続けた結果としての現在。そう捉えるのが一番僕に合うかな。結果、ここに居る。
色々ある人生だった。結構特殊な方だと思う。ある意味で、何度か壊れてる。それで僕は過去に置いてきたものを探してた。そうしなければ、この一本の道が僕の視点では繋がらないから。
でも今思うのは、少なくとも、解離的な統合しきれない複数の自分の、多数の視点があってここに繋がってる。去年ぐらいまでは、それを受け入れきれていなかった。統合した自己というものが必要だと思い込んでいた。でもよくよく考えれば、人々にとっては当たり前のものでも、僕にとっては何も当たり前ではなかった。そういう意味で、幻を追いかけていた。
腑に落ちてみれば、一本に繋がっていない道も、まぁ一本なのだろうと思えるようになった。
そして結果、僕はこの荒野にいる。多分人々というものからとても離れたところ。殆どの人とは僕の見つめるものが共有できないという感覚からくる孤独、それが情景となった荒野だったのだろう。それに最近気づいた。その共有不能だという感覚が自分の中でそれだけクリアだから、だからまっさらで見通しがいい。誰も居ない。
人は言葉でコミュニケーションを取るけれど、言葉とは僕にとっては後付けのものだ。知覚したものを言葉の型枠に押し込んで、それを並び替えて、精査して、発して。そして全く違うシステムを持った他者の中で全く違うものが参照され、彼らの中で意味となる。このプロセスが伝わらなさの構造の一つ。
だから結局、誰かと分かり合えるとしたら、この孤独の寒さや、伝わらないことへの絶望なんかを知ってる人と、それについてなら共有的に分かり合えるのかなってところなんだと思う。
孤独を凝視して深く深く沈むほど、苦しみの中身を覗き込むほど、やはり僕というものの輪郭はより確かになる。僕は結局この孤独や苦しみと共に生きるしかないのだろう。もしそれを、欺瞞から目を逸らすことで無かったことにしようとしても、それはそれで自分の感覚を無視するという息苦しさに苛まれるしね。
僕にとっては生きるということは多分見ること。それは言い換えれば知覚すること。だからその純度を上げてきた。そのために色んなものを切り離し、削ぎ落としてきた。そうするとまた違って見えるから。その繰り返しのあと、結局見えたものは独りだってことだ。多分、ただそれだけのこと。逆に言えば、だからこそ、ここからの景色があるってことなのだろう。だからこそ、雲があんなにも美しい。それだけは確か。誰とも共有できない、僕だけの景色。何よりも大切なのはこっちなんだよね。そう思えば全てが腑に落ちる。ちゃんと一本なんだなって。
これ好き!