アルベール・カミュの本読みたいけど、ペスト以外電子書籍全然売ってないから色々調べてる。
本欲しいな。多分今の僕には、彼が不条理に何を見ていたのかはとても役立つ気がする。
このサイト良い。
https://kotento.com/2019/02/20/post-2528/
しかし、思考自体が思考の真偽を省察する時、循環論の渦巻きの眩暈(めまい)に吸い込まれて自己を失ってしまいます。
デカルト的懐疑や胡蝶の夢のように、自分の意識が現実(真)か夢(偽)かを問う時、自己言及的な決定不能の虚無の眩暈にとらわれます。
これ、慢性的な僕の状態。
この人は『夜』についても書いてるし、彼なりの実存を追求しながらも現象的なものの見方をする。多分僕の今の状態を克服した人の一人だと思う。
自分は確かに存在しているという確実さと、この自己の確実さを確信しようとしても確信しきれないことの間にある深い溝は、けっして埋められることはありません。
永久に、私は私自身にとって「異邦人」であり続けます。
「汝みずからを知れ」とは、自己を自己によって統合しようとする統一性(一者)への郷愁であるわけですが、人間にそれは許されず、故郷なき異邦人としてさまようべく運命付けられています。
本当に色々調べたし、試したんだけど、どれも言ってることは分かるのにいざ自分のこととなると上手くできない。それがこの溝の深さなんだと思う。
草のにおいや樹の幹の荒い肌触り、夕日の光をしみじみと感じる時、世界は否定しようがないほどその存在を主張します。
しかし、この世界の確実性を、その世界を私が本当に所有しているかの確実性を、確信しようとして自分と向き合った時、すべては不確実性と懐疑の波にさらわれていきます。
ほんとこれ。 この、感覚、実感の瞬間という僕にとってのこの世界のすべてと、そのすべてを飲み込みひっくり返す懐疑。
そんな人間が平和を得るためには、知ることと生きることを拒否するしかない状態に陥ります。
統一や帰郷への本能的な欲求を持ちながらも、絶対に破れない壁の前に跳ね返されます。
希望を持った瞬間、絶望が同時に出現するよう運命付けられ、人は無関心や諦めや心の麻酔による毒のこもった平和(ニーチェの批判する消極的ニヒリズム、宗教や観念論など)を求めるようになるのです。
僕も色んなものを自分の感覚を越えて信じようとしたけど、やっぱり上手くいかない。溝を飛び越えて彼岸に行く人を、この人は軽業師というけど、僕はそういう人たちって凄いなぁと憧れている面もある。僕はどうしても、いざ対岸に向かって飛んだ時にその先に何もないことを恐れてしまうから、その恐れを超えるレベルで何かを信じることができる人たちは凄いと思う。
https://kotento.com/2019/02/22/post-2535/
軽業師たちは、理性の虚しさの向こう側に理性を超えたなにものかの存在を措定しますが、不条理を明証的に見る者は、理性の虚しさの向こう側にも虚無しかないことを理解しています。
キルケゴールも軽業師と同様に、「信仰者は自らの敗北の中に勝利を見出す」などと言います。
本来、不条理はこの世の経験の果てにある行き止まりでしかないはずなのに、彼も不条理を彼岸への通行手形にしてしまいます。
厳密に言えば僕の場合は理性の虚しさの向こうに虚無しかないことを理解しているわけではない。ただ、理性に疲れていて、でもだからといって軽業師にもなりきれないだけ。それがなぜだかは分からない。
こちら側の世界には嫌気がさしていて、対岸の世界に憧れはあるけれど、やっぱり怖くて踏み出せない。対岸の世界が美しいことは感覚的に伝わってくる。でも僕は不器用だから、何故かそれが受け入れきれない。
実感を越えているものは掴めないし、それは上手く経験的な理解に落とし込めない。それをどう信じたら良いのだろう?
飛躍に先行する微妙な瞬間の中にある危険な状態、眩暈のするような境界の稜角に立ち身を支えることが、唯一誠実な生き方なのであり、他はごまかしに過ぎないのです。
ただ信じる力がないのだと思ってたのだけど、カミュはそれを肯定的に書いてくれてる。
https://kotento.com/2019/02/24/post-2579/
不条理の明察によって何かが解決するわけではなく、ただすべてが変容します。
ここで重要なことは、頑強であることです。
確実でないものはすべて斥け、自ら可知可能なものの中でのみ生き、そこに存在するものによって満足することです。
要は不条理から逃避せず、それを貫きその中で生きることです。
まぁここまで堅くならなくてもいいと思うけど、不条理を不条理として受け止め、それに反抗する姿勢で生きるというのはアリかもしれない。僕がそこまで頑強であるかはさておき…
スピリチュアル系だと経験が目的だったり、そこに学びがあったりするみたいだけど、そこに至るまでに色んな、僕には分かるようで分かりきれないもの(魂とか心とか波動とかハイヤーセルフとか前世とか)を挟むから、やっぱり難しいってなっちゃう。それを素直に受け容れられるならいいのだろうけど、どうもそれが難しい。
架け橋として生きるっていうのもいいんだけど、ちょっと抽象的すぎちゃう。
まぁどれもふんわり受け入れてその時の自分のモードによって使い分けられればそれでもいいと思う。あんまりガッチリやったらストレスで早死にしそうだし。
自分を意識的に生きるという意味ではどれも同じだから、上手く使っていきたい。
人間を超えたものへの橋にならなくてもいいし、自分が理解できる範囲の向こう側に行かなくてもいい。自分を偽って嫌なものの中に戻っていかなくてもいい。無理に何かの一部になったり、信仰に生きなくてもいい。ただその境界に立って、不条理を不条理と受け容れ、その中で抗い生きる。
この捉え方は、武器を失って内的な紛争でも首都陥落後のレジスタンス状態になってる理屈屋モードの僕にとって新しい武器になるだろう。上手くいけば全体的に新しい環境が出来るだろうし、もうちょっと深めてみたいと思う。
それとは逆に、不条理な人間は、自分の内部にある緊張感以外のものからは、すべてにおいて解放されてます。
意識への回帰によって、日常的な眠りから脱却し、精神と行動における自由を得ます。
自分の人生に対し、自分は異邦人となって人生を作っていき、恋人を見るような親密な目を捨て、鳥瞰的に人生を眺めること、それが解放の原理です。
自分の中の緊張感から自分を解放すること、インナーピースばかり考えてきたけど、確かに大枠ではその通りだと思う。僕にとって大切な自由って一つではなくて、多分この自由も含まれてると思う。さっきも書いたように常にこのモードを維持するのはきついだろうけど、こういう捉え方でとあるモードの僕の在り方も意識的に肯定できるのなら、試してみる価値は大いにあると思う。
ということで、不条理を取り入れようと思う。どう変わるだろう?