感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

理屈に乗せる感情のナイフ サンドバッグ 客観の純度

理屈

客観的事実、その正しさを以て他者を断じる、非難するという行為を常にする人が自らの客観の脆さを認識しないのは、正しさを振りかざす攻撃的な姿勢の反面守っているのは自己であり、寧ろそっちが言動の主たる目的だからではないだろうか。

自尊心だか自己顕示欲だか知らないけれど、それらのバランスは無意識の内に自動的に取られるものなのだろうが、それらも結局は防衛機能の現れなのかもしれない。

だからダブルスタンダードをも平気でやってのけるのかなって。

 

その人達にとって理屈は単なる武器であるから、その客観の脆さ、純度はあまり気にしないのだろう。反論を受ければ武器を持ち替えるだけ。相手をねじ伏せれば自己を守れるのだから、手数を揃える方が効率が良い。会話一つとっても目的が明確に異なるから、僕はとても疲れてしまう。僕が今までの人生で、こういった人への対処法として学んできたのは、とにかく肯定して時にはねじ伏せられることだった。一番楽だからね。

でもその対処法は、相手というものを断じる人間、自らを守るために常に優位に立とうとする人間に対して使うには諸刃の剣でもある。人間関係に対する考え方も違えば、意識下、無意識下における目的も違うのだから当然のことだ。

自らを守るために攻撃をする人間にとって、守る必要がないなら攻撃しなくてもいいという、守り一辺倒の人間であるこちらの行動原理から生まれる考えなどで測れるはずがない。

 

彼らの客観的事実という理屈をなぜ僕が『振りかざす』と感じるかと言えば、その言葉に感情が滲み出ているからだろうか。『その』客観的事実を彼が選んだのは僕からすれば彼の主観であって、それを選んだ動機がそれを話す動機とともに感情として乗っている。無味無臭である客観的事実が、血糊のついた黒光りするナイフのように突き立てられる。それは感情のなせる業である。無意識に乗せ、無意識に突き立てる。

そのナイフに深みはないけれど、ブスブスと何度も突き立てられればやはり痛いものだ。疲弊する。早く終わらないかと屈服の姿勢をとろうも、彼は更にマウントをとって突き刺し続ける。

でもその冷たいナイフの奥にいつも見えるのは、怯え、寂しさ、そういったものから自らを保とうという虚勢に似た何か。「俺は正しい」「俺は正しい」と僕に反射させて自らに言い聞かせているように見える。

そんな時僕は気づいてしまう。これ、僕じゃなくてもいいんだろうなぁって。

 

 

僕にとってこういう人はかなり多い。言葉に乗る感情を認識せずにブスブスと刺してくる。個人的にサンドバッグ化現象と呼んでいる。この種の人と会話すると僕はサンドバッグになってしまうから。相性もあるのだろう。

打ちのめされる。そう感じているのか。

 

もともと感情的だと認識している人よりも、自分は論理的だと思っている人の方がたちが悪い。僕はその人が客観的だという理屈に主観を見出してしまうから、理不尽を感じながらブスブス刺されることになる。二重苦。

あんまり刺されると砂が全部出て空っぽになっちゃう。本当にそんな風に感じることがある。

 

でもそれがその人達のコミュニケーションである以上仕方ないし、避ければいいんだけどね。でも選べない人間関係もあって、それが辛いなって思う。

 

そういう人たちをコピーして自らを見た時、仕方ないんだろうなぁという思いになる。

僕は自分の内側に穴を掘って、内的に主観を造形していく。それに意味があるか無いかは置いといて、僕はそういう人間だから。主観、それは僕にとって削り取り、形作り、複製し、混ぜ合わせ、投影し、その作業を通じて純度が高められていくもの。見習い錬金術師のように失敗ばかりしながら試行錯誤を続ける対象。

それはともすれば、擦り合わせ、排することでその主観と相反するようでしない客観というものを横目で見つめることでもある。多面鏡を通して主観と客観を見比べる。様々な感情を混ぜ合わせながら。

そういった作業がなぜかライフワークになってしまっている僕が他人の感情に過敏に反応してしまうのは仕方ないことだし、その人達に言葉に攻撃的な感情を込めるなと言う事も出来ない。主観の純度を高めなければ、客観に不純物が混ざってしまうのは仕方のないことなのだろうから。僕のような内側に籠る暇人と同じものを求めることは出来ないだろう。

 

お互いデザインとして持った役割に繋がるものの振れが違うんだろう。

その捉え方の欠点は、自らがサンドバッグになることを許容してしまう点にあるんだろうけど。

人間サンドバッグ(非物理)