引っ掛かりを文字にし、それを頼りに自分を探す作業をしている。
さっき書いた部分で一つ、大きな何かに気付いてしまった。まだ手に負えないかもしれない。
歪みの根本にあるもの。
以前書いた、拘束衣を着て泣いている子供の自分。
なぜそれが出てくるのかわからなかった。でも今、色々なものが繋がりかけている。
高校時代の出来事を隠れ蓑にしているモンスターがいる。
その恐ろしい目を見た気がした。
EMDRを受けた時も子供時代の記憶がところどころで邪魔してきた。でも向き合ってこなかった。
今度こそ対峙しないといけないかもしれない。
高校時代と違って生死にかかわることはなかった。でも子供の僕にとっては、家庭は自分の生死より大きかったのかもしれない。そう感じていた。それが全てだった。今思えばただの馬鹿なのだけど、自分とはいえ子供相手には責められない。
対峙する為には、今まで努力して認めようとしてきた自分を、また手放さなければならない。多分また自分が分からなくなる。また迷子になるのが怖い。手が震えている。
ここ最近、森が燃やされたヘイズで視界が悪い。中秋の名月も、ハーベストムーンも霞んでよく見えなかった。それなのに外は明るい。
月明り、そしてヘイズの中を乱反射する街の灯り。明るすぎて僕が紛れる暗闇がない。
不気味な、落ち着かない霞の中を2時間くらいぐるぐる歩いた。心の中も同じだった。
濃くなりつつある霞のように、また僕は自分が誰だかわからなくなる。でも向き合わないと、殺さないと再構築できない。
準備する時間があればいいのだけど、気づいてしまった。意識してしまった。
放っておくと不意にまた氷河が瓦解するかもしれない。それは避けたい。
コントロールの内に対峙したい。
でも記憶の氷山は崩れかけている。父親のサイコパスのような顔や母の泣いている顔が何度も頭に浮かんでくる。パンドラの箱に触れたかもしれない。
少し具体的に書いてみる。
さっき、前回のブログを書いている時。
いつも流れに任せて殴り書くのだけど、キーボードをたたいている時に手が止まった部分があった。何度か書き直した部分。普段それはあまりやらないから違和感が残った。
祖父母に愛されて育ってきたと書いた部分。母に愛されて育ってきたとは書けなかった。愛されていないといけないからそう書き直したけど、結局しっくりこなかった。だから「在るがままを認められて」と書き直した。
素直な僕の感じ方ではこうだった。
母は愛してくれていた。でも僕はそう捉えていなかった。歪んだ家庭での母子関係だったから、僕の認識では母を母親として捉えていなかったのかもしれない。だから僕は母の前では子供を装っても子供では在れなかったのだと思う。
お母さんと呼んだことがない。ママから呼び方が変わる頃、呼称を失ってしまった。
関係性の名称が嫌いだと書いたけど、どっちが本当の理由なのかはわからない。複合かも知れない。
危なそうなので記憶を辿るのはここまでにしておく。この判断ができるようになったのは成長だと思う。
母と僕の関係。鎖の元はそこに絡まってる気がする。でもそこを見直すのは、僕にとっては大きなタブーでもある。縋ってきた神に背くことに近い。共依存が嫌いなのは、自分の共依存を見て見ぬふりをしてきたからなのだろう。薄々わかってた。
今も昔もぎこちない。やっぱり親子関係ではないのかもしれない。感謝はしているのだけど、それを伝えることもできない。立場がおかしい。
本当の僕はどこに居るのだろう。どれが僕なのだろう。求めていた優しいお姉さんも僕だったの?
書いていて理解の前に涙が出てくる。感情の想起も入ってきてる。ちょっとやばいかもしれない。記憶に蹂躙されるのは懲り懲りなのに。
もうやめておく。
唯一相談できる、認めてくれる友達に、今回は頼ろうと思う。迷子になってもいいように。
大丈夫。今回は頼る薬はないけれど、経験はあるし今回は仲間もいる。空気も日本の空気ではない。勝てる。