感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

両親、親族の呼称(2人称)に僕が感じる違和感 関係の価値観 感覚

小さい頃、僕は両親を『ママ』『パパ』で呼んでいた。そう教えられたのだと思う。小学校中学年以降になると周りがお母さん、お父さんに移行する上、授業で使う教科書の呼称も『お母さん』『お父さん』だった。それに従い皆が呼称を移行し始める。

僕はと言うと迷っているうちにうまく移行できず、『ねぇ』『あのさー』と呼んでいるうちに母と言う人を指す呼称自体がなくなってしまった。この歳になっても『お母さん』と『息子』の関係に入れない。第三者に伝える時は難なく『母』なのだけど、対面で呼ぶときは『名前+さん』に落ち着いた。

 

何故移行しそびれたのか、自分の中では2つ説がある

1. "皆がそうしていることへの嫌悪感"

2. "『母親と息子』という固定された関係で捉えていると母に思われたくない"

(父親は色々と酷く、既に母とも離婚しているし、連絡も途絶しているのでここでは扱わないものとする)

 

この2つのどちらか、又は複合なのかなと思う。

この現象について日本語で調べてみると、一応ある事にはあるようだ。でも原因は分からない。

呼び方なんてどうでもいいじゃん派、個を尊重しあえていいじゃん派、そして多数派の「親を尊敬してないことの現れ、あり得ない」派。

僕個人の思いとして、尊敬してないわけでは決してない。その辺の型に囚われる親子関係よりもむしろ尊敬しているのではないかと思う。それは呼称では測れないものだし、言いがかりだろう。

そしてその延長で「昔はそんなことなかった。日本の未来が心配。」と言う人も多い。昔というのはいつのことなのか。そういう人の言う昔こそ当てにならないと思っている。近代史の中でそれが多くなったことはあるかもしれないが、それはどうせ昭和中期以降とか、そんなレベルなんじゃないかなと思う。(調べてない勝手な体感です)

 

母を『お母さん』と呼ぶのが恥ずかしいとかそういったものではない。恥ずかしいも感じるけど、それ以上に大きな違和感、気持ち悪さが奥にある。

僕は義理の兄弟(9人)が多いが、その中にも2人両親を絶対に『父』『母』と呼ばない人が居る。2/9なので割合的にはそんなもんかなぁと思う。村社会でも現れる現象だという事が分かる。

 

1つキーとなるかも知れないものを思い出した。

祖父母や叔父叔母に対しても2人称では同じことを感じるということ。そして、それが幾分マシな理由。

先ず、より近い母方の祖父母。祖父は『じいちゃん』、祖母は『ばぁば』と教えられ、そう呼んできた。しかし、『じいちゃん』に違和感があまりなく、『ばぁば』には強い。

 

祖父は亡くなってしまったが、僕はおじいちゃんっ子だった。それなのに『じいちゃん』に違和感があまりなかったのは、あまり『じいちゃん』という呼称を聞いてこなかったからかもしれない。その点においてじいちゃんと僕の関係は維持されている。

方や『ばぁば』は何かと聞くことが多い呼称だった。やはり『ばぁば』というとイメージに祖母本体ではなく、その『ばぁば』という呼称に関連したイメージが沢山出てきてしまう。それが気持ち悪いのかもしれない。

だから同じ理由で『おじいちゃん』『おばあちゃん』に移行することが出来なかったのかもしれない。

 

父方の祖父母は地名である~をつけて、『~のじいちゃん』『~のばぁば』と呼んでいた。それには違和感がなかった。今思えば対面だと変な呼び方だが、~のが付くことで

より固有名詞になっていたからかもしれない。

 

やはり、前述の1. 2.の、呼称を移行しそびれた2つの説の大元にはいつもの感覚に根差すものがあるのかもしれない。原因と考え得るのは

a. "個と個の関係を崩されるのが嫌"

b. "語の持つイメージによる対象のイメージの攪乱が嫌"

というところだろうか。ここまで持ってくれば後は性格・気質と結びつけられるので、僕としては救われた気分になる。ちょっとすっきりした。

 

ちなみに『~先生』も違和感を感じない。これも上の2つの原因説から考えれば要件はクリアしているからだろうか。『先生』とだけクラスメイトが言うと「誰のこと言ってるんだよ」と、明白なことに対し疑問を感じてしまったのも納得がいく。

 

 

何だか自分の中で解決しかけてしまっている気もするが、さっき調べたことがあるのでそれも書いていく。

 

海外でも文化圏によってそれぞれ価値観に特色があるようだ。両親の二人称、親族の二人称、教師の二人称、それぞれに特徴があるし、その幅がどの程度許されているのかも違いがあって面白い。

僕はいつも北欧に行きつくことが多いと以前にも書いたが、今回もそうだった。親を『ファーストネーム』又は『ニックネーム』で呼ぶことも一般的だそうだ。日本に似てきっちりしている(マージンが狭い)のはやはりドイツ(といっても地域差があるかもしれないが)だった。

 

これらは多分性格型の分布傾向にあるのではないかなぁと思ってる。内向型国家と称される北欧のフィンランドやスウェーデンと僕の価値観が一致することが多いのは当然と言えば当然だろう。感覚が近い人が多いのだから。

個の上に民族・地域社会、その上に国が成り立つのだから、その性格の分布傾向が国自体の在り方に反映されることも多い。凝り固まっていなければ変化も受け容れる。

 

アメリカは移民国家なのでこういう場合には中々読み取るのが難しいが、『地域差』が大きいこと、彼ら自身こういった話題では『~系』と『出身』を明確にすることがキーになるだろう。それで構成する性格分布なのか、構成する民族(民族は性格分布や地域差も含むが)なのかが見えてくるかもしれない。

 

イスラム圏は親は当然尊敬するものとされているので、呼称についてもあまり逸脱することが出来ない場合が多い。東南アジアはその限りではないが、こちらはこちらで民族社会として、血族社会としての価値観が強い。その場合一家の長としての親の立場、親子関係も明白な場合が多いと感じる。

そう考えると、2人称の呼称で受け容れられるマージンがより広いのは移民国家や個人主義の傾向が強い国なのだろう。ただ、その傾向が強まっていても社会の枠組みがより優先される国ではマージンは狭くなる傾向があるのかもしれない。

 

付け足しておくと、親の呼称に対する圧力(こう呼ぶべきだ、子は親を尊敬すべきだ)が強い場所では、子供が親に対して『反感』を持った時に、それを表現する為、『気を引くため』にファーストネームで呼ぶことが起きるようだ。そういう側面もあるのだろう。ただ、これも子供側が原因を理解せずにそう思っているだけの可能性もある。

 

「スウェーデン出身の教師が別の国で生徒にMr.+苗字で呼ばれることに苦痛を感じた」という話も面白かった。単純な関係性すら場所が変われば変わるものだ。

 

人の価値観は『網目状に様々な関係の傾向が絡まっている』と思っている。

僕が苗字で呼ばれることに文化の中で慣れてはいても、そこに少し違和感が残るのもそのためだろう。すべて解くのは難しいし、解いて傾向をまとめたところで僕の例でしかない。でも、それを紐解くことで一定割合で発生する同じ感覚の人が同じものを感じる理由が分かる。そこから外の世界と触れ合うのが好き。

 

 

だらだら書いただけなのでまた内容が飛び飛びかもしれませんが、単なる僕のノートなのでご容赦を。

『お父さん』『お母さん』をはじめとする2人称呼称問題、違和感がある方は自分なりの価値観の底にあるものを紐解いてみると面白いかもしれません。

そしてそういった部分で苦慮する子供がいたら、その子供を疑う前に、自分の、そして周りの価値観を疑ってみて欲しいとともに、呼称を押し付けるよりも、そういう子とは1対1の関係を重視してみて欲しいと思うのでした。