感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

知識と感情体験 センス・オブ・ワンダー

今夜の散歩の終わり、珍しく山側からの風が強く吹いていた。雨雲もないのに珍しいなと思ったが、心地の良い山の空気を運んできてくれる風を五感で感じていると、そんなことを考えるのはどうでもよくなった。とても心地の良い風の流れ、存在全体を包み込んでくれる感じが自然からのギフトのようだった。

 

蚊を気にしないふりをしながら、しばらくベンチに横になって月を眺めていた。薄雲に包まれ滲む上弦の半月。その時にふと思った。月が丸いという前提ができる前の人たちにとって、月はどう見えていたのだろう?月との距離が分かる前の人たちにとって、月はどのくらいの大きさの存在で、どのくらいの距離に感じていたのだろう?

 

でもその答えは自分の中にも既にある気がした。残念なのは思い出せないことだ。小さな頃、知識という前提がない頃に感じた月。繋がった記憶は一つだけだった。

車の後部座席の窓から見たオレンジ色の満月。その記憶の中の感情は恐怖だった。どこかへ行った帰りだろう。夜車に乗ることは珍しいことだった。広がる畑に浮かぶ家屋、不気味な赤い光を放つ高圧線の鉄塔、どこまで行っても同じ顔をしながら同じ距離を保ち追いかけてくる月。見た目よりも大きな存在に感じた。母に宥められ少し安心しても、やはり怖かった。

 

僕の記憶は大体感情と共に、主観の映像か客観の画像なことが多い。その記憶が体験した事実かは別として、僕の記憶はそういうものが多い。

感情というのが自分にとってとても重要であること、そしてそれを常に押し込めてきたことで色々な足踏みに繋がってしまっていることに気付いたのは最近のことだった。

人前で感情を含め、自分を出すことは僕にとってはタブーだった。それは小学校の時には既に内面で『いけないこと』になっていた。強制されたわけではない。でも強制されたのだった。

 

現代社会には『答え』が溢れている。学校もそうだった。無機質な答えが常に先に用意されていた。

でもその『答え』は本当に正しいのか。現在の理論的に、社会の通念的に正しかったとしても、それを常に先に提供することや、本人にとっての答えを否定してまで教えるのは良いことなのか。知識の提供によって感情や思考の経験機会を奪うことは良いことなのか。単なる固定観念になってしまわないか。ということをよく考える。

 

月が追ってくるという恐怖は無機質な知識の後に経験するのは難しい。既にその存在の情報がインプットされてしまったからだ。感じることは限られ、想像することも宇宙から撮った写真や映像のイメージばかりになってしまった。でも唯一そこには、それ以前に感じた『怖い』という感情の欠片は残っている。

写真や映像はやはり、五感で主体的に感じることが出来ないという点ではそこまでの体験なのだと思う(でも写真は好きです)。『五感で感じ』、『無意識に経験と照らし合わせ』、『感情を認識し』、そこから思索する。そういった内的なプロセスに大きな意味があると思う。求めていた何かに巡り合うのはそういう時。

 

僕はジャングルに入っても、現地人が感じると言うような『恐怖』は感じない。一部の野生動物や虫に対する警戒心はあるのだけど、知識のせいで僕の中には妖怪的なものが入り込む隙がなくなってしまった。それを感じることが出来ないのは、僕にとっては残念なことだ。可能性が減ってしまっているような、無機質に染まっているような、冷たい感覚がある。

 

僕は寝てる時に見る夢が好きだ。夢はそういった知識よりも感情を優先してくれる。一時期は悪夢ばかりで眠るのが怖かった。今も時々悪夢を見るが、感情の生きているような、波のような動きを楽しめるようになった。夢の中ではより野生的な体験ができる気がする。楽しい夢はあまり見ないのが残念。

 

五感で感じてできた印象というのは、それが壊れた後にも何か重要なものが残る気がする。具体的な想像も、言葉にできないようなヴィジョンも、それに伴う感情も、それらは体験として残っている。その体験が心の中で色々な繋がりを見せてくれた時、僕は喜びを感じる。僕にとっては単なる知識よりそっちの方が重要なのかもしれないと30歳を過ぎて今更気づいた。多分、欲求を知識欲にすり替えていたところがあるんだと思う。

知識は無機質のままでは、僕の心を本当の意味で満たしてくれることはない。知識は自分の経験と結びつき、無機質でなくなった時に初めて満たされる気がする。それは心の豊かさの種なのだと思う。

もっとこう、知識に惑わされない鮮烈な感情体験なんかを色々体験したかったなと残念でならない。やり方はあるのかもしれないけど。

 

体験学習というものもあるが、前提知識を伴わない体験という意味で実施されていることは少ない印象がある。段階を踏んでいって最後に知識を導入することは必要かもしれないが、それを『答え』とするのは、やはり体験そのものの記憶を壊してしまうことになるかもしれない。その体験の内容によって、また体験者によって逐一考える必要があると思う。結局、万人に合うように体系化することは難しいのだ。

 

今年、友達にレイチェル・L. カールソン著の『センス・オブ・ワンダー』という本を頂いた。その内容が正にこういった知識に基づかない、内的な体験について書かれていた。初めて読んだときには、そういった抑圧されていた面があったからなのか、それとも感情移入のせいなのか、多分両方なのだけど、色々と入り混じった感情の中泣いてしまった。月もそうだが、世界は見方によっては『センス・オブ・ワンダー』に溢れている。それを知識優先な価値観が壊している側面があることを意識する必要があると思う。

僕のように記憶を消してリセットしたいなんて願望を持たなくて済むように。(記憶を消したら同じ轍を踏みそうだけど…)

 

 

人を森の中で案内する機会がある。今までは求められるので、すぐに鳥や動物、植物の種名を伝えていた。でもやはり、それはひとりひとりの体験を損なってしまっているのかもしれない。言葉では伝えられないものを感じてもらうために体験してもらうのだから、単なる案内人ではなく、体験の提供者となる為にはもう少し考えなければならないだろう。大切なのは知識的な答えだけではないし、答えもまた知識的なものだけではないのだと思う。伝える相手によって合わせる努力が必要だろう。

 

と思うのでした。

長々と書いてしまいました。読み返すとところどころ繋がってるか怪しい部分があるけれど、僕の中では繋がってるので良しとしてください。思っていることを読む人が分かるように文章にするのは難しいですね。でも有意義だと思うのでした。