感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

海外支援でばらまき から 伝わらない人に伝えること 解離のこと 欠片の辛さ

うーん、海外支援でばらまきって何かの記事で見かけたけど、僕はよくわからないなぁ。

国内の開発があらかた終わって技術はあるけどパイがないから支援名目で国外に出してるんでしょ。ODAのプロジェクト自体が日本企業のためにあるようなものなのに、その点はあんまり広報しないのだろうか。企業は持ってるもの売らないと技術も人員も維持できないし、研究もそこで止まってしまう。勿論それ一辺倒ではないけど、日本製品を導入させる場になってたりするわけで。例えば機械を導入させれば部品やメンテナンスも継続的に売れるしね。ある意味大航海時代の宗教と同じで開拓の場になってたりする。

支援による関係の醸成や市民レベルでのインフルエンスの増大はどちらかというとおまけ。でもそのおまけのおかげで国際的な地位や信頼を維持してる側面も大きい。それがいつまで続くかは知らないけど。

まぁ、クールジャパンよりちゃんとクールジャパンしてるとは思うんだけどね。事後評価のシステムも割としっかりできてるのだし。

 

天下りや談合は別だよ?それが巣食っちゃうのは問題だと思う。でもまぁ、天下りもさ、それが必要なものかただの害悪にしかならないものか、評価が難しいというのはあると思う。人脈なり知見なりが特に重要になる場だから、必要性も大きい。談合だって一概に悪いとも言えない。横から撃たれるような隙のあるものをやれば悪いと思うけど。まぁ、国内と他国の狭間でやるわけだから、色々難しい部分もあると思うしね。

 

ただほら、海外支援でばらまきってなんで同じことずっと言われてるんだろうと思って。政府が説明を怠ってるのか、上手く伝わらないのか。あー、でも上手く伝わらないっていうのはよくわかる気がする。日本のNPOの人がこっちの熱帯雨林保全のプロジェクトやったりするけど、その人たちに説明したりする時に、こっちの行政のこととか歴史、文化的、気質的な背景とかは勿論、国際的なこととかビジネス的なこととか、全然伝わらないんだよね。僕だって一般常識くらいのことしか分かってないつもりだけど、だから困ることが多い。だから前の仕事やめたっていうのもあるし。

 

諦めなのかな。あ、伝えるのは無理だなって直感するんだよね。僕が口下手なのもあるんだけどさ、ベースが違い過ぎる感じ。非自覚的なコンテクストな部分というかさ。

何事もそうだけどさ、S極しか知らない人はS極が世界でしょ?N極しか知らない人にはN極が世界でしょ?両方経験して初めてSとがあるって腑に落ちてる状態になる。頭での理解ではなくね。

S極しか知らない人にN極のことを口で説明しても、S極の世界観でしか解釈して捉えられない。だから間に入らされると地獄なわけ。だって無理だもん。

だよね。書いてみて心底辞めて良かったと思った。

 

直感するのは逆もそう。この人は理解とまではいかなくても伝えた言葉が入っていくなっていう感覚。空気なの。その流れというか。よくわかんないけど。

 

伝わらない人に伝えないっていうのはさ、こっちが勝手に伝わらないって勝手に断じて伝えないっていうのもどうかなとは思うし、こちらの意図とは別の受け取り方でもその人なりに意味が生まれるかもしれないとも思うし、いつかそれが伝わるような変化があるかもとも思うから、前は伝えてたのね。でも今はそこに自分なりの意味を見出せないでいる。

 

よく見かけるいがみ合いとかもそういう、ただの見え方の違いを無視した先にあったりするしさ、虚しさが先立っちゃう感じ。どうせ違うものを見てるんでしょっていう。独りっていう感覚が強まってからそうなったかな。通じないのが嫌とか、間違って伝わるのが怖いとかじゃなくて、単に価値を感じない。結局この寒さが根底にあるわけだから、あんまり無理にインタラクトしてもね。ある意味断絶された自分という世界が前提になってしまったのかもしれない。

これはさ、感覚世界の話ではないんだよね。自然との繋がり、人との関係、その中のいろんな尺度の自分(達)は感じるわけで。でも物事の捉え方とか、見え方とか、そういう部分においては、前提的な部分が違う者同士がそれを共有しようとする意味がどこまであるのだろう?って。だって、共有って近いからできるのであって、全く違うものを共有したつもりになるのは見誤りか妥協だし、無理に共有しようとするのは強要でしょ。棲み分けと同じで違うものは違うんだからそれでいいじゃないってした方が、尊重にもなるし、より広い目で見れば活かし合うことにもなるのではないか。

対話も大切だとは思うんだけど、対話の限界っていうのを意識するのも大切なのかなとも思うしね。クリスチャンとムスリムが神は同じって共通認識を友好に用いて、それ以上踏み込まないように。

 

まぁ自分の中での、何かしらの固執もあるのだろうけどね。でもそれはまだ自分でも分からないからどうしようもないなぁって感じ。

 

 

固執。内面的な部分では、今僕が必要としてるものは解離した別の僕が持ってるんだと思う。でもそこにどうやってアクセスしたらいいか分からなくて半分詰んでる。

最近見かけたPTSD患者の解離症状の追跡調査を読んで、統合に至ってる人が想像よりはるかに少なくて「あー…」ってなった。実際僕もこれに関しては無理なんじゃないかという気はしてる。割れてバラバラになったガラスはそれぞれのガラス片であって、元には戻らないじゃない?これに関してはそんな感覚がある。スパッと割れてるんじゃなくて粉砕骨折状態だし。

二元や抑圧は元々一つでしかないものが認識というか非認識によって分割されてるだけだから、外に出て全体を見つめればいいだけだけど、これはさ、ある意味トラウマによる枝分かれなんだよ。勿論統合できる場合もあるんだろうけど、トラウマを解消すれば統合かって言うとそうではないし、そもそもトラウマを解消なんて生半可なことではないよね。トラウマは言い換えれば強度の経験的な学習なのだから。生物的には生きるために必要なものとして、反応の鈍化はしても解消するようにはできてないでしょ。ましてや人格や意識なんてもっと脆くて曖昧なものなのだし。それを元通りに戻そうとしても無理だよね。

 

せめてこの感情の詰まりがどうにかなれば、その原因になってる記憶さえ共有してくれればそれ以上は要らないのだけど、それも贅沢なことなのだろうか。

もう誰にも話せないからここに書くけど、自分に固執するつもりもないのに自分が分からなくて本当に辛い。分からないから固執するしかないとも言えるのだけど。

だってさ、僕は僕として生まれて、当たり前のように一人の僕として扱われるけど、でもその度に僕って誰なの?って思いに苛まれる。だって、僕は僕であって僕じゃない。記憶すら繋がってないし、バラバラになった僕の中身の限られた範囲しか僕はアクセスできない。僕よりも僕のことを知っている僕が居るような気がする中で、自分のことを僕だなんて思えるはずがない。泣いてる僕がどこかにいるのを感じてるのに、泣くこともできなくなった僕が僕自身を僕と感じることができるだろうか。皆が見てるのはガラス瓶であって、僕はガラス片でしかない。自己同一性を失った人間が上辺ばかり自己同一性を取り繕っても、結局一部のそれでしかなかったってことだよね。

 

取り乱すなよ。怖いね。誰の人生を生きてるのかすら分からないなんて。生きているのに、生きていることを肯定しきれないなんて。

でも、だからこそ、じゃあどうするかなんだよね。まだ足掻くか、一度諦めてみるか。

きっつ。

 

でもさ、曖昧なだけガラスのように固体ではないのだから、スライムとか雲のように、バラバラがくっつくこともできるのかな。一番の問題は、必要な欠片たちがどこにあるかすらわからないことなんだけどね。そりゃ迷子だわなぁ…

きつい。寝る。

ウズラ から 卵 最近のこと Michael Forster - I giorni: Andante 景色

ウズラって雌雄鑑別が難しいからスーパーの卵に有精卵が混じってて、孵卵器で温めると1パックに1匹くらい生まれたりするっていうじゃない?それで1,2羽くらいなら飼えるし、子供と育ててもいいかなと思ったのね。4月末くらいかな。こっちの連休明けで新しいウズラの卵が売ってたから買ってきて、8個だけ温めてみることにした。

このために孵卵器買うのももったいないから、小さい容器に入れてアクアリウム用の水温計くっつけて冷蔵庫の上の38度前後になる位置に置いたの。適当だから37度から40度ってところ。転卵は気が付いた時にして、水は指の先濡らしてピッピって全体にかけたのと、乾燥しすぎないようにペーパータオル濡らしたのを丸めて入れて蓋は半開にしてね。孵卵器の一定な環境とはかなり違うけど、まぁ鶏の親鳥だってこのくらい適当だしいいかなって思った。

これをはっきりは覚えてないけど17日くらい。時々自分はいったい何をしてるのかという気分になったりもしたけど、植物のお世話に似てるしこういう作業は好き。

 

そしたらさ、先ず1羽生まれて、結局それから2日の間に8個中7羽生まれ、1羽は上手く殻が破れず衰弱して死んでしまい、もう1羽が2日で死んでしまったんだけど、5羽がすくすくと育って手のひら大になった。1羽生まれたらラッキー、確率的に2羽もあり得るかな?ぐらいの感覚だったんだけど…

これでわかったことはこの国では日本と違って卵用ウズラの雌雄は鑑別してないってことだね!… 雄が混じるどころかそもそも分けてもいないからほぼ有精卵。よくよく考えたら国民性的にもまぁそうだろうなと思った。

まぁ17日くらいお世話したのが元気に生まれてくれたのは嬉しいし、1、2羽残して村の家族にあげようと思う。

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これは最初の3羽が生まれた時

 

見方を変えれば先入観だったってことだよね。雌雄鑑別してほぼ無精卵っていうのは。でもこれでほぼ全てが有精卵だって思ってしまえば、それも先入観になり得る。両方有り得るでいいんだけど、そもそも有精卵と無精卵を区別するのはどうなのだろうかとかまた考え始めちゃう。区別しなければ別物として認識できないわけだけど、これは多分区別の弊害とか考えちゃうからなんだよね。

例えばさ、食用の鶏卵は倫理観的にヒヨコになる有精卵は好まれず(生産性等ほかの要素もあるだろうけど)、無精卵が当たり前になってるけど、ある意味そのために無機物的に扱われている節があるのではないだろうか。ただの栄養源として扱われている感じがする。生物かと言われれば細胞なのだけど、それを産まされている(卵が勝手にいっぱい産まれる身体に改良され、オスは殺処分され、メスは産む機械同然に飼われている)のは生物なわけで、それはある意味で可哀想という倫理観が沢山の可哀想な状態を助長するというパラドックスになっているとも言えると思う。

親鶏から盗んで食べるくらいの方が感謝の感情は生まれるよね。それじゃ全然需要を賄えないけどさ、そもそも卵を週に何個も食べるとか量的におかしいのではないだろうか。

何かこう、現代社会ってやっぱり暴走機関車だと思う。僕も乗ってるんだけど。

やっぱりそういうこと勝手に想像して辛くなるような人間には都市生活は向いてないんだよね。

はい…

 

最近は特筆すべきこともなく過ごしてる。車が調子悪い。トランスミッションもそろそろ逝きそうだし前輪のタイヤももう替えないと…っていうタイミングで収入が半月ずれるからもう少し辛抱してもらわないといけない。まぁ何とかなるでしょう。

この車も頑張ってくれてるなぁ。中古車で追突もされて半水没もしたけどエンジンは元気。他は結構ガタガタ。走ってくれればいい感で使ってるからついつい無理させてしまう。いい車とか買ってもすぐダメにするタイプだろうね。

もし仮に日本が電気自動車に移行したら中古車も安く回ってくるだろうか。という淡い期待。こっちは車高いからね(やたらと関税取るせいで)。一応産油国でガソリンも安いからちょっとやそっとじゃわざわざ電気自動車に移行はしないだろうし。

本当は運転なんかしたくないんだけどね。一日のエネルギーの6割は運転で消耗してる気がするし。

 

ここ数日は風邪気味。朝方の咳は2週間ぐらい続いてるけど、今日はくしゃみ鼻水が酷い。まぁ周りもみんな咳してて、それでも誰もマスクとか気にしなくなったから、やっぱり世間の変わり身の早さは予想通りだね。一時期はみんな不安なせいであんなに圧が強かったのに。やっぱり怖いのはウイルスより人間だね。

喉にはやっぱりはちみつが効く。うちが買ってるのはオオミツバチの蜜だから飼育種のミツバチと何か違いがあるのかは分からないけど。

くしゃみは鼻炎もあるから始まると大変なんだけど、どうしてもだめな時は割高だけどこっちの通販で買ったナザール使ってる。でもやっぱり強すぎる感じがする。すごく染みる上に使ったら副作用で寝ちゃうし。薄めて使えないのかなぁ。

 

まぁ最近はそんな感じ。

 

 

あとさ、これすごく好き。

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EinaudiのオリジナルのI giorniも好きなんだけど、色々なアレンジがある中でこれが凄く好きだな。代弁してくれるような温かみ。明るいわけでも寂しいわけでもないんだけど、色んなもの、虚しさや安心感、楽観のようなものさえ同居していて、それがストーリーのように展開していく。とても言葉には言い表せない感情の映し出す景色を見せてくれる感じ。結局はそれが包み込んでくれる。だから温かみ。

 

このブログ始めた時もその後もずっと井戸の中にいる自分が多かったのね。内的な景色。でも去年の中頃くらいからかな、それが荒野とか、真っ新な空間とか、宇宙空間とか、雪原とか、とっても広い中を独り歩いてる自分を意識することが多くなった。

このビジュアライザのような景色なら道がある分人の気配があるし、草木のような生命に包まれていいのだけど、似ているようで全然違う。

 

良くも悪くも、今はあんまり井戸の中には居ないんだなって今思った。だからあんまり外に出すものがなくて、この画面と相対しても指が前ほど動かないんだろうね。

井戸は辛さもありながら好きっていう認識があったからいいんだけど、今のこれはどうも慣れない。最初はほんと辛かった。独りは好きなはずだけど、あまりに独りっていうのを意識するからだろうか。寒さ。

何なんだろうね。

感情のダム 置いてきてしまった自分と今の自分 緊張の種類と必要な安心 お空 Gísli Gunnarsson - Untethered Light

知人が昔バックパッカーだった頃タイでマジックマッシュルーム食べた時の話をしていて、色々と歯止めが利かなくなるから、友達と順番に一人ずつ食べたんだって。

それを聞いて、僕が泣けないのはそういうことなのかと思ったの。

決壊、感情のダム。

中に溜まってるものそのものが怖いのもあるけど、方向性が違ったのかもって。感情の開放、一人で安心できる時に試してたのだけど、そもそも一人の安息と誰かが居る安心は違う。錯乱状態になるかもって分かってることを一人の時にやろうとしてもコントロールしてる側は拒否するよね。その安心は違うのだから。

 

温かい安心感。あの人の、姉さんに貰ったその感覚が浮かび上がるのはそのせいだったんだって思った。身を預けられるその感覚がパンドラの箱の鍵なのだろう。

でもあの人はもういない。代わりはない。一人で再現できるのだろうか。やっぱり怖い。死ぬより怖いことが沢山ある。それが問題。

 

一番困ってるのは、多分その閉じ込めて溜まってる感情の中に自分の一部を置いてきちゃったこと。そうすることで耐えたわけだから仕方ないのだけど、それを続ける限りどこか欠けていて繋がっていない自分を生きていてね。あの頃の比じゃないとはいえ辛いものは辛いんだよね。別の種類の辛さ。

置いてきたのは一部?どちらが一部なのだろうか。僕の方が作り物のような気がしてしまう。だって、あの頃は確かに代わりでしかなかった。大事な方は仕舞い込まれたのだから。何でだろう。それ以前の記憶はあるし、感情だって戻ったのに。繋がってないことがこんなにも。

 

決壊、EMDRっていう療法を受けていた時に一度あった。全部が崩壊したわけではなくて、記憶の氷河の一部が崩れて当時の感情やら何やらが一気に出てきた感じ。一部なのに、本当にパンドラの箱のようだった。フラッシュバックも辛いんだけどさ、こっちは解離して隔離されてた、今の自分には思い出せない記憶ごと当時の自分がバーッと押し寄せてくる感じで、錯乱というか、カオス以外の何物でもない。当時は多分、薬飲んで無理やり意識落としてやり過ごしたんだと思う。今じゃ想像もつかないけどね。

 

生き残るために後払いにした苦痛の負債。そう考えるとまた生きていることを肯定できなくなりそうだけど、体感的にはそんな感じ。

精算しなきゃピリオドが打てない。そんな契約した覚えないんだけどな。

そりゃやったのは別の僕なのだろうし。それで仕舞われたのも別の僕。自我がさ、やっぱり分裂してるんだよね。そんな中でこの僕はその時作られたのか、取り残されたのか、とにかくこの作り物感は起源がそこになっちゃってるからなんだと思う。

 

セラピーとか通わないとだめかな。でもプロだから身を預けられるかってそういう問題でもないんだよね。それに、本当にプロなら触れないという選択肢を選ばせるだろうしね。だって、生活に支障なく生きてるのだから。今の僕は。不自由してるのは過去の僕なわけで。

でもいい加減、自分で閉じ込めておいて迷子だなんて、滑稽だよね。閉じ込めた?どの自分が自分なの?全部なんて言うのは虫が良すぎる。それに、今の僕が本当に僕と言える範囲はあまりにも小さい。別のお皿に一切れだけ移されたピザ。それが僕。

バラバラに切れてるのは別にいい。ただ大切なピースが抜け落ちてるから、一切れ一切ればかりが目立ってしまう。

もう大分見えてるのに手が出ない。少しでも溜め込んだものを外に出すことを望んでいるのにやっぱり怖い。多分レイヤーになっててさ、上澄みはほとんど出きってるんだよ。ここで何年もかけて出せたのも大きい。上澄みが抜けたから中が見えるけど、それより下の沈んでたものはやっぱり重い。だからより明確に怖い。

 

まぁでも何が言いたかったかと言えば、自分でも不思議なほど他力本願というか、「助けて」っていうのが浮かぶ理由が分かった気がするってこと。身を委ねないと解くことができない種類の緊張だから。この時点で正攻法は詰んでるんだけど、じゃあどうしたらいいかってことだよね。

まぁ、そんなところ。

 

久々なのに無修正が過ぎるからお空でも貼って誤魔化しておくね!

 

巻雲がほんとに好きなの。雲はどんな創作よりも自由だと思う。

 

あとこれはこの前夕方停電した時。

電灯のあまりない夕暮れは本当にきれい。停電って好き。困る人も沢山いるのだろうけど、沢山のいつもと違う景色が見える。建物がいつもと違う主張のない影になって存在を主張してる。

 

これもその時撮った写真。

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夕暮れの雲も好き。この星夏の大三角形じゃないし何だろうなぁって思って今調べたんだけどね、冬の大三角形みたい。ここからだとこの時期にこんな風に見えるの初めて知った。

 

上がプロキオン、左下にシリウス、右下にペテルギウスで傾いてない綺麗な三角形になってる。

地球が勝手に動いてるだけなのに場所によって見え方が違うのって面白いよね。

雲とか空の話してると元気になってくる。

 

 

最後に最近知った曲貼っとくね。すごく好き。


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何かこう、深い深い水の中に沈んでるみたいでとても落ち着く。

どの自分が聴いてるのかわからなくなる感じもあるけど、それでいいの。

 

この人はアイスランドの人みたい。何かわかる。この曲が入ってるアルバム"Birds of Pray"っていうんだけど、素敵な曲がいっぱいなのです。

反動と固定観念と圧と結果、そして全体 エネルギー 振り子 均衡と質的な変化

性自認の広がりもその他の自認というものの広がりも、根底にあるものは別として原動力として働いてるのは反動だと思う。社会的な固定観念や圧の中で、それに当てはまらない、当てはまりたくないという自己認識を持つ人たちが別の観念を採用することによるものだから、押し付けられる観念が強くなればそういう人たちが増えるのは当たり前。個人としての揺れ動きがあって、揺れ動きが束になることで社会的に混乱になったりもするけれど、長い目で見れば行ったり来たりしてる。

イデオロギー全般も同じだと思う。反動が原動力になって勢いをつけて反対に行ったりするけど、長い目で見れば行ったり来たりする。

進歩進歩って言うけど何も変わってないじゃんって見えちゃう。

 

そういうのがなんかこう、少し前まではとても不毛に見えてた。今でも不毛に見えるけど、僕の中で少し変わったのは、人間とか社会というものはそういう性質を持ったものなんだとある意味自分の中で認めたことだろうか。嫌だなぁ、どうしてこうなんだろう?って感じてたのが、今は、まぁそうなるよね…しょうがないね…ってなったくらいの変化だけど。でもまぁ、幾分か楽になった気はする。

 

まぁそれは置いといて、例えば性自認の話に戻るとして、新しい自認という側が旧来のものを責めたり、旧来のものが新しい自認を責めてしまうのは仕方ない部分があるのだと思う。自分が当てはまってた枠が崩されかけたりすれば、不安に駆られたりもするのだろうし、嫌悪として感じる人もいるのだろうし、枠と枠による敵味方っていうような、より原始的な感情が支配的になる人もいるだろうし。反発を繰り返していくうちにやがては振り子と同じように落ち着いていくのだろうけど、でもその落ち着きっていうのは長い目で見ればやっぱり一時的なもののようにも思う。

 

人にとってはこういう帰属意識が伴うものというのは、自分の側っていうのがあって、同じか違うかで判断するのが一般的かと思うのだけど、それが一番この振り子的なエネルギーを生むわけだよね。フランス革命が劇薬と言われたりするけれど、それと同じで。ナショナリズムとかも。

そして自分の側がなかなか見つからないと「これじゃない、これじゃない」ってLGBTなんちゃらかんちゃらって色々乱立したり、それが過ぎれば複数のものがクィアといってまとまろうとしたりするわけじゃない?これも葛藤が生むエネルギーだよね。

 

なんだろうな。色んな概念が乱立する中で否定と肯定があって、認めようじゃないか、やっぱり何かに反してるのじゃないかってごちゃごちゃ混乱があるわけだけど、大事なのは本当にそこなのかな?って思うんだよね。さっき出たように、どの運動も反動があって、いろんな流れが起きるわけだけど、どの運動も、例えば戦争の引き金になるような国対国のものであっても、スポーツファンの衝突であっても、イデオロギー闘争であっても、社会の中の自認というものであっても、エネルギーの流れとしてみればとても似通ってると思うのね。

で、多分これを自分の中でまとめたいが故の前書きがここまでなんだけど、何が書きたかったのかといえば、どちらかの側に縛られた当事者の視点で争うのはまぁそれはそういうものだとして、まず見えなくてもそこに『反動』があると仮定して、最初に書いたような固定観念や圧というものを含んだ全体を意識してみたらどうかってことを思ったのね。そうすればこう、敵っていう風に思っていたものの見え方も変わるだろうし、自分の側って思っていたものも見え方が変わって、質的な変化になると思う。

大事なのはその変化であると捉えるなら、劇薬や混沌も少なくて済むし、省エネで変化も早いでしょ?劇薬が必要ないとまでいわないけど、傷が大きいだけ根深いトラウマになるのは個人であっても集団であっても変わらないとも思うのね。

 

様々な運動が複合的に起きるわけだけど、大枠で見たら揺れ動くのは変わらなくてさ、結局いつかはある位置に落ち着くんじゃないかとも思ってね。例えばイデオロギーとして広められている多様性にしたって、今までの同質性強要の反動で大きく左側に動けば、そこでまた右に大きく動いて(多様性など要らないという)、ある意味でバランスを取ろうとする。そしてまたそこでという具合に、力が強いほど逆に時間がかかるのではないか。ヘイトをあまり生まないやわらかい運動というのはそういうごたごたも少なく済む。

仮にそうなら敵ばかり見てヘイトを大きくして争いを繰り返して、暫くしてからふとこうだったんだって全体を意識するまでもなく、反動やその原因、結果を含んだ全体を先に意識できれば、そして自分の位置を自己認識できれば、結局はそのエネルギーが目指す均衡の位置に早く辿り着くんじゃないかとも思うの。

そして均衡っていうのは、疲れか何かで全体を見渡した時に質的な変化が起きるもので、程度はどうあれ今より枠の外側から見れている状態だとも思う。

それが多ければ多いほどヘイトは少なくなるし、ということは必ずしも運動にヘイトは必要ではないのだろう。大事なのは何がヘイトを生むのかということ。ある意味互いがヘイトを深め合ってる状態というのは互いに敵味方という感情に縛られ、幻想を見ている状態ではないだろうか。双方の外側から見た状態では。だからより省エネで実効的な運動を目指すなら、反動や全体を意識して、互いが互いを俯瞰できるように持っていくのがいいのではと思う。(なんてことをいがみ合ってる当人に言っても変に刺激しちゃうから気を付けなきゃいけないけど)

 

勿論そんな簡単なことではないから人は憎しみ合うのだし、憎しみが何かを生むことだってあるのだし、それも含めて人間なのだとは思うのだけど。

 

なんてことを今日年齢自認だか何だかっていうのを読んで思ったのね。

自分をどこに置くかによって見え方が変わる問題だと思う。僕はそもそもAge Fluidity とかInner Ageとかってものに触れてて、自覚的に肯定側なんだけど、否定側はどんな人たちなのかとか、肯定側はどんな人たちなのかとか、反動の手前にある圧は何なのかとか、全体的にはどういう動きなのかとか、そういう風に眺めていると、肯定も否定もそんなに必要なのかなと思ったのね。圧の部分を社会がどう捉えるか、そこから始まる流れにどう均衡を与えるのかって話だと思う。自分の『側』も相手の『側』も単なる観念なわけだけど、『側』がある限りある種の感情に無意識的に引っ張られる。その状態で語る理性はやっぱりかなり曲がって見えるわけですよ。別にいいんだけどね。

 

 

はい。

取り敢えず忙しいのが終わったけどお客さんが来てるからまだ休まらない。来週はゆっくりしたいなぁ。

最近熱波で熱いんだけど、毎朝巻雲が綺麗なの。雲を眺めてる時は生きてる感じがする。

4年 から 時間 合理と非合理 「海が綺麗になりすぎたからアサリが激減」 Akon - Right Now (Na Na Na)

ここを始めて4年経つらしい。早いなぁ。こっちに初めて来た時に小さな子供だった子がもう子供いたりするからね。びっくりだよね。

昔やってたブログも4年ぐらいはやったのかな。4年前を振り返ると本当に切羽詰まってた。今の状態は4年前の自分からは想像できないだろう。今は切羽詰まってはいないんだけど、なんだろう、うーん。虚無感は抜けないなぁ。周りに対しては完全に傍観者になってしまった。それはそれでいいかなとも思うのだけど、うーん。

まぁでも8年前の僕からは4年前の僕は想像できないだろうし、12年前の僕からは8年前の僕は到底想像できないんだよね。色んな意味で。ということは4年後もこうやって思い返してるのだろうか。

 

子供の頃よく思い浮かんでは怖かったのが、気づいたら自分が既におじいちゃんになっていて、縁側かどこかに座って昔のことを思い返してるんじゃないかって。その不可逆の向こう側から眺めてる側が自分で、今の意識はただの思い返されてるものなんじゃないかってことでさ、それってある意味今やってるのと同じことだよね。

何かを思い返すとその時の記憶と今の意識が直通するせいかあっという間感がすごい。だから思い返した昔の僕から今を眺めようとするとそのおじいちゃんの自分っていうのが必然的に現れるんだと思う。そんな長生きする気もあまりしないけど、それは置いといて。実際は1秒1秒が苦痛に感じてた時期だって沢山あるのに、時の流れが怖いって何か贅沢だよね。

 

不可逆とか時の流れとかって書いてるけど、小学生ぐらいの時にちょこっと見たターンAガンダムでは西城秀樹の歌うオープニングで「時が未来に進むと誰が決めたんだ」ってフレーズがあってさ、そうかもなぁと思うこともあるんだよね。調べたら「刻が未来にすすむと 誰がきめたんだ」だった。まぁいいや。

 

そもそも時間って何だろうって考えた時に、僕はあんまり直線的な観念は持ちたくない思いがある。時間に形を与えて捉えるってなんか違う気がするんだよね。計測した結果が線になるだけなのだから。流れとして捉えるのもどうなのかなと思う時もある。だってそう捉えたら自分が流されないといけないじゃない?

まぁ単純に縛られたくないだけなんだろうけど。人が勝手に観測して在るって言う、従わなきゃいけないっていう時間ってものに。ただ朽ちていくのと線の引かれた中で朽ちていくのは違う気がする。後者は無意識のうちに線に合わさってしまう。

時間だって16時だから太陽があそこにあるっていうのと、太陽があそこにあるからもうすぐ夜になるっていうのは違う。23時だからもう寝なきゃっていうのと眠くなってきたから寝ようっていうのは大きく違う。2月だからもうすぐ春っていうのとフキノトウが大きくなってきて風の質感の変化が春の訪れを告げてるっていうのも違う。でも数字があると便利だからそちらに自然と思考が合わさってしまうのは、それだけ時間(数字を伴った時刻も流れという捉え方も)やカレンダーという発明が素晴らしいということなんだと思うけど、何かを得れば失うものがあるじゃない?僕にとってはその失うものが大きいのかなと思う。

それだけ、ほぼ時計を見ずに過ごしてたジャングルでの7年が大きかったんだと思う。

 

失う。もしバーターではなくて、双方を自分の中で共存させられるとしたらどうだろう。でもそれを難しくさせるのがやっぱり数字の力なんだよね。混じったらそれが支配しちゃう。それだけ強い。合理的なんだろうなぁ。

そう、合理的。でも非合理が別の部分から見たら合理だったりするわけじゃない?いや、そもそも合理にもっていかなくてもいいじゃない?だから時が未来に進むという合理的な観念にも疑問を抱くわけだよね。こう言うと非合理主義っぽいけど。理では把握しきれないっていうのが僕にとっての理でもあるし、理が阻害しているものに価値があるというのも別の理だしね。合理であろうが非合理であろうが色んな理(でなくても)が曖昧に漂ってる方が好きなんだけど、って何の話してるんだろう。そもそも合理がその形で在るから非合理との二元的な土俵をですね…

時間って概念も観念も我が強いんだよね。補助的に使えればいいのに、気づけば基準になってしまってる。難しい。まぁいいや。

 

 

そういえば「海が綺麗になりすぎたからアサリが激減」ってニュースをチラッと見かけたけどさ、こういうのってどうなんだろうね。下水処理でアサリが減ったという主張ありきで色々単純化しすぎた記事感。

下水の窒素やリンが養分になってるのは間違いないのだけど、そもそも森が無いか緑の砂漠状態で、更に護岸工事やら何やらで河原の植生も氾濫もないから窒素やリンが枯渇してるっていうのがあるわけじゃない?アマモなんかの海藻も激減して沿岸域の海底こそ砂漠化が深刻で有機物は減ってるじゃない?生息域の干潟も激減したし、生態系も破綻してるし、乱獲で稚貝の放流しないと成り立たないのが今のアサリでしょ。そもそも綺麗って何だろう?砂漠が綺麗っていうなら綺麗なんだろうけど。いやまぁ砂漠が綺麗なのは否定しないけど、人間活動による砂漠化はどうなのだろう?砂漠化した土地を見て綺麗って言うのはちょっとなぁ。陸の森林だってまともに保全や再生ができない社会がそれ以上に難しい海底の森を再生するなんて不可能に近いと思うけど。っていうのは置いといて。

確かにそこで有機物が下水から流入するから一定のプランクトンは発生はするわけだけど、いかに愛知県内とはいえ下水による影響なんて環境や人口によって場所による違いがありすぎて一般化して評価なんてできないわけじゃない?それをこの見出しにするのはいかがなものかと思った。別に取り組みが悪いとか言うわけじゃなく、見出しも酷ければ記事の内容も色々すっ飛ばし過ぎてて雑過ぎる気がする。ニュースは何もかもがそうだけど。

まぁニュースが悪いと言う気もないけど、情報社会っていうのは色々難しいよね。SNSどころか色んなものが人類には扱いきれないんじゃないかとよく思う。別にいいんだけどね。ただただ隠遁したい。

 

 

そう、あとAkonの”Right Now (Na Na Na)”って曲があってね、久々に流れたの聴いたんだけどやっぱり好き。

すっごいどうでもいいんだけど

Akon - Right Now (Na Na Na) (Official Video) - YouTube

↑この動画のyoutubeの自動生成英語字幕さ、"I wanna make up right now na na"の部分が”♪ I WANT TO MAKE LOVE RIGHT NOW NOW NOW ♪"になってて、官能を伴ったノスタルジックな後悔、切なさ、虚しさのミュージックビデオなのに「エッチしたい」って連呼してるただのエロ坊主みたいに見えて笑える。そのへんてこ字幕でも妙にマッチしてしまうビデオにそう聴こえてしまう歌で成り立ってしまうのがなんか可笑しいし、実際の素敵なMVとの対比が酷すぎてほんと面白いから英語の自動生成字幕オンにして見てみて!

 

 

あー、あと4日頑張らなきゃ…お仕事やだなー。

自分たちの連休使って出張に来てくれるのは有難いけど、こっちも祝日に週末なんだよなぁ…えーん。

私 から Alan Wattsの受け入れやすさ 二元と拡大率 僕の中の我が強い僕

私、個、自分、我、この数年の変化の中では軸だったもの。二元の外からの見方というのが自分の中で自然になってきてから漠然と、内外という二元、自他という二元を思うことがあった。内外の方は比較的早く今の自分なりに腑に落ちた。内面から外を見るのも、外から内面を見るのも結局鏡を隔ててるっていうだけで同義だし、内側のために外側を重視するのも外側のために内側を重視するのも、結局視点が片側だけに偏ってるからそうなるだけで、なら双方をひとまとめにして一つ外から見てあげれば「どっちでもいいしこれでいいんだ」ってなる。結局のところ外に見る争いなんかを見ると、なんで同じ感情をぶつけて争っているのだろう?っていう虚無感に近い疑問を抱くものだけど、それと同じことが自分の中にも起きているということでいいのだと思う。

 

でもこの知覚の主体としての自、その外側の他、これは上手く踏み込めずにいた。いや、正確に言えばひび割れは生じてた。僕は色々あって自分の中に自分が沢山いる感覚がある人間だから。でもその自分の中の自分たちを見る基準はやっぱり自だった。だからそれぞれの自分の視点を転々とする感じ。

今回ワッツに触れてそもそも私、自分というもの、その観念が思い込み、刷り込みなのではないかと思うようになった。少し前の僕なら拒絶していた捉え方だろう。個を基準にしていたから。逆に今は「あ、こっちでいいな」って感じる。淡い安心感。ということはこの捉え方の土台は整っていて、待っていたのだろう。アラン・ワッツ、前は惹かれつつもどこか拒絶があったんだよね。今は大丈夫。

 

すごく関係ないんだけど、この人本当にいい声してる。youtubeにある講義の録音とかいくらでも聴いてられる。発音も聞き取りやすい。運転中に聴いたりもしてる。

 


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同じようなことを語る人は多いけど、彼の話は僕にとって特段理解しやすい。というのは多分、自然科学のようなベースの上に話すからだと思う。それと、Magnificationって言葉をよく使うけど、どれも見方、捉え方の違いという考えが根底にあるのがとても合う。だから捉え直せるように語ってくれてる感じ。

例えば、精神世界があるっていう前提で話す人は精神世界がないという捉え方を内包できない。でも様々な違いがある中でそれらをひっくるめた視点ではどう捉えられるか、それを提示してくれる感じ。

 

それはワッツが西洋文化の中に育ちながら、東洋思想を学んだという経験からくるものだろう。僕のように完全に物質的なものの見方で育ったけれど、そうでない見方を学びたいという時が来た時に、非物質的なものを重視して物質的なものに否定的な視点を学ぶのは難しい。彼の場合は物質的なものを例えとして非物質的なものを見る捉え方を語ってくれたり、どうして物質的な捉え方ではこうなるけどその限りではないのかという部分を話してくれるから僕のような人間には受け入れやすいのかもしれない。それは双方の視点を持ち合わせている彼だからできることだろう。(極端な話、二元の統合ってそういうことでもあると思う。)

『私』についてもそう。どうして僕らにとって『私』というものが自分そのものだと感じられるのか、そこから語ってくれる。その限りではないということも。

 

ユングが与えてくれたのは潜水艦的な視点だけど、この人は本当に人工衛星的な視点をよく使う。より外側から見た、色んな拡大率の私、我々という私、一部としての私。その中で今自分が私だと思っているものは固定観念ではないのかということ。

言っていることはよくわかるし、確かになぁともすごく思うんだけど、だから死も取るに足らないんだよって言われると、いや、そういう捉え方もできるけど、この僕にとっての死はやっぱりこの僕にとっての終わり感がどうしても抜けなくて、自分の中でそこを行ったり来たりするのがとても面白い。僕僕ってじゃあ君は誰なんだよってなる。双方向から。この我が強い僕は融和できないんだろうか。なぜそこまで知覚の主体としての感覚にこだわるのか。それは多分、それがあるからこそ自分だと思っているからで、それが無くなることに対する不安なのだろう。でも仮に無くならないとしたら?って考えてもすぐそれを誰がどう証明するの?ってなる。難しいね。そもそも我が強いの我ってなんなんだろう。我の意味は分かるけど、自分の中で我が強いとして出てくるのはなんでなんだろう。

 

私と他者、周囲っていうのも面白い。僕にとっては非常に大きなテーマ。色々面白いけど、まだうまく書けない。もう少し深めたい。

 

 

もうすぐラマダンが明ける。まだ数日あるけどこちらはもう祝日モード。

静かに過ごせれば一番なんだけどなぁ。中々そうなってくれない。

えーん。

縁が切れたこと 自己開示の難と"Poetry is untranslatable" アウトプットのフォーマット "Everything"

んー、一人縁が切れた。と言ってもその人が友達なのかと問われると微妙なんだし、寧ろ肩の荷が下りた感じもある。

僕は前々から気づくと相談相手みたいなポジションになっちゃうことが多い。お節介する気はないんだけど放っておけないっていうのもあるんだよね。自分が色々あったからなのか、近しい人をそれでなくしたからなのかは分からないけど。

この人は割と長くやり取りしてた人だけど、僕が自己開示することはほぼなかった。でも向こうは自己開示するから一方的に色々知ってたけど。そんなにこう、僕はやり取りしたいなと思ってたわけでもないんだけど、なんだろう、結局放っておけないからやり取りしてたってことに尽きるのかな。

それが結局負担になって、暫く放置してしまっていたら居なくなってた。正直ほっとしたのが一番先に来た。放っておけないっていうのは心配だからっていうのはあるんだけど、あんまり頼って欲しくもないんだよね。必要な時は頼ってくれていいけど、僕は結局自分ができるのは見ていることだけだし、そこで自分で立ち上がれる人じゃないと精神的に近くなれることはないんだと思う。手は貸すけど、貸した手を頼りにされると何かこう、やっぱり、僕と同じ孤独を持ってる人ではないなってなるのかな。

別に引きずってるわけではないと思うけど、20代の初めに年下の子とお付き合いしてた時と同じ構図だなぁって思った。この人とは付き合ってたとかではなくて、ただ好意は伝えられてた感じ。僕は話し相手以上に思ってないから、そうなんだねって流してた。別に好きと思ってくれるのは向こうの勝手だしね。

 

ほっとしたのは多分二重の意味なんだよね。肩の荷が下りたって意味と、ちょっぴり申し訳ないと思いながらもその決断をできる強さがあるなら大丈夫だろうっていうのと、僕から切らなくて済んでよかったというのと、三重だね。その強さがあるなら大丈夫だろうっていうのは別に上から目線じゃないと言いたいけど、ポジション的に保護者的な目線も混じってるから多分上からでもあるんだと思う。元気に生きてくれるといいなぁ。

 

自己開示、この人に限らず僕が自己開示することってあまりない。通じると感じる相手には話すけど、そうでない人には全然自分のことは話さないから。話せないわけでもないけど、話す意味が見当たらないという感じだろうか。そして今は通じると感じる幅がどんどん狭くなってるから、もっと独りになっていくんだけど。

 

伝えてさ、違う意味で受け取られても困るし、大概そうなるし。気持ちのままに話すと大抵誤解される。でも偽って話したくないじゃない?誤解が怖いわけでもないんだけど、あ、伝わってないなって分かるから、うーん…ってなる。

受け取り方は相手次第ならそれでもいいのかなとも思ったけど、誤解はやっぱり違うんだよね。だって発したものが受け取られてもいないのだから。

 

じゃあこっちのアウトプットの問題なのかなとも思うんだけど、そういう言葉って翻訳しちゃったら別物なわけですよね。タルコフスキーがノスタルジアの中でアンドレイに言わせた"Poetry is untranslatable, like the whole of art."と同じ感覚だと思う。僕もこの映画を翻訳でしか観れないのがまた滑稽なわけだけどね。

それは置いておいて、別に自分のこと、特に内面のことをPoetryとして伝えたいわけじゃないんだけど、Poetryが何故Poetryとして存在しているのかと言えば結局はそういうことなんだと思う。そう表現するしかないから生まれる。情景であったり感情であったり(極端な話自分が知覚した世界全ても言語のフィルターを外してしまえば)、個々が共有していないものを自分の知覚に忠実に表現するには、受け手に受け取り方を委ねるしかなくなってくる。

別にPoetryを伝えたいわけじゃないけど、言葉の型枠にはめてしまえばもう別物って感覚があるし、それを発すれば嘘って感覚もあるから、極力フィルターを弱めて感覚に根差した言葉のまま発したくなるわけだよね。選り分けたり組み立てたら別物だから、型枠にはめてクッキーの形にする前のバラバラの状態を発したくなる感じ。それをコネコネして綺麗に何かを造り上げる人もいるけど、僕はそれをしてるとどんどん別のものになっちゃうから。ぐっちゃぐっちゃなものを見てるから綺麗にしたらやっぱり嘘だし。

これはさ、その傍ら、型枠に綺麗にはめることができる自分が居るから認識することでもあるのだけど。でも彼にはもう論文とかそっちを任せればいいわけでね。

 

要するにフォーマットなんだよね。自分なりのフォーマットで発するとなんか別の形で受け取られる、でも別のフォーマットにしちゃったらなんか自分の見てるものと違うって。

アーティストならそれが創作の源泉にでもなるのだろうけど、僕は別にアートを作ろうとも思ってないし、そんな気力や努力する自信もないから、かといって伝わる形にできない頑固さから何とも言えない孤独感に苛まれてるだけなんだろうね。うーん。

そもそもなんで伝わらないものを伝わらないと諦めきれないのだろう?そっちだよね、多分。最初から最後まで孤独が当たり前だと割り切れれば、いや、腑に落ちていれば、こんな感覚は生まれないだろうに。温かさなど知らなければ…って思ったけどそれもそれで寂しいや。

 

steamで大分前に買ってあったEverythingっていうゲーム、やっとダウンロードしてやってみたけどすごく良かった。


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オープンワールドでただひたすら目的もなく探索するゲームはいっぱいあるけど、このゲームは視点を大きな『もの』、小さな『もの』にどんどん移動することができるところが新しい。しかも原子から銀河まで。簡素だけどどこまでも美しく、何とも言えないワクワク感とリラクゼーションを感じられる。自分で好奇心に任せ操作していってもいいし、オートプレイを眺めててもいい。

ゲーム中色んな思考が現れるだけでなく、なんとアラン・ワッツの講演がナレーションのように流れる。アラン・ワッツとゲームという何とも言えない異色な組み合わせなのに、偏見を捨ててみると異色でも何でもなく完全に融合してる。講演を耳だけで聴くのと、視覚も合わせた(しかも調和した)一つの世界として感じるのでは破壊力が全然違う。

人間の視点、自分の持つ通念による呪縛というものが自然と解けていくような、そんな感覚を味わうことができるゲーム。どことなくせがれいじりを感じるのは、せがれいじりがおバカで通念の外側を攻めてきたからで、Everythingはおバカではなく真面目に『視点』で通念の外側を攻めてきてるからなのだろうと思う。

 

まだ1時間しかやってないけどなんかすごく感動した。上に書いてたこととかどうでもよくなる。

なぜか日本語がサポートされてるしPS4もあるみたい。人は選ぶかもしれないけどとってもおすすめ。

 

僕ワッツは敬遠してた部分があった。っていうのは彼の思想的に感情を否定的に捉えてる部分があると感じてたから。でも今回彼の語る世界、特に物質や視点、存在、意識についてとても惹かれたから、部分的にでも得るものがあるような気がする。タイミングもあるのかも。本買ってみようかな。

 

 

あ、そうそう、鳩君は足が地面に着けるようになった。

元気も出て早く外に帰りたいみたいだけど、羽が直って飛べるようにならないと離せないや。