感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

ソムリエ から 埋もれていた人生観 仕事のこと Michele McLaughlin

先週のとある日の早朝に車を運転してる時、急に「ソムリエだ」って思った。そしてその言葉を呑み込んだ瞬間、身体が少し軽くなったような、何かが解かれたような、認められたような感覚があった。

 

こういう時の理解は後から来る。どうして急にソムリエなのかは別に気にならなかった。

ソムリエという技能者の人達は、僕のうろ覚えの記憶から作られたイメージの中では、自らの嗅覚や味覚を守る為に私生活も気を払ってる人達だ。感覚を乱す強い刺激を生活から遠ざける。それは職業上、利くことでも表現することでも、その鋭く、澄み渡った感覚から生まれるものが何より大切だからだろう。

 

新年が明けてからというもの仕事についてかなり迷いが生まれている。そろそろオフィスにも復帰しないといけないのだけど、それが良い方向に進むような気がしない。

サガプリヤの本を読んでから、自らの男性性も女性性もどちらもあの職場を望んでいないのを意識してしまった。少なくとも今の体制では僕がやりたいと思うことにもなかなか手が出せないばかりか、だからといって別の何かを任されるわけでもなく自分でも何をしているのか分からない。人間関係、あの密室の中で行き交う微妙な感情に耐え続ける対価に月給をもらってるような感覚。

 

ここ約一年は休職状態だから無給だけど、その人間関係が無い分とても気持ちが落ち着いているし澄んでいる。またこの半年は別の仕事もしていて、別の形の労働環境、人間関係を経験していて、週5日、複数人で過ごす密室に通うことがどれだけ負担になっていたか意識してしまった。いやまぁ、オフィスの方もごく一般的な仕事と比べればかなり緩いんだけど、そういうことじゃない。フィールドが合ってない。

そんな場所の生活が当たり前になってしまうと、ただでさえ消耗が激しいのに、へとへとになるだけでなく色々と濁ってしまう。

 

先ずは価値観、人生観の問題。人生をどう使いたいか。

次に行動の問題。何をするのか、どんな役割を担うのか。

次に環境。どこでするのか、どんな頻度で、どんな場所で。

 

人生観、僕はやっぱり、人として生まれたのだから色々なものを感じたい、経験したいと思う。それは大概の場合美に繋がるようだ。

そうやって感じたことから何かを思う(苛まれる系ではなく、インスピレーション的なもの)こと。それが僕にとってはとても大切。というよりそうしている時に一番生きている。森にいる時も、散歩している時も、こうやって書いている時も、ただ物思いに耽っている時も、白昼夢の中にいる時も、とても心地が良い。これは僕にとって切り離せない時間だと今頃になって気づく。

感じること。思うこと、偶然なのかこのブログのタイトルにもなってる。思考にばかり気を取られず奔る思いに乗って感覚的に指が動いてる時の心地よさ。

 

オフィスでの時間は拘束され、消耗するばかりでなく、感覚そのものを濁らせてしまう。感じること、思うことを鈍らせる。単なる消耗の中で日々過ごし、土日にやっとこさ回復してまた繰り返す。そして自分がどこに居るのかもわからなくなる。それを耐えて生活費をもらって、そのサイクルを繰り返して一体何になるのだろう?という風に思ってしまった。ということはそこから得るものはこれ以上ないということなのではないだろうか?

 

消耗の中で、濁った中で過ごしていると、生きていないばかりか何も生まれてこない。ただ朦朧と、薄い混沌の中をさまよい続ける。緩慢な死。大げさかな。

例えばの話、混沌の美、狂気の美というのは、混沌や狂気の中からは生まれないと思う。それを過ぎ去り昇華されるか、外側の別の主体によって表現されたものか、内的な別の主体によって表現される必要があると思う。そうでなければやはりそれはただの混沌の一種であり、ただの狂気の一種の域を出ることができない。(憂鬱はより根源的で気の長い拍動のようなものだからその限りではないなぁと思った)

 

混沌であれ狂気であれ別のものであれ、そういった経験を見るものも、表現するものも、主体として鋭く澄んでいることに越したことはなくて、それは丁度水や空気の透明度、空間の静けさのように、見えてるもの、聞こえるものの奥行きだけでなく、立体的な解像度、色彩や音色の細かさまで変わってくるものなのだと思う。だからこう、濁りは避けたいし、それを生むものとは距離を取りたい。それがソムリエに(から?)思った事であって、意識した時に認められた感覚だった。

 

でも僕はここでは外国人だから職探しに難しさがあるということもあって、この仕事を手放そうと思うとちょっとどうしようって思うのだけど…。もう一つの仕事は代わりがいないこともあって遣り甲斐があるし、フレキシブルな部分が特に僕には合ってるとは思うのだけど、プロジェクトだから半年後はどうなるか分からないし。うーん…。

 

仕事と言えば去年はクラウドソーシングのお仕事もやってみて、割に合わない部分もあるとは思ったものの、緊急時にはこれでも食べていけるなぁということにも気づいた。日本と比べればこっち物価安いしね。出会い系サイトへの誘導記事書くライティングとか結構楽しかったな。多少良心は痛むけど、もしかしたら本当に出会うかもしれないしね。

そう考えると休職中の方は手放してもいいような気もする。ただ、今後野生生物や保全関連のプロジェクトをやりたいってなった時にコネとして繋がってるととても便利なのはある。でも果たしてそれが自分軸なのかと問われると怪しい。多少は僕自身の気持ちもあるのだけど、現状で維持してもその気持ちには繋がらないというか…

いや、そもそも手放す必要があるのかどうか。今も休職で困ってないのだし、向こうとの相談次第ではパートやら何やらで籍残すだけでもいいのかもしれない。

 

兎に角こう、今の中途半端な状態だと色んな意味でスペース・隙間がないというのは事実で、新しいことを始めるチャンスも拒んでしまいかねない。そこを先ずどうにかするべきなのかなぁ。

そういえば蕁麻疹が慢性化して2カ月は経ったと思うのだけど、これももしかしたら生活、または在り方、もしくはその双方を見直せという身体からのサインなのかもしれない。僕は気道には出たことないし、どうしても眠れない時用に薬は用意してあるから何とかなってはいるのだけど、やっぱりこう、全身にこの頻度で出るのはちょっと辛い。

なんかキノコ人間みたいで気持ち悪いし。あ、でも唇に出た時はたらこ唇みたいでちょっと面白かった。写真撮っておけばよかったと後悔してる。

 

はい。

ということで人生の価値観として、ソムリエ的に研ぎ澄ました感覚で世界を感じて、味わって生きたいなぁ、いや、感じることで、味わうことで生きるんだなぁと思いました。

行動、何をするのか、その辺はまだ頑なに分からないけど、今の感覚を大事にすればそのうち見えてくる気もしなくもない。大事にしないと見えてくるはずがないと言った方がいいのかもしれない。そうしていれば勝手に生まれるのかもしれない。

 

それ程までに大事なことなのに、今まで全然見てこなかった。多分、どこかで気づいてはいたけど認めきれないから無意識に見えないふりをしていたのだと思う。ごめんね。よろしく。

 

 

これすごく素敵


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これも大好き


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Michele McLaughlin、この人の曲大好きなのばっかり。どれもとても澄んでいて、時に怖いほど深みがある。直接内側に入ってくるような、どこかで通じるような、そんな曲が多い。

曲名を見ていて、やっぱりこの人も通ったんだなぁって思った。

この人のように、こんな風に内も外も味わいたいの。境界がないくらいに。

 

 

それにしてもかゆーい!今夜のはだめなやつ。薬飲んで寝る!おやしゅみ!

泣くことの難しさ トラウマと未消化の感情 インターステラー

先月末かな、今までも浮かんできていたのに全然気にも留めていなかったんだけど、僕の中にはいつも泣いてる何かのイメージがあって。それが他の様々なイメージみたいに時々浮かぶのとは違って、額辺りに意識を持っていくと胸の奥にいつもある感じ。

10年以上前だけどLeft 4 Deadっていうゲームをやったことがあって、それに出てくるWitchっていう敵が丁度そんな感じ。うぅぅ…ってずっと泣いてる。

 

何回か瞑想をしたり意識を落としながらそのイメージを追いかけるのだけど、なんだかうまく掴めない。体感は近いところまでいくのだけど、上手く重なれないというか、掴めないというか。何なんだろう。ただのイメージなのだろうか?それにしては…

 

感情解放の練習とかもやってみたけどやっぱり今一つ。悲しみや嘆きを感じないわけではなくて、寧ろもみくちゃになるぐらいそれはあるし、それは何度も何度も確かめてる。元々メランコリックな方だから、軽い憂鬱くらいの方が居心地がいいくらいで、じっくりとそういった感情に浸るのも好き。

ただ、泣くっていうような反応(反射?)的なそれとはちょっと違う。どう違うのか上手く言えない。他人事感?ちょっと違う。泣くっていう悲しみ方に(喜びでもいいけど)上手く近づけない。重なれない。うーん、悲しみの主体は自分なはずなのに、どこかその自分ごと眺めてるような感じ。解離?離人感っていうとちょっと懐かしさを感じるけれど、ちょっとあれに似てるかもしれない。離人感の酷かった時は人形を眺めてるみたいに自分を見てた。丁度そんな感じで感情に飲まれてる自分を遠巻きに観てはいても、自分が泣くような主体ではない感じ。後遺症的なあれなのかなぁ。

主体的な視点に重なることにコントロールによるストップがかかってるのか、切り離されているのか、回路の使い方を忘れてるのか、その辺りは分からない。

 

涙自体は出る。あくびしたら出るし、痛い時、例えば蜂に刺された時とかも出るし、感情的な部分では何かが深い部分で触れたような時はおしっこがちびるような涙は出たりもする。でもこう、それが特定の感情と結び付くわけではないし、感覚的にも泣くっていうのとは違う。

 

今日もガイド付き瞑想を試してみたんだけど感情の解放っていう部分ではやっぱり上手くいかなかった。ただその中で未消化の記憶を扱うのだけど、一つ分かったことがあった。

ガイドの通りイメージすると色々出てきて、僕の中で一番大きいのはやはり高校時代のものだった。指示通りその中の1人のイメージと向き合い、目を合わせ、ガイドの言う言葉をイメージするのだけど、それが最終的に"I appreciate your actions"とか、相手に触れながら"I love you"っていう方向に向かっていく。いや、頭ではI love you の必要性は理解できる。その過去の記憶の相手に縛られた自分に向けているものなのだから。でもね、たかがイメージ相手に目を向けるので精いっぱいないのにそれは無理だよ。

正直言ってそろそろ清算できると思ってたから、進歩の無さにちょっとショックだった。

今1月。一番辛かった冬が18年前。18年だよ?もうすぐ年齢を二つ折りしたらその時期が真ん中に来るっていうのに。いつまで縛られたら気が済むの?いつまで猫に噛まれたネズミなの?

この部分に限って言えば頭の方が冷静だ。頭ではその時期がなければ今がないことはよく分かるけど、それに感謝しろと言われてもまだまだできない。当時の感情は、やはりすっぽりと抜けてそのまま残ってる。丁度あの時期自分を外側から人形を見るように過ごすことで生き残ったように、そこだけすっぽりと切り離されてる。

 

正確に言えばその後の3年間も色々抜けている。それは多分色々壊れていたからなのだけど。でもその色々壊れていた時期が一番まともに泣いた時期で、最後に泣いた時期なのかな。溜めて溜めて決壊するように、何で泣いてるのか分からないのにベッドに潜って何十分も泣くことがあった時期。

その後は元通りではないけれど、徐々にまた生き始めた。フラッシュバックや発作が減ってからは以前の自分は死んだと思うことで気持ちを切り替えて生きてきた。

 

EMDRを受けたんだよね。目を左右に動かすやつ。頑張って表参道まで行って。

2年引きこもった後少しずつ外に出るようになったんだけど色々酷い有様で、C-PTSDの診断を受けた後投薬やカウンセリングを受けたんだけど、根本的な部分では変化がないので自分で調べてEMDRに行きつき、縋るように通った。外傷の記憶が元になって起きる症状に対してはかなり効果があった。

 

ただ今思えば、多分それは記憶を遠ざけて本能的な反射が起こりづらくなるように接続を弱くしただけなんだよね。勿論当時としては必要だったし、受けて良かったのだけど。その記憶は消化されたのではなく、むしろ遠ざけた分同じ形で残ってる。氷山・パンドラの箱と以前書いた気がするのはそういう感覚からだろう。

やっばーい。そのまま残ってることを意識したら急に淡い恐怖が胃を締め付け始めた。ということでこの話はおしまい。

まぁ、進歩の無さに絶望しつつ、これだけ踏み込んでフラッシュバックも発作も起きないのだから時間は外堀を埋めてくれてるのだとは思う。

 

 

ちょっとこのまま終わると絶対嫌な夢見るからさっき観たインターステラーのことでも書こうかな。

今更急に観てみたくなって観たんだけど凄く良かった。実際に宇宙に出た中盤ではこれもうインターステラーどころかインターギャラクシーだろとか思っちゃったけどそれは些細なこと。

中盤までの終末感といい、極限の人間的な感情のぶつかり合いといい、探検心を抱く者のワンダーをくすぐるような描写といい、散りばめられる王道科学・SF理論といい、SFとスピリチュアルのギリギリを攻める態度(これは序盤でマーフが言う「未知を受け容れるのが科学」という台詞と重なる気がする)といい、広大な宇宙的な時間に対する人の持つ時間の儚さの描写といい(僕の小学校低学年の時からの恐怖)、母なる地球を離れた人間のアウェイ感といい、探検者の孤独の描写といい、それらを引き立てる映像美や音楽といい、終わり方といい、ちょっと詰め込み過ぎ感もあるけど凄くよかった。

一番好きなのはトウモロコシ畑でドローンを追うシーン。ジョセフ・クーパーというキャラクターを美しいシーンの中でとても分かりやすく描いてる。

人間に対して広すぎて厳しすぎる部分をしっかり描いているのに、それでも宇宙、別次元、未来、理論、そういったものに対する希望や憧れを後味として残してくれる素晴らしい作品でした。

 

多分3年くらい前の僕が観てたら3割ぐらい否定的に見てたと思うけど、今なら丸ごと受け入れて楽しめる世界観だった。だから今観ようと思ったんだなぁって、そんな気持ちにさせてくれる。

 

映画自体は今まで気にも留めてないのに昨日急に観たいと思ったんだけど、この曲はピアノカバーが好きでyoutube musicでよく聴いてたんだよね。


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この曲のボイジャー感が好き。もう帰れないことを知りながら広大な宇宙空間の暗闇を独り進んでいく感じ。ボイジャー1号2号って今どこ飛んでるんだろう。

 

良い夢が見れそう。

あけおめ から やりたいこと、気になってること "Jonathan's Song" Doug Hammer

明けましておめでとうございます。

こっちは特にお正月ムードはなく、祝日も1日だけなんですけどね。

栗きんとんと煮黒豆と数の子食べたいなぁ…

 

2022年かぁ、早いなぁ。この調子だとあっという間におじいさんになってそう。そこまで生きればだけど。

抱負とか考えてもどうせそれに向かう性格じゃないからそれは無しでいくけど、今年やりたいこととか今気になってることを書いてみよう。

 

・お絵描き

年末の夜中に多分20年ぶりぐらいに絵の具を使って絵を描いた。年賀状代わりの寅の絵を大切な人、気を許せる人にだけ送ろうと思って。寅には思い入れも出来たしね。

絵具自体は買ってあったんだけど中々手が出なくて放置してあった。

 

僕は絵を描くことに凄く苦手意識がある。その絵を描いていてことあるごとに思い出したのが中学の美術の先生に言われた「いいんだけど、あなたの絵は細々し過ぎ」って言葉だった。何気ない一言が意外と刺さってる感じ。でも僕は今回また細々した絵を描いた。そういえばあの時描いたのも森だった。森に居るのがウサギかトラかの違い。

描いてみて分かったんだけど、絵が細々としてしまうのはそれが楽しいからだ。それは見え方の問題だと思う。トラだけを描くのが難しくて楽しくないのは、トラが周りの色々なものの一部だから。周りの一部としての動物を見てる。逆に、周りの環境抜きで特定の動物をイメージできる?

内的な風景も同じで、内側の僕は、僕の内側の環境の中の小さな小さな存在にしか過ぎない。つまる所、細々し過ぎと否定されたと感じているのは、絵云々より僕の見え方なんだと思う。と、妙に一人で納得してしまった。

好きな絵もトマス・コールのような風景画が多いし、あ、やっぱりそれでいいのかなって思えた。

 

苦手意識もあって中々手が付かないけど、今回それに抗えたのは良かった。描いていて楽しかったし、ここをもっとこうしたいというようなこだわりもあることが分かった。構図とか、色の出し方とか。あともっと細い筆が欲しいな。

あと、絵を描いた後はいつもより活力がある気もする。

 

ということでお絵描きをちょっとずつやってみたい。

 

 

・男性性 女性性

何か引っかかりがあって元日からアニマとか内的な男性性や女性性について調べたり瞑想したりしてた。まだここに何かあるような気がする。

以前も書いたけど、僕の中の女性的な存在は男性性を強く持った存在だった。僕の正反対としてはぴったりかも知れないけど、じゃあ内的な男性性や女性性ってどう捉えたらいいのだろう?そもそも僕はジェンダー観がズレてる部分があるからその影響なのだろうか。それとも置いてきた何かがあるのだろうか。

変容や個性化の流れとして統合があるが、そもそも何がどう統合されればいいのか。どうバランスを取ればよいのだろう。

っていう部分で釈然としなくて、『あなたの内の男と女・愛と自由を手に入れる魔法 (サガプリヤ著)』という少し怪しげな本の電子版を昨日の夜衝動買いして読んでる。まだ1/3くらいだけど、正直すごく面白いし得るものがある。衝動買いの当たりの多さ。

ただ内的な男性・女性という部分に関しては今の所もっと分からなくなってるかも。それは僕が内側の男性を意識したことがなかったからというのもあると思う。だからイメージが中々湧かない。あとこの電子版画像形式なのかマーカー引けないのが地味に不便。

そんなこんなで男性性 女性性についてちょっと深めたい。多分その流れでまたインナーチャイルド的な部分にも触れることになる気がする。そろそろ…

 

 

・カメラレンズの内部清掃

やっぱりカビの写り込みが気になると写真撮ろうかなって気も遠のいてしまう。清掃はちょっと自分でやってみようかなぁと思うんだけど、先ずは分解用の道具を買わないといけない。手が付きそうなときにやればいいかな。

 

 

・一時帰国

これはどうだろうね。もう少しかかるかな。チケット返金してくれればなぁ。

 

 

何か他にも色々浮かんだけど楽しくないことはポイした(先送り主義)。何か色々考えてて思うのは、やっぱりもっと自由になりたいということ。仕事もそうだし、人間関係も、色んなしがらみも、色々。それが駄目ならせめて深い深い所に落ちていきたい。もっと深い所。どこまでいけるのだろう。現実を生きることよりそんなことばっかり考えてる。いやそもそも現実とはって、それを始めると長引くから…

 

 

これも年末出会った曲なんだけどね、これもすごく好き。


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抱負とか目標は無いんだけど、この曲のように過ごしたいなぁって思ったから、これ今年のテーマにする。一年がこうなればいいっていうんじゃなくて、自分の一生をこんな風に見渡せる感覚で日々を過ごしたい。

僕はどうしても後ろを振り返ってばかりだけど、振り返るのもこんな感じならいいのかなって思えた。手放すのではなく、重いと思ってたものが軽くなればいい。質量に縛られない捉え方で。

そうなれば水面に映る過去も軽やかになるし、この先の瞬間に躍動感が生まれるし、重さに潰れてた自分をも愛おしく思えるかもしれない。まだ机上の空論だけど、何となくそんな気がする。

 

はい。

なにはともあれ、今年もよろぴくね!

手のひら から 双方向、受容、世界、子供 "Water Ripples" Enno Aare

手のひらが優しく柔らかいのは、手のひらが優しさや柔らかさを感じることができるだけ繊細だからだ。そんな手のひらだって自らが感じ、受ける姿勢でなければ横暴で硬い手のひらになる。愛撫とビンタの違いのような。どっちも兼ね備えたビンタもあるし、ビンタまでいかなくても、身勝手な振る舞いであれば同じ。

受け容れること。

探るような指先さえも、相手を知り学ぼうとする指先と自分勝手に自分の求める物を触ろうとする指先では全く違うものだよね。それは受容の姿勢の有無ではないだろうか。

 

それは触れられる方も同じで、触れられる方が閉ざしていればやはり冷たく固いものだ。拒絶。双方向で初めて柔らかい安心感が生まれる。双方向の受容。

 

ここまで見るとなんかエッチなこと考えてるみたいだけど、別にそういうわけじゃなくて子供の頃頭を撫でられた時のことを思い浮かべてた。自分が撫でる感覚の鏡に映しながら。

まぁでもエッチなことでも同じなんだろうけどね。センシュアル、性感、その辺りにある美なんかも。

 

双方向であること、受容。これは触覚に限ったことではない。例えば目だってそうだ。見たものを受け入れている目なのか、一方的な視線なのか。温かい目、包み込むような目。吸い込まれるような目。撫でまわすような目になると身勝手さがあるけど。

目と目の場合はより直接的。目が嘘を吐かないのはそういう部分なのだろう。目は隠しようがない部分だから。

 

「何で目を見ないの」って言うじゃん、「その目だから見れないの」って言いたくなる。言えないけど。大人はよく子供に「目を見なさい」って言うけど、礼儀以前にそんな目で見てたら子供が拒絶するのは当たり前だよね。だって大人側が先に条件付きで見ていて、目を見ない子供を拒絶してるのだから。ポツダム宣言的な不平等感。

その無理矢理見させた目でドラゴンボールのかめはめ波の押し合いみたいなのを始めるのは何なんだろうか。格闘技や不良の睨み合い的な。でもこれ動物もやるのか。猫とかよくやってるし、メスをかけたオス同士の闘い系の映像でもよく睨み合いで勝敗決しちゃったりね。目は奥が深い。

 

ヒトは欺くために表情を発達させてきたとどこかで読んだが、そればかりではないと思う。伝える手段としての表情。それもまた双方向のやり取りを深めたのではないだろうか。これは視覚、その鏡。

 

鼻。鼻になると人間は多くの動物に比べて弱いのかもと思ってしまうけど、それでもやはり本能的な部分で鼻は大きな役割を担ってると思う。加齢臭とかもそうだし、逆に好きな人の匂いなんていうのも。

双方向の匂いの受容というと赤ちゃんとお母さんが一番に思い浮かぶ。母の胸の匂いに安心する赤ちゃんと、赤ちゃんの頭の匂いに安心する母親。丁度いい位置に来るんだよね。本能ってどっちが先に来てるんだろう。好きだからいい匂いに感じるのか、いい匂いだから好きと感じるのか。その限りではないのだろうけど。

 

耳、音の受容。声は勿論、音なんかも相手への意識で出し方が変わるから、これも双方向性が大きいと思う。声、言葉でやり取りする動物なのだから当たり前と言えばそうだと思う。赤ちゃんの泣き声にお母さんがやられちゃうのも一方通行だからなのかも。

 

口は触覚も繊細だからともかく、味覚はどうなんだろう。味に双方向なものはないとも言い切れないのかな。わかんない。でも複合的なものは多分色々あるよね。

 

双方向の受容。相手から見て柔らかいとか優しいとか、それは結果でしかない。それを生むのは飽くまで主体的な受容の態度ではないだろうか。

受容の態度。鏡を通して辛く激しいものが返って来るよりは、初めは辛くても受け容れる努力をした方が長い目で見れば安らかな方に向かう気がする。それを求めるなら。

 

ただこの世界はあまりにも辛すぎる。それも反射して返ってきてるものなの?外にあるということは内に持っているから?

解釈はどうとでもできるのだろうけど…

 

問題はね、例えば無理やりの姦通で石打にされる女性をイメージしたとして、石を投げる人の気持ちの理解を試みたとして、石を投げられる人の気持ちの理解を試みたとして、その家族の複雑な心境の理解を試みたとして、レイプする人間の衝動やらの理解を試みたとして、それを見た世論の憤りの理解を試みたとして、その憤りに対する憤りの理解を試みたとして、それを重ねれば重ねるほどになんて世界なんだろう、どうしてこんなデザイン(結果的なものでも)なんだろう、人間ってどうしてっていう絶望の方向に進んでしまうことで。それをおいそれと「そういうものなんだね」って受け入れるには僕の中では色んなものが絡みつきすぎてしまっている。

 

例えば3歳児なら、理解という意味では理解ではないのかもしれないけど、そういう軸とは別に物事を見つめられるだろうし、世界と自分が切り離されていない分、受け入れるまでもなく一つとして在ることができるのではないだろうか。

そもそも僕が上で書いたような理解の努力なんてもの自体が、手の届かない虹を掴もうとするようにある意味無意味で馬鹿げていて根本から誤っているかもしれないものである以上、理解という意味での理解を求めることにどこまでの意味があるだろうか?

 

やっぱりその部分がこう、うーん。

経験とは何なのだろう。知識とは、知能とは。

全てを捨てて幼児退行すれば僕の中の問題は解決するのかもしれないけれど、振出しに戻ったらまた始めなくてはならなくなってしまうかもしれないし、だから子供の心に学びたいということなのだろうか。よくわかんないけど。

 

 

ところでもう年末ですね。早い。年の瀬にいったい何を書いてるんだろうか。まぁいいや。

僕は今年は体調を崩しやすい一年でした。最近は毎日蕁麻疹が出てる。なんでだろう。運動を習慣づけてから腰とか首は良くなったんだけどなぁ。皆さん良いお年をお迎えくださいね。

 

そうそう、今日とっても好きな曲に出会ったの。


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とってもこう、しゅき。共振。

お散歩 から 月 悲しみと喪失 欺瞞と信念 Kai Engel

今日のお散歩、月明かりに照らされる積乱雲がとても綺麗だった。

満月前後の夜は明るすぎるくらいだけど、月明かりが映し出す景色は大好き。柔らかな明りに照らされてぼんやり浮き上がるように見える。それは何というかこう、内側にある景色に似ている。

 

月そのものは海の方に向かって吹く風に乗って流れる薄雲が月を覆う時とか、やっぱり雲とのコンビネーションが好き。雲の部分部分の厚さによって顔色を変え続ける月。その様子はいつまででも見ていたくなる。今日は少し厚めの雲が通りかかった時に、殆んど覆われてしまった月の姿が頭に残ってる。

その雲もまた月明かりや輝く星々がなければ僕らからは見えないのだ。それが見えている時点で、やはり空は月が支配していたのだろう。その事実がまた月の寛大さを表しているような気がした。

 

夜のお散歩をしている時は大抵、色んな思考や記憶や感情が目まぐるしく浮かんでは消えていて、時々気になったものを手にとっては精査し、また連想ゲームを始め、みたいなことを繰り返している。夜のお散歩ではいつもアパートメントの20棟くらいがまとまった同じフェーズの中を歩いているのだけど、普段は3週くらいはするのかな。歩く長さは決まっていなくて、そろそろいいかなって思ったら帰るし、もうちょっと続けたいって時には長めに歩いてる。歩くのが目的というよりはやはり頭や感情の整理なのだろう。

今日もそうだったけど、歩いていて、気づくとサンダルの底が何度も地面を擦れるようになって少しふらふらしだす時が結構ある。そういう時は大抵、定まっていないながらも浮いては消える思考のあぶくが深い部分に根差す時な気がする。今夜も何だか、悲しみや喪失について考えていることが多かった。そうやって記憶や感情を手掛かりに概念を繋ぎ合わせて消化しようとしたり、次の思考へ渡り歩いたりしている。一周半歩いた頃にはサンダルの底を擦るような歩き方になっていた。体力は余ってるはずなのに、不思議。

 

悲しみと喪失はイコールではないのだけど、大体僕の中の悲しみは喪失と繋がる気がした。大切な人や繋がりの喪失、大切なものの喪失、希望の喪失。期待を裏切ったなんていうのも結局その人の期待を受けていた自分に対する自信の喪失、もしくはその人の自分に対する好意や期待の喪失(の予感)だったりもするし、嘘や裏切りの悲しみは信頼やロイヤルティの喪失でもあるし、苦しんでいる人を見た時の悲しみは不条理の意識によるもので、かつて自分の味わった苦痛の末の希望の喪失と重ね合わせてのものだったりもする。その部分の解像度を低くして短縮すれば単に共感なのだけど。

 

寂しさ、迷子感、孤独感、寒さ、恋しさなんかは多少悲しみや喪失と似ているけど、どれも質の違うものだ。なんてことも一々想起して再現しては感触を確かめて比べて、ってやっていたので、やっぱりお散歩中は結構精神力か何かを消耗するのだと思う。そう、消耗だ。消耗、疲弊。お散歩終了間近は大体そんな感じの状態。

 

勿論そんなことばかりをやっているのではなくて、空を見たり、景色を切り取ったり、風を感じたり、不快な異臭が鼻を掠めては悲しさと嫌悪が入り混じったような気持になったり、アスファルトの感触に悲しくなったり、猫や犬と戯れたり、葉っぱに触れてみたり、ただ歩いていても色んな事をしてる。

本当はお散歩中も、風を感じながらじっと座って空を眺める時間も欲しいけど、なにぶん蚊が多いのです。デングも出るしね。

 

そうそう、あとね、お散歩中『今』って何だろうって考えてた時、頭の中で『架け橋』って声が聞こえて、そっかぁと頷いてしまった。何でそっかぁなのかは考えればいくらでも理由は付くんだけど、聞こえた瞬間のそっかぁって感じはもっと深かったな。なんでだろう。僕の頭より僕の理解を知ってる僕がいるのだろうか。さもありなんっていうよりまぁそうだろうなって感じ。

これはまぁ、今続けると良くない方向に行きそうだからやめる。この判断力は誉めてあげる。変な部分は成長したな。

 

 

大切な人や繋がりの喪失は、喪失だから悲しい。ということはそれが喪失じゃなくなれば悲しさも単なる長期の別れ程度になるのだろう。

実際そういう考え方は世の中に沢山ある。僕にもそういうものを信じたいっていう気持ちはあるけど、だからこそ、『だから信じたい』のようなある種の欺瞞に終始することもできないのではないだろうか。

自己欺瞞が信念に混じったとしてその欺瞞を打ち負かすのが信念の強さだと言えるのだろうか。問題は欺瞞が混じるのを見てしまっていることであって、ということはその程度の信念だと見え透いてしまっていることにあるのではないか。

そこで妥協ができないからいつまで経っても信念を疑ってしまうのだろう。ほら、妥協とか言っちゃって。

でもそもそも、信念を抱く時に大事なのはその軸なのだろうか。腑に落ちなければ、実感がなければどうやって?仮に無理矢理腑に落としたとして、それが欺瞞でないと言えるだろうか。だからこそ腑に落とすのではなく落ちなければならない。それには何かが足りない。

ということは足りないのは信念ではなかった。別の何かだ。もしくは…

 

 

月明かりっていうと最近この曲好き。今日のお散歩の時も流れた。


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今更調べたけどKai Engelはロシアの人みたい。なんか納得。

他にも好きな曲いっぱいある。数曲しか知らないけどこの2曲もすごく好き。

 


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友人のこと 縁 複雑な感情の場

月に2回友人に現地語をzoomで教えるようになって8カ月。

昔日本語教師のコースを修了していることもあり、授業の組み立てなんかはあんまり難がなかった。簡単な講座なのでしっかりカリキュラムを組むことはしてないけど、ぼんやりとイメージは作ってる。

話を持ってきてくれたのも向こうからだった。あんまりこう、僕は人にものを教えるのは得意ではないので普段なら避けて通るのだけど、その人からの頼みだったので引き受けることにした。

引き受けたという体だけど、実際は色々と億劫になりがちな僕に機会を作ってくれたんだなという気がしていて、僕はそれが嬉しかったし蔑に出来ないと感じたから応えたような感じ。

 

出会ったのは13年前。僕はまだまだどん底から抜け出し切れていない時だったけど、当時はその友人のイベントの手伝いなんかをさせてもらったり、会に参加させてもらったりしたことで明かりを見ることができた。

20歳くらい上なのに僕のことを友人と言ってくれる人であり、母性的な包容力を持った人(自分ではそんなことないと言うだろうけど)。そして数少ない、僕の目を見て話してくれる人。

 

僕がこちらに移り住み、その人も日本で引っ越したこともあり、ここ10年くらいは疎遠だった。それでもこちらに来た際は連絡を頂いてお茶したりもしたのだけど。癌で、しかもそれが末期なことを知ったのはZoom講座が始まった後だったのだけど、以前会った時に大病をしたと聞いていたし、「やりたいことはやれる内にやっておきたい」という言葉の影で時折覗くどこかニヒルな作り笑顔からも何となく察してはいた。

 

だから、講座の話を持ってきていただいた時はその友人のやりたいことに関われるのだというのが嬉しかったし、単純にまたその人との時間が持てるのも嬉しかった。

何より、上手く言えないのだけど、その話をもらった時には色々な人たちとの縁の切り替わりを感じていて、切り替わり先の一つがその人だと思えたのもまた嬉しかったのだった。自分を生きていて深い優しさを持った人なのだけど、友人であり尊敬もしていて波長も合うから、そっちに行っていいんだなぁっていうよく分からない安心感。

 

先週末の講座ではその人の疲れがとても顔に出ていて心配だった。忙しかったからその間打たなかった抗がん剤を打ったそうで、それでしんどいのもあるらしい。その人はそれを軽い話のように言うから、僕もそれに合わせて心配し過ぎないように「あんまり無理し過ぎないで下さいね」っていう程度に返す。作り笑顔がばれているのかは分からないが。

(表面上は)生をあまり重く捉えない人だからというのもあるだろうし、病を重く捉えたくないというのもあるのだろう。

 

その人は今年はとても忙しそうだ。大変だろうなぁとも思うけど、でも日々が充実してるのだろうとも思う。それこそ、「やりたいことをやれる内にやっている」のだから。

でも、その多忙に身を投じる姿が、先週末のやつれた姿からは、見たくないものを見ないためのものなのかも、という風に見えてしまって、それからというもの僕は余計なことを考えてしまっている。

いつもなら「もう少しゆっくりして下さいね」なんて口から出そうにもなるけど、「やりたいことがやれる内」を意識しているような人にそんなことを言うのもある意味軽薄なのではないかとか、ゆっくりするように言うことも、考えなくてもいいことを考える時間を強いるようなことなのかもしれないとか。

 

そういうことを考えるのが余計なことと書いたのは、失言を恐れるとかそういう類のことではなくて、そんなことを僕が考えてしまっていては、真摯にその人と、そしてその人との時間と向き合えないのではないだろうか。ということ。

 

その講座にはもう一人参加者さんがいて、その方はこの友人と同じ病気で奥さんをなくしている方。この2人も何かしらの縁、繋がりがあってのことだと思うけど、友人が体調悪そうにしている時、この方が友人に対して投げかける軽い労りの言葉とは不釣り合いな寂しそうな目がいつも印象に残る。改めて不思議な場だと思う。

 

僕はやはりいつも感情を見ている。煮え切らず思考も感情もごちゃごちゃしているのも、先のことを思ってしまったからというよりは、友人の複雑な感情に触れてのことだろう。複雑だから、どれを見ていいのか分からなくなっている。

 

そもそもそんな他人の持ち物ではなく、自分の持ち物に責任を持ってその心配をすればいいだけのはずなのに。

 

友人からは一種の夢のような、やりたいことを聞いていた。それがこの言葉を学ぶ理由だとも。僕はその人の病気など端から無かったかのように、講座の時間を大切にして、その夢を応援したいと改めて思った。それがこの場を作ってくれた友人に応える真摯な態度だと思う。

やりたいことを応援したいけど、やれる内という期間が見えることで場に対する気持ちを濁したくない。

 

普段メメント・モリを意識したいと思っておきながら、他人のそれに対しては引っ張られたくないというのは我ながら自分勝手が過ぎる気もするけれど、意識するとやはり濁ってしまうから。

別れは必ず訪れるから、だから今を大切にできるのは分かるのだけど、それ抜きで大切には出来ないだろうか。

 

 

主観的な死は誰かの言うように概念の域を出ることができないとしても、客観的な死はやはり現象であり再現性のある反応であるというジレンマ。

他人の、死生観を土台にした感情に対しては自分の死生観を適応することはやはりできないのだろうな、ということを今日大切な人とメッセージをやり取りしてて思った。

それを乗り越えるには、人の死が重くなり過ぎているのかもしれない。その善し悪しは別として。その重さを無視しようとしてもやっぱりさっきのジレンマにぶつかってしまう。

妹の結婚式 から 家庭内の役割 気持ち悪さ 生と皮膚

そういえばね、この前妹の結婚式にオンラインで参加したの。事実上結婚は半年くらい前にしてて式がようやくって感じだったんだけど。

僕は入籍前には彼氏君から挨拶はあるだろうなとか思ってたんだけど一向になく、式の前ぐらいにはあるだろうと思ってたけど一向になく。結局式の最中オンラインで「初めまして」の挨拶になった。

 

ただでさえオンラインで参加とかアレなのに、式の最中「初めまして」ってなんか向こうも参加者に悪い印象持たれちゃいそうだなぁとか思ったり(傍から見たら半年前から家族だったわけで)、でも知ったこっちゃないよねとか思ったり。

 

僕も上手く言えない寂しさ的な感情があって、ちょっと意地っ張りモードになってた。挨拶一つで馬鹿らしいとも思うけどね。

本当は妹の結婚式くらいには髪を切ろうかなぁとも思ってたけど(フック船長くらいになってる)、いつしかこの結婚式のために髪を切るのはやっぱりおかしいと思うようになって結局切らなかったし。(また切るタイミングを逃してしまった。折角だから寄付してもいいなと思ってるからもう少し伸ばしてもいいけど。)

当日は髪は後ろで縛って口髭はワックスで整えて(ビーワックスとココナッツオイルで作り置いてある)、白と青のバティックシャツで参加した。さぞ変な奴に映っただろう(得意げ)

 

一応晴れの場ではあるし、妹に対してはおめでとうという気持ちは湧いてたんだけど、彼氏君に対してはどう接していいか想像が上手くできなかった。直接話したことなく名前も顔もうろ覚えな相手に「おめでとう」なんて心にもないことを言うのはそれはそれで不誠実かなぁとか思ったり。じゃあ妹に「おめでとう」と言って彼氏君には「初めまして」だけ言おうかっていうとそれもなんかあれじゃん?

 

でまぁ当日になってオンラインで参加すると向こうから「初めまして」って言われてね、そしたら言えちゃうんだよね。「どうも初めまして、この度はおめでとうございます」って。ついでに彼氏君の親族と何故か会話になっちゃった時も会釈したり愛想笑しながらちゃんと挨拶しちゃってさ。妹の手前とか知ったこっちゃないねという心裏腹。

こういう時ってそこにいるのが自分で自分じゃないんだよね。自分なのに何なのこいつ?って思う。ちゃんとした人ぶっちゃって気持ち悪い。

何でそこに嫌悪を抱くのかわからないけど。

 

もしかして皆内心はそうだったりするのかな?表で愛想よくしながら内側ではそんな自分自身を嘲笑って。お互いがそれやってたら滑稽でなんかいいな。

 

でも何はともあれ皆嬉しそうだったり楽しそうで、それは何より良かったと思う。

 

挨拶がなかったことに対しての寂しさってよく考えてみると純粋な兄としての感覚ではなさそうなんだよね。それ言い出すとそもそも純粋な兄とは何なのかって話だけど。

うちは僕が17くらいの時に親が離婚して、それより前から父親が割とどうしようもなくて。7歳下の妹に何か特別なことをしたかと聞かれれば別にしてないんだけど、感覚的にはなんか兄って感覚はそもそも薄くて、何かよく分かんないものになってるんだよね。父親がいないから僕に挨拶が来るのは当たり前みたいな感覚もあったのだろうけど、かといって別に父親代わりというわけでもないし、今だって毎年誕生日プレゼント贈るくらいで普段からメッセージやり取りするわけでもない。

 

うちってみんなスタンドプレイヤーだったけど、繋がりがないかと言えばそうでもなく、ちょっと特殊なのかも。まぁ、何を以て普通の家族というのかもわからないけど。

 

結婚式の最中は弟とLineでやり取りもした。食べ物の写真送ってくるから行けなかった僕は羨ましがってるふりをしたり。本心では割とどうでもよかった。ただ、彼も難しい時期を脱したんだなぁって。

結婚式自体も本当は行きたくもなかったし、オンライン参加も面倒だったけど、妹とのメッセージでは行きたかった自分を演じていた。いや、行きたかったのは事実だよ。義務としてだけど。

 

式の後、新郎新婦とうちの家族が写った集合写真が家族のLineグループに送られてきたんだけど、僕はオンライン参加してた時の自分の画像(ちょっとふざけた顔のやつ)を切り抜いてその集合写真の右上に貼ってそのグループに送っていた。こんなおチャラけて何がしたいんだろうって自分でも思った。

 

妹からは「やれやれ…」って感じのスタンプが貼られ、他の家族からも想定通りの反応があって、僕はそれにとても安心していた。

 

義務を果たした感覚。

構ってちゃん的に仲間外れにされたくない感の演出をしながらわざと呆れられて一石二鳥。なぜ呆れられたいか?そうすれば場が保てるから。僕はある意味しっかりした兄であってはいけないようだ。

 

冷静に考えると、何でこんなひとりひとりの感情を逐一把握して操作してるんだろうって気付いて、つくづくピエロなんだなぁと思った。

役割なのだろう。家庭内での。

 

そういえば妹の夫君は弟より年上と聞いた時も何かざわついた。みんなうまく付き合ってくれればいいのだけど…。は?何で僕がそんなこと気にしてるんだろうか。知ったこっちゃない。ぷんすか。

 

母はずっと苦労人で、父親はめちゃくちゃで、僕は不甲斐ない長男で、5歳下の弟は色々難しい期間が長くあって、7歳下の妹は兄弟で唯一のしっかり屋さんだけど色々難しい真ん中を見下してる部分があったり、プライド高めで気難しい所があったり。

 

いつから僕はこんな手を使ってあの子たちの機嫌を保つことを覚えたのか。全然記憶にない。歳離れてたからそれなりに面倒見は良かったとは思うけど、いつから弟や妹のご機嫌まで窺うようになったのか。なんだか気持ち悪い。今まで無意識にしてたことを急に意識しちゃったからかすごく気持ち悪い。

しかも今頭に蘇ったのが母の「いつも折れてくれてありがとう」って言葉だった。「うわぁ…」ってなってる。僕は結局母に喜ばれたいから諂ってたというのだろうか。だってさぁ、母大変だったしさ、小学生の僕にはそういうことしかできないしさ…これ以上苦労すると救いがないって思ったから。

そう思ったの?わからなくもないけど…気持ち悪。

 

そのチャラけた写真のこと、母だけは真意を何となく察している気がしていた。その理由が分かった気がする。

何で今日のに限ってこんなに気持ち悪いんだろうか。自己嫌悪とは異質の気持ち悪さ。

もう寝なきゃ。ここでやめとこ。

 

 

オチがないんだけどさ、このまま終わるのなんか嫌だから、今日ふと思ったことを書いておこう。

人体で生に一番近いのは皮膚なのかもしれないって思った。骨や肉は生を象徴しないし、むしろ死のメタファーだったりする。内臓だっていくらそれが動いていても、それそのものが見えたらもう生とは切り離される。そんな僕らの身体の一番外側にあって、外界という知覚される世界から一番近くにある皮膚は、生きているものと死んでいるものの区別もその血色や張り、温度なんかから容易にできる部位でもある。そして皮膚は外気から血肉を守ってくれる衣でもある。人体のどの部位もそれなしの生は難しいのだろうけど、皮膚はそれなしで生き得ない一番外側のもの。

そんな皮膚は内外の境界でありながら知覚の最前線であって、能動的である生としても観察される生としても、一番生に近いのは皮膚なのかもって。

どうでもいいけどね。おやすみ!