感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

チャクラ 瞑想 目を絞るという思いつき

深く知りもしないで書くけど、 チャクラって結構合理的なものだと思うんですよね。いや、精神的なものと合理的なものの懸け橋というのかな。

その人の内的な状態が身体的な症状と繋がる、そのループの中でそれが溜まる場所というか。それは確かに上手くバランスよく流れれば、状態にも変化があるのかなぁとも思う。

主要なのは1~7と番号が振られてるらしく、僕は1(会陰)と5(喉)が滞っていて、4(心臓)と7(頭頂)が過剰気味らしい。

 

こういうチェックテストって個人に合わせたものではないけれど、目安にはなるのかなと思う。

実際そういう瞑想を試してみても難があるのが5だし、以前よりフォーカスが難しくなってるのが1だと感じる。性格的にも現状的にも順当だと思う。

 

喉は極端にあれだけど、上半身と下半身のバランスが悪いのもわかる。例えば性欲の衰えも感じていてちょっとどうにかしたいなぁと思っているのだけど、それはつまり根の部分であって、現実世界での生の意欲にも関わるのかなって。情熱にとっても性(力)は大事だと思う。活力的に生きたいんだけどね。

 

過剰な部分はまぁ性格もあるだろうから、多分極端に弱い部分を整えれば他の部分もバランス的に真ん中に向かう気がする。いつもの適当な楽観。

 

そんなこんなで閉じている部分を開き、バランスを整える瞑想をやってみたのだけど、この種の瞑想は快感がある。凄く汗をかいた。難のある部分の通りがよくなるともっと気持ち良いのだろうな(欲望)

 

と、ここまでは前置き。ちょっと整理したくて長くなった。

 

この瞑想をやってスッキリした気分で寝た次の朝、ふと思ったことがあるんですよ。

現実世界の自分を主体的に作ってもいいのかなって。それはやはり僕から見ても像ではあるのだけど、少なくとも外から勝手に押し付けられるものではない。

僕の中の自分、僕にとっての僕っていうのが抽象的な世界の存在でしかなくて、肉体とも乖離している。

それは地面を歩いてる自分に僕がいないからなのかなとかよく分からないことを思い、そうだなぁと妙に納得した朝だった。

感覚的には根を下ろす感じなのかな。瞑想音声中のルートって言葉に影響を受けたのかもしれない。

 

何て言うのかな。僕はいつも上から自分を見下ろしていて、それでいて内側から目を通して外を見てもどこかバーチャルに感じていて、そして色んな視点や想像を転々としているんですよね。何かを肉体的に感じた時、知覚した時だけこの現実という世界の肉体と一体感を感じ、外界との接点が皮膚になるけど、気づけばまたふわふわと飛んでどこかを転々と彷徨ってる。別に僕はそれでいいとも思うけど、地面を歩いてる自分の視点に絞った人格、というのかな、他の視点を閉じた時の僕に主導権を与えるのも悪くないのかなとも思った。他の目を閉じた時にこの肉体と親和性が生まれるというのかな。

それは最初の内は意図的にやらないといけないと思うのだけど、なんかできる気がする。

多分いつもの粘土細工のようなもので、他の目を閉じた状態で形を作っていけば、あとは自然とその僕ができる気がする。既に居るとは思うから、入っていくというのかな。

 

2,3日前に思った事だからわけわかんなくなってきた。

 

まぁただ、普段ならこんな考えは浮かばないだろうなってことがクリアに浮かんだ朝だった。

そのうちチャラくなって渋谷でナンパしてたりしてね。なんてことはないとは思うけど、なんかこう、さっき書いた根の部分じゃなくても、例えば喉の部分では、アウトプットについて何かが浮かんだりするのかなって。

変わりたい!とか思ってるわけでもないけど(思ってるの?)、そういう変化の要素が生まれるのは楽しいよね。

飛んでいく風船 忘れること 純真と新鮮

運転しながら次々に浮かぶイメージや思考、その中でとても輝いて見えるものを大切に大切に、今度こそ絶対になくさないようにしっかり掴んでいた。

もらったヘリウム風船を飛ばしてしまい、悲しい思いをしたことのある子が、今もらった新しい風船を今度こそ無くさないぞ、大切にするぞという決意。

 

でも次々に浮かぶものたちはどれも大切で、魅力的で、僕はすぐに両手に風船を持ちながら新しい風船を眺めるようになる。そして心奪われたことに気づいたときには、大切にしようと思ったばかりの風船は既に僕の手を離れていた。

 

この大切な瞬間、イメージのゴールドラッシュはメモを取れる時には起こらない。メモを取れば固定できるけど、それは錨を下ろすようなもので、惑星間を飛び跳ね続けるような、点いては消えるクリスマスツリーのイルミネーションのような状態にはなかなか入ることができない。それは僕の場合、流れに乗ったような感覚のときに起こるようだ。

 

Xファイルのスカリーのようにボイスレコーダーでも持ち歩いてもいいけど、僕は自分の声が嫌いだから聞き返すことをしないだろう。

 

それにもしかしたら、消えるからこそ浮かぶのかもしれない。忘れるからこそ新鮮さを持って生まれるし、それは繰り返される。

儚いけれど、だからこその美しさなのだろうし、今この場で新鮮さをもって目にし、触れるからこそのワンダーなのだろう。

 

それはいろんなことに当てはまるのではないだろうか。

例えば生死。輪廻転生が存在して、それに意味があると言われた時、記憶がないのにどうして自分だと言えるのかとか疑り深い僕は思ってしまうけれど、忘れることに意味があるというのなら僕の中の解釈の溝が埋まるかもしれない。新鮮な経験、それがもたらすもの。わかんないけど、ふとそう思った。

 

 

飛んでいった風船は何度も僕の手に戻ってきていて、恐らくその都度その時一番僕が惹かれる色や形をしている。だとすると大切なのはどこだろう?新鮮だから決まった色や形にならないでくれる。

 

だから新鮮さは僕にとって本当に大切なものだ。それを忘れっぽさが与えてくれるなら、忘れっぽさに感謝しなければならないと思った。

 

蛇足

ほらあれ、北斗の拳のユダが最期、レイの飛翔白麗の舞に心奪われるじゃないですか。あの感覚。ハッとした時にはもう…的な。

 

1度レイに目(心)を奪われた後必死にそれを否定してきたユダが、再びその姿に見惚れた瞬間。そこに純真がある。彼はレイの美しさを認めた時、ずっと否定してきた自らの純真を同時に認めたのだと思う。外と内、二重に抱かれる最期。とても温かく安らかな死ではないだろうか?あれ痛そうだけど。

 

純真さと受け取るものの新鮮さ、そしてワンダー、探求心は繋がるものだと思う。どう繋がるかは聞かないで。

ハイハイ

たまにはナウでホットな話題も考えてみようかな。

 

両生類のハイハイにしよう。

両生類のハイハイと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、両生類とは何か(分類学)という疑問なんだけど、それはきっとその人達にとってはどうでもいいんだろうな。でもこのネーミング、気にしたら負けと思っても気になってしまう。動画を見て思い浮かぶのはナマケモノの歩行かな。

 

センサリーアクティビティも同じような疑問を持っていた。というかこれもセンサリーの一環になるのかな。

発達の為に必要な運動が十分にされない(ことが原因で立ち遅れる子供が出る)という土台に立って、じゃあ段階ごとに効果があるこういう運動をしましょうという考え。

先ずその遅れという曖昧な部分をどういうレベルでどういう範囲でどのように整理しようというのか。

例えば発達障害とラベルを貼られる子に対し、何か一つ原因仮説が見つかると全部それのせいにして納得しようとするような傾向が(特に発達支援を学ぶ親に)あると感じたことがあったけど、それってどうなのだろうか。それだけ思い悩んでいるのは分かるけど、救われようとしているのは自分ではないだろうか。自分が救われるための行為がいけないと言いたいわけじゃなくて、ただ、それを子供のためと言いながらやるのは逆だと思う。

 

こういう運動でも、カリキュラムでも、全員に適用するのは時期尚早というか、その前に考えるべきことがあるのではないかと思う。

安全ばかり求め、スタンダードばかり目指せば向かう先は同じだろう。一人一人の幅に焦点を当て、それを掘り下げることができないのなら、それもただの暴論になる。

 

それと同時に、光を与え闇を照らすという心持で続いてきた教育の一つの問題は、光と闇の見極めすら一人一人の教師の幅に大きく左右される点であることも忘れない方がいいと思う。それは時に、ではなくしょっちゅう、光(と教師が思うもの)の押しつけを生むことになる。

教師と生徒、教師と園児、その立場の違いの明確さを捨てられない以上、教育はその種の暴力の発生源であり続けるしかないと思う。それは避けることのできない割合の問題の面が大きい気がしてる。

 

例えば発達の中に自然を見る場合、子供全体に共通の自然があるのか、それぞれの子供に自然があるのか、子供以上の何かに共通の自然なのか、ある種の子供に共通の自然なのか、何か自然を見つけたというのならその部分の問いを明確にしないとならない。自然とは何であるか、その認識が変わり続ける以上、我々は個人として、そして全体としてその自然を問い続ける必要があると思う。

不自然はその上で語られるべきだろうし、その不自然が取り巻く環境によっていかに変わるのかも吟味して、ようやくその不自然が、例えば不自然の中で生まれる自然であると言うことができるのだと思う。対処を模索するのはその後の話だと思うし、その対処も、極力人はヒトとしての自然を基盤に考えた方がいいのではないかと僕は思っている。だいぶ前に回帰云々って書いた気がするけど、僕は回帰志向なのです。

 

まぁほら、自然に還れどうこうではなく(僕は自然に還りたいけど)、文明の中で人が自然を忘れたなら先ず自然に自然を学ぶべきだと思う。

センサリーアクティビティでやることは、自然の中で子供が勝手に、自然と学ぶこと、獲得することであって、それが損なわれる不自然な環境が先ずおかしいと考える方が僕は合う。

であるなら、なぜ両生類のハイハイだかを無理やり均等にやらせる必要があるのか。不自然に合わせるのは、全員が不自然という前提からなのか、取りあえず良さそうだから取り入れただけなのか、子供の発達に何かあればクレームが来るからなのか、全員に必要だという何か強い科学的な根拠があるのか、楽しいからか。

 

そもそも、無理やりやらせる時点で本来の理念はねじ曲がっている。自主性を重視して楽しくやる分には良いツールであると思うのだけど。

この辺りは(僕もまだ第一編も読み終わってないけど)ジャン=ジャック・ルソーがエミールの序盤で散々書いていた。それも250年以上前に。(問題のひとつの根本は、理念はいつもねじ曲がってしまうことにもあると思う。それも割合の問題であってどこでも必ず起きる。誰もが持っている性質を関係性が助長しているに過ぎないから、幅の要素に目を向ける必要があると思う。)

 

いずれにせよ、教師・園が彼らの基準で良さそうなLEDライトで照らしているから、子供が木漏れ日を浴びて自ら成長することを忘れてしまうのではないだろうか。1500ルクスの照明で照らし続けていれば、柔らかく温かな木漏れ日など見えなくなってしまう。

この理性を謳う啓蒙的な価値観ほど、理性を根本から欠いていたり意図の下歪んでたりするものだと思うから。それを起こすのが今の教育システムだと思う。知らないけど。

 

 

日付変わっちゃったからおしまい!多分これも私怨成分が濃いからまとまらないだろうね。

反対に言えば、僕のような偏った人間が僕の思う光で照らしたらそれはもう大変なことになるだろうという話だよね。良いという確信も人によって違うのだし。

 

無理やりまとめれば、カエルやイモリに謝れということかな。

父親の夢から 秘伝☆殴られ方講座

父親と母が出る夢を見た。 2020/8/1

 

最初は自分の子供とこのアパートに居るのだけど、途中から何故か父親が混じってた。

父親は母が作った菓子を冷蔵庫から出して知り合いの家に行ってしまった。

 

気づけば弟に代わった子供(下の子)が勝手に外に出ていてヒヤッとするのだけど、それでも戻ってきたから安心した。

 

夜中トイレに行った時に見た下の子と昔の弟が被り、妻と母親が被ったのか、ここで一気に時が戻る。主観の夢で、僕はそのまま7,8歳ぐらいに戻ってた。上の子はこの夢では下の子が帰ってきた時に一緒に喜んだ姿が見えたきり。

 

アパートの間取りは変わらないのだけど、家の雰囲気は昔住んでいた祖父所有の雑居ビルの空気に代わり、全体的に暗かった。夕方、4時を過ぎた頃の暗さ。大きな窓は全部北向きだったから。あの空気、久々に感じた。不思議な感じだけど、嬉しさは感じないな。嫌な懐かしさ。それを懐かしいというのか僕の語彙力ではわからない。

この夢の中の記憶、意識するとその時の家の記憶と切り替えられる。繋がってる。

 

暫くすると母が買い物から帰ってきて、玄関口で会話した。そこで弟が勝手に外に出てしまったことを話す。でも帰ってきたし何もなかった、良かったねって。

階段に背を向ける母の後ろに父親が帰ってきたのが見えた。彼は僕に目で合図をするけど、何が言いたいか分からない。ここで何か誤解が生まれたことに気付く。

 

その後家に入り暫くして、父親に向かって怒り出す母。後から考えれば監督責任の所在は彼にあるので当然だと思うし、ほったらかしで行った先はどこなのだろうとも思った。

でもこの時、母は余計なことをしてくれたなぁ(いつもそうだよなぁ)とか、これは駄目なパターンだなって思った。そう、僕の中で一定のパターンができてるから、それに沿った夢なのか、それとも元に何か出来事がある夢なのかは判断が難しい。

駄目な時、平和が崩れる時は直観的に分かった。うちの家庭の平和というのは、それほど脆い平和だった。

 

その後、父親がもの凄い形相で僕に向かってきた。僕が何かをチクったと思われてるんだろうなぁとすぐにわかった。それに関しては誤解なのだけど。僕ほど秘密を守る人間は少ないはずなのに、人生で何度この誤解を受けたことだろうか。誤解というより、もう発散なんだよね。

僕が喋らなければ真実なんて結局それが真実になるわけで、いつも僕が悪いまま終わるしね。歪んでるなぁ。まぁ僕が言えるのは僕が悪いということだけだからね。

 

最初の2発は僕が避けてしまい、あまり気持ちよく入らなかったようだった。覚悟を決めた3発目が綺麗に入った時に目が醒めた。

 

そうだなぁ。怒って殴りに来る相手はスカッとさせてあげないと終わらないから、勝手に防御態勢を取る自分の身体を押さえつけてでも覚悟を決めてしまった方がいいんだよ。という意味の分からない僕の中のセオリーを思い出した。

人間、自分に合った楽な方法を見つけ、自分に言い聞かせるのは得意だよね。

 

 

実際、日常的に殴られる側にとって大事なのはいかに防御するか、避けるかではない。

本当に大事なのは予測と覚悟、受け身(というより受け流し)、そして事後の軽い演技だよ。最大限スッキリさせて、最後にちょっとやり過ぎたかなと思わせるぐらいがいい。サイコパスでない限り冷静になったときに罪悪感は生じるものだから。

避け癖は仕方ないのだけど、予測と覚悟があればある程度コントロールできる。

攻撃を受け流すのは一番大事。まともに受けてたら本当に身が持たない。

最後の演技はその攻撃に釣り合うくらいに。いいとこ入ったなと思ってもらえばいい。

こちらの受けるダメージをより少なくするためには、いかに早く満足してもらうかなんですね。(風俗嬢的発言)

一度満足すればその日またってことは少ないし(複数いると話は別だけど)、もしまたイライラしたとしても彼らも無意識に他の奴にぶつけるから、目一杯満足させたほうが得。不思議なんだけど、習性なのだろうか。やっぱり男性的な性欲に似てるのかな。

 

日常的に攻撃を受けるならこの積み重ねはとっても大事。もしそういう状態の中で生き長らえたいなら身につけておいて損はないと思う。生きたくなくても体は生きようとするものだしね。一体誰の役に立つのか分からないけど。

これを活かせる立場の人は沢山いても、インターネッツをやる余裕なんかないだろうからね。

 

取り敢えずせっかく書いたから人間サンドバッグ秘伝の書はここに残しておこう。

 

まぁでも、生き長らえるのではなく生き残るためには、『日常的に殴られる側』という部分を抜け出すことが何よりも大事なんだけど、それって中から見つけ出すのは本当に難しいからね。僕だって偶々だし。

 

あ、この辺の話は全部父親じゃないよ。父親に殴られたのは記憶に残ってるので数回程度。これは全部高校時代の話。

 

気持ち悪い生き方で吐き気がするね!それでもまぁ生きていてよかったとは思うかな。今を結果とした結果論でしかないけど。

 

 

さて日曜日ももう夜…

明日お仕事やだな…

食人 から

食人ってあるじゃないですか。儀式的なものから個人的なものまで様々だけど、単なる食料や形骸化した伝統としてではなく、その相手を食べたいとか一部を取り込みたいとかっていう衝動、それを1つの愛のかたちとする場合や、逆に憎しみの表現とする場合があるけれど、その感覚って理解できないながらも羨ましいと思う。

 

それって言い換えるとその人の自らの肉体と自己がこれ以上なく親和状態にあると言えると思う。そうでなければ他者の肉体にそこまで執着を持てるはずがないのではないか。

 

例えば事故か何かで僕の指がこの肉体の大部分と切り離された時、それを自分の一部だったものだと自信を持って、想いを込めて語れるだろうか?

いや、実際にそうだったことはばかな僕でも分かるのだけど、そこに想いが込もるだろうか。愛を込めて今までありがとうと言えるかどうか。

 

内臓もそう。脳を含めて。いや、脳がなきゃ考えられないとかそういう話じゃなくて。僕は肉よりモツ派というぐらい内臓贔屓で、肉体としての重要度でさえより中心に位置する内臓が、どこかより強い何かを握っていると思う(因みに循環器系より消化器系の方が若干権限が上だと思っている)。でもその内臓でさえそれぞれの器官としても、繋がりを持った生態系のようなものとしても、独立性を持った生物のようなものとしても、自分の一部だと自信を持って語れる気がしない。

 

唯一それを感じられるのは何かを感じている時、知覚している時だろうか。その瞬間は部位から内側に至るまで、レセプターからイメージに至るまで一体感が生まれる。特に痛みはそう。

 

例えばさっき書いた事故のように、切断した先には知覚が無いわけだけど、切り損じて神経が繋がっていれば自分の一部という認知はできるわけだ。それどころか痛みを感じている分自分であることを確認している。それが一旦切れてしまえば、例えトカゲのしっぽのようにデコイとして僕を守ろうと必死に動いていたとしても、それを僕だと思うことができるだろうか?

 

活けづくりって好きじゃないんだけど(釣りやってたから血抜きしろ、寝かせろ、せめて締めてから調理しろと思ってしまう)、あれも結局アジ君の本体は頭が繋がった部分で、肉はもう肉としか見てない。

 

髪の毛もそう。引っ張れば痛みを感じるから自分の一部のような気はするけど、切ってしまえばもうそうではない。

(こっちの人は髪の毛を使った黒魔術を信じていたりするので、料理に髪の毛が入ってたりすると凄く気にする。僕はあんまり気にならないのだけど…)

 

だからこう、精神的な意味合いを持った食人っていうのは僕はよく分からない。僕の中に被食願望的なものは多分全く無いわけではないけれど、例えば全体としてぱっくりいかれるのと、ワニかなんかに引きちぎられて食べられるのじゃ訳が違うじゃないですか。でも半分ワニに食べられて他は分散して小動物や微生物に食べられるのも悪くないのかな。

 

それもおかしな話。色んな所に分散するのはそれはそれでいいのかなって思う程度には、死んだ後の僕を構成していた物質に自分を思うわけだ。じゃあもしその半分で生きてたらって考えると、多分そうは思わない。プラナリアのように増えるとしたら、それはそれで自分じゃないものが増えるんだろう。腕から別の自分の頭が生えてきたら、どこまでが自分になるんだろうか。

不思議。

 

知覚と意識という所に何かあるのかな。自他認知と肉体の所有意識と知覚の関係。

じゃあ食人でも動物食でもいいけど、その精神性を取り込むと僕が感じながらそれを食べるためには、苦痛を感じさせながら食べなきゃいけないのだろうか。でも結局噛み千切ったらもう別のものと感じそうだし、痛がる姿を見るのは何よりも苦手だから無理。だからこそなのかな?どういう感覚なんだろうか。

 

そういえば、人肉を食べることに対する抵抗っていうのも人それぞれだと思う。サルはダメだけどリスは大丈夫って人もいるし。その辺僕は線引きが不器用。いや、線引きという行為に不道徳を覚えるのかな。

仮に食糧がなくてもうどうしようもない!って時にお隣のレクターさんが肝臓とソラマメ一緒に食べない?って来たらどうだろう?

僕は食べると思うなぁ。納得しない部分も飢えで納得するだろうし、それが何であれレバーはレバーだと思う。そういう意味で、食料としての食人はわかる。

 

何かそういった精神性を求めて肉を食うというのは、やっぱり部位から相手の精神性を取り込むことを求めるという時点で、特に個人的なものにおいては何らかの執着が大きいのだろうか。その執着があるから肉体と精神の同一感がある?いや違うかな。自らの同一感がある上である執着がその感覚と重なってその行動を起こさせるのだろう。

 

執着が絡むとなると羨ましさはなくなるかな。多分別の苦悩に苛まれるんだろう。

 

あ、肉ばかり書いたけど、血もそうなのかな。血を舐めるというのはこっちではまだみられることだ。兄弟の契約とか。でも生きたまま交換できるものはちょっと違ってくる気もする。吸血は吸血で生気という方だと思うし。

 

 

肉体と精神の区切りってどこなのだろう?そういう部分の感覚や認識がどの程度人によって違うのかも面白そう。僕は今書いてきた通りで、精神的なもの、それは意識や自我に至っても、肉体の中には感じていないというか。じゃあどこなの?と聞かれると、皆目見当もつかないのだけど。

ただ、そこが食料としての食人と精神的な意味を持つ食人を僕の中で分かつ部分のひとつなのかなと思う。

 

 

昨日からイスラム教の犠牲祭なんですよね。犠牲祭おめでとう!って女の子と羊が喜んでる絵が送られてきて。

人間の都合で宗教儀式の犠牲になる動物に人間の感情をかぶせて、しかも喜ばせるってかなりレベル高いなと思うけど、毎年その類の画像が流れてくる。文化の違いなんだろうね。犠牲を喜ぶと見るも悲しむと見るも人間の勝手な都合を絵にするのは好きじゃない(というか大嫌い)なとか思ってるうちに、そこから屠殺されるクラリスの羊に、そしてハンニバル・レクターに繋がって、何故か食人に想いを馳せていた。

 

昨日から風邪気味だから考えることがおかしいのかな。折角の連休なのにくしゃみと鼻水で寝不足ですよ。

 

もう寝る!おやすみなさい!

悲しみ 色 観念

悲しみにもいろいろな色がある。

表面上は水色であっても、内に行けば行くほど深みのある青になっていったり、時にはどこか温かい桃色が隠されていたり。それは広く深い海のようなものだろう。

その温かさはどこか、人類の営みが繰り返される中で積みあがってきたもののような感じがする時があるし、それよりも遠い景色の中に眠っているものと感じることもある。

 

悲しみに秘められた様々な色、それは鬱の底で世界の色がどこか褪せている時には見つからないし、水色の悲しみに浸ることが目的になっている時も見つからない。

 

苦痛を遠ざけることと同じく、悲しみも遠ざける対象とされることがある。でもそれは、同じく生と密着した感覚を遠ざけるという意味で、苦痛を遠ざけることと同じ結果を生むことになるだろう。

少なくとも水色の表面だけを見て遠ざけるのであれば、奥深くに隠されるオーロラを見つけることは出来ない。それは、外側の水色と同じ温度に身を溶かさなければ感じることは出来ないからだ。

 

避け、遠ざけられているのは深く鮮やかな世界への入り口である。それは、僕らが日の下の世界に見る明るく鮮やかな世界の対極にあるようで、実は繋がっているのだろう。だからどちらを求めるにせよ行きつくのは同じ場所ということではないか。

 

悲しみを悲しみとして見なければ、共有されている、言葉で表すことができる表面的な部分ばかり見た観念など捨ててしまえばいいのではないか。

そうすれば、その中を探索することは趣味の悪いことでもおかしなことでもないはず。

 

例えば人と人の関係の中にあっても、ある種の扉を開けるためには悲しみが必要なこともある。それはドアを解錠する為の鍵ではなく、内から開かせるものだ。

それは城主がその相手の訪問を許すために見定める空気。

そしてその交流は、晩餐を共にする歓び。共振。

 

外と内が、そして意識と無意識が、そして僕固有のものとそうではないものが、瞬間と残渣が繋がっているというのなら、深い部分の色に触れるということは、僕自身にとってすべての色の見え方に関わる問題であろう。便宜上色と書いているけど、それは感覚全般のこと。知覚から認識、思考、記憶まで繋がるものである。

 

フィルター、色付きグラスが嫌いな人間として、より純粋でクリアな見え方を取り戻すことに執着するのはある意味当然のことだろう。多分、僕?は、それはそこにあると感じているのだと思う。

 

例えば、僕がより知りたいと思う、優しさや強さというものも、その先のハッキリとした目で見ることで、その球体の輪郭や色の広がりが見えるのかもしれない。

探求には衝動がある。衝動には目的をあてがい、それそのものを意味づけ、何かを関連付けることが許される。でもそれ自体に意味はない。

 

意味があるのは、僕がその先に何かを求めているのだろうと想ったことだろう。

 

と思った。

らしい。

 

だから僕は悲しみの観念には従わない。やーい、あっかんべーだ!

 

直感 連想 コンプレックス

昨夜、とあるグループで回っていたこれが目に付いてやってみて、面白いことがあった。

www.idrlabs.com

 

16問のプチテスト。気になったらどうぞ。

 

性格は表情や雰囲気では分かり得ないし、分かったつもりになってはならないという謎の信条のようなものがあるんだけど、その瞬間の気持ちというのは雰囲気やしぐさに出るというのはよくわかる。それは瞬間的な多重な多面の一部として。

性格的特徴となると顕著に出やすい部分だし、表情の積み重ねが顔を作るというのはあると思う。テストなら尚更分かり易く選んであるだろうからわかり易い。

 

伝えることもそうだけど、自分の気持ちを隠したり偽るためにはどう相手が自分を見るか読まなきゃいけないから、それを繰り返して感情のやり取りを洗練してきたのが人間だと思う。高度な情報戦は既に本能レベルで組み込まれている気がする。(それでいて生まれ持った素直さも誰もが経験しているから、きっとそれを追い求めるんだろうなぁとも思う。)

 

これをやっていて思ったことは、僕がこのプロセスでしているのは内的な自分の表情のリファーであって、ただ相手を見たいと思いながらやはり自分を見ているんだなぁということ。

相手の感情が入ってくるから疲れるんじゃないかと言われることがあったけど、ただこの余計なプロセスに労力が勝手に流れる分疲れるだけだと思う。

 


今回僕が面白いと思ったのはそこじゃない。

 

直感的に選ぶというのは、この場合単語のイメージで浮き上がった自分の表情と似ている雰囲気(全体像の場合これが大事)の方を頭空っぽのままポチっと押すだけだ。パッパッと進む。数秒のプロセス。

結果にすごく納得がいってるのは、女性の顔の方はそれに全く難がなかったから。それは僕が女性を沢山知ってるからだ。えっへん!とか言いたいところだが残念ながらそうではない。寧ろ逆に近いと思う。

 

結果貼ってなかった。

f:id:hasriq:20200729140535p:image

 

問題は男性の方の間違えた箇所で、それがどこかも見当がついてること。

2箇所迷ったところがあった。(その他は正解という前提で書いてるけど、大体こういうテストは当たるからそういうものだと思って。簡単に言えば色覚テストみたいなものです。)

 

その迷い方っていうのは、思考の介入、別のイメージの混入。そして混乱。

ユング心理学の言語連想検査って多分これを捕えるんですよ。単語からイメージを連想して、その内容と回答に掛かる時間がずれるものを洗い出すやつ。詳しくは知らないけど、あ、これなんだって感じがした。

 

アロガントで計算高い男性像。その表情を連想したとき、あいつの顔が介入してくる。

確かに彼はアロガントだと僕は思うけれど、同時にそうではない部分も認めてしまっている。それでアロガントの印象が分からなくなり、一種の混乱状態になって、結局思考の判断で選んだ。顔そのもの、雰囲気、空気ではなく、部分で選んだ。もしかしたら無意識に逸らしたのかもしれないけど、それは勘繰り過ぎだと思う。それが2回あった。もう一個はマニピュレーティブな男性像。まぁ僕の中ではあいつらの中の数人の代名詞のようなものだよね。

 

文字にすると大げさだけど、10秒はかかってないと思う。それでもプロセスとテンポは大分ずれた。

 

 

だいぶ前に、高校時代暴行を受けていた頃、そしてその後、ストックホルム症候群のような状態だったと書いたと思う。事後かなり後になってだけど、CPTSDとして治療も受けた。記憶の消化という意味ではEMDR療法は良かったけど、様々な情報を含んだ記憶をそのまま手の届かないところに仕舞い込んだみたいで、よくわからなくなった部分もある。それは当時は必要だったことなのだけど、今になって困ってる。

 

さっきあいつの顔と書いたけど、あいつらのことをあいつらと結構頑張って思い込もうとしてる部分があるんですよね。恨みきれないから。

アロガントだしマニピュレーティブだけど、そうじゃないその隙間の人間的な部分、例えば弱い部分とかも見せられた(彼らは見せるつもりはなくても)から、どうしても憎みきれないし恨みきれない。家庭環境がああだからかわいそうだとか思わないけど、でもそこに彼らが感じる寂しさは見せられたし。つくづく卑怯だなぁと思う。

片棒を担がされたこともあった。最悪。恐怖に負けて片棒を担いだ自分がね。

まだ波立つなぁ。もう外の時間では僕の人生の半分の位置まで遠ざかったのに。

今はその辺は置いとこう。

 

 

例えば、彼をアロガントだと思わなきゃいけないというのは強迫的な僕の思い込みであるということ、それは僕も理解している。正直そこまで恨んでるわけではないのかもしれないとも思う。恨む『べき』、憎む『べき』、忌む『べき』存在であってね、所詮べきなんですよ。思考の産物。理性的な顔をして理性的ではない僕の片側の言葉。そう、側と側の問題。いつものやつ。

 

僕だって色んなグラデーションを持った沢山のレイヤーを内在していて、その中でアロガントだったりマニピュレーティブだったりする一面(それどころか数面!)も確かに持っていて、それはただ単に外に出さないよう抑制しているだけだから、それを素直に外に出す彼らが悪いと感じないのも無理はない。僕だって内側では凄いかもしれないよ(わたし脱ぐと凄いの。的な)っていう感覚。

片や、もう片方の僕がそう思う『べきだ』と論じるのもまぁ無理はないとも思う。

 

 

問題は、あの地方ヤクザ見習い集団とその延長が作り出した犠牲者は沢山いるわけで、その連鎖は今も続いているのだろうと思う。その行動を認められるかといえば、それを認めれば僕はその犠牲者たちに合わせる顔がないわけですね。そして僕の地元だけじゃなく、その世代だけでもなく、どこにでもそれが発生する素地があるのを見た。

いじめや犠牲に僕が過剰反応するのもこれなんだろう。僕のあった状況がいじめとは性質が異なるものでも、それは見てきたいじめと結びついてどこか自分の経験になってるんだろうね。する側とされる側のシミュレート。目的も分からず何をしているのだろうか。する側もされる側も理解したいっていうのは目的じゃないの?わかんない。

 

彼らのような集団が生まれる社会構造が悪いか、そうとも言い切れない。別に同情したいわけじゃないし。彼らは彼ら一人ひとりという存在だから、その構造の中でそうなってしまった存在として見るのも違うと思う。その集団という存在が彼らにとって救いであることも認めなければならないだろう。

ただ、例えば奴隷扱いしたりサンドバッグにしたりする対象の正しい扱いを、彼ら自身は知らない。今思えばまだまだ子供だし、それでいて変に外面が大人びるからなのかな。不器用だなぁとも思うけど、まぁいい迷惑だね。

 

存在否定ではなく彼らの行動だけを間違いだといえばいいっていうのも、正直安易というか、単純すぎる発想だと思う。どこをどう見てどう区切るんですか?って。

そう思ってしまうのは、ただ単に僕がそう割り切ることができないからで、それは結局自分の問題なわけです。まぁ、だからコンプレックスはコンプレックスなんだと思うのね。

 

 

コンプレックスって何だろう。

CPTSDのCがコンプレックス。僕の内側で多重エラーを起こしている一部の回路の漏電部分がコンプレックス。

執着や偏愛のようにも使われるけど、それは浅く受け取られ変質した観念だろう。

 

つまるところ、漏電、エラー、病巣、それそのものが見えればそれはもうコンプレックスじゃないんだろうなと思う。だからコンプレックスはコンプレックスとしか言いようがない。

 

この簡単なテストでその影を見ることができて面白いなぁと思ったけど、文字にしたら嫌な気分になった。まぁ面白いけど。

 

そういえばさっき、これを書きながらCPTSDについてちらっと調べたんですよ。僕はもう完全に脱したと思っているから、いや、そう思っているということはそう思ってないのかもしれないけど、ともかくもうその概念は捨てようと思って久しく、内容もあんまり覚えてなくて。

 

それでwikipedia先生のこれが目に入って。

今その情報要る?って思った。そこで結び付けられるとまた混乱しそう。いや、もうしてる。

また鶏と卵の順序整理とヒヨコの選別を始めさせるの?頭おかしくなりそうになるから一番苦手なんだけど…。

 

過去を見ないで今を生きろって言う人もいれば、過去と対峙してトラウマを解消しろって言う人もいる。

僕は顔を見ないと捨てるか捨てないかの判断もできないから、後者の選択しかないのかな。というか、前者はもう10年やったのだし。嗾けられるというのは、段階というか、そういう時期なのかなとは思う。

それにしても多重自己ねぇ。自覚の有無に限らずみんなそうなんだと思ってるけど、じゃあ解離状態と正常の違いをどう判別するのだろう。なんとなくはわかるけど。

 

自己たちの網目。世の中の人達と同じで、皆苦しいんだろうけどね。それは代弁?自弁?

そこをハッキリさせる必要はないって何度僕は主張すればいいことか。仲良くして欲しいのにな。