深く知りもしないで書くけど、 チャクラって結構合理的なものだと思うんですよね。いや、精神的なものと合理的なものの懸け橋というのかな。
その人の内的な状態が身体的な症状と繋がる、そのループの中でそれが溜まる場所というか。それは確かに上手くバランスよく流れれば、状態にも変化があるのかなぁとも思う。
主要なのは1~7と番号が振られてるらしく、僕は1(会陰)と5(喉)が滞っていて、4(心臓)と7(頭頂)が過剰気味らしい。
こういうチェックテストって個人に合わせたものではないけれど、目安にはなるのかなと思う。
実際そういう瞑想を試してみても難があるのが5だし、以前よりフォーカスが難しくなってるのが1だと感じる。性格的にも現状的にも順当だと思う。
喉は極端にあれだけど、上半身と下半身のバランスが悪いのもわかる。例えば性欲の衰えも感じていてちょっとどうにかしたいなぁと思っているのだけど、それはつまり根の部分であって、現実世界での生の意欲にも関わるのかなって。情熱にとっても性(力)は大事だと思う。活力的に生きたいんだけどね。
過剰な部分はまぁ性格もあるだろうから、多分極端に弱い部分を整えれば他の部分もバランス的に真ん中に向かう気がする。いつもの適当な楽観。
そんなこんなで閉じている部分を開き、バランスを整える瞑想をやってみたのだけど、この種の瞑想は快感がある。凄く汗をかいた。難のある部分の通りがよくなるともっと気持ち良いのだろうな(欲望)
と、ここまでは前置き。ちょっと整理したくて長くなった。
この瞑想をやってスッキリした気分で寝た次の朝、ふと思ったことがあるんですよ。
現実世界の自分を主体的に作ってもいいのかなって。それはやはり僕から見ても像ではあるのだけど、少なくとも外から勝手に押し付けられるものではない。
僕の中の自分、僕にとっての僕っていうのが抽象的な世界の存在でしかなくて、肉体とも乖離している。
それは地面を歩いてる自分に僕がいないからなのかなとかよく分からないことを思い、そうだなぁと妙に納得した朝だった。
感覚的には根を下ろす感じなのかな。瞑想音声中のルートって言葉に影響を受けたのかもしれない。
何て言うのかな。僕はいつも上から自分を見下ろしていて、それでいて内側から目を通して外を見てもどこかバーチャルに感じていて、そして色んな視点や想像を転々としているんですよね。何かを肉体的に感じた時、知覚した時だけこの現実という世界の肉体と一体感を感じ、外界との接点が皮膚になるけど、気づけばまたふわふわと飛んでどこかを転々と彷徨ってる。別に僕はそれでいいとも思うけど、地面を歩いてる自分の視点に絞った人格、というのかな、他の視点を閉じた時の僕に主導権を与えるのも悪くないのかなとも思った。他の目を閉じた時にこの肉体と親和性が生まれるというのかな。
それは最初の内は意図的にやらないといけないと思うのだけど、なんかできる気がする。
多分いつもの粘土細工のようなもので、他の目を閉じた状態で形を作っていけば、あとは自然とその僕ができる気がする。既に居るとは思うから、入っていくというのかな。
2,3日前に思った事だからわけわかんなくなってきた。
まぁただ、普段ならこんな考えは浮かばないだろうなってことがクリアに浮かんだ朝だった。
そのうちチャラくなって渋谷でナンパしてたりしてね。なんてことはないとは思うけど、なんかこう、さっき書いた根の部分じゃなくても、例えば喉の部分では、アウトプットについて何かが浮かんだりするのかなって。
変わりたい!とか思ってるわけでもないけど(思ってるの?)、そういう変化の要素が生まれるのは楽しいよね。