感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

土曜日の浪費

眠い。

土曜日は特にそうだけど、寝ても寝ても眠り足りない。起きてもぼーっと過ごしてしまう。そしてまた眠気に襲われる。

不眠の頃から考えると幸せなんだけどね。

 

待機電力の消費が多い。それは何故かって多分バックグラウンドで起動してるソフトウェアがですね…

それは雑念とも呼ばれる。瞑想で消せるって。でも問題はそっちがメインかもしれないということなんだよね。

瞑想をして得られる静寂って別のところに焦点を合わせる静寂で、気持ちは良いのだけど、なんかこう求めてるものに繋がらない。修行が足りないのかな。

それと瞑想した後は高確率で変な夢見るからそれがね…

 

あとさ、お酒を飲むと楽しいって言うけれど、僕は頭が思うように回らないのがストレスになる。

求めてるのはそっちじゃないのかも。曇りガラスではなく限りなく澄んだものが欲しい。瞑想は澄んでいるけど逸らして絞ったものだ。トランスは絞ったところから確かに開けるのだけど、その開けたものもシアターに感じる。8Dシアター的な。

僕が欲しいのは限りなく澄んだ感覚と望遠鏡と顕微鏡を合わせたものなの。

 

煩悩?まぁ…でも煩悩が大事かもしれないじゃん?

 

微睡んで夢を見る。

夢はスクリーンセイバー的なものなのかもしれないし、よく言われるのは最適化してるってことだけど、その画面が先頭に表示されたからってそれがメインかどうかは分からない。

ハードディスクでさえ僕がアクセスできない場所だらけっすよ。管理者権限は誰が持ってるんですかね。CPUやメモリの使用も外界との接続速度もセンサーの類も弄れない。

 

この今ある瞬間的な顕在意識が僕が僕と言えるものであって、様々な無意識やこの先の、この前の僕の意識さえも僕と言っていいのか自信がない。OSではないことは確か。スパイウェアかもしれない。

じゃあ意識して何をしろって言うんでしょう?うーん…

 

ただそれも僕が僕を見る場合であって、誰かと話してる時には相手の視点から見た僕になるから、この皮の内側が全部僕だと認識されるのだけど。

 

 

ハリガネムシやさ、他の寄生虫、トキソプラズマなんかも宿主をコントロールするというでしょ。当然多くの場合宿主は気づかない。

僕はなんかもうコントロールされてるんじゃないかって気がしてくる。

コントロールっていうのも曖昧だなぁ。干渉といえば生理的な衝動だったり、様々な細菌やウイルスも含んだ環境としての僕の生み出す結果であるから、干渉に干渉を重ねた結果を僕が意識し、思考し、感じていると思い込んでいるだけとも言える。ではそれを知覚し、認識すること(したと思い込んでいることも含めて)になんの意味があるのか。単なる現象の結果であればいいのに、何故意識があるのだろう。

必要なのは人格であって、記憶とリンクするこの意識は副作用なのではないだろうか。感覚が大事なのであって、この意識はプロセスの中継器兼増幅器なのではないだろうか。

 

またこうやって訳のわからないことを考えて土曜日が終わる。そして月曜の影に怯える日曜が来る。

 

何故そういうストレスはモニター越しに見れないのだろう。はぁ…

 

色々突き破りたい。

言葉遊び

自立自立というけれど、自立とはそれを言う人が嫌う『依存』のより限られた範囲で起こる同じ性質のものに過ぎないのではないか。

社会的自立、経済的自立、精神的自立、それらは全て依存で言い換えができる。

結局は同調圧の生み出す言葉遊びに過ぎないと思う。

鞍替えを促す。「我々がやっているようにやれ」と。「出来ないものは認めない」と。「当てはまれ」と。Tradition、Tribeの精神。それ特有の強要。

それは引き込むため?マウントを取るため?自分の存在意義を守るため?それとも?

 

本当にその自立が正しいの?集団的な正しさが見える時、そこに僕にとっての答えはないものなのだけど。

それはThey or Usだからだ。その視点の自立はTheyの視点から見れば別のTheyでしかない、鳥籠の中の話なのではないか。

 

 

人は依存しなければならない生き物だ。そう言う僕も言葉遊びをしているのだろう。

切ない人間関係

Aさんというある会社の元代表取締役さん(その会社を大きくした功労者らしい)がいて、その次にAさんに代わって代表取締役になった、同じく元代表取締役で現顧問のBさんがいる。

 

どちらの方も初老の人当たりの良い方。紳士とおっちゃんって感じ。

この2人はその会社の当時の運営、業績低迷に関して互いを責めあっている。

2人は顔を合わすことがないけれど、僕は双方と会う立場にある。

 

僕はAさん、Bさん、共にどちらの方もとても仕事に情熱を持っていると感じるし、過去の仕事も糧にしている人達だと感じるし、どちらもその会社が大好きな人なんだなって感じる。

なぜこの2人は啀み合わなければならないのだろう?2人が顔を合わせなが故にどちらにもいい顔をする部下の話がよりややこしくしてるんじゃないかとか、色々考えてしまう。

 

業績低迷だって時代的なものが大きい気がするのだけど、代表取締役という立場からすればそんなこと言うわけにもいかないのだろう。一生懸命やってただろうから、Aさんは自分が降りた後のBさんの管理が悪かったと感じるし、BさんはAさんに負債を押し付けられたと思ってる。

どちらも事実なのだろう。少なくとも当人たちにとっては。

 

2人の世界の話には僕は踏み込めないけど、この2人には2人の世界がない。お互いの中でそれを、外の情報と照らし合わせて作り上げているに過ぎない。

 

でもそれは、その人たちが持っている、持ってきた情熱の裏返しなのかもしれない。だからここまで色濃くなる。

どちらも真摯で熱心な方で、違う視点(コンサル出身と技術屋出身という違い以上の)だけど同じものを目指していたはずなのに、その仕事への思いが2人の関係を絶ったのだろうか。でもそれがまた彼らの意欲に繋がってきたのかもしれない。

 

そんなことを思うととても切なくなる。

 

話を聞いていると、この2人こそ話が合うのではないかって思うのだけど、そういう問題でもないのだ。

 

どちらもとても良い人。好きな人と好きな人が喧嘩をするのは悲しい。ただそれだけの話。僕にとってはね。

もっと悲しいのは、Aさんを尊敬する人が自分の中でのAさんを持ち上げるためにBさんその人を見ずに悪くいうとか、そういう時。

悲しいを通り越して虚しい。人間関係って本当に。

虚偽と欺瞞の中にいるということ

FBやネットの記事を見ていても、なんかすべてが胡散臭く感じてしまう。

動物を助ける映像とかも回って来るけど、「なんでカメラが回っていて、しかも記事になってるんだろう?」とか、そっちが先に疑問になって素直な気持ちで見れない。

ドネーションを訴えるものとか、環境にやさしい商品とかもよく目にするけどそれも同じ。

そういうのも重要なんだろうと思うけど、でもやっぱり僕はその尺度で物事を見れないし、信じることが出来ない。うーん…

 

そんなことを繰り返していたせいか、気づいたら全部懐疑の視線で見ている自分がいる。

 

いや、それで色々回ってることは事実だし、それはそれでいいんだよ。いいんだけどさ、それを良しとしきれない自分がいる。それもまぁ良いんだよ。

 

僕が嫌だと感じるのは疑り深い自分の存在。僕はどうしてこんな僕になってしまったんだろうっていう風に考えている僕がいて、それでも自分の価値観に合わないものを本物だと認めたくない僕がいて(彼は騙されることに極度の不安がある)、更にすべてを認めなければいけない、そうするべきだと思っている僕がいる。

割と中心の方に居る僕はそういう疑り深さとかは嫌いで、もっと無垢な目で物事を見たいと思っている。それでもその目がバイアスに惑わされない為にはどうしても懐疑的な部分は必要になってくる。でもそれが嫌なの!って。

もうわけわかんないね。

 

あああああああああああああああああ!って叫びたい。

 

多分同じようなこと今までにも何回も書いてるよね。飽きないなぁ。

全てが鬱陶しい。僕自身のぐちゃぐちゃも全部鬱陶しい。

それでも表面上は取り繕って生活してる。

 

思考回路を粉砕し、全てのコントロールの鎖を全て断ち切ってしまいたい。

やっちゃおうか!って考えるじゃん?

それをしようとすればする程、鎖はより強度を増して僕を締め付ける。三蔵法師が孫悟空の頭に付けた輪っかみたいな感じかな。

 

そして反転して反転して反転して、そうしてる内に鎖はスパゲティのように絡まって。スパゲティはそんなに絡まないよね。ビーフンにしとく。

 

色んなものが虚偽や欺瞞に見える。そんな中に居ると更に自分も汚れていくような気がする。それどころか自分の存在さえも疑問視しなければならなくなる。今見ているものも、記憶も、思考も、感情も。どれとどれとどれが、どこからどこまでが自己欺瞞なのだろう?

でもそれは、そうなってしまうのは、この中に居れば自然なことなのかもしれない。

 

それでも救いがあるのは、別の軸で、君や君や君や君や君との一対一の関係があるからで、その交う瞬間だけは僕は信じるまでもなく本物だと感じることが出来るから。それが本物だから僕の存在も直接的に事実になる。実感を通して。

それさえも信じることが出来なくなったらどうなってしまうのだろう?

 

虚偽、欺瞞。

嘘が色を増して僕らに迫る時、その反対側で目に映る、体感する色んなものが薄くなっていく。そして、だからこそより強い実感が欲しくなる。必要になるのだろう。それは均衡を保つため。

なぜならその均衡が崩れたままになっていれば消えてしまうから。それは当たり前のことなのかもしれない。

 

自分の存在を自分自身が否定しなければならない。恐らくその均衡の為に。

現代はその苦しみに溢れている。そして消えてしまう。ひとつ、またひとつと…

環境音 自然音のテンポと時間感覚 ジムノペディ

毎晩のように散歩をするのだけど、車やバイク、人の声、テレビの音、皿洗いの音、バトミントンをする人たちの声がやっぱりうるさい。人の気配が邪魔。それが大丈夫な時もあるんだけど。

森の中の村ではそんなことがなくて、夜散歩をしていても色んな自然音に包まれることになる。様々な虫の声、カエルやヤモリの声、ヨタカやアオバズクの声、イノシシやジャコウネコの足音、コウモリや虫の羽音、風で沢山の葉が擦れ、木が風の声を代弁する音。

 

ここではそれがない。全くないわけではないから意識すれば見つけることが出来るけど、意識すれば人の生活音が先に入ってくる。それに、点在する音は僕を包んでいない。自然の中で音に包まれている時、僕は自分自身を実感することが出来る。音、景色、匂い、感触、五感を通して澄み切った自分の存在を感じることが出来る。考えるまでもなく、その中の存在として過ごすことが出来る。

 

このコンクリートとセメントとアスファルトのジャングルではそれができない。景色も、音も、匂いも、風の感触でさえ、全てに不快感が混じるものを感じることになる。何も僕を導くものはなく、ただ孤立したような感覚がある。ただでさえ迷子なのに余計迷子になる。

草むらに居たバッタが草のない水槽に入れられ、キュウリを食べさせられているような状態なのかなってさっき思った。

僕が過敏なのは街中という環境との相性の問題なのだろう。その過敏な感覚も自然の中ではギフトとなるからね。

もし僕に見えない飼い主が居るのなら、飼育環境間違えてるよと言ってやりたいよ。

まぁいいや。

 

人の作り出す音は自然音とは違う感触のものばかり。感覚的に合わない。いや、まぁ精神的なものだから嫌悪が先にきてそう感じるだけかもしれないけど。でも実際音の速さやテンポが不自然で不調和。

 

自然音は色んな音が干渉し合うから調和する(している)のだと思う。生き物もそれを乱さないようにしているし、それが乱されてる場では心拍数が上がるようなことが起きている。そのぐらい配慮された空間。

 

街の音は雑然としていて自己主張が強い。バラバラで煩い。周りの空間と調和しない中国人観光客みたい。心拍が乱される気がする。

 

だから僕はお散歩のときは大体イヤホンで音楽を聴いてるのだけど、さっきは久々にジムノペディを聴いてた。お散歩には合わないかなぁと思ったけど意外と良い。夜だからかな。No.1とNo.3を交互に。No.2は苦手だから入れてない。

 

僕はどちらもテンポが遅めなのがいい。虫たちの声のテンポは遅めだから。

人々の作り出す時間の流れ、その速度で回る世界、それに巻き込まれるのが凄くストレスなのだけど、一定感があるゆったりめの音楽を流して自分の速度を保つのもありなのかなぁと思った。


Erik Satie - Gymnopédie No.3

これくらいがいい。虫の声の間隔と合う。

 

No.1も好き。ちょっとゆったりなのがあったらいいなって思って探してみたら練習用のがあった。このくらいがいい。もう一個スローバージョンがあったけどそっちは音程も低くなっててなんか色々不安になった。影響されやすい。


Gymnopédie no 1 - E. Satie - Slow - How to Play Relaxing music- Tutorial

 

サティってどんな人だったのだろう。グノシェンヌとか聴いてても謎の親近感がわいてくる。

まぁいいや。おやすみ!

 

*そういえばメトロノームを心拍より遅めにしてかけると入眠に良いって以前どこかで読んだ。多分それ系のアプリもあるだろうし、そういうのとホワイトノイズの併用で何かできそう。

でもあまりに一定過ぎて僕はメトロノームが苦手だったり。わがまま。

ウイルス会話

今朝まで日本からの人たちとのお仕事だった。みなさん無事仕事を終えて帰られて、こちらも肩の荷が降りた。

 

そういえば会話は、何かと話題のウイルスの話ばかりだった。ウイルス1つとっても色んな見え方がある。

若手の方は恐怖でいっぱいだし、小さな子供がいたり祖父母が健在の方は伝染してしまうことをとても気にしている(媒介者になることを気にするのは人間特有かも)。

海外ベテランの人はもっと怖い病気を見ているので、ウイルス自体は怖くないけど持ち込んだら何言われるかわかんないということを言っていた。健康な人や会社の名前で来ている人にとってはこれが一番恐ろしいと思う。

 

僕は結構楽観している。というか自然の選択ならどうしようもない。

会話では常に同調していた。そうですよねって。実際そうなんだろうなって思ったから。

 

ウイルスの拡散。

 

例えば鳥インフルエンザは年末年始、コサギによって北方からここに運ばれてきてニワトリが死んだりする。基本的にここでは生存できないウイルスだから、気象条件によって広がる。だからこちらのニワトリは免疫を持っている個体が少ないので広がりやすい。と僕は勝手に分析している。

 

渡り鳥を防ぐなんて無理。ニワトリはある程度死ぬものだ。それでも大事に至らないのは飼育数の問題。

それが養鶏場に広まれば惨事となる。他の家畜も同じ。免疫力がない個体を密集して飼っているから。

 

人類が人口過多な以上、そして都市部に密集する以上、病気を遠ざける姿勢な以上、感染症の拡散は宿命だと思う。

人は感染症に対し清潔と技術で対抗しているが、それは遠巻きに見れば地球上から無くすことのできない感染症というものに対する人類の脆弱性を高めることでもあるから。疾病管理の姿勢。

 

それは事実であって前提だろう。

そして人と物の往来で経済が回るのは経済というものが出来てから変わっていない原則だと思う。

これも前提とするなら、こういった疾病の拡散は織り込み済みでなければいけないのではないだろうか。

 

その上でどう捉えてどうするかということだと僕は思う。

感染者が入ったからどうのとか、入れた側の責任とか、そういう話になると、ん?ってなる。そうなったことは結果であっても、予測できることと防げることは別なのだし。

何でも他人の責任にしたい姿勢はいつも現れるけど、それはいつも建設的な結果に繋がっていないと思う。

人災を見るにしても、個人や特定の集団に押し付けるための人災なのか、自らの集団のある種の過ちを戒める為の人災なのか、それは大きく意味が違ってくると思う。疾病を前者の人災に仕立てようという意識はどこを向いているのだろう?

 

多分僕は、状態に対して起こって然るべき現象が起こっているという感覚が強いのだと思う。自然災害と同じ。

僕自身選択して都市部に居るわけで、かかったらかかったでしょうがないかなぁと思う。ほら、関東大震災くるよって言われてても住んでいるような感覚。

 

まぁ、何が良いか悪いかわからないけど、大事なのはそれぞれがそれぞれの守るべきもののためにしっかり考えて対処していくことであって、それ以外にあるのでしょうか。

 

不安なのはわかるし、誰かのせいにしたいのもわかるし、何かを信じたいのもわかるけど。

 

 

そういえば普段、老人は長生きするべきではないと言っている人はこういう時こそチャンスな気がするけどどうなんだろう。感染力が強く身体の弱い人の死亡率が高いウイルスの蔓延を社会の新陳代謝に例えたりしないのだろうか。

やはりその辺は『弁える』ものなのかな。それとも、現実的に人が苦しむ姿に対しては彼らの内面の優しさが勝つのだろうか。

見え方、捉え方 年齢、性差 固定的と流動的

これ、Twitter上で回ってたものの拾い物。上の文言は無視して少し眺めてみて欲しい。

 

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人によって色んな見え方があるのだと思う。

僕にはこの絵の感覚が凄く良くわかるの。これを見た時なんだか少し安心した。

でも概念に押し込められるの嫌いだからこのAgefluidやTransageやClovergenderというものが『そういう人を表す名詞』になるなら、というかそうなりそうだから僕がそうだとは言わない。それは嫌なの。

概念が当て嵌まっても僕がそうだとは言いたくない。そこには色々なものが紛れ込むから。HSPとかも同じ。

それはまぁいいや。

 

でね、この画像をペドフィリアだと叩く人たちもいる。 

僕にとっては結構タイムリーだった。

僕はこの画像のようなことは僕にとって当たり前であって、ほんの数年前までは多くの人に理解されるものだと思ってた。でもそうではないようだ。その理由について考えることが最近多かった。

 

これってオートマティックなんですよ。子供と遊ぶ時は僕も感覚的に子供。だから指導とか凄くやりづらい(放課後児童クラブで指導員やってたことがある)。そこはどうしても上下、優劣の関係になるから苦痛。僕はその立場ではないというストレス、反発が内的に起こる。一緒に遊ぶのは凄く楽しいのだけど。

 

子供好きだけど教師にならなかったのはそれが理由。教える立場になるべき人間ではないことは早期に気づいてた。指導員やガイド的な立場ならいいのだけど、それと身を律することを教える教師とは話が違う。 

 

年齢。対象年齢とかあるけど、例えばさ、セーラームーンを観ている時ってどんな自分で観てるだろう?ウルトラマンを観てる時は?ネバーエンディングストーリーを観てる時は?マイリトルポニーは?

僕は自動で大体ターゲットにされてる層になっている。

より細かく言えば仮面ライダーBLACKと仮面ライダー555では観ている時の僕の年齢が違うのだ。

年齢ってなんだろうか。それ相応の様々な態度?知識?なんか嫌だな。まぁいいや。

 

僕の場合は思考態度というか、知能指数は合わせるもの。というか勝手に合うもの。

多分だけど、だから子供向け番組を観ているととても解放された気持ちになる。

 

性別というものの曖昧さも、この年齢という概念に対する感覚と同じく流動的というか自動調節的なものになる。心理的な性差は僕にとってはよりわがままなものだ。

男の子らしさ、女の子らしさでいくら固定されようとしても壁を突き破ってゆく。

 

上の絵で問題なのは、大人の男性の中に小さな女の子がいて、相手が男の子な点なのだろう。だからある種の見方、捉え方の人にとっては別の見え方になる。

子供であれ男女の性差が先に見え、そこから性的な関係を連想するし、それを抱いているのが成人男性であればペドフィリア。とっても理屈的だと思う。それもまた理解できなくもない。 

でもそう思うことと、その知的な、自分にとっての正論を振りかざして他人の見え方を決めつけるのでは話が違う。

捉え方の違いというのは難しい。自らの捉え方が固定されていれば、別の捉え方があることにも気づかないことがある。

 

 

僕にとってのこの絵には、そうではない、描いた人自らの苦悩がにじみ出ていると感じる。

だから恐らく作者である成人男性の部分は譲れないし、内面が女の子なのは年齢と同じく性別も同じく流体のようだという想いも譲れなかった、いや、伝えたかったからだと思う。そして相手の子供が男の子であるのは、内的な性と対象の性別の無関係さを表したかったのだと思う。(女の子にしたらそれに合わせて内的な性を女の子にしていると思われる。それは予想され得る中で最大級の不本意だから)

なぜ性差の無関係性を表したくなるかといえば、性差に囚われた観念ばかり押し付けられるのが苦痛な人間にとっては当然な思考態度なのだ。

そして性の多様性がある意味で煩さを増し続ける今、この絵の中の性別を統一したらしたで、いかに沢山の種類の誤解の目で眺められるかは容易に想像できるはずだ。そしてその種の誤解こそ、これを訴えたい人にとって煩わしいものだということも。

これもまた僕の勝手な感想なのだけど。

 

捉え方、これもまた心理的機能の順序っていうのが一番楽に説明がつくだろう。(ユングはどうやって体系化したのだろうか。)

 

だからこそ、思考優位で見るヒストリーチャンネルなんかはこれとは違うことが起こる。ある種固定された自己、積み重なってきた自分を見つけることになる。

 

これってそっくりそのまま人との関係に重なるものだ。

例えば知識レベルが低い人(凄く嫌な言葉)と高い人では会話にならないと言われるけど、それが僕はよく分からない。(ある意味では分かると言うこともできる。でもそれには感覚が伴わないどころか、ストレスがかかる。)そちら側の捉え方を優位にするには。

 

でも固定の自分がある人にとってはそうらしい。そういう目で見るというのは、そういう捉え方をしているということであって、そういう自己を『作り上げる人』だ。自己像(理想像があれば必ず出現する現在像的なもの?)に押し込むともいう。

その善し悪しの話ではなく。違いがあるということ。

 

この絵を見てペドフィリアだと思った人がいるということ、僕はちょっと衝撃を受けた。意図せずとも関係をそういう目で捉える人はやはりいるのだなって。それを悪いとは思わないけれど、その目で、その見方でこちらを見ないで欲しいとは思う。

 

理解してくれとは思わないけど、ペドフィリア以前に年齢や性差という後付けでカチカチな概念の外に居るのに、それを前提としたを捉え方で見ないで欲しい。

 

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それにしてもその偏見を生むヘイトはどうして湧くのだろう?なぜそこには恐れが入り混じるのだろう?これはさまざまなところで起こる。だからこそこういった概念も生まれざるを得ないのかもしれない。概念として重なりながらも乱立する。

捉え方の違いはもしかしたら、ある過程に過ぎないのではないだろうか。

 

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とりあえず、「そう思った人こそ気を付けた方がいい」と書き残しておく。それが見えているのだから。そこまで恐れ憎むのは、どこかにその自分が居るのを知っているのかもしれないよ。