感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

自己矛盾

このブログでは溜まったものを出すことが多いので、不満なことや批判的なことが多くなってしまう。

健康的ではないなぁと思うのだけれど。

 

僕自身は自己矛盾の塊。

不満なことを書くのは自分の価値観に合わないからだと思うが、別の価値観を通して視野を変えるとそれも認めなければと思う。

色々な価値観が雑居しているのだろうか。気質的なもの、後天的な経験や知識に根ざすもの、恐らく集団レベルで共有するものもある。複合的なものもある。

 

大衆的な感覚の人が無自覚に人を傷つけ、排斥するのが嫌い。

 

でも彼らからすれば僕のような人間は見ていて嫌に思うかもしれない。僕自身が人を傷つけ、排斥していることもあるだろう。大衆的な感覚の人という言葉も否定的な意味が籠っているのかもしれない。

互いに前進するにはお互いが認め合うしかないだろうと思うけど、それは難しい。

 

大衆的な感覚の人の存在やその割合もデザインであるという視野に立つなら、彼らの言動も自然なものなのだろう。とするなら、傷つく人が傷つけられるのは自然だと認めるしかないのかもしれない。実際その割合が変わらないのであれば、傷つく人が少しでも傷つかないようにする為にはどうしたらいいだろう。いつも考えが行き着くのは、傷つく人側が自分がそうであると自覚すること、そして生き残る術を得ることだと思う。

 

でもそこをサポートするというのは、本当に正しいのだろうか。そこに新しい区別の枠やレッテルが生まれないだろうか。

 

大衆的な感覚の人も感じる人間である。感覚が違うからといって、彼らの言動が人を傷つけるからといって、一人一人を見ずにレッテルを貼るわけにはいかない。

でも実際に感覚に違いがある。その一人一人の違いも認めなくてはならない。

では『みんな違ってみんな良い』を訴えていくか?しかしそれ自体が大衆的な観点からすると僕が『人を傷つける』と感じる行動になってしまう。

 

それは受け入れるべきなのだろうか?

 

人は全て認められるべきだという価値観が僕の中で僕自身を突き落とす矛盾の悪魔となっている。

 

人が傷つくのは嫌いだ。

でも人は傷つけ合うものだ。

動物に戻ればどうか?動物も傷つけ合う時は傷つけ合うものだ。

では傷つけ合うことが少ない未来がいいのか?でもそれは自然を逸脱し別の傷を受けるかもしれない。

では人が傷つけ合うのを容認するのか?

 

 

全ての人が優しくなる。全ての本来の意味で人が認め合える。全ての人が自然と再調和する。文明が滅ぶ。

結局非現実的なユートピアを見据えない限り、自分自身の心を納得させることができない。でも非現実的なものは夢でしかない。見据える未来は存在していない。

 

結局夢を見ているだけ。現実を見れば突き落とされるから。

 

全てが矛盾する。

パッパラパーになりたい。

既にパッパラパーなのかもしれない。

意識が高い人

意識が高いとはどういう意味なのだろう。聞く度に引っかかる。

環境を勉強する学生さんなんかと関わることがあって、そういう子たちが使うことがある言葉。

 

『環境意識が高い』というように、何かに関して自覚があることを意識があるというようだ。

それが高いから高く自覚しているという意味なのだろうか。それとも自覚に関する何かが高いのだろうか。

 

色々な観点での自分の立ち位置を認識するという意味で、『自覚』があるというのは大切なことだと思う。

ただそれを公言する意味は僕はないと思っている。それぞれ違った『自覚』があるはずだが、「意識が高い」、「意識を高くもとう」と言う人たちは自分の認識している自覚しか認めない人が多い。それはその人達が集団で共有している立ち位置で、その人本人のものでないように感じる場合もある。

 

意識が高いという言葉には、ある観点において自分達が高位の集団にあるという一種のマウント的なものがあるように思う。それは『高い』という言葉に現れているように、彼らが『高い』、『低い』のようなレベル上に自分や周りを当てはめているからだと思う。

 

多分それがいちいち僕の癇に障るのだと思う。

意識が高いと自分で思っていたり、それを目指したいなら目指せばいいけれど、そのようにレベルに当て嵌める認識をしている限り、誰かを見下している空気を漂わせている。

その態度は本当に意識が高い人がするべきことなのだろうか。そういった物事の見方がどんな負を作り出してきたかを認識せずに意識が高いと言えるのだろうか。

その僕が勝手に感じている矛盾が『意識が高い』という曖昧な言葉の中から連想されるから、僕は嫌なものを感じるのだろう。

 

環境に良いことを学ぼうとか、環境負荷の少ない社会を目指そうとか、その中で自分の立ち位置を明確にすることは良いと思う。でもその自分を意識が高いと位置づけることは、環境に関して知識が少ない人や関心があまりない人を意識が低いと位置づけることに繋がると思う。その高いから低いへ「教えてあげなきゃ」という意味の分からない正義感というか義務感がとても苦手。

自分として伝えようというのではなく、そういう人に限って集団の正義になるから余計押しつけがましいのだろうと思う。

 

啓発すること、伝えることは大切だと思うけれど、その態度だけはどうしても好きになれない。

 

もうちょっとこう、それぞれがそれぞれを尊重しながら、それぞれの想いや考えをそれぞれの想いや考えとしてただ伝えていけるようにはならないのかな。

月に移住したい。

運転

街に戻ってきました。

 

長距離運転はやっぱり疲れる。肉体的にだけでなく精神的にも。

多分原因のひとつは沢山の人が運転する車と接するから、人と会うのと同じで消耗するのだろうと思う。

なんで運転手の顔も見えない車相手にこんなに気を遣っているんだろうと思う瞬間が幾度となくある。疲れる。

 

運転中はまた時間のことを考えていた。こんな距離を1日で移動しても、僕の時間は既に予定に織り込まれている。他人の時間を軸に決められた予定で、僕の時間はその中に入ってしまう。

決して忙しいわけではないけど、その状態がすごく嫌なことに気づいた。

 

自分の時間を生きたい。

理想と暴力 純愛と不純

理想の愛、理想の恋、 理想の家族、理想の生活、理想の死に方、理想的な子育て、理想的な社会人、理想とは何なのだろう。

通念から考え方がずれている僕にはどれも価値観の押し付けにしか感じない。考え方が合わなさすぎて疎外感すら感じる。

 

一般的な通念と考えが合う人たちにとってこれらの理想は本当に理想なのだろうか?

 

理想と呼ばれるものは「こうあるべき」という枠づけ、定義づけ、形作りだと思う。

理想の形を先に作ってそれを目指し、その枠に入ろうと努力するのが好きな人、誰かが作った枠の中にいると安心する人は多分多いのだと思う。だから世の中そういうことが多い。

でもその理想はどこかの誰かが勝手に作ったもので、当てはまる人や当てはまる関係の人々もいれば、そうでない人たちも多いものばかり。

それどころかその理想を掲げた誰かの『理想』であるので、その価値観上で高く据えられている場合が多いと感じる。

高く据えられた理想という言葉は、掲げた本人以外からはその掲げられた理想しか見えない。その理想の枠の外のものは理想に見合わない『非理想』の一言になってしまう。

 

それらは言葉の上では飽くまで誰かの作った理想でも、多くが集まる内に社会が共有する通念、固定観念になってしまうのではないだろうか。そしてそれらは無意識の圧力となって人々にのしかかっているように感じる。

 

そんな理想で溢れた世の中は理想を追う人たちにとっては生きやすいのだろうか。

 

理想に届かず気を病む人や、考えが合わず自分を見失う人はいるだろう。

誰かの勝手な理想を関係する誰かに当てはめてその人本人を見誤る人、関係を見誤る人、人を傷つけてしまう人、傷つけられる人も出てくるだろう。

枠である以上その誰かの勝手な理想によって人を排斥する人、排斥される人も出てくるだろう。

 

通念となった理想は人々の価値観を侵食する悪魔のように感じる。

捻じ曲げられた価値観はその人だけでなく、人と人の関係を壊し、生まれるはずだった人と人の関係さえも壊してしまう。

 

理想は高い枠であるだけに、自分がその定義に入ると安心感だけでなく優越感も得られるのだろう。その麻薬のような言葉に浸かっていれば傲慢になり、排他的になる人もいるかも知れない。

 

個は個として、その間にできる関係にはそれぞれのあるべき姿があるのに、理想はそれを許さない。枠だけ見るようになれば個の在り方は尊重されない。

 

人や関係を狂わせ、社会の圧力をも生みだしてしまう『理想』という言葉は恐ろしいと思う。

 

社会の共有する理想は幻想を生む。

理想的な愛の形とされる『純愛』という言葉もその類だと思う。それは確かに一定の価値観の中では美しい。実際に存在する形でもある。

でもその西洋文化的な価値観が正しいとされ始めたのはごく最近のことで、現代でもその価値観を受け入れていない社会は沢山ある。

しかし純愛は沢山の形があるであろう愛を、そうあるべきものだと固定しようとしている。

 

純愛は比較的身を置きやすい手頃な位置である理想だと思う。それはいつしか正しさを持ち、法の後押しも手伝い、枠の外である『不純』を排斥するようになった。

不純が正しいとは言わない。でも関係の一つである色々な形の不純は、その人たちの間の関係でもある。それは本当に叩かれるべきなのかと考えることがある。

関係者ならまだしも、不純だからという理由だけで中身を知らない人たちにも叩かれる。それは私刑であり暴力でしかない。

一部のイスラム教徒がレイプされたと主張する女の子を石打刑で死罪にするのとあまり変わらないと思う。

 

不純は人を傷つける。それは僕は嫌いだけれど、そもそも不純でここまで人が傷つくのは、純愛が理想として正しさを持つようになったからではないかとも思う。不純は純愛が正しい世界でしか不純として存在しない。

 

『精子戦争 性行動の謎を解く』という本の中で、「同じ父親から生まれたと思っている子供の3人に1人は違う父親の子供だ」というデータを著者が紹介している。それを日本に当てはめるわけではないが、どれだけ罰則を設けても、非倫理だと叫んでも不倫という不純が無くならないのは、ヒトとして自然な現象だからだと僕は思う。

それを認めないで不純だからという理由だけで反射的に反発するだけでは問題は繰り返すばかりか理解が進まない上に暴力ばかりが起きる気がする。

類人猿、人の歴史、日本人の歴史から見れば純愛は自然か不自然で表せば不自然の側にあると僕は思う。不自然が社会として正しさを持って、人はヒトでも数百年前の人でもないと言えるほど傲慢に生きれるの?

暴力を本能的な目的とするのが自然とするならば納得するけど、そうあって欲しくはない。

 

先日『在り方を認めること』が理解の基礎だと書いたが、自然な現象として不倫の発生を認めることは、不純を正しいと認めることとは根本的に異なる。理解のために必要な一歩だと僕は思う。

しかしそれすらも許されない空気がある。

 

その空気すらも作り出したのが理想という幻想だと思う。幻想を正しいと思い込んでいるうちは原因を理解できない。

それは愛で溢れる世界を作るどころか、愛の名の下に暴力を容認する狂気だと思う。

 

長すぎる例となってしまったが、沢山のものごとがこの構造になっていると思う。

いじめや虐待、育児放棄、数々の差別もこの構造がある限り根本的にはなくならないと僕は確信している。

 

 

個人が理想を掲げるのは悪いことではないと思う。でも『私にとっての理想』として言い表し、受け取る側も『あの人にとっての理想』と受け取るようにしないと傷つく人ばかり増えるような気がするのです。

そして観念の悪魔が加速度的に巨大化しやすい情報社会では、僕たちはより気をつけなければ大きな怪獣を生むことになると思うのです。

 

理想なんて所詮誰かの勝手な感想なのに。

『受容』から 僕にとっての自己の受容の難しさ

"Surfing Your Inner Sea : Essential Lessons for Lasting Serenity"という本の中で、著者のRaphael Cushnirは"The foundation of serenity is acceptance." と言っている。 心の平穏、平静において重要なのは第一に『受容すること』だそうだ。

「過去の傷も、うまくいかない仕事も、社会的・環境的な不正も、恒久的な変化のためには先ずは現状を受け容れることが大切だ」と彼は説いている。

目の前にある現状こそが紛れもない事実で、その存在、在り方を自然の摂理だと受け容れることを基礎に、その結果の連続である自分の存在自体を常に受容する。という事なのだと思う。

それを基礎に知覚や感情、思考を内観することによって自分自身を感情の波に左右されない位置に持っていくことで平静を保つというメソッドのようだ。

 

これは僕自身も何となくやってきたことで、しっかりできるのならかなり有効だと思う。

どちらかというと僕に足りないのは基礎となる受容の方だろう。

僕は結構歪んでいるので、他者を受容する努力は(回り回って自分の為に)自動的にするようになっているが、結局自分自身を受容しきれないが為に感情の渦に引きずり込まれるのだと思う。

それが良いのか悪いのかはわからないが、辛いのでやはり平穏が欲しい。

僕は過去を受け容れきれてはいない。

その時が来れば受け容れられるだろうと思って15年経ったが、中心の部分は封じたまま。

 

かなり前に色んな症状が辛くて薬漬けになっていた頃、EMDRという療法を受けた。不思議なもので、記憶の辛い部分は記憶喪失のように出て来なくなっているのだが、その両方を受けた時に一部が氷解したように脳裏に戻ってきたことがあった。フラッシュバックに近いものがあるが、もっとどっと、何かが瓦解するように押し寄せてくる感じだった。

それが本当に辛く、怖く、それ以上は掘り返したくないというか、本能的に掘り起こしてはいけないと感じた。

 

そんなこんなで月日は過ぎ、過去を切り離し2度死んだ3度目の別の人生だと思うことで、時間の助けもありそれなりに平穏を取り戻してきてはいる。

 

自分の内面は2年前に出会った大切な友達との対話を通し、大きく変化していると感じていた。

去年くらいから、いつも感じる何とも言えないストレスの中、変化の中にあっても、何かが足りないという気持ちばかりが強くなっていた。

そんな日々の中、ふとこのブログを開き、思った事や感じたことの発散の場とした。このブログは刻々と変化する僕の内面の中でも重要な役割を担っているのだと思う。

 

説明たらしく遠回しに書く必要もなく、足りない何かは『自己の受容』なのだと思う。

心の平穏が自分自身の大きな一つの目標だと気づいたのも2年ほど前だった。

今は以前に比べれば平穏ではあるが、本当の意味の平穏ではない

ただ単に溺れない術を身に着けた段階だと思う。でもそれでは何かが足りない。

 

この本の著者が言うように、「感情の波にサーフィンのように乗る」ようなものを僕自身が目指しているのかもわからないが、強く感じるからこそベーリング海のような心と共に生きるのは辛いし、Inner Peaceを目指すのは僕自身の在り方の上で重要だと思う。

 

この友達に僕の過去のことを伝えた時、「その過去があったから今の自分があると思えるようになる日が来るといいね」というようなことをとても慎重な言葉遣いで伝えてくれたことが心の中に大きく残っている。

言葉を濁して返してしまった記憶があるが、何か大きな意味のある言葉として残っていて、今も感謝している。

恐らく、答えはそこにあるのだろう。

でもどうすればいいのかまだ分からない。平穏、安息を求めたいけれど、その為の次の一歩はかなり険しいものだと感じている。

本当の意味での『自己の受容』『自己肯定』。過去を含めた自分と向き合うためには、やはり過去と対峙しなければいけないのだろうか。

 

過去という言葉を思い浮かべただけで、色々な感情が波立ち、震えが襲ってくる。

もう付きまとわないで欲しいとあんなにも思っていたのに、目を逸らしていたものの先に進むべき道があるような気がしている。

乗り越えられるだろうか。

目を向けようという気になっているだけ大きな変化なのだろうけど。

 

自分自身の存在を認めるのがこんなに難しいから、その反動で他者を認め、その自分を肯定しようとしていたのだろうか。

そうならば本当に卑しいと思う。

ほら、また引きずり込まれそうになってる。 やっぱりまだ無理だろうなぁ…。

 

 

『受容』の大切さについてもっとこう、外側のことを書こうと思っていたのに、前置きのつもりの内面の部分が膨らんでしまいました。溜まっていたものが出たのかな。

それについては気が向いたら今度書きます。

星空の道標

ここは空気が綺麗で周囲に灯りが全くないので月が出ていなければとても綺麗な星空が見えます。

どのくらい綺麗かというと視力0.1以下の僕が裸眼で天の川を見えるくらい。

 

昨夜は刺し網をチェックしに行く途中、ボートから満天の星空を眺めた。沢山の蛍が一本の木を恋の光で満たすのを通り過ぎ、両岸の木が開けた時夜空全体が光る星で満たされた。

 

数えきれない様々な星たちはそれぞれが違った光を放つ。青い星、白い星、赤い星、その瞬間瞬間に色々な光を放つ星たち。

木々や川をまたぎ、頭上を通る輪っかのような天の川。

 

以前ある人が「吸い込まれるような星空を見ていると怖くなる」と言っていた。自分の存在の小ささが怖く感じるらしい。

 

同じものを見た時の感じ方も人によって違う。

僕が星空を眺める時は子供に戻る感じだ。壮大なワンダーを前に眼が開き、安らかな笑みに口が半開きになる。

星空を眺めていて感じるのは「綺麗だなぁ」ということと、希望。

光り輝く多くの恒星を周る惑星があり、その惑星を周る無数の月がある。そしてこの天の川のような銀河が数えきれないほどあり、その外側に何があるかは分からない。総てが一つの、僕らには認識できない大きな秩序のもと色んな段階を重ねながら周っている。

その壮大な中の小さな一つの存在であること、その中のほんの一瞬としてここに存在し、今この瞬間星空を眺めていると認識した時、とても安らかな気持ちになる。その自分の存在の小ささは僕にとっては希望であるらしい。

 

その小さな存在である僕の中にも壮大な宇宙と同じような世界が複数の段階的な尺度で存在している。壮大な星空の下にいる時はその双方の世界の境界がなくなり繋がったと感じた時、自分という存在がただの空間としてすら存在しないような不思議な感覚になる。何かを越えたようなとても安らかな感覚。

 

もう一つ星空が呼び起こしてくれる感覚がある。

邪魔をする灯りが無い星空はそれぞれの星がはっきりと輝き、一つ一つの輝く星が僕の居る位置を教えてくれるように感じる。

勿論地球上での座標や位置が分かるという意味ではない。もっと大きな銀河、宇宙の中での位置を体は感じているのかもしれない。自分という一つの存在としての位置ではなく、地球として、太陽系としての位置。

なんとなくだけどはっきりと、自分の場所が分かる感覚。道を見失い迷子になっていた時に、ふと何かから自分の居場所がはっきりとわかった時のような感覚と同じ。

そこから感じる温かな安心感と、内から湧く自信、勇気、そんなものを星空は僕の内側に呼び起こしてくれる。

 

街の灯りに囲まれ、滲んでしまった星空からは感じられない感覚がこの瞬間にはある。

 

この百年より前は当たり前だった星空。僕らの祖先も地球も悠久の時の中、常にその星空の中に在った。地球ができる前からあまり変わっていない星空、その中に僕らは在り続けてきた。そこに生き物である僕らが何かを感じるのは自然なことだろう。それが恐怖なのか希望なのかは人によるとしても、感じるものがあるということに意味があるのだろう。

 

ヒトとしてなのか、哺乳類としてなのか、生き物としてなのか、物質としてなのか、それ以外としてなのか、集合体としてなのか、何かの一部としてなのか、それとも全体としてなのか、時の内側なのかそれとも外側なのか。分からないけど何かを越えて何かと共有して感じるものがある。

 

街の生活は忙しい。全てが作られた世界で、1つの生物として生体的に適応するだけの年月を僕ら一人一人は与えられていない。

そんな生活に僕のようにすぐ迷ってしまうような人は、立ち止まり自分の位置を確認する必要があるのかもしれない。星空は大きな道標の1つなのだろうと思う。

僕らは星空の下に居るのではなく、星々の中に居るのだから。

帰村中

アプリから色々書いたけれど押し間違えて消えてしまった…

 

2週間の期限付きですが村に帰ってきたので村の生活を満喫しています。

帰村と言ってもここで生まれたわけではありません。11年前にこの村に出会い、9年前にここで結婚してから6年間過ごしていました。今は子供の学校や仕事の都合で街と行ったり来たりですが、住所もここのままだし、心はいつもこの村にあるので帰村です。

 

高校生ぐらいから常に抱いていた、100年かそれ以上生まれてくる時代を間違えたかなという思いを確信に導いてくれた場所。

身体的な性質が人によって現代生活に合う合わないがあるように、性格的な性質もそうなのだと今は思ってます。

そんな思いを持つ僕が活き活きできる場所であり、生きる為に心を置いている場所、といったところです。

 

電波が悪いのであまり開けませんが、また時々書いていこうと思います。