感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

セクシャルマイノリティ 性自認 性的指向

セクシャルマイノリティの概念はLGBTQ+と色々増えていってるようだ。

これらは僕の認識では、本来自然な人の『性自認』『性的指向』の振り幅が『男』『女』という身体的特徴や、『男はこう』『女はこう』というかなり狭い価値観で『男は女と』『女は男と』と近代西洋的な男女観で個と個の関係性まで縛り上げられた為に複雑になっているのかなと思う。

人も動物も多様性を武器に子孫を残し、生き残ってきたわけで、こういう部分も本来は縛れない領域なのではないかと思う。人に割と近いボノボが性行動を群れの秩序維持(人間が勝手に解釈してるだけかもしれないけど)に利用しているように、人も様々な文化でそれを利用してきた。社会は個性の振り幅、多様性が反映されて形を変えていく面が大きいと思う。それを何であれ縛ればどこかに影響が出て当然だろうと思う。

 

そんな価値観の中で自らのアイデンティティを守るために作られるLGBTQ+というそれぞれの枠だが、そもそも定義できないものを定義しようとするから枠からあぶれる個が出てきて、それが自らのアイデンティティを守るために集まり、新たな枠が出てきて、そこに引っ越す人も出てくる。定義が固まってくるとまたあぶれる人が出てきて…みたいな流れなんだろうなと思う。

でも彼らが自らのアイデンティティを守るために枠が必要なのはマイノリティとして必然だし、枠が出来れば定義が固まってくるのは世の定めだし、それは仕方ないことだと思う。それをマジョリティ側の男女に生きる者が「権利を主張する為にどんどん増える」と捉えるのをみると、自覚のない暴力的なマジョリティ思考そのもので、結局いつもの構造に見えてしまう。

 

持論でしかないけれど、本当にその問題をなくしたいのなら、男女観全てを取っ払ってしまえばいいと思う。構造上できないのは分かるけど、本当の意味で解決するにはそれしかないと思う。少なくとも抑圧をすることは意味がないどころか痛みを増やすだけだと感じる。

でも、少しずつ前進させるというならLGBTQ+が増えていったとしても、それを自然なものと個人として、社会として認めていく他ないのではないか。少なくとも僕は個と個の関係でしか見れないので、性自認も性的指向もその人個人の一存だと思う。関係も2人だろうが3人だろうが4人だろうが、その間にかかるものなのだから僕の関係するところではない。

でもマイノリティが一方的に誤解されたり、傷つけられるようなら声をあげなきゃいけないのかなとも思う。

 

 

ちょっと迷って下書きに封印しようと思ったけど、ここは僕の掃き溜めの場所なので自分の整理の為にも書いて公開してしまおうと思う。そのための匿名だしね。

 

僕自身がこの問題に興味を持つのは、多分自分自身も違和感を感じる部分があるからだと思う。

僕はトップダウンで捉える傾向が強いせいか、性別の概念そのものが薄い。例えば自分自身を考えるにしても、「僕は僕であって、男の前にヒトであり動物だし僕自身」だと認識される。ファクトがあるにしても、より大きな概念のファクトから適応される感じ。そして自分自身そっちの方が自然だと思う概念が多いから、小さい概念になればなるほど意味が薄くなる(のだと思う)。

性別は事実でもあるので仕事や既婚や日本人なんかの見方次第で変わる他のタグ、枠よりは受け容れてはいるが、やはりそれ前提で見られるのは違和感がある。

 

『男性的』『女性的』という傾向で測る(決めつけなので嫌いだけど)テストをやると女性的傾向が強いのだけど、そんなのは関係ないと思ってる。男らしいとも思われたくないし、女らしいとも思われたくない。筋肉はちょっとつけたいと思っているけど、それは僕がそう思うからであって、男らしく見られたいからではない。

小学校の時、男子トイレ、女子トイレに分けることに何か反感があって敢えて女子トイレに入ったりしたこともあるし、男の子がみんな青を選ぶのに反感があって敢えてピンクを選んだりした。『男らしさ』『女らしさ』という強制への反感は価値観が定まる前に既にあった。分別がないと思われがちだけど、そう思う人よりも外側に分別があるんだと思っている。

僕は僕で主体的なもの。その時によって変わるかもしれないし。それを他人にどうこう言われたくないし、態度で示されたくない。

そういう性自認もあるらしく、『ノンバイナリー』と言われるそうだ。でも僕は生理的に男だとは認めているので、傾向的に言えばノンバイナリーに近い男性なのだろう。薄いだけなのでレスバイナリーの方が合うかな。

そう捉えると生まれ持った身体、心や頭の認識だけでなく、性格的な捉え方や価値判断、今までに育まれた様々な価値観がこんがらがってることが分かった。やはり単純な問題ではない。

 

 

『性的指向』となると自分を分析するにもデータ不足。テストを複数やってみた限りでは、『両性愛者』の傾向が強く、テストによっては『パンセクシャル』や『セクシャルフルイド』という結果にもなる。

正直言ってよくわからないし、分かる必要もないのかもなとも思う。

興味でやってみただけなのだけど、実はちょっと自分の中でつながった部分があってホッとしているかもしれない。

 

僕は自分の性別の概念が薄いとは書いたけど、それと同じで他人を見るのも同じパターンがある。相手も男性、女性、トランスに関係なく1つの個であり人であり動物。その人と自分の間に関係ができる。素晴らしい意味があるのかもしれないけど、現象としてはそれだけ。

友達として仲良くなる相手についても小学生の頃から男女関係なく、その人の心と仲良くなってきたつもり。友達自体は少ないのだけど、それは主体的に作ろうとしないのと、心で認めあえる相手じゃないと友達として続かないから。

多分性的指向についてもそういう傾向はあるんだと思う。そうじゃないと深い関係にはならないし、深い関係にならなければ奥手の僕にとってそういう相手にはならない。そこに性別の壁は多分そこまでの意味は成さないんじゃないかなと思う。そして性的な関係というのもあるべくしてあると思っていて、個と個の間で起きるなら起きるし、起きないなら起きない自然なものと思っている。

まだしっかり理解はしていないけど、その場合パンセクシャルになるのかな。一時何となくバイセクシャルなのかなぁと思うこともあった(現実で何かあった訳でもなく)けど、概念的にこっちの方がしっくりくる。そういう意味で自分の在り方に二重で一致したようで安心した。

僕としてはどれでもいいのだけど(と思っているけど、わからない)。

何にしても自分の価値観や捉え方を紐解くのは楽しい。何故そう感じ、そう見えるのかは、自分だけでなく一定割合の同じ傾向の人に当て嵌まる部分があるはずなのだから。そういう意味で自分の主観と外側の世界を繋げる作業だ。

 

色んな人が居るのが自然で、それが凝り固まった価値観、道徳観で縛られている現状がおかしいのだと思う。取り敢えずいつものように現状の枠、システムが悪いのだということにして終わろう。今日はなんかスッキリした。

 

僕は僕として、それぞれの人のそれぞれの在り方を尊重していけたらと思うのでした。

 

 

*追記

カミングアウトとかそういうものではなく、単なる思考の整理です。

観光客と貧困者の生活圏

先日この街で日本からの観光客が強盗に襲われたらしい。

東アジアからの旅行者が多く、主に中国、韓国、日本人。日本人は以前はメジャーだったが、外務省の勧告もあり今は減っている。代わりに韓国人が増えた。どれも服装で簡単に見分けることが出来る。日本人はの服装は落ち着いた印象で、韓国人は少し前の日本人に近い印象がある。

ただ、両者ともあまりに小綺麗なのでとても浮いてしまう。

 

町中で見かける旅行者、特に日本人と韓国人は僕が言うのもあれだけどとても無防備だ。浮いている上に無防備で、しかも危険なエリアに入ってしまう。他の周辺諸国に比べれば治安は特別良い部類に入るが、それでも事件は日常茶飯事。

 

先ず多民族国家であるからには様々な格差が出てしまうのは当たり前。町中にそういった人が溜まるのも当たり前。不法入国者や薬の売人、売春婦に宿を運営する怖い人たちが集まるのも当たり前。 そういうことを知らないのは百歩譲って良い。自己責任だし。

 

でも貧困者が多いエリアでそんな小綺麗な格好をして、集団でニコニコしながらカメラ持って歩くのはどうなのだろう。逆に考えてみたらどうだろう。

お金がないのが日常で、盗みや詐欺もいとわないような生活をしているとする。それでも周りの家族や仲間はそうなのだと耐えることが出来る。でもそこに一回り違う生活をしている他国人達が来る。彼らは仲間が持てない国籍やパスポートも持ち、海外旅行する金もあり、小綺麗な新品の服を買う金があり、それを見せびらかしながら、にこにこ集団で楽しそうに高そうな携帯やカメラで自分たちの水準の低い生活を見て、写真を撮り楽しんでいる。地元の金持ちとは違い、自分たちから物を買うわけでもなく、珍しいもの見たさに見物していく。

 

人によって感じ方は違うという前提はある。中には歓迎する人もいるだろう。でも僕がその光景から彼らの表情を見て感じるのは常識の無さに対するヘイトが大きい。

中流以上の生活者は襲われた日本人に同情する(国の観光に対する打撃を憂えることが出来るレベルの知識もある)が、多くの低所得層はこの事件は仕方ないと思うだろう。僕もそう思った。

 

日本でも目を凝らせばそうだが、多民族国家にはよりハッキリとした、沢山の枠が存在し、それぞれに違った常識やマナーが存在する。そこに入るのであれば合わせる、合わせられないなら入らない。それは暗黙の了解。

でも何故か日本人(韓国人も)はそこに、日本人を主張したまま入っていってしまう。それは無礼なことだし、危険なことだと思う。その積み重ねは日本人と言う集団としてのヘイトを集め、溜めることになる。

 

以前、郷に入れば郷に従うという事を言っていた人が居た。そしてその人も同じようなことをしていた。それを思い出してこの文を書いた。

『郷に入れば郷に従う』それを振りかざす人は多いが、その人達は実際に自分が別の郷に入った時に従うことが出来るのだろうか。

 

そういった場所に足を運ぶなと言うわけではないけれど、もう少し周りを見て合わせて欲しいと思う。常識もマナーも場所や集団が変われば変わるものだ。

色褪せた中古服を買うのが当たり前の人たちの中で小綺麗な服を着て恥ずかしくないのだろうか。ただでさえ目立つのに色んな荷物を見せびらかして気にならないのだろうか。自分の生活圏を『観光』という名目で見せ物のように扱われるのはいい気分がしない人が居ることに気が付かないのだろうか。

そういった事が気にならないのなら端から自分を別物扱いしていて線を引いているのだと思う。それが悪いとは言わないが、それならばリゾートに浸っていた方がお互いの為だろう。『旅行者だから』は通用しないし、『自覚のない旅行者』だからこそ狙われるのだと気づくべき。

貧困者に日本人の価値観は分かるはずがない。日本人にも貧困者の価値観は分かるはずがない。それでもお互いが尊重する気があるなら、距離を取ることが一番だろう。

 

『相手の気持ちになって考えましょう』そう言われて育ってきたなら、今一度考えてみるべきだと思う。 

観光地としても良い所だし、良い観光客も沢山いるのだけれど、目に余る人が多いので毒を吐いてしまった。

そもそもそういう場所があると注意しない旅行会社やガイドブックも悪いのだけど、彼らの好きな自己責任論を使うなら、立ち入る者の自己責任でもあるです。言葉を振りかざす人のダブルスタンダードは嫌いだよ。

道の覚え方から 知覚機能と躓き 僕と学校の教科

この街に移って間もない頃、助手席に乗る知人に道順を教えてもらいながら運転していました。彼の説明は「そこを右」「次の信号を右」「~の建物の次の交差点を左」といった順番通りの説明。説明通りに運転するのだけれど、何回通っても『道順』を覚えられない。

「道順なんか一回で覚えられるだろ?」という心無い言葉。「道覚えるの苦手なんですよ。」と誤魔化しつつ心の中では(イメージが湧かないんだから覚えられるわけないのになぁ…)と思っていた。

次の日、仕方がないのでGoogle Mapで調べ、広範な地図、主要道路、要所の位置関係等を調べてから運転した。運転しながら頭の中で地図をイメージし、連動させながら覚えると、しっくりと地図情報や位置関係が頭に入り、いつでも頭の中で3次元を描き、移動できるようになる。

 

こういった事は小学校から今まで、無数に経験してきた。

学校の授業やテスト勉強も、中学校の頃やっていた剣道部も、言われた通りにやるのだが、何かが違っていた。

学校で習ったことは「なんとなく」言われた通りやってしまうので、楽しくもなければ「なんとなく」答えは分かってもしっかり理解しておらず、応用できないことが多い。

剣道もまた、なんとなく言われたことをやっていた。別に思い入れもなかったし、部活だからしかたなくやっていた。今思えば意義も見出せていなかったため、楽しくもなく、ただ体を動かしていただけだった。そしていつも途中でいつの間にか空想に浸り、何をやっているのかわからなくなる。

何事もわからないままなんとなく合わせてやることに慣れてしまっていた。

 

色々な心理学で説明がされるが、MBTIに繋がるユング心理学の優先される心理機能の違いという説明が僕の中ではしっくり来ている。この場合は知覚機能の違いが大きく、詳細からボトムアップで認識するのが得意な感覚(S)型の人、全体からトップダウンで入るのが得意な(N)直感型の人、という優位性の傾向の話。

誰もが双方の機能を持っているが、知覚機能の場合は特に意識しない限り優位(得意)な方が自動的に優先されるとされる。それが子供の頃の違和感を説明するにもしっくりくる。分かりやすい授業と何をやっているのかわからなくなる授業の違いもその部分に見出せる。僕の場合我侭だから興味も大きいけれど。

各教科と僕の関係を振り返って例に挙げてみる。

 

『国語』

漢字の読みは得意だった。形が何となく意味と関連付けて記憶されてるから。でもいざ書き順通りに正確に書こうとすると出てこないので、書きは苦手だった。

音読とかよくわからないから、自分一人で読むのは好きだった。作文はいつか書いたと思うけど、別の理由で嫌いだった。

テストに出る

漢語はどの枠でやったのか忘れたけど、これも苦手だった。意味が分からないまま覚えさせられて楽しくなかった。和歌もそう。意味やロジックが分かれば楽しかったかもしれない。今は和歌や俳句も好き。

 

『算数』

算数は得意だったけど数学に移って駄目になったのもその点だった。算数は数字や図形が形でイメージできる。数学はそこにたどり着けなかった。算数の延長みたいな教え方をしないで、言語的に教えてくれればよかったのに。

 

『理科』

好きなのは勝手に教科書読んで覚えてた。

化学は興味がわかなくて未だに苦戦する。もう少しこう、物質それぞれのイメージが固まって現実と関連付けて覚えられればいいのだけど。教科書や動画を見ても、それぞれの物質のイメージが違うのは良くないと思う。一度定着すれば問題ないと思うけど、僕のようにイメージに振り回される人間には辛い。化学式も算数の延長だと思い込んでいたのがいけなかった気がする。また勉強してみようかな。

 

『社会』

小学校の時は記憶にない。何やったっけ。

中学に入ってからは地理は得意だったけど歴史は苦手だった。特に日本史が苦手だった。年号とか覚えさせられるのが苦痛でしかなかった。

でも趣味として点で記憶されていった戦史や政治、地理や自然環境、芸術が繋がるようになってくると、全てが勝手に繋がって気づけば世界史が頭に入っていた。覚えようとしなくても自分の中で繋がれば勝手に記憶される。近代なんかは大英帝国様様である。今更覚えてもレール的に見れば手遅れだけど、レールに乗らなくて結果オーライだろう。

日本史も結局は日本だけで覚えていたからいけないんだと思う。世界史の中の日本なのだから。年号と名称とかより、『いつ』『誰が』『何を』『何のために』『どのように』を、それぞれの関連性を持って覚えられないと難しい。そういう意味で戦史や政治状況の概略図、相関図なんかはとても分かりやすい。ハプスブルク家とかもうぐちゃぐちゃだけど、興味がそのぐちゃぐちゃを気持ちよくして覚えるわけで、それが日本史に適応できれば気持ちよく覚えられると思う。その興味がまだ湧かないけど。僕の場合日本史は人物に興味が湧かないから、土地の特色、交易なんかから繋げられれば面白くなるのかもしれない。

あと第二次大戦楽しみにしてたのにさらっと日本が悪いで終わらせるのほんと酷いと思った。人の楽しみを何だと思っているのか。

 

『体育』

体育は苦手だった。体動かすのは得意ではなかったし、複雑なことを順に覚えさせられると途中で何やってるかわからなくなる。球技は一番嫌いだった。痛いの嫌だしチームプレイも嫌いだもん。失敗したら迷惑かけちゃうじゃん。ボール追っかけるのも意味わかんない。できるのは跳び箱や体操、水泳ぐらいだった。

 

『音楽』

歌も楽器も強制作業にするからいけないと思う。楽しくないし覚えられない。その上点数までつけられるから興味を失ってしまった。やり直したいなぁ。

 

『図工・美術』

好きだった。『自分の表現』が許される時間だった。皆がウサギの笛を作る中カエルの笛を作っても怒られなかったし、絵も好きに描けた。でも中学の美術では先生に「いいんだけどこまごまし過ぎ」と言われて傷ついた。僕の見る森はこまごましてるんだけど…僕がいいなぁと思ってた友達の絵の評価が低かったのも気になった。今考えるとそもそも評価いらないと思う。

 

『家庭科』

小中を通して僕の成績が一番よかったのが家庭科である。楽しかったし、現実にすぐ結びついた。給食に食育の一端で栄養の説明がいちいちあって、それが家庭科で習う栄養ともすぐ結びついた。ある意味で味覚に直結したのも良かったんだと思う。

 

『英語』

英語は好きだったけど授業はつまらなかった。点数は取れたけどあんまり釈然としなかった。今考えても必要のないテストが多いと思う。それと名称を『アメリカ英語』か『英語(US)』に変えたらどうかと思う。

授業の思い出と言えば、クラスに一人帰国子女の子がいて、先生はその子に発音させるのだけど、その時の周りの反応が僕は嫌いだった。日本の学校の象徴的な空気。

 

『道徳』

ふざけてるの?

 

 関係ないことまで書いてしまったのでわかりづらくなってしまった。

 

傾向として、僕は順番に与えられた情報をそのまま作業的に覚えるのは不得意で、全体が見えるとイメージが繋がり、理解し易くなるという事。

MBTIの便利なところは、その傾向に基づいて色んな所で情報が集められているところだと思う。僕はそのS感覚 - N直感では後者の傾向が強いのだが、これもマイノリティ側。社会全体で多くの人はS側に傾いているのでそこに躓きを感じないし、教科書もそちらに合うように作られている(意図されず)ものが多い。順番に淡々とただ情報をインプットする先生と、分かり易く概要を伝えてから入ってくれる先生(珍しいタイプ)の違いもそこにあるのかもしれない。

 

このひたすら情報を覚えさせる授業方式に躓いたり、そういった教室に馴染めずに弾かれたりするのも僕と同じタイプの人が多い。それはマイノリティ側なので仕方ないことなのだろうけど、感覚の優位と同じく、これも早めに対処法に気付いていれば対処することが出来た問題だった。

 

僕はまだ『わからないままなんとなく合わせてやること』に慣れられたのでマシだったとも言える。それは逆に不幸だったとも思っている。でもそもそも社会の枠やキャリア自体に魅力を感じないからこれでよかった。

ただ、多くの人は社会に生きる道を求める。しかしこの学校で人生が決まってしまうような社会では、先ずは多数派の性質に合わせて合理化された学校教育によって同質性の篩にかけられる。その篩で可能性を潰されてしまった子はどれだけいるのだろう。どれだけの子が無意識のままこれから選別されようとしているのだろう。そう考えるととても辛くなるのです。

 

せめて彼らが自分を知り、違いを知り、対処法を知っていたなら、たとえ自分に合わない中で学習することになっても自分自身に『出来ない子』というレッテルを貼ることもないだろうに。

子供に対して合わせられない方が悪い(と口には出さなくてもそういうシステムになっている)というのは横暴だと思う。必要なのは個が自分の特性の活かし方に気付けるサポート、そして生き残るためのサバイバルツールだと思う。

難しい問題ではないのに、マイノリティであるがために認知されずに、又は無視され、繰り返されてしまう。それは悲しいことだと思う。

 

 

「道順なんか一回で覚えられるだろ?」

子供の頃からこういうことばっかりでした。それに適応したがために、テストで答えは分かるけどなんでその答えが出てくるのか自分でわからなくなったりする。せめて自分に合った地図・位置関係の覚え方のように気付き、理解しながら学習していればそうではなかったのかもなぁと思うのでした。

記憶と夢 僕の見た印象的な夢ランキング

昨夜寝る前、記憶にある風景を脳内にある地図の道を辿りながら思い起こしていた。

飛び飛びの記憶の中の風景を辿っていると、ところどころ確実に現実ではないものが混ざっている。夢の中で見た光景だった。見たことも忘れていた印象の薄い夢たちだったけれど、意識的に想起することでどんな夢だったかも何となく思い出すことが出来た。

そんな夢たちがなぜ現実に足を運んだ場所の記憶の所々に紐づけされていたのだろう。夢で見た光景は現実で見た光景と違っているのに。

夢は記憶の処理プロセスであるという説があるので何となく納得は出来るのだけど、もやもやした変な感じが残る。不思議な感覚だ。

 

そこでふと、この記憶の断片に付随する『夢で見た記憶である』という認識が無くなってしまったらどうなるのだろうと思い、少し怖くなった。それがなくなったら恐らく夢と記憶の区別がなくなり、夢と現実の境界も無くなってしまうのだろう。

上手く使えれば自分の過去も塗り替えることが出来るかもしれないけれど、完全に消すことは出来ないのにいろんな現実が混在してしまうとすれば、より混沌とした世界の中に生きることになるんだろうな。そう考えるとやはり怖い。

もし人の心を読むことが出来て、自分の心がそれに耐えられないくらい弱ければ同じようなことが起きるのかもしれないとも思った。

 

海馬の損傷で記憶が数秒しか保持されない人もいるらしい。外から見ればもの凄く恐ろしいことではあるけど、そんな記憶も残らない本人にとっては恐ろしいどころかそれが自然となる。

夢と現実の境界がない人は壊れてしまうらしいけど、外側から見れば壊れてしまっていても、本人にとっては壊れていないのかもしれない。

 

自分で頭に浮かんだまま書いているので、書いていて何を書いているのか理解していない。変な人だと思われるといけないので無修正版はこの辺にしておこう。

 

 

夢ついでに、今までに見た夜の夢で印象に強いものランキングでも書きましょう。現実の繰り返し系悪夢は無しで。夢だから変な内容なので、そういうの苦手な方は読まないでください。

 

 

第3位 侍に追いかけられ首を斬り落とされる夢

これは小学校低学年の頃に良く見た夢。逃げるのだけど結局追いつかれ、首を斬り落とされて目が覚める。いつも違う道を逃げるのだけど結局追いつかれて斬り落とされる。斬り落とされてもしばらく目が覚めないこともあった。断頭台で処刑された人はあのような光景を最期に見るのかな。舞台はその時によって違うのだけれど、ビルの隙間の路地裏で侍に追いかけられるのは今思えばシュール。でも当時は本当に怖かった。怖いと認識する以前に恐怖を感じてる。

 

第2位 ゴリラにレイプされる夢

これは20代前半の時に見た夢。夕方、とても疲れている時に寝てしまった時に見た。自室で寝たのだけれど、夢の舞台は2階の奥の部屋だった。家の中でちょっと雰囲気が違う部屋。幽霊は信じていないけれど、その部屋で人影を見たことがある。そういう不思議な部屋を舞台に、巨大なゴリラに襲われ、殺しにきているようなもの凄い気迫で、僕は生命の危機を感じているのに抵抗が出来ない。僕は男だけど夢の中では関係がなかった。

襲われて数秒で目が覚めたけれど、心臓がバクバクで脂汗がもの凄いことになっていた。暫く呆然としていたのを覚えている。

 

第1位 無表情・無言のお地蔵さんにどこまでも追いかけられる夢

これは小学校高学年の時。一番不気味で一番意味が分からないのに一番現実味があって怖かった。お地蔵さんがぴょんぴょんキョンシーみたいに跳ねながら追いかけてくる。現実の道に沿って逃げた。遅いので侍と違い距離を離せるのだけど、暫くするとブォ~ンという耳鳴りと変な気配とともにお地蔵さんが視界に入ってくる。その繰り返し。階段を上っても、家に入ってドアを閉めても突き抜けてきた。追い込まれたところで死ととれるもの凄い恐怖とともに目が覚めた。

 

 

いい夢より悪夢の方が印象に残りやすく、夢は見ている途中に目が覚めると記憶に残り易いともいわれる。こういう飛び起きるタイプの悪夢の場合はどうなんだろう。飛び起きなけらば記憶に残りづらいのだろうか。記憶に残らないならそもそも見ているのかもわからないし、飛び起きたから夢を見たのかもしれない。(自分で書いてて突飛だと思った)

 

僕の夢は小さな頃から意味の分からない現実離れしたものばかり。現実の人は出てくるのだけど、内容がいちいち飛躍し過ぎて、しかも飛び飛びで置いてけぼりになる。

そういう意味では意味不明な夢か悪夢ばかり。もう少し現実的な夢を見れれば夢の世界がパラレルワールドの自分の体験した世界だ、という話も信じられるのだけど…

楽しい夢は見ていても記憶に残っていないのか、そもそも見ていないのか、どっちなのだろう。楽しい夢が見たいなー。

ADHDセルフチェックテスト 『レッテル』『線引き』『盾』

ふと思い立ってADHDセルフチェックテストをやってみた。

 

いくつかやってみたけど、結果はどれも高得点をマーク!「専門医に診断を受けましょう」だって。流石USA、そのまま近くの推奨専門医を紹介してくれるサービスに繋がるのもある。

僕は多動性はあまりないので不注意優位型になるのでしょう。小さい頃から注意力散漫だと言われて育ったからね。

 

ただこれは分かりきっていた結果。やるまでもなくその特性は自覚してるし、そもそもADHDを障害だとは思っていないのでやる意味も感じなかった。

やってみた感想は正直ちょっと嬉しかった。僕からすれば意味の見出せない作業に集中できる人は尊敬に値すると同時に、その人達と同じ枠には当て嵌められたくはなかったから。違うのだから当たり前。

 

 

16タイプ診断とも呼ばれるMBTIに当て嵌めれば、僕のタイプはADHD(ADD)そのものだとも言われる。それぐらいADHDは性格型の特性に相関する。

僕が枠が嫌いでもMBTIが嫌いではないのは、各特性を傾向で捉えるところ、そして一つの特性を有利な面と不利な面の両面で捉えるから。ただ、全ての人を16分割しただけではやはりレッテルやバイアスに繋がると思うし、僕はそのタイプにも囚われたくはないので、ツールに留めているつもり。自分、そして人の多様性に触れるには良いツールです。

 

 

現実にADHDと診断される特性は、ヒトとして自然な部族社会では必要なタイプでも、現代社会という枠の中で人間の社会生活をするにあたってはとても不利な特性。

現代社会ではすべてが構造化されていて、その中で与えられた役割を担って生きなければいけないのだから、俗に言う地に足がついていて正確に作業ができることが優先される。

僕が仲良くなれる人は大体この特性を持っているので、必然的にフリーターとして社会から距離を取って生きたり、僕のように日本を離れたり、ADHDとして生き辛さを抱えながら生きていたりする人ばかりとなる。

でも彼らはどの人も素晴らしい人たち。とても鋭い感性・深い世界を持っている。そういう人たちが生きづらい社会が嫌い。

 

ADHDが『Fictitious Disease』かという議論が起きるが、これは不毛だと思う。ただ、発達障害や精神病は多くがそうだけど、やはり病や障害という言葉は引っかかる。

重要なのは作られた病・障害(個性)か実際の病・障害かではなく、その生き辛さの方だと思う。

そういう特性を持った人が一定割合居て、その人達がある種の社会での社会活動に困難さを持っている。事実はここまでで、これから先は解釈の問題だと思う。

個性だけど生き辛いのは事実で、それが障害とされるくらい許容範囲の狭い社会の枠の中では、障害と見ることもできる。

 

僕が今いるこの国ではADHDという概念がまだ入ってきていない。多分入ってきてはいるけど、社会の在り方が全然違うので認知されないだろう。日本人的に見れば信じられないような人も社会生活できているのだから、その概念は必要がない。自閉症に関してはたまに聞くようになってきたが、どうなるだろうか。

 

 

例えば、僕は以前LD、ADHD、自閉症(自閉症は幅が広く、ここでは単なる例なので深く考えないでください)という、世間で言えば発達障害児の子たちが社会生活の中での不自由を少なくするよう支援するNPOでボランティアをしていた。基本的には外出の引率手伝い。見通しを立てて混乱を少なく生活できるよう、外出を通して学ぶ感じになる。

癖があると感じることもあるが、どの子も素晴らしい子達だった。彼らが抱える困難もそれぞれ幅があるのだけど、その困難の多くは社会生活の中での話。もちろん社会で生きる以上、それはある程度克服しなければ本人にとっても辛いもの。しかし裏返せば、社会の個性を含めた人としての許容範囲が広ければ、僕に言わせれば健常者のレベルだった。

学校の通常クラスでは面倒を見きれない。それは事実だろう。でもそれは彼らが発達障害児だからなのか、それとも現在の学校システムの限界のせいなのか。そこは社会の在り方次第だと思う。10人クラスを2人の担任で見るのであれば、教育の在り方次第ではそういった子の1人2人は許容できるだろう。

ただその為には学校教育の後の社会における許容範囲も広くなくてはならない。それは現在の日本では非現実的と言える。

そういった意味で外から見れば『レッテル』という側面、『線引き』という側面、そして彼ら自身から見た『シールド』という側面も、状況に応じてそれぞれ考慮しなければならないと思う。マイノリティの問題はどれもそうで、多角的に見ないと危ないと思う。

 

 

僕は自分の性格上、そして自分の立場上、多くの発達障害や精神障害と同じくADHDを障害だとは思わない。発達障害は多くの場合個性であって不寛容な社会の問題だし、精神障害はその人の置かれている状態とその人自身の間にある問題だと思っている。

 

それは僕自身が同じ特性を持っていて、その状況に置かれてきて、そして現在僕はその不寛容な社会の内側に居ないから言えることでもある。

 

ADHDに関して言えば、個性であって障害ではないという立場の人は多いが、概念が一般的になった現状、それを一概に、大声で言うのはやはり危ういと思う。

ADHDは社会という枠の中で生きる為に、彼らが心を守るために活用しているもう一つの枠という側面があると思う。自分自身を守るため、許すために必要とされている側面が見える。実際にその枠の中で傷つきながらも生きている人は、ADHDというタグを『シールド』として活用しなければ一人の人として生きていくのが難しい。それはそれでその状況の中では賞賛すべき生存術だと思う。社会が変わらない中でいきなり「シールドを捨てろ」、「君たちが頼る枠は存在しない」と言うのはあまりにも酷。神経症や精神障害と定義される人相手にもやってはいけないことだと思う。

 

ただ、そのADHDという枠が彼ら自身の個性を『障害』と定義する以上、その枠は個の輝きを失わせる呪縛でもある。そこに囚われ過ぎるのはその人が本当の自分を見つけ、輝くことを邪魔する足枷になってしまう。変われない自分自身を障害として騙しながら生きるのはやはり辛いことだと思う。

 

とても難しい。

 

全ては生きた状況の中に発生している問題。

アドバイスする側ならば、そういったフィルターを一度外して、その人自身のその現状を見極めてアドバイスするしかないだろう。しかしアドバイスする側は常に自分の言葉の重さ、言葉の責任を頭に入れておかなければいけない。

 

自分自身がそうであるなら、やはり元気のある時に本当に自分の問題なのか、社会との在り方の問題なのか、であるならばどうやって自分自身として社会と付き合っていけるのか。自分を責める前に自分自身を知り、自分への理解を深めてみて欲しいです。

生き辛さは事実なのだから、シールドは状況次第で活用すればいい。最終的に捨てられるのならば一番だけど、それはすぐに考える必要もない。相対的に考えればいいと思う。ただ、もし服薬している方は薬は気を付けて欲しいです。

僕はPTSDと診断され苦しんでいた時期は、様々な薬と付き合い、というか薬に飲まれていた時期もありました。それも必要だったとは思っているけど、薬を抜くのは本当に苦労しました。そして当時僕の支えになってくれた大切な人はODで帰ってこなくなってしまった。辛さから解放されたのかわからないけど、やっぱり残された僕は悲しいしやるせないし、その人を追い込んだ世間が許せない。

薬は状況次第で必要でもそれはいつか捨てるつもりで、どうか飲まれないでください。残酷な世界に身を置かず、残酷な世界を見ずとも生きる方法はどこかにあるはずですから。

 

 

色々書いてしまいましたが、何より非難すべきはこういったただ生きようとしている人々を『障害』『病』と定義して、認めた顔をしながら排斥し、裏返せば光る部分である特性や心の叫びを薬で押さえつけてまで同じ色の歯車にすることを是とする社会だと思います。本当に許せない。ADHD?どっちが歯車病だよ。と言いたくなってしまうけど、それを言えば同じ穴の狢。彼らも彼らなりに頑張って生きていて被害者なのでしょう。でも許せないものは許せないなぁ。

何故か久々に『リベリオン』が観たくなった。

 

 

すべて個人の感想と個人的な解釈なので、辛い中に居られる方はあまり深く考えないでください。違和感を感じていて元気な方はご自分の解釈を見つけてみるのもいいと思います。周りにそういう人が居る方はどうぞアクションはご慎重に。

 

あーあ、雨も止んだしお散歩行ってこよっと。

中華料理症候群 化学物質過敏症 マイノリティ

昨日は折角のお祭りなのでたまにはと家族で中華シーフード店でBBQ Steamboat Buffetを食べました。それがいけなかった。

 

中華料理症候群というものが言われるけれど、こちらで外食をすると時々これになる。異変を先に訴えだしたのは妻。後頭部が変で気持ち悪いとのこと。暫くして僕も後ろ首の付け根から異常が始まり、頬のしびれ、頭頂部、眉間の痛みまできた。そこまで長続きはしないのだけど、続いてくるのはいつも強い眠気。そして下痢。お金払ってこれは悲しいので結局外食を避けることになる。

 

元々はそんなことなかったのだけど、ジャングルの中で化学物質に触れない生活をしていると色んなものに過敏になった。今は日本に帰ってもかなり食事に気を付けることになる。

洗剤の香料とかも吐き気や頭痛がするし、新しく建てられた建物は目が開けられなくなる。皆平気で立ち話してるのに。ただでさえ電車は辛いのに、色々な成分が飛び交うこともプラスされて更につらくなった。

 

化学物質過敏症も認知が進んできたようだが、食品添加物はやはり難しいのかもしれない。特にグルタミン酸ナトリウムは否定的な論文が出れば意見が一気に拡散される。企業が必死なのはわかるけど、その誰がしたかもわからない研究結果を「ほらみろ」と言わんばかりに拡散するTwitter他SNSの住人たちは何なのだろう。自分が食べているものを否定されるのが嫌っていう心理が内側にあるのかな。科学と宗教が被るのはこの瞬間。

 

コーヒーは身体にいい、コーヒーは身体に悪い論争と同じで、一つ新しい研究が出ればすぐそれに飛びつく。そもそも論文なんて目安にしかならないし、傾向からリスクを判断するのは常に読み手だと思うけど。

 

とにかく、実際に化学物質に影響を受ける側とするとなんとも言えない。これもマイノリティに対する暴力と同じ構図なのだろう。共通点はあるがひとりひとり違う原因成分があるし、違う症状に苦しむこともなかなか理解されない。

これだけ症例のあるグルタミン酸ナトリウムですら中々理解してもらえないのだから難しい。

 

僕はまぁ耐えられるレベルだからいいんだけど、苦しんでる人が『無い』と言い切られることでどんな気持ちがするか考えたことがあるのだろうか。どうしようもないんですよ。そのどうしようもないことを理解してあげる姿勢を見せるのか、それとも「お前が例外だ」と切り捨てる態度を示すのか、その違いは大きいと思う。

 

アレルギーくらいメジャーにならなければ難しいのかな。

『楽しかったこと』から

楽しかったことについて書こうと思ったのだけれど、楽しいというのが何なのかよくわからなくなってしまった。

先ず楽しいというと『あははは』『えへへへ』『いぇーい』っていうイメージがあるのだけど、それをよく感じたのは中学校前半くらいまでだろうか。その頃までは今考えると意味のわからないようなことで狂ったように笑ってたけど、それを過ぎてからはあまりない。少なくとも『楽しかったこと』を思い出そうとしても思い出せない。

多分あることにはあるのだけど、一過性の感覚で記憶に残らないのかもしれない。

 

僕は思春期の頃に色んなことが重なって、色んなブランクがある。一時は感じなくなった感情も今はまた前以上に感じると思っているのだけど、それ以前の自分との継続性が感じられなくて、色々と分からなくなることがある。

そういうことがあったから今の自分なのか、元々の自分がこうなのか、まぁ普通に考えて両方なのだとはわかるけど、それがしっくりこない。色々と繋がってないから。

だからその楽しいと感じていた気がする自分が本当に自分なのかがわからない。

 

楽しいことを書こうと思ったのに楽しくない方向に行きそうなので軌道修正…元気がないとすぐこうなってしまう。

 

気を取り直して、大人になってからはどうだろう。

『子供の楽しい』を同じように感じていそうな大人の人はいるけれど、多分すべての人がそうではないと思う。外向的な人はそのままの楽しいを感じられるのか?と考えても、自分がそうではないからわからない。

 

僕の場合楽しいという感覚はあっても、それに別の感情や感覚が付随していることが多いので、自分の中でそれを『楽しかった』とカテゴライズするのが難しいのかもしれない。『~が~で楽しい』とか、『~だから楽しい』とか意味付けされていて、『ただ楽しい』を感じること自体が少なくなったのかもしれない。そしてそれら理由付きの『楽しい』は『楽しい』とは記憶されていない。

 

あと『楽しかった』という事を思い出すのが難しいもう一つの理由は、記憶の中の区切りが幸せな時間とか、充実した時間とか、そういう風な区分になっているからだと思う。『楽しい』というのは感じないわけではないけれど、そういった時間の一部になっているような気がする。

 

以前日本語教師のコースを受けていた時に、語句を分析する一環として『楽しい』と『嬉しい』の違いを調べた。色々と違いはあるのだけど、今書いていることに関係する部分で言えば、『嬉しいは瞬間的な感情』(ほめられて嬉しい、~をもらって嬉しい等)であるのに対し、『楽しいは継続的な感情』(~[をする時間]が楽しい、~に行って楽しかった)に焦点が当たっているということだった。

今考えれば、「大人になってからはそのこと自体が楽しいと言えるほど楽しいが継続していない」という事かもしれない。だから子供の頃のように「友達と出かけて楽しかった」とか、「あの映画が楽しかった」とか、楽しいを基軸に情報が引き出せないのかも。嬉しかったことはすぐ出てくる。

 

「友達と出かけて有意義な時間を過ごした」その中に楽しいはちょくちょく入ってるけど、その他に面白い、嬉しい、悲しい、恥ずかしい、面白い、辛い、幸せ、疲れる、満たされる、興味深い、寂しい等、様々な感情の瞬間を自覚して過ごしているので、「有意義だった」や、曖昧で包括的な「幸せだった」でまとめなければならないのだろう。前述したように『嬉しい』は瞬間に焦点が当てられるので「友達と会えて嬉しかった」とは言えるのだけど、楽しかったは使うのが難しい。

 

もう一つ書き加えるなら、僕の無意識の中で『楽しい』は優先順位が低いのかもしれない。そういった常に感じている感情の中でも、楽しいは意識して記憶されていないと感じる。僕は何かと意味付けしようとしてしまう所があるので、今までだらだらと書いてきた理由と併せて、あまり意味を感じることがなかった『楽しい』は記憶されてこなかったのだろう。

だから楽しいことに迷うと、友達に「何か楽しいことない?」と聞いてしまう。だいぶ前からの癖。他人の楽しいを聞くのも楽しいのだけれど。

 

楽しかったことを書こうと思っていたら、楽しかった思い出が出てこない言い訳になってしまった。

 

『楽しかったこと』はハードルが高いので、最近『楽しいを感じたこと』を書いてみよう。

 

・友達の誕生日プレゼントを選んでる時

やっぱり色々思い浮かべながら物を選ぶのは楽しい。気に入ってもらえなかったらどうしようとか、もう持ってたらどうしようとか考えてしまうけど、探すことは楽しい。

 

・子供と遊ぶ時間

童心に戻って昔のように遊んで楽しいというよりは、子供が楽しむのを見るのが楽しいのかな。嬉しいでも当てはまるのだけど、その時間はやっぱり楽しいんだと思う。

 

・これを書いている時

自分の中で感じたことを整理して、アウトプットすることはやっぱり楽しいのだと思う。もう一個義務感で書いてるブログは『楽しい』が少ないから毎日は書けないのかもしれない。

 

・人の書いたブログを読んでいる時

やっぱりそれぞれの観点、捉え方、感じ方、表現の仕方に触れられるのはとても楽しい。色んな人生に思いを馳せることが出来る。

でも要点が受け売りでしかも一般化して断定的な書き方のブログはやっぱり僕には合わないのかなと思う。心や感性、人生に触れたい。

 

・本屋のセール

倉庫のような本屋でセールをやっていて、色々な掘り出し物があった。やっぱりこう、自分の好きなものを探す時間は楽しい。何時間も会場を徘徊して物色する時間、面白そうな本との出会い、お金と相談しながらその中から買うものを選ぶ時間、そういうのは楽しいと感じた。ホームセンターを徘徊するのが好きな理由と同じかな。

 

 

最近感じた楽しいはそんなところでしょうか。元々落ち着いているとよく言われるように、冷めて見えるようなので、もう少し意識的に楽しいを拾っていけたらなぁと思います。どのみち感じても外に出さないから冷めて見えるのは変わらないかもしれないけど。うーん。