感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

名前はまだない ありがたいありがたい。

『名前はまだない』このフレーズが頭に浮かんで離れなくなった。元がなんなのか思い出せない。

Googleで検索してみるとレストランばかりが出てきた。

『名前はまだない 詩』で検索すると『吾輩は猫である』に続く文だったと分かった。夏目漱石の処女小説らしい。一時帰国の際子供が見ていた『にほんごであそぼ』、そこでひたすら『吾輩は猫である 名前はまだない』の2文だけが繰り返されていたことを思い出した。

 

僕は夏目漱石についてはあまり知らない。有名な肖像はすぐに頭に浮かぶ。その肖像には親近感があった。それはいつも財布にあったのが福沢諭吉でも新渡戸稲造でもなく千円札だったからとか、そういう事ではない。事実ではあるが。

遠くを眺める目、落ち着いた表情。彼の肖像の表情は、今は亡き僕の最愛の祖父の、ニュートラルな時の表情に似ている。そして僕の自分の中に残る祖父の記憶に自分が重なることがあった。

 

 先月買った本の中で、夏目漱石について書かれている部分が少しあった。そこには彼が留学の末、自分の在り方に苦しみ、鬱状態だったことが書かれていた。

 

『吾輩は猫である』は著作権切れで全文が公開されていた。ふと興味が出て15分くらい所々飛び飛びに読んでみた。

 

人々の世が猫の視点で描かれていた。世の中の人々の考え方、生き方、主義主張、思想、そういったものを見て、自分なりに考えている猫。

 

最後の部分。猫はビールを飲み、酔って大きな甕に落ちてしまう。もがかなければ苦しい。苦しいからもがき、少し浮き上がる。しかしもがき続ければ疲れてしまう。甕から出られないのは明白で、何のためにもがくのかわからなくなった時、すべてが馬鹿げているように感じた猫は抵抗をやめる。

その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責かしゃくに逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水のおもてにからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらもいても、あせっても、百年の間身をにしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。みずから求めて苦しんで、自ら好んで拷問ごうもんかかっているのは馬鹿気ている。
「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙めんこうむるよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。
 次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支さしつかえはない。ただ楽である。いな楽そのものすらも感じ得ない。日月じつげつを切り落し、天地を粉韲ふんせいして不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。*

終わり。

 

メタファーは共通の経験を通した時、理屈よりも直接的に伝わるものだと思う。それがずれていたとしても、感じる本人にとっては壮絶なもの。

この死んでいく猫、恐らく夏目漱石自身の言葉「ありがたいありがたい。」は解放として僕の心に響いた。それは彼自身の自分の在り方に関する、もがき・苦しみがそれまでの文章から感じられたからだと思う。

 

直後にwikipediaで調べると、夏目漱石はやはり苦悩の時をこの猫の視点で過ごしていたようだった。最終連載で猫が死んだ2歳という歳も、きっと意味がある数字なんだと思う。そして彼は一時的にせよ何かから解放されたと僕は感じた。

 

僕は以前、鬱に苦しんだことがあった。色々ある人生だったので、僕は2回死んだと割り切っている。そう割り切れるまでは本当に苦しんだ。浮き沈み、もがき、自責、内側の自分と外側の自分、そして周り。

この小説の猫と順序が逆ではあるが、僕は枠の外に出て、気づけば自分の心が元気になり、本来の自分の在り方の手掛かりが見えた。それを追求する過程で、僕の存在が間違っているのではなく、僕が小さい頃から思い込まされ、自分でもそう在るべきと『思い込んでいた自分の在り方』が間違いであったと気付くことが出来た。

猫を借りれば、僕の猫は僕自身がその存在に気付く前に、自然と増した水嵩によって既に殺され、水と融和していた。時間はかかったけど、今は甕も水位が上下する水も含めて自分そのものだと実感できている。僕の猫が死んだと思われる周辺で、僕は何度も諦めを繰り返し、正当化を繰り返しては失敗していた。潮汐のように上下する水に揺られながら、その都度苦しみの末感じたのは、やはり解放の『ありがたいありがたい。』だった。

 

経験を伴った心の表現はプロであれ一般人であれ、読んでいて心を動かされる。そんな自分に気付いたのも最近のこと。その昔僕の猫は芸術、文学を含め色んな事に触れてこなかった。自分とは関係の無いものだと思い込んでいた。いや、彼にとっては実際関係なかったのかもしれない。

僕は今、僕として生き始め数年になる。いつかその死んだと思うことで割り切っている2度の人生分(ややこしいけど死んだ僕の猫と表現した自分とは別)も僕そのものであり、経験は糧だったと認められれば一番だとは思う。まだまだその時ではないと感じているけど、いつか。

今は『僕』として、心のこもった芸術や、心のこもった文章への興味に衝き動かされている。この歳まで触れてこなかったのでどうしていいかわからないけど、それもそれとして自然に生きるように、自然に親しんでいければいいなと思うのでした。

夏目漱石の書いた文章についても、『吾輩は猫である』を含め色々読んでみたいなと思います。

 

しっかり読んでもいない上に主観しかない僕の感想です。言いたいことはただ『何かが繋がった感じが嬉しかった』。それだけなのです。あしからず。

 

 

* 吾輩は猫である 夏目漱石 青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card789.html