感じたこと、思ったことノート

主観の瞬間的垂れ流し、混沌の整理、迷子の自分探し。井戸の底から雲の上まで。

性差間のレッテル貼り合戦 怪獣大戦争 LGBT

男と女の枠に籠り、相手にレッテルを貼って差別し合う人たちが沢山いますが、とても悲しいことだと感じるのです。

 

異質を排除することで、女・男という双方の枠の中の同質性を確認し合って安心してるのだと思うけど、それに何の意味があるのかが分からない。相手の枠を罵れば罵るほど自分の枠に囚われていくし、枠の中のイメージが凝り固まれば凝り固まるほど枠の中の人たちは自分たちの首が締まっていくといういつもの構図に見える。それは意味がないどころか、自分の集団にとっても、相手の集団にとっても、共通の集団にとっても、未来に生きる人たちにとっても、害でしかないのではないかと思う。

 

『身体的特徴』『生理的特徴』は勿論多くの場合違いがある。それは前提として区別し、尊重しなければならないと思う。

 

でも、この人たちがレッテルを貼り合う性格的特徴、認知傾向的な問題はどうだろう。彼らの見方では男女で違いが優位にあるという。僕もそれは傾向としてはないと言えないと思う。でもそれは『男女の違い』が決定的要素なのだろうか。女と男はそれ以前に個人の集団。その個人を男と女で割り振った中で、特徴を分布傾向で見て、その傾向の強い部分を男はこうだ、女はこうだって言っているだけだろう。そこに当てはまらない(僕のような)人は無視して。それに意味があるのだろうか。それ以前に、性格的な部分を男女で分けて考える必要があるのだろうか?

 

男と女のイメージは小さな時から刷り込まれる。女の子はおままごと、男の子はスポーツ、男の子は青、女の子はピンク。女の子はかわいいもの、男の子はかっこいいもの。僕はそれが小さな頃から理由は自分でもわからないけど嫌いだった。反発心だけで敢えてピンクのノートを買ったこともあった。

表面的に男女平等と謳っても、『そうあるべきだ』『そうあるはずだ』という通念的な圧力は幼少期から常に存在し、その中で枠のイメージが刷り込まれていく。(そこに合致しない人間は無意識のうちに集団から弾かれたり心を削ったりするわけだけど、それは話がずれるので置いておく。)

 

ではその刷り込まれたイメージを土台にして出来ている価値観上の表面的な性格は、男女のレッテルの貼り合いの際に考慮されているのだろうか。恐らく考慮されていない。そこに無意識のうちに苦しみながら合わせている人が居るのに、無視されている。それを考慮しないで『女はこうだ』『男はこうだ』という話を続けていくのは、結局同じ枠づくりを繰り返す土壌を整え、差別の種を植えているだけだと思う。遊び半分で言っている人も、回り回って子供の心を踏み躙ることになるかも知れないということを考えて欲しい。枠の大半は社会が生み出す虚像でしょう。その虚像の為に人が傷ついていくのは馬鹿げた話だと思う。

 

男性脳・女性脳、女性的・男性的という性格的特徴を示す言葉があるが、個人の内面を指し示そうとしてこういう言葉が作られる事が本当に気に入らない。何かに囚われて本と末が転倒しないとこういう言葉にはならない筈だから。言葉は無意識に作用する分、重いものだ。

 

勿論文化が成り立つ上で、女と男は常に区別されてきた。区別はされてきたが、一つ一つの枠の許容範囲が広かった。地域差もあれば認識に色々な違いがあっただろう。枠に当てはまらない人もそれなりの生き方があった。そして何よりすべての伝搬速度は遅く、人は虚像から逃れることが出来た。

通念の虚像はより大きな集団で一本化され、凝り固まれば黒くて大きなモンスターになってしまう。国家形成、教育システム、情報社会は一方的なイメージの一本化をもたらした。インターネットは多様性の光を含んでいたが、利用する人間が大きく変わることは出来ていない。そこに現れ巨大化したソーシャルネットワークは人々の承認欲求を餌に、そのモンスター形成のプロセスに一層拍車をかけた。そんな感じに見える。

文化的に区別されてきた歴史があっても、そもそも現代にあっては取り巻く状況が恐ろしい速度で加速しながら変わっていくのだから、『区別』という行為の在り方も常に見直さなければならないと思う。

 

フェミニズムについては結局はまた別の枠を作る行為だ。思想である『ism』ができれば感化された『ist』が現れ、その中の多数派が虚像を暴力的なモンスターに変えていく。ここまでくると怪獣大戦争みたいでワクワクしちゃうけど、実際は心を痛める人が居るので笑える話ではない。繰り返し、繰り返す。そのスピードは加速し、傷つく人の数も増えていく。

 

 

ひとりひとりの違いを認識し、その中で自分に気づき、その多様性を真に認めることが、黒い靄に覆われたモンスターを可視化する上で欠かせないことだと思う。男女の違いの上にそれぞれ居座っている同質性から生まれたモンスター達は個性が放つ多様性の光の前には無力だ。

女・男という枠の外に散在する『個性』という宝石は、男女の傾向なんていう小さな違いよりもよほど大きく、虚像を溶かす輝きを放つものなのだから。そしてその『個性』を真に認めた時、尊重する為に前提として区別した『身体的特徴』『生理的特徴』という壁さえも無意味なものに見えてくるものだろう。心から認め合えば、尊重という枠の下書きも自然と必要なくなってくる。

 

 

本当は、LGBTの上に立つモンスターばかり見ていないで、ひとりひとりの心の色や輝きを見て、ひとりひとりが築く繋がりを尊重するべきだということを書こうと思ってました。でも先ずはウルトラマンに出てくる温和な怪獣、『ピグモン*』のようなLGBTの上に居るモンスターよりも、凶暴な『ガラモン』のような男女の上に居るモンスターについて整理しなきゃいけないなぁと思いました。

自分たちにガラモンがいるからピグモンがガラモンに見えるのだと。気づいたらピグモンに入る前に長文になってしまった。

 

でも結局LGBTも同じことだと思います。性関係は人と人の中で生まれる自然な関係であって、性別が違う中の関係でもいろんな問題は起きます。それを無視し、ひとりひとりの違いやその間にある人と人の関係までも無視し、ただ性別の違いだけ見てヘテロセクシャルだけが社会的、倫理的に正しいという認識を振りかざすのはおかしいと思う。LGBTの権利に反対する人が主張する、「彼らを認めることで社会にもたらされる悪影響」は枠の中で、しかも短絡的に見た場合の悪影響でしかない。そして結局それを認めないことによる悪影響で自分たちの首を絞めているように見えます。

 

LGBTの人たちは『自分』をしっかり認識している分、他人に対して本当の意味で優しい人が多い。少なくとも僕が話したことある人たちは、本当にピグモンみたいな人が多い。サポーターにガラモンがくっついてる時もあるとは感じるけど。

 

ひとりひとり、すべての人から枠の虚像がなくなれば、LGBTもヘテロも消滅し、ただ単に在るべき人と在るべき人の自然な関係となるのではないでしょうか。すべて同じ、シンプルな問題だと思う。

 

いつもながらユートピア思考なのは分かるけど、それ以外に根本的な解決法は僕には見えないのです。

 

 

* "映画『ウルトラマンZOFFY ウルトラの戦士VS大怪獣軍団』に登場するピグモンはガラモンとの見分け方について、「複数いるのがガラモン、1人でいるのがピグモン」と教えている。" wikipedia [ピグモン] よ

これはさっき調べて知ったのだけど、面白い設定だなぁと思う。ピグモンとガラモンはまたどこかで使えそう。ガラモンばかりの世の中でピグモンとして生きたい。(非業の死を遂げそう)