森の中の村に戻ってきた。今回は3週間くらいの予定。
ここに着くのは大抵夜になるのだけど、隣の集落から家のある集落まで7分ほどボートで移動する時の空気がとても好き。
着いて最初に吸うずっしりした重い空気。陽が落ちて降りてきた夜の涼しい湿気に低地林の酸素濃度、排気ガスの匂いが全く混じっていない森の木々が放つ本当に色んな香り、時折漂ってくる動物の匂い。
その重たいけど清々しい空気を鼻から肺いっぱいに吸い込み、息を止める。体の隅々まで空気が行き渡るとともに感じる、この空気の、自然の一部に還ってきた感覚。やっぱりここなんだなって思う。
今回も満天の星空が迎えてくれた。
所々で飛び交うホタル、流木にぶつからないように照らすライトに映るワニの目、寝ているサル、揺れる水面、こちらを見つめるミミズク、木々や花、そして果物の香り、ここは有機物に満ちている。僕の身体と同じだから溶け込むことができるのかな。
生と死とは違うスケールの安堵感に浸る。内包され一部となる。この感覚は言葉の型に入れるのが難しい。言葉とは別の世界のものなのだと思う(語彙力のなさを棚に上げて言語を貶める)。
でも実際僕にとって、ここでの生と死は街での生と死とは全く違う焦点で見える。片方にピントを合わせると片方には合わない。別のものなのだ。
ここでの死は街での死、通念的な死を僕の中では意味しない。ここでの生死はもっと密接で、連続的なもので、丁度それは動物や虫達が繰り返す営みを思い浮かべると、そこに自らの感覚がスッと入っていくような。
大きなワニを見た。水面を照らすライトに浮かぶオレンジ色の2つの目。人間より太いイノシシの胴体を真っ二つに出来るサイズ。
ワニに食われて死ぬことを怖がることは、食われないように気をつけて生きようとすることは、生きるために死を意識することではないだろうか。そしてそれは生と死を引き千切った見方でもあると思う。生きる為に死なないのか、死なない為に生きるなのかわからないけど、生と死のラインがあって、そこに集中した見方になると思う。
でもここで感じるのは、ただ、その線にそんなに集中することもないのではないのかなということ。生と死の関係がその限りではなくなる。
それは多分、より大きなものの一部としての感覚からきている。
食事は動物や魚やエビを獲って殺して食べることと直結する、というかそれそのものだ。彼らは死に僕が食べる。それは自然な営みであって、森からしたらいつも自分の中で起きている1つの有機的な循環。僕が仮にワニに食べられても、森からしたら同じなのだ。
この感覚、僕に属しているようでそうじゃないような感覚。繋がっているような感覚からか、知覚やそれに基づく思考が僕のものではないような不思議な感じ、そして安堵感。
感覚の話だから頭で考えればまた変わるのだろうけど。
村に着いたことを書こうと思ったら死生観の話になっててウケる。
まぁ死生観しかり主義であったり主張だったりも、僕の中では多分まとめることは難しいんだろうと思う。前提条件つけまくっても再現不能だったりするしね。そんな僕が外の世界に対して個人主義的な対応になるのはある意味当然なのかなとも思う。
今日は結婚式。色んな人の顔を見て会話するのはすっごく疲れるけれど、おめでたい日だし出来るだけ楽しく過ごそうと思う。